第39話「ご褒美」
ぷかぷかと、晴海は浮き輪に乗ってプールに浮かんでいた。
もちろんそのままだと流れてしまうので、倉田が浮き輪を抑えている。
しばらくは倉田が彼女に泳ぎを教えようとしたけれど、手を繋ぐたび、肌に触れるたびにあの出来事を思い出してどうにも進まない。
そもそも人が多く、ましてや流れるプールでこんなことをするのは非合理的だ、という言い訳をかざし、適当に時間を過ごすことにした。
まだドキドキが止まらない。
変に意識してしまっている。
「あの、ソースケさん」
「は、はい!」
名前を呼ばれただけでどぎまぎしてしまう。
これで、この先彼女と関係を進めることができるのだろうか。
「ご褒美……」
「え?」
「だから、ご褒美! 何がいいですか?」
「ああ……」
彼女からの問いかけに、倉田の思考がフリーズした。
あの時の晴海の妖艶さは、確かに破壊力抜群だった。
本当に何かしてくれるのでないか、と期待させてしまうくらいに。
しかしやはり彼女はミステリアスよりキュートなキャラの方がよく似合う。
だからこうやって浮き輪に浮かびながらたじろいでいる彼女は実に彼女らしいし、それがとてもグッとくる。
さて、彼女の質問の返事だ。
ご褒美、と言ったって、さっきの水着がそれなのではないのか?
あれを拝めただけでも十分嬉しかった。
けれど、それ以上を望んでもいいのだろうか。
「なんでも、いいんですか?」
「無理のない範囲で……」
それはわかっている。
十分わきまえているつもりだ。
けれど、いざ構えてみると何も出てこない。
何を願おう。
何をしてもらおう……。
…………。
やっぱり自分には、強欲なことをお願いできない。
本当はあんなことやこんなこと、邪な願いだっていろいろある。
けれどそれを具申したところで、関係は絶対ひび割れてしまうから、それを願うのはそうなってもいいような信頼関係を築いてからにしたい。
「少し、わがままを言ってもいいですか?」
「はい。お手柔らかに」
「では……」
すう、と一呼吸おいて、倉田はご褒美のお願いを伝えた。
「次のコミケの打ち上げで、何か奢ってください。何でもいいです。ジュース1本でもいいし、おにぎり1個だけでも。何でもいいんです。奢ってください」
「本当に、それだけでいいんですか?」
「……はい」
今の倉田にはこれが精一杯だった。
本当はいろんなことをしてもらいたい。
それこそ「付き合ってください」なんてこともお願いできたはずだ。
それが無理でも「手を握ってください」くらいなら言えた。
でも言わなかった。
それを言ってしまったら、今の関係ではのちにひびが割れてしまいそうだったから。
それに、そういうことはこんなことに頼らなくてもちゃんと自分からしたい。
「本当に、それでいいんですか?」
「はい。全然思い浮かばなかったので。それに、僕にとって、ハルさんと一緒に創作ができることそのものがご褒美のようなものですから」
そして今、同じ時間を過ごしていることも、ご褒美以外の何物でもない。
そうですか、と困惑気味だった彼女だったが、思う節があったのか、やんわりとした微笑を浮かべた。
「わかりました。では、覚悟してくださいね?」
「……お手柔らかに」
一体何をされるというのだろう。
あまり適当を言うものではないな、とこの時思った。
いつの間にか2人の間にぎこちない空気というのは消えてなくなっていた。
お互い笑い合い、他愛もない時間を過ごす。
少し泳ごう。
流れるプールに流されるまま、2人はゆっくりとプールを1周した。
その後も4人でいろんなプールに行ったり、食事をしたり、あっという間に時間が過ぎていった。
楽しい時というのはこんなにも早く過ぎてしまうのか。
一瞬一瞬を噛みしめる時間すら許されていない。
けれどどうしてか、この楽しかった思い出を忘れることはきっとないだろう。
夕方になり、4人は帰宅準備に入る。
久々にプールを訪れたが、とても楽しかった。
今度は海にでも行きたい。
この4人ででもいいし、晴海と2人きりでも。
着替えを終えた4人は朝と同じ待ち合わせ場所に集合し、電車の方へと向かった。
今日は遊び疲れたからクタクタだ。
背中から岡とちとせが何かからかっている様子だったけれど、疲労で何も入ってこない。
「今日は楽しかったですね」
「そうですね」
晴海からの声はすんなりと入るのに。
電車に乗り、ひとまず天王寺に向かう。
この後はこの4人で夕食をするつもりだ。
座席に座った途端、一気に疲労が全身に駆け巡った。
眠気がとてつもなくて、コクリコクリと船を漕ぐ。
そのままポスンと倉田は彼女の肩の上ですうすうと眠ってしまった。
「写真撮ろうや」
「ホンマ、これで脅して言うこと聞かせたらええ」
「だ、ダメですよ! 今日は随分とお疲れのようでしたし、ゆっくり休ませましょう?」
「それもそうやな。晴海の言うとおりや」
クルリとちとせが掌を返すので、それが少し面白かった。
大笑いは堪えたけれど、ついつい吹き出しかけてしまった。
誰にも突っ込まれずによかった、と岡はホッと息を撫でおろす。
これで1対2になってしまったので、渋々彼はスマホを鞄の中にしまいこんだ。
「ハルさん……」
むにゃむにゃと倉田は寝言で彼女の名前を読んでいる。
それが少し嬉しくて、でもとても恥ずかしくて、まんざらではないのだけれど、もう少し静かしてほしい、という要望を抱いてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます