ヒナ鳥にサヨナラ 1 ドキドキ
チラリと隣の席に目を向ける。そこには、眉根を吊り上げて唇を真一文字に結ぶ高乃さんの姿があった。
そのキリッとした目もとは、画面を睨みつけるのを通り越して光線でも発射しそうな勢いだ。
「十二月になったら確実に忙しくなるから、今から前倒しできるものは片付けていくから」
高乃さんはそう言って仕事の予定を組み直した。
高乃さんは「忙しくても残業はしたくない」というスタンスなので、業務中は鬼気迫る勢いで仕事を片付けていた。それでも、仕事量は増えており、残業を余儀なくされている。今でもこの状態ならば、十二月はどうなるのだろうかと不安になる。
そんな状況で高乃さんに声を掛けるのは気が引けるが、ここは勇気を振り絞って声を掛けなくてはいけない。イライラしているかもしれないが、きっと怒られることはない。私は自分にそう言い聞かせた。
「あ、あの、高乃さん……」
「ん? どうした?」
高乃さんの鋭い視線がパソコンの画面から私に移る。目が合った瞬間、心臓がドキドキして思わず下を向いてしまった。やっぱり、高乃さんは目から何かの光線を出しているようだ。
これまで何度も高乃さんの家に泊っているし、恋人同士がする行為もしている。だけど、慣れるどころか以前より高乃さんにドキドキすることが増えていた。
「何か分からないところがあった?」
「いえ、そうじゃなくて……」
「ああ、もう終わったの? また処理が早くなったね。それじゃあ、次はこれと……これをよろしく」
高乃さんはそう言うと、積み上げられた書類の中から二つの束を抜き取って私に渡した。
「処理はいつもと同じだから」
「はい」
書類を受け取りながら首を捻る。どうして前の作業が終わったことに気付いたのだろう。不思議に思いつつ、新しいタスクを付箋に書いた。
「久遠さんががんばってくれるから本当に助かるわー」
高乃さんは肩と首を回しながら言った。確かに少しは早く作業できるようになったけれど、まだまだ高乃さんの足元にも及ばないと思う。だから、その言葉はちょっと贔屓目というか、サービスというか、そんなものだろう。それでも、高乃さんに褒められるのはうれしい。
ホクホクしながらパソコンに向かっていると「高乃」という男性の声がした。
作業をしながら横目で確認すると、板垣さんが高乃さんの背後に立って肩もみをはじめた。
「おー、凝ってるなあ」
「どーも」
私は、ちょっと……いや、かなりイラっとした。多分これはセクハラというやつだと思う。高乃さんも「もうちょっと強めで」なんて、もみ具合の要求などしていないで怒ればいいのにと思ってしまう。
私は、板垣さんのことがちょっと嫌いだ。これまで、人を嫌いだと思ったことはなかった。怖いと感じることはあっても、嫌いだと感じたことなんてない。板垣さんは、私にとってはじめての嫌いな人だ。
そんなことを考えながら、私は高乃さんと板垣さんのやり取りに聞き耳を立てる。
「んで、板垣くん。わざわざ肩もみをしに来てくれたの?」
「いやいや。高乃に伝令だよ」
「この時期の伝令って……まさか?」
ニヤニヤする板垣さんと、驚愕の表情を浮かべる高乃さんが見つめ合う。視野の端に映るその様子にキーボードを打つ指先が震える。
「よろしくな、高乃」
板垣さんはそう言うと、ポケットから白地に赤の縁取りがされたタスキを取り出して高乃さんの首に掛けた。タスキには『私が幹事です』と印刷されている。
「ちょっと待った。なんで私?」
「ご指名だよ」
「誰から?」
「サリー」
「げっ、どうして……」
「今年は高乃を吊し上げにするつもりなんじゃないか?」
「あー」
なんだかよく分からない会話だが、高乃さんが頭を抱えているからいい話ではないのだろう。
「あと、今年はフロアの部署合同だから」
「え、ちょっと待って、それマジで!」
「マジマジ。んじゃ、頼むぞ」
板垣さんはにこやかに言うと、軽い足取りで去って行った。
その日、高乃さんとのランチのときに、板垣さんとのやり取りについて尋ねた。
「忘年会だよ」
「忘年会?」
「そう。ウチの会社、新年会はやらないけど、忘年会だけはやるから。久遠さんも去年参加したでしょう?」
私は首を捻る。そんな集まりに参加した記憶はない。
「おかしいな。基本的に全員参加のはずなんだけど……」
「そういえば……これくらいの時期に、前の部署の先輩から『欠席にしておくから』って言われたことがあります。何のことかよく分からなかったんですけど、忘年会だったんですね。私、嫌われていたから、参加させてもらえなかったんですね……」
前の部署で嫌われていたことは分かっている。そして、嫌われていた理由も、今ならば少しは理解できる。それでも、嫌われていた事実を突きつけられると悲しい。
「んー、その人の真意は分からないけど、もしかしたら、気を使ってくれたのかもしれないよ?」
高乃さんは頬杖をついて、少し遠くを見るようにして言った。
「どういうことですか?」
「忘年会なんて、無礼講を理由に羽目を外し過ぎる輩が湧き出す集まりだからね」
「はあ……」
お酒を飲み過ぎて暴れる人が出るという意味だろうか。
「そうだなぁ。例えば、西島くんと城田くんみたいな奴らが群れになって久遠さんを取り囲んで大騒ぎ……みたいな」
その状況を想像して私は青ざめる。それは、恐怖以外のなにものでもない。忘年会に出席することで、そんな恐ろしいことになるなんて思っていなかった。
あの先輩が、私に気を使って欠席扱いにしたのか、それとも嫌いだったからかは分からない。だが、どちらにしてもそんな場に参加せずに済んだことに感謝しようと思った。
「分かりました。それじゃあ、忘年会の日は高乃さんのお家で帰りを待っていてもいいですか?」
私が言うと、高乃さんは「どうして?」と首を捻った。
「ウチに来るのはいいんだけど、久遠さんも参加するんだよ」
「え? でも、私が出ると恐ろしいことに……」
「いやいや、それは去年の話。今年は私がいるでしょう? 大丈夫だよ」
そう言って高乃さんはニッコリと笑う。その自信に満ちた言葉はうれしい。けれど、ドキドキしすぎて高乃さんの顔が見られない。やっぱり、高乃さんは目から何か光線を出している。
「ん? どうした?」
自覚のない高乃さんは私の顔を覗き込んだ。本当に、これ以上は心臓が持たなくなりそうだ。
「あ、あの、フロアの部署合同って、どういうことですか?」
私は自分の心臓を守るために、とりあえず思い付いたことを口にする。
「ああ、いつもなら部署ごとで忘年会をするの。なんで今年は合同かなぁ。面倒臭い」
「そんなに面倒なんですか?」
「まあね。人数が増えれば、会場が限られてくるし、あれこれ文句を言う人も増えるしね」
「あ、あと、吊し上げってなんですか?」
すると、高乃さんは急にだまって頭を抱えた。何か悪いことを言っただろうか。
「大丈夫。久遠さんのことはちゃんと守るから」
またドキドキすることを言われてしまったけれど、ため息まじりの高乃さんの言葉に、それが楽しいことではないというのは分かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます