人魚の骨

椿蓮子

第1話

――桜に憑かれたように狂って。




(序)


 冥暗は底なしに深かった。深更の穹窿(きゅうりゅう)には月も星もなく陰々として戦慄するほどに漆黒に満たされていた。眼が利かぬ夜にとろりと漂う幽かな花の香気。何処からともなく風が起こって木々の梢を揺らし、静寂を打ち破る。闇の底でざわめくのは満開の染井吉野。爛漫と咲き誇り、あらん限りの生命(いのち)を燃やしている桜は花自体が淡く発光しているかのように仄めいて凄惨な夜を和らげていた。桜は夜風に吹かれ、可憐な花を慄わせてさざめく。儚い香りは誰にも届かずに闇夜に溶けて消えてゆく。夥しく咲いた桜花の群れの中にゆらめく影。その黒い影は風にゆらゆらと不安定に揺れていた――履物が脱げた脚。その下に転がる木箱と下駄。


 桜の樹には絶命した肉体が吊り下がっていた。


 屍体は薄紅色に埋まるようにしてあった。恰も桜の樹そのものが棺のように。


 嫋々と春風が吹き渡る。闇の中を、夜の底を。咲き乱れた桜花と吊り下がった屍体を揺らして。


 夜は更に静まって深くなってゆく。その漆黒を濃くしてゆく。もう夜明けが望まれないくらいに……。


 春の暗夜は何処までも暗く、尚昏く――。




(壱)


 ……こんにちは。今日も好いお天気ですね。少し暑いくらい。……初めてお見掛けしますね。新しく入院してきた方ですか? え? ……ああ、そうですか。それは失礼しました。医師から近々、同室の方が増えると聞いていたので、てっきり。あなたはご友人のお見舞いにいらしたのですか。……三〇三号室の……Nさん? ああ、Nさん。Nさんは随分と元気になられて。退院も近いんじゃないかしら。Nさん、とても親切な方ですね。彼は他の患者さんからも慕われていますよ。はい、此処での生活は実にのんびりしたものです。食事や入浴の他にやることといったら何もないでしょう。医師の診察と定期的な運動の他には。まあ、当然ですよね。躰と精神……心を休ませるために入院しているんですからね。ええ、自由な時間は患者同士、食堂に集まって娯楽に興じたりしていますよ。トランプや将棋などをね。私はあまり興味がありませんから、大抵食堂に置いてある文庫本などを読んでいますが……誰が置いていったのか、今はカフカの『変身』を読んでいます。そう、ある日突然蟲になってしまった男の話です。読むのは何度目かしら。特段カフカが好きだというわけではないのですけれど。ただ……、この作品は突拍子もない話に思えますが、でも解る気がするのです。グレーゴル・ザムザが蟲になってしまったことが。まあ、それは良いとして……そう、私が食堂の隅で本を読んでいるでしょう。そうするとふらっとNさんがやって来て、さり気なく話しかけてくるのです。気分はどうだとか、その本はどんなふうで面白いのかとか。私がいつも独りで過ごしているものですから、彼なりに気遣ってくださっているようです。私だけでなくて、他の方にもそんなふうだからNさんは入院患者の間でも人望が篤いですよ。……ああ、なるほど。元々世話好きな方なのですね。こう云ってはなんですけれど、Nさんがここに来た理由が解る気がします。彼が退院してしまうと少し寂しいですね。他の患者さん達も寂しがるでしょう。……ええ、ここの病院は比較的――否、かなり良い病院だと思いますよ。医師も看護師さんたちも皆さん、親切にしてくださるから。食事も思っていたよりも美味しいですしね。こういう病院だと、ほら、ありますでしょう。U病院みたいな悪徳病院が。……そうそう、あのU市のU病院です。あれは悪徳を通り越していますね。酷い病院もあったものです。監獄よりまだ悪い。地獄そのものでしょう。患者に無理やり医療行為をさせたり、病院側の人間が患者に凄惨な暴力を振るって……何人も死人が出たという話じゃありませんか。怖いですね、本当に。……ええ、そうでしょうね。今時ここまでの酷い病院は恐らくないでしょうが……でも解りませんよ。現にここだって……あまり大きな声では云えませんけれどね、……そう……、医師の云うことを聞かなかったり、規則に従わない者は罰として身を拘束されて保護室に入れられてしまうのです。え? 保護室ですか? 隔離室とも云って、患者自身や周囲に危険が及ぶ可能性が高い場合などに一時的に患者を保護しておく個室の部屋です。私も昔、拘束衣を無理やり着せられて保護室へ入れられたことがあります。医師も看護師も私の話を信じてくれなくて……あなたは病気だからの一点張りで。私、そんなに病人に見えますか? 私は至って普通だし、頭もずっと真面ですよ。でも、皆取り合ってくれないのです。……私ですか? ええ、長くここにいます。私が一番古い患者です。私はこの病院ができた時からの患者で、その前は別の病院にいたのです。もう本当に長く……気が遠くなるほど。――私、本当は病気でも何でもないのです。ありのままに話をしたら病気だと云われて、その度に否定したら精神病院に入れられてしまったのです。本当です。私はどこも病んではいないのです。……桜が……桜があすこに咲いていますね。染井吉野が。あの桜の樹の下に屍体が埋まっているとしたら、どうします? いえいえ、創作ではありません。本当の話です。本当です。俄かに信じられない? ええ、そうでしょうね。医者も同じことを云いました。病気の症状にされてしまいました。私は真実しか語っていないのに。虚言でも妄言でもございません。本当に私が体験したことなのです。それを今からお話いたしましょう――。

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