今昔百物語・葉~わたつみの贄は時を超えて
野月よひら
第1話 火前坊
広場に焚かれた炎が、夜の闇に吸い込まれていくようであった。巨大な火柱である。まるで生きているかのように、天へ伸びていく。
ばちり、ばちりと爆ぜる音に引き寄せられ、
さながら赤い蛇であった。鎌首をもたげて蠢いている。その蛇に絡みつかれるようにして。
それは、いた。
黒の人影。赤く燃え盛る炎の中で黒い手足を振り回し、まるで踊っているかのようであった。
夏祭の夜。
日は落ちても蒸し暑く、まだ宵の口と言わんばかりに、蝉がじわじわと鳴いていた。
高台を上り、赤い鳥居を何度もくぐればもうそこは別世界で、明は心を躍らせたものだ。細く高く響く笛、腹に響く太鼓の音。普段はしんとした人気のない神社である。しかし、今日は違う。赤い提灯、舞う火の粉。境内に立ち並ぶ夜店の数々。風に運ばれるソースや醤油の香りに、明はぐうと腹の虫を鳴らしたものだ。
夜祭に来るのは初めてであった。
家の方針で、夜に外出するときは、家族と一緒にでないと許されなかった。しかし、明も来年から中学生である。家族と仲良く、というよりも、友人たちとの付き合いに重きを置きたい年齢だ。今年こそは夜祭に行きたいと何度も母に頭を下げて、皿洗いと肩たたきの約束を向こうひと月ばかりして、それで、ようやく許してもらえたのである。
「あっちで、いか焼き百円だって!」
幼馴染の
そして、お社の前。広場の中央の、大きく立ち昇る炎の前に差し掛かった時のことであった。
ばちり、と、耳の奥で、弾ける音が聞こえたのである。
大きな炎であった。渦を巻きながら天へと手を伸ばしていた。
気づけば、足を止めていた。
炎が明の顔を赤く染める。その熱すら心地よく、たらりと伝う汗が頬をすべり、首元へ、そしてTシャツに吸い込まれていった。
祭囃子が遠のいていく。
ばちり。
ばちり、と炎が、弾けた。
その炎の中に、人影が、ゆらりと現れたのである。
踊っている。楽しそうに。
炎の中心に、手足を跳ねさせて踊る、人影。
男のようであった。
顔の
ばちり。
こちらを、見ていた。
落ち
炎が、燃えている。
男が、見ている。
――あちいよお。
つい、と、男は手を差し出し、ゆっくりと。
ゆっくりと。
手招きを、した。
「いけない!」
がしり、と腕を掴まれ、明は振り返った。女性である。すらりとした佇まいの、若い女が、明の腕を掴んでいる。力の込められた指が、明のまだやわらかな腕にじわりと食いこんだ。
「……痛!」
思わず顔を
「炎の顔を見るのは、毒だよ。気をつけて」
明はもう一度振り返り、炎を見た。
もうそこに、あの人影は、いなかった。
「明! いい加減に起きなさい!」
寝ぼけ
明は慌ててベッドから飛び起きる。手早く着替えて階段を駆け下り、息せき切って、明るい日の光が降り注ぐリビングへと飛び込んだ。
「なんでもっと早く起こしてくんないんだよ!」
「何度も起こしたでしょう。まったくあんたはいつもいつも!」
母親の
今日は大切な日であった。それは新学期だから、という訳ではない。二学期の一大イベント、修学旅行の班決めの日なのである。
明には、憎からず思っている女の子がいる。同じクラスの、
愛子は、可愛い。学校で一番の美少女だと思っている。にっこり笑うと八重歯がのぞく、そこがまた、いい。最後の学年で一緒のクラスになれたのは明に取って幸運だった。修学旅行で、一緒の班になれたら、ちょっと頑張ってみようか。何といっても来年からは中学生になるわけだし、仲良くしておくにこしたことはない。
だから、今日は早く起きて、何もかも完璧にしておこうと思ったのに、出鼻を挫かれた気分である。
