第23話 踊るあほうに見るあほう
龍門渕市中央の空には、相変わらず存在感のある巨大な鬼の頭が突き出ていた。
今来た道を引き返し、地響きを起こしながら進む剛鬼の進行方向を避けて脇道に入る。
アドレナリンが切れたのか、猛鬼にやられた額がビリビリと痛み出していた。息はだいぶ上がっていたが、時々歯を食いしばって痛みに耐えながら走り続ける。
「ねえ、ちょっと、なるなるってば!」
少し後ろを走る夏希がひときわ大きな声を上げる。
さっきから呼びかけられていることには気付いていた。安全な場所なんてないが、それでも視界を確保でき、まだ鬼が出ていない路上まで来てから足を止める。
「……なんだよ」
「私、やっぱりひーちゃんのところに戻る!」
振り返った瞬間、俺の額に目をやった夏希の顔が痛々しげにゆがむ。
猛鬼の爪にやられた額からは、まだ出血が止まらない。
「戻ってどうするんだよ。俺たちが戻ったところで、頼さんの足を引っ張るだけだろ?」
「そんなのやってみなくちゃ分かんないじゃん!」
「分かるだろ。頼さんが俺たちのことを逃がしたのがなによりの証拠じゃないか」
「ひーちゃんが私たちのことを守ろうとしてくれるのは嬉しいけどっ! 私はひーちゃんを助けたいのっ!」
この緊急事態の中、聞き分けのない夏希に、俺も若干イラッとする。
「ひーちゃんのこと大好きなんだろ? なら黙って言うこと聞いとけよ」
「ひーちゃんのことは好きだよ? でも私がどうするかは、ひーちゃんが決めることじゃないでしょ?」
なんだろうか。
無性にイライラする。
俺と同じ、学生のくせに。後先のことなんて考えてない、子供のくせに。
「頼さんは『らいこう』の上司で、逃げるのは上司命令だろ。お前、自分が死ぬかもとか、かえって迷惑かけるかもとか考えないの?」
剛鬼の動向を気にするそぶりで目をそらしながら、暗に夏希を責める言葉を吐く。
「それは分かる……けどさ。そんなこと言ってたらなんにも変えられないじゃん! いつまでも子供扱いされたままじゃん!」
俺の辛辣な物言いに、夏希もだんだんとヒートアップしてくる。
……ああ、そうか。分かった。
この感情は、嫉妬だ。
俺はあの時、みのりを助けることを諦めてしまったから。
「夏希……お前、怖くないのかよ」
周囲の大人の決定や大局からそれて、自分に責任が降りかかることが。
「怖いに決まってるじゃん! でも私は、ひーちゃんをほったらかしていくことの方がもっとイヤなのっ!」
夏希の答えは、俺が問いたかった恐怖への答えではなかったかもしれない。
だから、もしかしたら夏希の答えは、ただの無責任、なのかもしれない。
だが少なくとも、夏希は自分を取り巻く環境がどうであろうが誰になんと言われようが、自分がどうしたいかを見失ってはいない。
自分よりも強くて、近いようで遠くて、はるかに重い責任を負っている目の前のたった一人と、並走することを諦めていない。
俺が押し黙る時間に比例して、夏希に帯びていた熱も冷めていったようだった。少しずつ空気が抜けてしおれていく風船みたいに、夏希の眉とこうべが垂れていく。
「……なんか、ごめん」
夏希はうなだれたまま、さっきまでの剣幕からは考えらえないような声音でつぶやいた。トレードマークのツインテールまで、しょぼくれたうさぎの耳のように見えてくる。
「心配、してくれてるんだよね。そりゃそうだよね、なるなるはケガまでしてるんだし……でもごめん。ひーちゃんのところへは私一人で行くからさ。ここはひとつ、私のワガママってことで見逃してくんないかな?」
好意的な解釈をわざわざ否定することはできなかったし、夏希の真摯な願いにノーを突きつけることもできなかった。
顔を上げた夏希の目は、すでに決意を固めている。
「……なあ」
「なに?」
漠然と口にしようとしたそれは、もしかしたら常々、俺の中にあった疑問だったのかもしれない。
面倒なことは知らないところで誰かがやってくれて。ネットで調べれば答えが出てきて。黙っていれば生きていけるこの現代で。
「うまくいくかも分からない。失敗しない保証がないことをやるなんて、リスクが高すぎると思わないのか?」
夏希はきょとんと目を丸くした。
それから少し困ったようにまた眉尻を下げ、歯を見せて笑う。
「分かんない! うまくいくかどうかなんて、先のことはあんまり考えてないかな!」
あっけらかんとした答えに、思わずうめく。
あまり頭が良いとは思えないその答えを最後に、夏希は身をひるがえした。ツインテールをなびかせて、今戻ってきた道をまた引き返していく。
……なんだよ、やっぱりただの無責任じゃないか。
一人になった路上で、夏希を見送りながらため息をつく。
でも。それでも、だ。
遠すぎる理想だけを見て、賢く諦めるか。
ただ目の前だけを見て、馬鹿になって突き進むか。
今はそのバランスがうまく取れなくても、どちらがいいかを自分で選ぶことはできるのだろう。
「成海さん!」
すっかり聞きなれた声に顔を上げると、小さくて白い毛玉が、近くのビルの窓枠や軒を辿って駆け下ってきた。
その場で立ち尽くす俺のそばに、先行していた兎呂が走り寄ってくる。
「無事、というわけではなさそうですが、命があってなによりです。とりあえずここを離れましょう。事情は逃げながら説明しますので……」
と、そこまで一気にまくし立ててから、兎呂ははたと気付き、きょろきょろとあたりを見回した。
「……夏希さんは? 一緒じゃないんですか?」
「夏希は頼さんを手伝いに行った」
「はい?」
「俺と夏希がヤバイ鬼と戦ってるところを頼さんが逃がしてくれたんだけどさ、やっぱりひーちゃんを助けに戻る! ってさ」
俺たちを逃がすための算段が、いきなり崩れるとは思っていなかったのだろう。
兎呂はあごが外れたのかと思うほど、ぽかんと口を開けていた。
お前はマンガか。目ん玉も飛び出してるし。
「とりあえず……みのりが暴走状態になったせいで、鬼がめちゃくちゃ出てきてるんだ、ってとこまでは頼さんから聞いたよ」
「ま、まぁそうです、ね……ご理解いただけると思いますが、とても学生を巻き込んでいい状況では」
「で、みのりは今どこにいんの?」
兎呂は狭いひたいに手を当てて、息子が非行に走った教育ママばりにクラッ……とよろけた。
が、すぐに立ち直って口角に泡を飛ばす。
「本っっっ当にあなたたちは! 少しはうさぎの苦労も考えてください! 鬼人化してしまったお針子がどれだけ危険か、分かってるんですかっ?」
「お前が言ったんだろ、今の自分になにができるかだ、って」
なにができるか……いや、もっと言えば、なにをするか、だな。
「頼さんみたいに大勢の人を守るとか、大人が子供を守るとかさ。俺は正直、そんなスケールの大きい話はピンとこないよ。でもさ」
次の言葉を口にするのが気恥ずかしくて、一呼吸置く。
「北条みのりっていう一人の女の子のためなら、頑張れそうな気がする」
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