今昔百物語・葉~わたつみの贄は時を超えて

野月よひら

第1話 火前坊

 広場に焚かれた炎が、夜の闇に吸い込まれていくようであった。巨大な火柱である。まるで生きているかのように、天へ伸びていく。

 ばちり、ばちりと爆ぜる音に引き寄せられ、あきらは炎に近づいた。

 さながら赤い蛇であった。鎌首をもたげて蠢いている。その蛇に絡みつかれるようにして。

 それは、いた。

 黒の人影。赤く燃え盛る炎の中で黒い手足を振り回し、まるで踊っているかのようであった。

 夏祭の夜。

 日は落ちても蒸し暑く、まだ宵の口と言わんばかりに、蝉がじわじわと鳴いていた。

 高台を上り、赤い鳥居を何度もくぐればもうそこは別世界で、明は心を躍らせたものだ。細く高く響く笛、腹に響く太鼓の音。普段はしんとした人気のない神社である。しかし、今日は違う。赤い提灯、舞う火の粉。境内に立ち並ぶ夜店の数々。風に運ばれるソースや醤油の香りに、明はぐうと腹の虫を鳴らしたものだ。

 夜祭に来るのは初めてであった。

 家の方針で、夜に外出するときは、家族と一緒にでないと許されなかった。しかし、明も来年から中学生である。家族と仲良く、というよりも、友人たちとの付き合いに重きを置きたい年齢だ。今年こそは夜祭に行きたいと何度も母に頭を下げて、皿洗いと肩たたきの約束を向こうひと月ばかりして、それで、ようやく許してもらえたのである。

「あっちで、いか焼き百円だって!」

 幼馴染の勝也かつやが、駆け出した。明も千円札を握り締める。それは聞き逃せない情報だ。腹が空ききっていた明は、勝也の後を猛然と追いかける。

 そして、お社の前。広場の中央の、大きく立ち昇る炎の前に差し掛かった時のことであった。

 ばちり、と、耳の奥で、弾ける音が聞こえたのである。

 大きな炎であった。渦を巻きながら天へと手を伸ばしていた。

 気づけば、足を止めていた。

 炎が明の顔を赤く染める。その熱すら心地よく、たらりと伝う汗が頬をすべり、首元へ、そしてTシャツに吸い込まれていった。

 祭囃子が遠のいていく。

 ばちり。

 ばちり、と炎が、弾けた。

 その炎の中に、人影が、ゆらりと現れたのである。

 踊っている。楽しそうに。

 炎の中心に、手足を跳ねさせて踊る、人影。

 男のようであった。

 顔の凹凸おうとつは分かるものの、表情までは読み取れない。手足を振り回す様は地団太を踏むようでもあった。あるいは救いを仰ぐかのようにも見えた。男は踊っている。業火が蔦のように絡みついて、男の手足を舐っている。ばちり。ばちり。爆ぜる音が近づいていく。手足を振り回し。

 ばちり。

 こちらを、見ていた。

 落ちくぼんだ眼と思しき黒。その果てしない闇が、ひた、とこちらを、見つめていた。

 炎が、燃えている。

 男が、見ている。

 ――あちいよお。

 つい、と、男は手を差し出し、ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 手招きを、した。


「いけない!」

 がしり、と腕を掴まれ、明は振り返った。女性である。すらりとした佇まいの、若い女が、明の腕を掴んでいる。力の込められた指が、明のまだやわらかな腕にじわりと食いこんだ。

「……痛!」

 思わず顔をしかめる。女は明の様子をじいと見つめ、やがて、ほう、と息を吐いた。

「炎の顔を見るのは、毒だよ。気をつけて」

 きびすを返す女の、赤に照らされた長い黒髪が、左右に揺れて遠のいていく。

 明はもう一度振り返り、炎を見た。

 もうそこに、あの人影は、いなかった。


「明! いい加減に起きなさい!」

 寝ぼけまなこをこすると、朝も八時になろうとしているところであった。

 明は慌ててベッドから飛び起きる。手早く着替えて階段を駆け下り、息せき切って、明るい日の光が降り注ぐリビングへと飛び込んだ。

「なんでもっと早く起こしてくんないんだよ!」

「何度も起こしたでしょう。まったくあんたはいつもいつも!」

 母親の明美あけみ柳眉りゅうびを逆立てるのを見て、明は頬を膨らませる。

 今日は大切な日であった。それは新学期だから、という訳ではない。二学期の一大イベント、修学旅行の班決めの日なのである。

 明には、憎からず思っている女の子がいる。同じクラスの、愛子あいこ、という子であった。

 愛子は、可愛い。学校で一番の美少女だと思っている。にっこり笑うと八重歯がのぞく、そこがまた、いい。最後の学年で一緒のクラスになれたのは明に取って幸運だった。修学旅行で、一緒の班になれたら、ちょっと頑張ってみようか。何といっても来年からは中学生になるわけだし、仲良くしておくにこしたことはない。

 だから、今日は早く起きて、何もかも完璧にしておこうと思ったのに、出鼻を挫かれた気分である。


 父親のさとしが、飲みかけであろう珈琲をかたりと置いて笑った。

「まあまあ。ほら明。急いで食べちゃいなさい」

 声が掠れている。また徹夜をしていたのだろう。父親の特殊な職業の事を考え、明は軽く肩を竦めた。


 言われるままに食卓に着く。既に用意されていた、純和風の料理たち。ごくりと唾を飲みこみ、白米をかきこんだ。添えられていたお漬物は胡瓜と茄子。キャベツと油揚げの味噌汁が胃に染み渡る。一気に流し込んで、咀嚼する。

「こら、落ち着いて食べなさい」

 聡の声に、明はまた肩を竦める。無茶を言うものだ。急ぐ、と、落ち着く、は対極にあると言ってもいいだろう。

 明美も食卓につきながら、苦笑した。

「あんたもね、もうあと少しで中学生なんだから。起こされる前に起きなさいよ」

「無理だって」

 口いっぱい頬張りながら、明は抗議する。とはいえ、今日の寝坊は自業自得と言えるだろう。そのくらいは明だって分かっている。何せ昨日は。

 そこまで考えて、明は首を傾げた。

 昨日は、どうしたのだろう。

 確かお祭に行ったはずだ。勝也が迎えに来て、二人で神社に向かって、それから。

 ちり、とした頭の痛みと共に、明の脳裏に赤の色が蘇る。赤い、炎。鎌首をもたげた蛇のようであった。確か自分は、炎の前で。


「明!」

 聡の声に、明は目を瞬かせた。手に持っていた味噌汁椀から、中身がだらだらと零れている。

「ああ、もう、何やっているの!」

 明美は慌てた様子で台所へ走った。布巾を取りにいったのだろう。明は味噌汁まみれの服を呆然と見下ろした。灰色のパーカーに、油揚げが芋虫のように張り付いている。

「体調でも悪い?」

 聡はかたりと立ち上がると、明の額に手を置いた。

「熱はないね」

 ばたばたと明美が戻ってきて、明の襟ぐりを乱暴に拭った。

「ほら、ぼっとしてないで着替えてきなさいよ! 出汁の匂いぷんぷんさせて学校行きたくないでしょ?」

「ねえ、明、ちょっと体調悪いみたい」

「えっ?」

 明美もとっさに明の額に手を当てた。

「熱はないみたいだけど」

「……平気」

 心配そうにこちらを見る両親に、明は笑顔で答える。ちくりと不安がよぎったが、そんなもの、気にしなければなんのことはない。今日は何としても学校に行かなければいけないのだ。

「あまり、無理はするなよ」

 そう言って、聡は煙草を取り出して火をつけた。

 赤い、炎。

 ――あちいよお。

「明?」

 問われて、明は目を瞬かせた。どうにも頭がもやもやとしていけない。

「なんでもない」

 心配そうにこちらを窺う両親を安心させるように、明は笑った。自室に戻ってもう一度着替え、ランドセルを背負い、再び階段を駆け下りる。

 リビングに戻ると、聡が明美に叱られていた。

「あんたね、子どもの前で煙草はやめてっていつも言ってるでしょ!」

「ごめんごめん、つい癖で」

 ソファの上で正座をさせられている聡を見て、明はくすりと笑った。ああ見えて、じゃれ合っているだけなのだ。あの二人は。

 明は肩を竦めて、取り込み中の両親に声をかける。

「行ってきます!」

 ばたり、と扉を開けて駆け出した。いい天気である。幸先のよさに、先ほど感じた不安が薄れるのを感じながら、明は学校への道を猛然と走り出した。



「ねえ、大丈夫なの?」

 そう勝也に話しかけられて、明は目をぱちくりさせた。

「なにが?」

 ランドセルを机の横にひっかけ、教科書と筆箱を取り出したところであった。

 明は勝也を振り仰ぐ。ひょろりと長い姿を認めると、ことりと首を傾げた。勝也はいつもにこにこと笑っている、気の良いやつである。明とは幼稚園から家族ぐるみの付き合いだ。その勝也が、眉をよせて心配そうに、顔を覗きこんでいる。

「いや、明さ、昨日の夜変だったから」

「昨日?」

「ほら、お祭のとき」

 ちり、と頭が痛くなった。目の奥にちらりと赤い炎が見える。あれは昨日のお祭りの、大きな炎だ。赤い色をして、じりじりと熱い――。

「明?」

 目を瞬かせた。今、何か思い出そうとしていた。大切な事だったはずだ。忘れてはいけないこと。喉の奥に引っかかって、取れない小骨のような、もどかしい思い出があったような気がする。

「保健室行く? やっぱ体調悪いんでしょ」

「……だいじょぶ」

 勝也は明らかにほっとした顔で笑った。

「ところでさ」

 勝也が指さした。

「それ、なに?」

 机の上に乱雑に置かれた教科書。紺色の筆箱、その隣の、銀色のジッポ。

「……父さんのだ」

 明は目を見張った。何でここに。何かと間違えて持ってきてしまったのだろうか。

 チャイムがなる。勝也は心配そうに明に眼をくべると、自分の席へと戻っていった。

 あわててジッポをポケットに突っ込む。きっと、何かの拍子に混じってしまったのに違いない。帰宅したら、リビングの上にでも置いておこう。

 がらり、と扉が開き、担任の佐藤が教室に入ってくる。にやにやとしながら箱を携え、それを教卓に置いた。

 あれこそが、本日のメインイベント。班決めのくじに違いない。明は大きく息を吸って、手に『人』の文字を書いた。

 それを見ていた勝也がぽそっと。

「それ、ちがうおまじないだよ」

 と、教えてくれた。




 女の人に再び出会ったのは、その日の学校帰りのことである。


 班決めの結果は散々であった。気合を入れて引いた籤は大いに外れ、愛子と離れてしまったのである。

 明は友人が多い。どの班になっても仲間外れにあうだとか、話し相手に困るだとか、そういった心配はまったくしていなかった。しかし、学校生活最後のチャンスで、想い人と一緒の班になれなかった。そのことが意外なほど、気落ちの原因となっていたのである。

 同じ班になれなかったくらい、なんてことない。そう思うようにしても、なかなか胸中は複雑だ。くさくさとした思いを振り切るように、明は頭を軽く振った。

 しかし憎らしいのは勝也だ。

 彼は、ちゃっかり愛子と同じ班を引き当てたのだ。こちらをちらと見て、ごめん、と言わんばかりの顔に、無性に腹が立った。恐らく勝也は、自分が愛子の事を憎からず思っていることに気づいているのだ。そのこともまた、明を苛立たせる原因になっていた。

 愛子は、勝也の事をどう思っているのだろうか。

 勝也は、女子に人気がある。優しいところが、いい、と、以前女子が話していた。その中に愛子もいたはずだ。

「あー、やめやめ!」

 我ながら、女々めめしい。終わったことを、ぐちぐちと考えていても仕方がないだろう。


 まっすぐ家に帰る気にもならず、かといって行くあてもなく、ぶらぶらと道を歩いていたその視界に、神社の赤い鳥居が目に入ってきたのである。こんもりとした緑が生い茂る、小高い丘の上にちょこなんと見える赤に何となく惹かれて、明は足をそちらに向けた。

 石畳の階段を駆け上ると、町が一望できる境内に辿り着いた。もう日も落ちかけている。傾きかけた陽光が、鳥居の影を長く引き伸ばしていた。

 吹き抜ける風が心地よく、明はうんと伸びをし、境内をぐるりと歩く。

 そこは確かにお祭りの後であった。片付けの途中なのだろう、屋台の骨組みが残っていて、なんとなく、物寂しい。境内の中心には、燃え尽きた焚火の残骸がこんもりと小山になっていた。そっと近づくと、かすかに焦げ臭く、思わず眉をひそめる。

 ふと、その黒い残骸の中に違和感を覚え、明は目を瞬かせた。

 つきん、と頭が痛くなる。

 ――あちいよお。

 その時であった。そっと後ろから、ひやりとしたものが目に覆いかぶさってきたのである。

 人の手だ。目隠しをされている。ふわりと微かな、花の香りがした。

「見ちゃだめ」

 低い、掠れた声。

 ふっくらとした、それでいてひんやりした手の平の感触に、明はどきりと心臓が跳ねる。

「炎の顔を見るのは、毒だよ」

 そう言って、手はゆっくりと離れていった。

 振り返ると、そこには女が立っている。

 背の高い、すらりとした人であった。黒い革のジャンパーと、ぴったりとしたジーンズがよく似合っている。長い黒髪は夕日を浴びてきらきら輝いていた。

 あの時の女性だ。祭の夜、炎の前で、同じように声をかけられた。女はゆっくりと言い含める様に、もう一度言葉を口にする。

「炎の顔を見てはいけないよ」

 そのまま踵を返す彼女に、明は辛うじて声をかけた。

「……だれ」

 女は振り返る。

 夕日を背に受けたその姿は、一枚の影絵のようであった。

葉子ようこ

 夕焼けの赤に、鳥居の影が溶け込んで、明を飲み込んでいく。

 烏の鳴く声が、遠く木霊した。



「どうしたんだ、明」

 聡の問いに、明は首を振る。自分でもよく分からないのだ。

 食事が終わって、明美が後片付けに席を立った時のことである。

 今日の食卓は、玄米ご飯にアジの開き、かぼちゃの煮つけ、ホウレンソウの白和え。根菜たっぷり、具だくさんの味噌汁。和食好きの明としては、まさに夢のような光景であった。普段の彼なら目を輝かせて、かき込む勢いで食べていただろう。しかし、今は全くと言っていいほど、箸が、進まなかった。好物であるアジの開きすら喉を通らず、ただいたずらに身を解しただけである。

 聡は心配そうに瞬いて、はばかるように囁いた。

「母さんに言いにくいことなら、ぼくが聞くよ」

 ひそひそと、声を潜めて落とされるその言葉に、明は俯く。

「後で、書斎においで」

 そう言って、聡はかたんと席を立った。

 台所に向かったのは、明美の手伝いと、フォローに行く為だろう。仲の良い夫婦である。

 明は並んで台所に立つ二人を、座ったままじっと見つめた。

 あの後、神社からどう帰ってきたのか、明は覚えていなかった。気づいたら家の前にいて、明美が怒り狂いながら出迎えたのだ。

「こんな時間まで、なにしてたの!」

 既に夕闇が辺りを包み込んでいた。

 明美は怒りながらも明の手を引き、家の中に連れていってくれた。食卓には聡がいて、心配そうにこちらを見ていた。

 明の様子に、何を感じたのかは分からない。しかし、明美は何も聞かなかった。もしかしたらまだその時ではないと思ったのかもしれないし、聡が何とかする、と考えたのかもしれない。

 おそらくは後者だろう。


 現に今、こうして明は聡と向かい合っている。


 聡の書斎は、家の一番奥にひっそりとある。

 壁一面の本棚にはぎっしりと本が詰まり、入りきらなかった本は床にうず高く積まれていた。

 窓一つないその場所の、中央にでんと置かれた大きな机と、ふかふかの椅子。古ぼけたソファセット、ガラス製のローテーブル。ほこりの香りがするソファに腰かけ、明は父親をちらりと盗み見た。

 聡は何も言わなかった。向かいのソファに座り、足を組んで頬杖を突き、待ちの姿勢である。こうなった時の父親は、とても頑固だ。理由を離さなければ解放もされないのだろう。そんなことはとうに分かっているのだが、明には話すべき言葉が見つからない。

 聡は足を組み直し、ポケットから煙草を取り出した。そしてもう片方のポケットに手を突っ込み、怪訝けげんそうな顔をする。

 明は思わず自分のポケットを抑えた。そこには金属の冷たい感触がある。ジッポを入れたままにしていたのを、今、思い出した。どうするか。今返すか。しかし、問い詰められたらどうする。

 返さなければ。でも、疑われたら。

 ――疑う? 何を。

 もし、明が取ったと思われたら。いや、取っていない。気づいたら持っていたのだ。それにしても、いつ手にしたのだろう。朝、父が煙草を吸っていた時には、彼の手元にあったはずである。家を出る直前に、リビングに寄ったときであろうか。あの時父は、母に叱られていたはずだ。その時に……。

 ばちり。

「明?」

 そう、父が煙草に火を点けた。その先の揺らめく赤い炎の中で、男が踊っていた。

 ――あちぃよう。

 ばちり。

 炎が弾ける音がした。


「明! どこに行くんだ!!」

 明は書斎を跳び出した。息せき切って走る。廊下を曲がり、玄関の扉を叩きつけるように開け、靴下のまま、外へと飛び出した。

「明!」

 遠くから明美の声が聞こえる。

 明は走ることをやめなかった。自分にはすべきことがあったのだ。

「――そうだ、全て思い出した!」

 小高い丘の石畳の階段を登り切り、明は神社にたどり着いた。

 月が綺麗な夜であった。人影のない神社の中央。あの燃え滓の上に、男が立っていた。

 黒の男はざわりと動き、手足を振り回す。地団太を踏むようでもあった。救いを仰ぐかのようにも見えた。男は踊っている。業火が蔦のように絡みついて、男の手足を舐っている。生き物のように炎が動く。男の手足にまとわりついて、黒と赤とが、祝福するかのように絡み合った。

 ジッポを取り出す手に、躊躇ためらいはなかった。

 男は踊るのをやめ、ゆらりと明に近づいた。愉悦ゆえつに歪む明の顔を、男は底知れぬ黒い眼窩がんかでじっくりと眺めていた。

 かちり、と火がともる。

 ――あのときも、そうだった。

 それはほのかな、あの炎と比べたら子供のような火であった。

 ――あんまり熱かったものだから。

 指の先から手の先へ、腕を伝って、炎が絡みつく様を思い浮かべて、明は身震いした。

「今度こそ」

 明はその火を、ゆっくりと。

 自分の服に。

「やめなさい」

 手を掴まれた。ぽとりとジッポが落ちる。不服気に振り返った明の目に、女が映る。あの時の女性だ。葉子と言ったか。長い髪の毛がさらりとなびき、黒の夜に吸い込まれるように、揺らめいていた。

「邪魔をするな……」

 しわがれた声だ。まるで明の声ではないような、もっと年齢を重ねた類の声であった。明はぼろりと涙を零す。

「今度こそうまくやるんだ」

 葉子はゆっくりと明に笑いかけた。得も言われぬ、慈悲の微笑みであった。

「大丈夫」

 葉子は、囁くように言葉を落とす。

「あなたは、立派だった」

「……何が分かる」

 明はぼろぼろと涙を流す。

「お前に、何が分かる」

 明の胸を占めていたのは、やりきれなさであった。ほとんどど一生をかけて、修行してきた。いよいよだった。大願叶うその時を、待ち望んでいたはずなのに。

 ――あちぃ。

 焔が、墨染の衣に移った。

 ――あちぃよお。

 舐めるように、蛇のように、業火が肌を焼いていく。目の前が赤く染まっていく。それは、初めて感じる種類の恐怖であった。

 ほんの一瞬。一瞬差し込んだ思考だったのだ。


 ――死にたくねえよお……!


 流れ落ちる涙の熱さに、明は喘いだ。

 もう一度やり直したかったのだ。次こそはきっと上手くやる。もうあんな恐怖には負けやしない。

「今度こそ……今度こそ」

 明がそう呟いた時であった。

 葉子が、笑った。まるで厳しい冬の日に、寒さがふと和らいだかのような、花がほころぶような笑みであった。

「大丈夫だよ」

 滂沱ぼうだする明を励ますように、葉子は彼の体を抱いた。ふわり、と花のような香りが明を包む。

「目を閉じてごらん」

 逆らえず、明は素直に目を閉じた。花の香りが一層強くなる。

「君が立派だったから。迎えが来たよ」

 そうして、葉子は唇に歌を乗せたのである。

 不思議な旋律であった。

 低く、高く響く声に、明はしばし、胸の痛みを忘れた。

 彼の脳裏に光がよぎる。暖かな、春の陽だまりのような光であった。幽かに聞こえるのは鈴の音と、笛の音だ。葉子の声と重なり合い、響き合い、近づいてくるその音に、明は陶然とうぜんと耳を奪われた。耐えようもなく、美しい調べであった。

 体が軽くなっていく。あれほど心を支配していた、黒々とした感情が、炎に照らされた雪のように消えていく。

 ――光が。

 がくん、と明の体が崩れ落ちるのを、葉子が両手で受け止めた。二人の前には、黒の男が立っている。天を仰いでいた。その顔がかすかに微笑んだように見えた。

 そして、男は、風にほどける様に。

 ゆっくりと、ゆっくりと、消えていった。


 大きく弧を描き、放り投げられたジュースの缶を、明は慌てて受け取った。

「あっぶね!」

「ナイスキャッチ」

 葉子が軽やかに笑った。オレンジジュースだ。おごってくれるということなのだろう。ありがたくいただくことにする。

 二人は境内の入り口の、石階段に腰を掛けていた。

 虫の鳴き声が、境内に響いている。眼下に広がる家々の明かりが、まるで星空のようである。

 葉子も缶ジュースに無言で口をつけている。いちごミルク、と書かれた缶が、葉子の見た目とミスマッチで、明は思わず笑ってしまう。

「なに?」

 黒々とした目を向けられて、明はしまったと目をそらした。何となく気まずくて、明は話題を探すことにする。

「……おねーさん」

「葉子」

「葉子さん、いくつ?」

「いくつに見える?」

「何してる人?」

「内緒」

 ふーん、と、明は呟いた。

「あのさ。……さっきの、あれ」

 明はうつむく。先程まで感じていた胸の痛みや、やりきれなさはとうに消えていた。しかし、あの時目の前で起こったことは、何だったのであろうか。

 黒い男。まるで救いを仰ぐかのように、炎の中で踊っていた。

「あの人はね」

 葉子がほそりと言葉を落とす。

「一生懸命に修行して、修行して、あの場所に行くことだけを考えていた人なんだよ」

「あの場所?」

「苦しみから解き放たれる場所。その場所があることを、心から信じて……それで、自分で自分に火をつけた」

「自分で……?」

「そう。そうすることで、あの場所に行ける、生きた肉体を捨てれば幸せになれると教えられていたんだ。でもね」

 そこまで言うと、葉子は一度言葉を区切った。

「最後の瞬間、彼は生に執着した。死にたくない、と思ってしまった。それが後悔となり、焼き付いてしまったんだね」

 ちくり、と明の胸に、先程とは違う胸の痛みが走った。

「ねえ、おねーさん」

「葉子」

「葉子さん。あの人は、自分で自分を殺そうとしたってこと? 火をつけて? そんで幸せになれるって信じてたってこと?」

「そうだね」

「そんで、死ぬ瞬間に後悔した……?」

「そうなるね」

 明はオレンジジュースの缶を握り締めた。

「そんなん、ばかだよ……」

 呟いて、またちくりと胸が痛んだ。あの男の声。

 ――あちぃよう。

 ――死にたくねえよお。

 男の悲痛な声と、やるせない胸の痛み。あの男は、本当に悔いていたのだ。自分が火に包まれた瞬間に、生に執着したことを。それだけを後悔して、だからもう一度、今度こそきちんとやろうと。

「そうかもしれないね。けど」

 ふわり、と花の香りが強くなる。葉子は眼下に広がる街に目を向けていた。

「人の数だけ幸せがある」

 そうして、葉子はゆっくりと明に顔を向け、微笑んだ。

 黒々と濡れた瞳が細められる。その唇からすうと歌が零れた。高く、低く響く音。紡がれている言葉は分からない。けれど、温かな光に包まれるような、柔らかな響きであった。

 明は昔、聡に聞かされた話を思い出す。

 ――言祝ことほぎって、知ってるかい?

「あのさ……おれ、葉子さんのこと、知ってるかもしれない」

 そういうと、葉子は歌を止め、不思議そうに目を瞬かせた。



「言祝ぎ、って知っているかい?」

 確か、その話が出たのは、どうしてその職業に就いたのかを親に訊ねる、という、学校の宿題の為に、話を聞いていたときのことであった。

 聡は、作家だ。

 そう言うと、大抵の同級生たちは羨ましそうな視線を向けてくるのだが、そうは問屋が卸さない。彼は一筋縄ではいかないのだ。今回も、きっと訳の分からないことを言われるのだろうと思っていたが、案の定である。