父親の
「まあまあ。ほら明。急いで食べちゃいなさい」
声が掠れている。また徹夜をしていたのだろう。父親の特殊な職業の事を考え、明は軽く肩を竦めた。
言われるままに食卓に着く。既に用意されていた、純和風の料理たち。ごくりと唾を飲みこみ、白米をかきこんだ。添えられていたお漬物は胡瓜と茄子。キャベツと油揚げの味噌汁が胃に染み渡る。一気に流し込んで、咀嚼する。
「こら、落ち着いて食べなさい」
聡の声に、明はまた肩を竦める。無茶を言うものだ。急ぐ、と、落ち着く、は対極にあると言ってもいいだろう。
明美も食卓につきながら、苦笑した。
「あんたもね、もうあと少しで中学生なんだから。起こされる前に起きなさいよ」
「無理だって」
口いっぱい頬張りながら、明は抗議する。とはいえ、今日の寝坊は自業自得と言えるだろう。そのくらいは明だって分かっている。何せ昨日は。
そこまで考えて、明は首を傾げた。
昨日は、どうしたのだろう。
確かお祭に行ったはずだ。勝也が迎えに来て、二人で神社に向かって、それから。
ちり、とした頭の痛みと共に、明の脳裏に赤の色が蘇る。赤い、炎。鎌首をもたげた蛇のようであった。確か自分は、炎の前で。
「明!」
聡の声に、明は目を瞬かせた。手に持っていた味噌汁椀から、中身がだらだらと零れている。
「ああ、もう、何やっているの!」
明美は慌てた様子で台所へ走った。布巾を取りにいったのだろう。明は味噌汁まみれの服を呆然と見下ろした。灰色のパーカーに、油揚げが芋虫のように張り付いている。
「体調でも悪い?」
聡はかたりと立ち上がると、明の額に手を置いた。
「熱はないね」
ばたばたと明美が戻ってきて、明の襟ぐりを乱暴に拭った。
「ほら、ぼっとしてないで着替えてきなさいよ! 出汁の匂いぷんぷんさせて学校行きたくないでしょ?」
「ねえ、明、ちょっと体調悪いみたい」
「えっ?」
明美もとっさに明の額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど」
「……平気」
心配そうにこちらを見る両親に、明は笑顔で答える。ちくりと不安がよぎったが、そんなもの、気にしなければなんのことはない。今日は何としても学校に行かなければいけないのだ。
「あまり、無理はするなよ」
そう言って、聡は煙草を取り出して火をつけた。
赤い、炎。
――あちいよお。
「明?」
問われて、明は目を瞬かせた。どうにも頭がもやもやとしていけない。
「なんでもない」
心配そうにこちらを窺う両親を安心させるように、明は笑った。自室に戻ってもう一度着替え、ランドセルを背負い、再び階段を駆け下りる。
リビングに戻ると、聡が明美に叱られていた。
「あんたね、子どもの前で煙草はやめてっていつも言ってるでしょ!」
「ごめんごめん、つい癖で」
ソファの上で正座をさせられている聡を見て、明はくすりと笑った。ああ見えて、じゃれ合っているだけなのだ。あの二人は。
明は肩を竦めて、取り込み中の両親に声をかける。
「行ってきます!」
ばたり、と扉を開けて駆け出した。いい天気である。幸先のよさに、先ほど感じた不安が薄れるのを感じながら、明は学校への道を猛然と走り出した。
「ねえ、大丈夫なの?」
そう勝也に話しかけられて、明は目をぱちくりさせた。
「なにが?」
ランドセルを机の横にひっかけ、教科書と筆箱を取り出したところであった。
明は勝也を振り仰ぐ。ひょろりと長い姿を認めると、ことりと首を傾げた。勝也はいつもにこにこと笑っている、気の良いやつである。明とは幼稚園から家族ぐるみの付き合いだ。その勝也が、眉をよせて心配そうに、顔を覗きこんでいる。
