第30話 夏海を甲子園に連れてって(6/9)

 雨が5分ほどで上がり、試合再開になった。8回の表、あすなろ高校の攻撃は、雨の中断でさらに調子を上げた浜松によって3者凡退とあっさり終了した。


 春木はキャッチャーボックスの泥濘ぬかるみを足で慣らしながら、マスクを被った。


 次のバッターは4番打者だ。今までなんとか抑えてきたけど、打席数を重ねるごとに、冬太のボールを捉えてきている。この打席をどう抑えようかと春木はリードを組み立てていると、相手監督が球審のもとへ向かった。

「代打、岡崎」


 春木は驚いた。まさか、4番に代打を出すなんて。さっきの打席の当たりはそんなに悪くなかったはずなのに。

 代打の岡崎は左バッターボックスにやってきた。春木は慎重に足元から頭まで、岡崎を観察する。見たところ、体つきがゴツいわけでもない。どちらかというと華奢な方だ。髪の毛は長く後ろでまとめられている。顔つきも女の子みたいだけど……。


(なんだろう、この威圧感は……)


 岡崎は足場をならして、右手で冬太に向かってバットを立て、左手を軽く振った後にバットを構えた。

 春木は嫌な予感がするが、基本的に初見同士のピッチャーとバッターの対決では、実力が拮抗している限り、ピッチャーが有利だと自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせる。


 冬太は春木のサインを確認して、投球モーションに入った。ボールをリリースする瞬間、冬太が泥濘で足を少し滑らした。

 春木はヤバいと思った。


「あっ」


 春木は自分にしか聞こえないぐらいの声が出て、視界がスローモーションになる。インコースのストレートを要求したのに、軌道がストライクゾーンのど真ん中に向かってきている。ボールもあまりスピンしていない。失投だ。春木はどうにか見逃してくれと祈るしかない。


 しかし、岡崎がスイングしたバットは精確にボールの下半分ぐらいを叩いて、ライト方向へ大きなフライが上がった。

「「おおっ!!」」

 相手ベンチとスタンドの歓声が上がった。


 春木は取って打球の行方を追う。頼むからスタンドを越えないでくれと思うが、願ったところでどうにもならない。

 ライトは必死に打球を追いかけるが、しかし、グローブにおさまることはなく、スタンド後方のネットにパサりと当たって落ちていった。


(……あんなに高く舞い上がるホームランは初めて見た。しかも、あそこまで飛ばすなんて)


 同点に追いつかれた春木は落胆するが、しかし、落ち込んでいる場合ではないと自分に言い聞かせる。


(まだ、負けていない。ここで気持ちが折れたら、何もかも無駄になる。切り替えよう)


 春木はタイムをとり、マウンドに駆け寄り冬太に声をかけた。

「冬太先輩。仕方ないですよ」

「ん、ああ」

 打たれた冬太は流石にショックを受けているようで、呆然と立ち尽くしていた。そんな様子の彼を見るのが初めてだった春木は動揺したが、キャッチャーとしての手前、表情に出すことは無い。


「気持ちを切り替えて、次のバッターを抑えましょう」

「ああ、すまない」

 そう言って冬太は帽子を取って深く被りなおした。他に気の利いた言葉が思いつかなかった春木はキャッチャーボックスに戻り、マスクを被った。


(冬太先輩にもっと他にかけるべき言葉がありそうなのに、思いつかない。ここにきて、僕の試合経験が全然足りていないな……。あのホームランで冬太先輩が崩れなければいいが……)


 春木は自分の力不足を嘆いている間に、5番バッターは右打席でバットを構えていた。

 冬太は春木のサインを確認して、投球モーションに入ったが、コントロールが定まらず、フォアボールを出してしまい、バッターは一塁へと向かった。


(もうだめか……)


 春木は球審にタイムをとって、マウンドに内野陣を集めた。

「どうしたんだ春木?」

 冬太は調子を取り戻したかのように振る舞うが、右腕が震えていた。

「冬太先輩。もう投げられないでしょ?」

 単刀直入な質問に冬太はギクリとした。


「なに言ってんだよ。まだ投げられるぜ?」

 冬太はわざとらしく腕を回そうとするが、春木がそれを制した。

「キャッチャーだからわかりますよ。もうボールも曲がってないし、コントロールも定まってないです」

 春木に指摘された冬太は嫌そうな表情をした。

「待てよ、僕が投げなきゃこのチームは終わりだ。さっさと戻れよ」

 春木は、冬太の最後の言葉にカチンときてしまった。他の先輩なら何も思わないけど、冬太先輩にそう言われると、無性に腹が立ってくる。


(今まで誰がリードしてきたと思っているんだ?)