 今まで耳にしなかった言葉の響きに、明は首を大いに傾げたものだ。

「ことほぎ?」

 書斎の、でんとした椅子に腰かけて、聡は微笑んだ。

「言葉で祝福すること。それを『言祝ぎ』というんだけれどね」

 早くも聞く気がなくなってしまう。勝也も連れてくればよかった。あいつは、こういう話がめっぽう好きなのだ。

「お父さんが若い頃にね、言葉を操る人に出会ったんだ」

 黒髪の、長身で、大層な美人。名前を、『葉子』と言ったのだ、と目を輝かせて語る聡に、明は不審な目を向けた。

 聡は声を上げて笑ったものだ。

「お父さんはね、あの人みたいに。言葉を祝福に使う人になりたいんだ。それで、この仕事を選んだというわけさ」

「なにそれ。しゅーきょーとか、そういうのなの?」

 眉に皺を寄せる明の頭を撫でて、聡はこう言ったものだ。

「その人は、言葉を歌に乗せるんだぞ。明にも聞かせてやりたいなあ」

 そう懐かしむように呟いて微笑んだ父の顔を、明はよく覚えている。


「おねーさんって、その『葉子』さんなんじゃねえの?」

 葉子はざっくりと笑った。酷く乾燥した笑い方であった。

「そっか」

 どこか遠くを眺めるような目つきで、葉子は呟いた。

「運命という言葉は好きではないけれど。時たま、そうとしか思えない出来事が起こる」

「運命?」

「そう。長く生きていても、それがとても不思議で、愛おしくて」

「……葉子さん?」

「そのたびに私は、有限に憧れ、無限を恨まずにはいられないんだ……」

 そう言って、葉子は目を細めた。月の光が葉子の顔をきらきらと染めている。

 明はひょいと肩を竦めた。

「葉子さんさ、あんまそういうこと、言わない方がいいよ」

「そうかな」

「うん。やべー人だって思われるよ」

「そっか」

 明はジュースをぐいと飲みほした。

「ごちそうさま」

「どういたしまして」

「あと、ありがとう」

 おや、と葉子は目を見開く。

「何に対する、ありがとう?」

「おれ、何となく分かったよ。葉子さん、……助けてくれたんでしょ」

 葉子は静かに首を振った。

「君を助けたんじゃない」

「分かってるよ。だから、ありがとうって言ってんの」

 そう言うと、葉子は驚いたように目を見張り、ややあって、ゆったりと微笑んだ。


「……ら!」

「明!」

 両親の声が風に乗ってかすかに聞こえる。どうやら探してくれていたようである。境内の下から届く声に、明は冷汗をたらりと流した。

「やっべぇ……」

 絶対に、本気で怒られる。明は首をひょいと竦めた。その様子を見て葉子は大きく破顔する。

「さて、君の両親に御挨拶、をしたいところだけれど。私を見たら、御両親はびっくりされるだろうから」

 立ち上がり、葉子はくるりと踵を返す。月を背負ったその後ろ姿は、壮絶に美しかった。

「葉子さん」

 思わず呼び止める。

「また会えるかな」

 振り返った葉子は、笑っていた。世にも優しい笑顔であった。

「ねえ、君にお願いがあるんだ」

 明の問いには答えずに、葉子は目をゆっくりと細めた。

「人として生まれたのだから」

 彼女は、唇に指をあてる。そのまま囁くように、言葉を落とした。

「幸せになりなさい」

 葉子はそう言って、ゆっくりとその場を去った。遠のいていく背中の、長い黒髪がゆらゆらと月光を弾く。明の耳に、葉子の歌が聞こえた。高く、低く響く声。不思議な旋律が、夜の空に、すうと消えていくようであった。



 さて。その後のことは、想像に難くないだろう。


 明は散々怒られ、怒り狂った明美に初めて頬を張られたり、外出禁止令を言い渡されたりする。勝也はそんな明を見て肩を竦め、聡は相変わらずの微笑みで、ふて腐れた明をなだめるのだ。そして、修学旅行で女子の部屋に忍び込んで、担任の佐藤に大目玉をくらったりして。

 中学に進学し、高校生になり、大学進学、そして社会に出て、結婚して、あの日の事は次第に思い出になり、夢かうつつかもあやふやになっていくのだが。

 長い黒髪、少し低い声。

 優しげな笑み。

 花の香り。

 月を背負った姿。

 そして、あの旋律。

 そういったチリチリとしたものが、頭に焼き付いて。



 幸せになりなさい

 あの言葉が、色を持って存在し続けたのは、言うまでもない。

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