「いや、明さ、昨日の夜変だったから」
「昨日?」
「ほら、お祭のとき」
ちり、と頭が痛くなった。目の奥にちらりと赤い炎が見える。あれは昨日のお祭りの、大きな炎だ。赤い色をして、じりじりと熱い――。
「明?」
目を瞬かせた。今、何か思い出そうとしていた。大切な事だったはずだ。忘れてはいけないこと。喉の奥に引っかかって、取れない小骨のような、もどかしい思い出があったような気がする。
「保健室行く? やっぱ体調悪いんでしょ」
「……だいじょぶ」
勝也は明らかにほっとした顔で笑った。
「ところでさ」
勝也が指さした。
「それ、なに?」
机の上に乱雑に置かれた教科書。紺色の筆箱、その隣の、銀色のジッポ。
「……父さんのだ」
明は目を見張った。何でここに。何かと間違えて持ってきてしまったのだろうか。
チャイムがなる。勝也は心配そうに明に眼をくべると、自分の席へと戻っていった。
あわててジッポをポケットに突っ込む。きっと、何かの拍子に混じってしまったのに違いない。帰宅したら、リビングの上にでも置いておこう。
がらり、と扉が開き、担任の佐藤が教室に入ってくる。にやにやとしながら箱を携え、それを教卓に置いた。
あれこそが、本日のメインイベント。班決めの
それを見ていた勝也がぽそっと。
「それ、ちがうおまじないだよ」
と、教えてくれた。
女の人に再び出会ったのは、その日の学校帰りのことである。
班決めの結果は散々であった。気合を入れて引いた籤は大いに外れ、愛子と離れてしまったのである。
明は友人が多い。どの班になっても仲間外れにあうだとか、話し相手に困るだとか、そういった心配はまったくしていなかった。しかし、学校生活最後のチャンスで、想い人と一緒の班になれなかった。そのことが意外なほど、気落ちの原因となっていたのである。
同じ班になれなかったくらい、なんてことない。そう思うようにしても、なかなか胸中は複雑だ。くさくさとした思いを振り切るように、明は頭を軽く振った。
しかし憎らしいのは勝也だ。
彼は、ちゃっかり愛子と同じ班を引き当てたのだ。こちらをちらと見て、ごめん、と言わんばかりの顔に、無性に腹が立った。恐らく勝也は、自分が愛子の事を憎からず思っていることに気づいているのだ。そのこともまた、明を苛立たせる原因になっていた。
愛子は、勝也の事をどう思っているのだろうか。
勝也は、女子に人気がある。優しいところが、いい、と、以前女子が話していた。その中に愛子もいたはずだ。
「あー、やめやめ!」
我ながら、
まっすぐ家に帰る気にもならず、かといって行くあてもなく、ぶらぶらと道を歩いていたその視界に、神社の赤い鳥居が目に入ってきたのである。こんもりとした緑が生い茂る、小高い丘の上にちょこなんと見える赤に何となく惹かれて、明は足をそちらに向けた。
石畳の階段を駆け上ると、町が一望できる境内に辿り着いた。もう日も落ちかけている。傾きかけた陽光が、鳥居の影を長く引き伸ばしていた。
吹き抜ける風が心地よく、明はうんと伸びをし、境内をぐるりと歩く。
そこは確かにお祭りの後であった。片付けの途中なのだろう、屋台の骨組みが残っていて、なんとなく、物寂しい。境内の中心には、燃え尽きた焚火の残骸がこんもりと小山になっていた。そっと近づくと、かすかに焦げ臭く、思わず眉を
ふと、その黒い残骸の中に違和感を覚え、明は目を瞬かせた。
つきん、と頭が痛くなる。
――あちいよお。
その時であった。そっと後ろから、ひやりとしたものが目に覆いかぶさってきたのである。
人の手だ。目隠しをされている。ふわりと微かな、花の香りがした。
「見ちゃだめ」
低い、掠れた声。
ふっくらとした、それでいてひんやりした手の平の感触に、明はどきりと心臓が跳ねる。
「炎の顔を見るのは、毒だよ」
そう言って、手はゆっくりと離れていった。
振り返ると、そこには女が立っている。
背の高い、すらりとした人であった。黒い革のジャンパーと、ぴったりとしたジーンズがよく似合っている。長い黒髪は夕日を浴びてきらきら輝いていた。
あの時の女性だ。祭の夜、炎の前で、同じように声をかけられた。女はゆっくりと言い含める様に、もう一度言葉を口にする。
「炎の顔を見てはいけないよ」
そのまま踵を返す彼女に、明は辛うじて声をかけた。
「……だれ」
女は振り返る。
夕日を背に受けたその姿は、一枚の影絵のようであった。
「
夕焼けの赤に、鳥居の影が溶け込んで、明を飲み込んでいく。
烏の鳴く声が、遠く木霊した。
「どうしたんだ、明」
聡の問いに、明は首を振る。自分でもよく分からないのだ。
食事が終わって、明美が後片付けに席を立った時のことである。
今日の食卓は、玄米ご飯にアジの開き、かぼちゃの煮つけ、ホウレンソウの白和え。根菜たっぷり、具だくさんの味噌汁。和食好きの明としては、まさに夢のような光景であった。普段の彼なら目を輝かせて、かき込む勢いで食べていただろう。しかし、今は全くと言っていいほど、箸が、進まなかった。好物であるアジの開きすら喉を通らず、ただいたずらに身を解しただけである。
聡は心配そうに瞬いて、
「母さんに言いにくいことなら、ぼくが聞くよ」
ひそひそと、声を潜めて落とされるその言葉に、明は俯く。
「後で、書斎においで」
そう言って、聡はかたんと席を立った。
台所に向かったのは、明美の手伝いと、フォローに行く為だろう。仲の良い夫婦である。
明は並んで台所に立つ二人を、座ったままじっと見つめた。
あの後、神社からどう帰ってきたのか、明は覚えていなかった。気づいたら家の前にいて、明美が怒り狂いながら出迎えたのだ。
「こんな時間まで、なにしてたの!」
既に夕闇が辺りを包み込んでいた。
明美は怒りながらも明の手を引き、家の中に連れていってくれた。食卓には聡がいて、心配そうにこちらを見ていた。
明の様子に、何を感じたのかは分からない。しかし、明美は何も聞かなかった。もしかしたらまだその時ではないと思ったのかもしれないし、聡が何とかする、と考えたのかもしれない。
おそらくは後者だろう。
現に今、こうして明は聡と向かい合っている。
聡の書斎は、家の一番奥にひっそりとある。
壁一面の本棚にはぎっしりと本が詰まり、入りきらなかった本は床にうず高く積まれていた。
窓一つないその場所の、中央にでんと置かれた大きな机と、ふかふかの椅子。古ぼけたソファセット、ガラス製のローテーブル。
聡は何も言わなかった。向かいのソファに座り、足を組んで頬杖を突き、待ちの姿勢である。こうなった時の父親は、とても頑固だ。理由を離さなければ解放もされないのだろう。そんなことはとうに分かっているのだが、明には話すべき言葉が見つからない。
聡は足を組み直し、ポケットから煙草を取り出した。そしてもう片方のポケットに手を突っ込み、
明は思わず自分のポケットを抑えた。そこには金属の冷たい感触がある。ジッポを入れたままにしていたのを、今、思い出した。どうするか。今返すか。しかし、問い詰められたらどうする。
返さなければ。でも、疑われたら。
――疑う? 何を。
もし、明が取ったと思われたら。いや、取っていない。気づいたら持っていたのだ。それにしても、いつ手にしたのだろう。朝、父が煙草を吸っていた時には、彼の手元にあったはずである。家を出る直前に、リビングに寄ったときであろうか。あの時父は、母に叱られていたはずだ。その時に……。