「さっさと戻れだぁ? まともに投げれられねぇピッチャーが偉そうにしてんじゃねえよ!」

「……お前誰に向かって言ってんだ? ああ?」

 冬太は今までに見たことのないような鬼の形相でおもむろに春木の胸ぐらを掴もうとすると、春木はそれを払いのけた。


「お前が失投するからホームラン打たれたんだろ、ボケ!!」

 春木が吐き捨てるや否や、腹に防具越しから物凄い衝撃が伝わってきて、うずくまりそうになるが、間一髪のところで耐える。冬太は春木の腹にフックを入れてから、彼の頭を下げたところを殴り飛ばそうとするが、セカンドを守っていた中村に動きを止められた。

 春木も冬太に殴りかかろうとするが、すぐさま才木に羽交い締めにされ動けなくなる。


「お前ら、喧嘩するんじゃねえよ!」

 異常を察知した顧問がマウンドに駆けつけて二人を諌める。

「試合中だぞ! 仲間割れしてる場合じゃない!」

 顧問の言葉で、一瞬の静寂が流れる。

「だって、だって…」

 春木はいろんな感情が溢れてしまい、先に口を開いた。


「……勝ちたいんですよ」

 春木の汗にまみれた頬に一筋の涙が流れる。その言葉は、夏海との約束を守るためであり、そしてなにより、自分の暗い過去から決別したいために、溢れ出た言葉だった。


「……悪かったよ春木。殴ったりして。おまえの言う通りだ。俺が投げても打たれるだけだ」

 冬太は中村から解放されて、服についた泥を払った。


「……すいません冬太先輩」

 春木は顔をゴシゴシ拭いて、ふたたび冬太と向き合った。

「後は誰が投げる?」

 冬太は一同を見回した。彼らは冬太の後は誰もいないことは分かりきっていたので、応えることができない。この強豪打線は冬太の実力をもってして戦えていたのだ。彼がマウンドを下りてしまえば、後は誰が投げても一緒なことはわかりきっていている。


 一瞬の沈黙の後、中村がおもいついたように口を開いた。


「才木、お前がいけよ、ナックル投げられるだろ」

「ナックル?」

 才木は中村に訊き返す。


「うん。こいつのナックルは結構ヤバいぜ。ワンチャンあるかも」

「えっ。だけど……」

 才木は首を傾げるが、

「いいじゃん。どうせ、春木と冬太が居なかったら確実に負けてた相手なんだ。やれることやらないと、“悔い”が残るぜ」と中村が才木の肩を軽く叩く。


「まて、中村」

 冬太が真剣な表情で中村を睨みつけた。

「負けると決めつけるには早すぎるぜ」

 そういって冬太はニヤリと笑った。


 冬太の表情に釣られて才木も軽く笑う。

「そうだ。冬太の言う通り、まだ負けてない」

 才木は冬太からボールを取り上げて、指先で弄ぶ。

「おっし、頼んだ、キャプテン! 後ろは俺たちに任せとけ!」

 中村の一声で、マウンド上にいる全員に気合が入った。


 春木はキャッチャーボックスに戻り、球審に投手交代を告げた。マウンドから降りた冬太はそのままショートへと向かった。


(さっきは冬太先輩に酷いことを言ってしまったから、反省しないとな。……腹にもらった一発でまた気合が入ったから、絶対にここは乗り切ってやるんだ)


 才木の投球練習が終わり、球審からプレイが告げられ、6番バッターが打席に入った。

 キャッチャーミットのポケットをバシバシと叩いて、春木は構えた。


(さて、ナックルがどこまで相手に通用するだろうか……)


 才木が初球を投じる。

 ボールは回転をかけずに投げると、風の抵抗を受けるため、ユラユラと揺れながら曲がったり、曲がらなかったり、急激に変化したり、しなかったり、予想できない軌道を描く。それがナックルボールだ。


 春木は才木のボールの軌道を見て、小声を上げてしまう。ボールを目線で追いかけながら、ミットをあっちこっち動かして、やっとの思いでボールをとった。

 バッターも目を丸めながら、見送った。ストライク。

 春木はその一球で確信を持った。


(僕がナックルを後ろに逸らさなけば、絶対に抑えられる……)


 結局のところ、後続の打者はナックルにキリキリまいさせられて、あすなろ高校は逃げ切ることができた。


 次のあすなろ高校の打順は3番の春木からだった。

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