ばちり。
「明?」
そう、父が煙草に火を点けた。その先の揺らめく赤い炎の中で、男が踊っていた。
――あちぃよう。
ばちり。
炎が弾ける音がした。
「明! どこに行くんだ!!」
明は書斎を跳び出した。息せき切って走る。廊下を曲がり、玄関の扉を叩きつけるように開け、靴下のまま、外へと飛び出した。
「明!」
遠くから明美の声が聞こえる。
明は走ることをやめなかった。自分には
「――そうだ、全て思い出した!」
小高い丘の石畳の階段を登り切り、明は神社にたどり着いた。
月が綺麗な夜であった。人影のない神社の中央。あの燃え滓の上に、男が立っていた。
黒の男はざわりと動き、手足を振り回す。地団太を踏むようでもあった。救いを仰ぐかのようにも見えた。男は踊っている。業火が蔦のように絡みついて、男の手足を舐っている。生き物のように炎が動く。男の手足に
ジッポを取り出す手に、
男は踊るのをやめ、ゆらりと明に近づいた。
かちり、と火がともる。
――あのときも、そうだった。
それは
――あんまり熱かったものだから。
指の先から手の先へ、腕を伝って、炎が絡みつく様を思い浮かべて、明は身震いした。
「今度こそ」
明はその火を、ゆっくりと。
自分の服に。
「やめなさい」
手を掴まれた。ぽとりとジッポが落ちる。不服気に振り返った明の目に、女が映る。あの時の女性だ。葉子と言ったか。長い髪の毛がさらりと
「邪魔をするな……」
しわがれた声だ。まるで明の声ではないような、もっと年齢を重ねた類の声であった。明はぼろりと涙を零す。
「今度こそうまくやるんだ」
葉子はゆっくりと明に笑いかけた。得も言われぬ、慈悲の微笑みであった。
「大丈夫」
葉子は、囁くように言葉を落とす。
「あなたは、立派だった」
「……何が分かる」
明はぼろぼろと涙を流す。
「お前に、何が分かる」
明の胸を占めていたのは、やりきれなさであった。
――あちぃ。
焔が、墨染の衣に移った。
――あちぃよお。
舐めるように、蛇のように、業火が肌を焼いていく。目の前が赤く染まっていく。それは、初めて感じる種類の恐怖であった。
ほんの一瞬。一瞬差し込んだ思考だったのだ。
――死にたくねえよお……!
流れ落ちる涙の熱さに、明は喘いだ。
もう一度やり直したかったのだ。次こそはきっと上手くやる。もうあんな恐怖には負けやしない。
「今度こそ……今度こそ」
明がそう呟いた時であった。
葉子が、笑った。まるで厳しい冬の日に、寒さがふと和らいだかのような、花が
「大丈夫だよ」
「目を閉じてごらん」
逆らえず、明は素直に目を閉じた。花の香りが一層強くなる。
「君が立派だったから。迎えが来たよ」
そうして、葉子は唇に歌を乗せたのである。
不思議な旋律であった。
低く、高く響く声に、明はしばし、胸の痛みを忘れた。
彼の脳裏に光がよぎる。暖かな、春の陽だまりのような光であった。幽かに聞こえるのは鈴の音と、笛の音だ。葉子の声と重なり合い、響き合い、近づいてくるその音に、明は
体が軽くなっていく。あれほど心を支配していた、黒々とした感情が、炎に照らされた雪のように消えていく。
――光が。
がくん、と明の体が崩れ落ちるのを、葉子が両手で受け止めた。二人の前には、黒の男が立っている。天を仰いでいた。その顔がかすかに微笑んだように見えた。
そして、男は、風にほどける様に。
ゆっくりと、ゆっくりと、消えていった。
大きく弧を描き、放り投げられたジュースの缶を、明は慌てて受け取った。
「あっぶね!」
「ナイスキャッチ」
葉子が軽やかに笑った。オレンジジュースだ。おごってくれるということなのだろう。ありがたくいただくことにする。
二人は境内の入り口の、石階段に腰を掛けていた。
虫の鳴き声が、境内に響いている。眼下に広がる家々の明かりが、まるで星空のようである。
葉子も缶ジュースに無言で口をつけている。いちごミルク、と書かれた缶が、葉子の見た目とミスマッチで、明は思わず笑ってしまう。
「なに?」
黒々とした目を向けられて、明はしまったと目をそらした。何となく気まずくて、明は話題を探すことにする。
「……おねーさん」
「葉子」
「葉子さん、いくつ?」
「いくつに見える?」
「何してる人?」
「内緒」
ふーん、と、明は呟いた。
「あのさ。……さっきの、あれ」
明は
黒い男。まるで救いを仰ぐかのように、炎の中で踊っていた。
「あの人はね」
葉子がほそりと言葉を落とす。
「一生懸命に修行して、修行して、あの場所に行くことだけを考えていた人なんだよ」
「あの場所?」
「苦しみから解き放たれる場所。その場所があることを、心から信じて……それで、自分で自分に火をつけた」
「自分で……?」
「そう。そうすることで、あの場所に行ける、生きた肉体を捨てれば幸せになれると教えられていたんだ。でもね」
そこまで言うと、葉子は一度言葉を区切った。
「最後の瞬間、彼は生に執着した。死にたくない、と思ってしまった。それが後悔となり、焼き付いてしまったんだね」
ちくり、と明の胸に、先程とは違う胸の痛みが走った。
「ねえ、おねーさん」
「葉子」
「葉子さん。あの人は、自分で自分を殺そうとしたってこと? 火をつけて? そんで幸せになれるって信じてたってこと?」
「そうだね」
「そんで、死ぬ瞬間に後悔した……?」
「そうなるね」
明はオレンジジュースの缶を握り締めた。
「そんなん、ばかだよ……」
呟いて、またちくりと胸が痛んだ。あの男の声。
――あちぃよう。
――死にたくねえよお。
男の悲痛な声と、やるせない胸の痛み。あの男は、本当に悔いていたのだ。自分が火に包まれた瞬間に、生に執着したことを。それだけを後悔して、だからもう一度、今度こそきちんとやろうと。
「そうかもしれないね。けど」
ふわり、と花の香りが強くなる。葉子は眼下に広がる街に目を向けていた。
「人の数だけ幸せがある」
そうして、葉子はゆっくりと明に顔を向け、微笑んだ。
黒々と濡れた瞳が細められる。その唇からすうと歌が零れた。高く、低く響く音。紡がれている言葉は分からない。けれど、温かな光に包まれるような、柔らかな響きであった。
明は昔、聡に聞かされた話を思い出す。
――
「あのさ……おれ、葉子さんのこと、知ってるかもしれない」
そういうと、葉子は歌を止め、不思議そうに目を瞬かせた。
「言祝ぎ、って知っているかい?」
確か、その話が出たのは、どうしてその職業に就いたのかを親に訊ねる、という、学校の宿題の為に、話を聞いていたときのことであった。
聡は、作家だ。
そう言うと、大抵の同級生たちは羨ましそうな視線を向けてくるのだが、そうは問屋が卸さない。彼は一筋縄ではいかないのだ。今回も、きっと訳の分からないことを言われるのだろうと思っていたが、案の定である。
今まで耳にしなかった言葉の響きに、明は首を大いに傾げたものだ。
「ことほぎ?」
書斎の、でんとした椅子に腰かけて、聡は微笑んだ。
「言葉で祝福すること。それを『言祝ぎ』というんだけれどね」
早くも聞く気がなくなってしまう。勝也も連れてくればよかった。あいつは、こういう話がめっぽう好きなのだ。
「お父さんが若い頃にね、言葉を操る人に出会ったんだ」
黒髪の、長身で、大層な美人。名前を、『葉子』と言ったのだ、と目を輝かせて語る聡に、明は不審な目を向けた。
聡は声を上げて笑ったものだ。
「お父さんはね、あの人みたいに。言葉を祝福に使う人になりたいんだ。それで、この仕事を選んだというわけさ」
「なにそれ。しゅーきょーとか、そういうのなの?」
眉に皺を寄せる明の頭を撫でて、聡はこう言ったものだ。
「その人は、言葉を歌に乗せるんだぞ。明にも聞かせてやりたいなあ」
そう懐かしむように呟いて微笑んだ父の顔を、明はよく覚えている。
「おねーさんって、その『葉子』さんなんじゃねえの?」
葉子はざっくりと笑った。酷く乾燥した笑い方であった。
「そっか」
どこか遠くを眺めるような目つきで、葉子は呟いた。
「運命という言葉は好きではないけれど。時たま、そうとしか思えない出来事が起こる」
「運命?」
「そう。長く生きていても、それがとても不思議で、愛おしくて」
「……葉子さん?」
「そのたびに私は、有限に憧れ、無限を恨まずにはいられないんだ……」
そう言って、葉子は目を細めた。月の光が葉子の顔をきらきらと染めている。
明はひょいと肩を竦めた。
「葉子さんさ、あんまそういうこと、言わない方がいいよ」
「そうかな」
「うん。やべー人だって思われるよ」
「そっか」
明はジュースをぐいと飲みほした。
「ごちそうさま」
「どういたしまして」
「あと、ありがとう」
おや、と葉子は目を見開く。
「何に対する、ありがとう?」
「おれ、何となく分かったよ。葉子さん、……助けてくれたんでしょ」
葉子は静かに首を振った。
「君を助けたんじゃない」
「分かってるよ。だから、ありがとうって言ってんの」
そう言うと、葉子は驚いたように目を見張り、ややあって、ゆったりと微笑んだ。
「……ら!」
「明!」
両親の声が風に乗って
「やっべぇ……」
絶対に、本気で怒られる。明は首をひょいと竦めた。その様子を見て葉子は大きく破顔する。
「さて、君の両親に御挨拶、をしたいところだけれど。私を見たら、御両親はびっくりされるだろうから」
立ち上がり、葉子はくるりと踵を返す。月を背負ったその後ろ姿は、壮絶に美しかった。
「葉子さん」
思わず呼び止める。
「また会えるかな」
振り返った葉子は、笑っていた。世にも優しい笑顔であった。
「ねえ、君にお願いがあるんだ」
明の問いには答えずに、葉子は目をゆっくりと細めた。
「人として生まれたのだから」
彼女は、唇に指をあてる。そのまま囁くように、言葉を落とした。
「幸せになりなさい」
葉子はそう言って、ゆっくりとその場を去った。遠のいていく背中の、長い黒髪がゆらゆらと月光を弾く。明の耳に、葉子の歌が聞こえた。高く、低く響く声。不思議な旋律が、夜の空に、すうと消えていくようであった。
さて。その後のことは、想像に難くないだろう。
明は散々怒られ、怒り狂った明美に初めて頬を張られたり、外出禁止令を言い渡されたりする。勝也はそんな明を見て肩を竦め、聡は相変わらずの微笑みで、ふて腐れた明をなだめるのだ。そして、修学旅行で女子の部屋に忍び込んで、担任の佐藤に大目玉をくらったりして。
中学に進学し、高校生になり、大学進学、そして社会に出て、結婚して、あの日の事は次第に思い出になり、夢か
長い黒髪、少し低い声。
優しげな笑み。
花の香り。
月を背負った姿。
そして、あの旋律。
そういったチリチリとしたものが、頭に焼き付いて。
幸せになりなさい
あの言葉が、色を持って存在し続けたのは、言うまでもない。
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