第23話 サタハの理由
(――まったく馬鹿げたことになった)
サタハは自分の部屋の椅子にじっと座る少女を見ながら、そう息をこぼした。
少女は
(危なげな変装をしやがって)
内心に毒づく。少女はサタハと比べても濃い褐色の肌をしていた。だが、少しはだけたコルナの裾口から覗き見える
「で、お姫様。本当にやるのかい?」
簾のかけられた窓のむこうをまっすぐに見つめていた少女――ファラは、サタハの問い掛けに無言で顔を動かすと、少しの躊躇いもない表情でうなずいた。
(本当にやるのかい? か――)
ファラの決意のまなざしは鏡のようにサタハを見つめ、それが自問であると気付かされる。サタハは苦笑し、自分がどうして彼女をこの部屋に招き入れたのか思い返した。
それは三日前、ムルカ語の授業のためにファラの部屋を訪れたときのことだった。
「ひとつ頼みがあります」
サタハに挨拶を済ますなり、ファラはいつになく畏まった様子で頭を下げてそう言った。
「頼み?」
嫌な予感に顔をしかめたサタハは、そこでいつもはファラの後ろに控えているルントゥが自分の後ろに回り込み、部屋の出入口を塞いだことに気づいた。
子供が何の企みをと内心に思いながら、ファラの表情を窺う。その黒い瞳は何かしらの覚悟を秘めてまっすぐにサタハを見据え、かつての諦めを浮かべた物憂げな少女の目つきとは別人のようだった。
サタハに思い当たる彼女の覚悟の理由はひとつだけである。
「……ムガマ・オ・トウリのことか?」
一切の動揺もなく静かにうなずくファラに、サタハは小さくため息をついて訊ねる。
「何をするつもりだ?」
「彼をここから連れて逃げ出します」
即座に返される澱みない答え。
「死ぬつもりか?」
当然の感想だった。この地をルアオ・イ・オムがもたらす災害から守護するための生贄であるムガマ・オ・トウリを連れ出して逃げるなど、誰が許すというのだろうか。その罪が命をもって償われる結果になることは、たとえファラが年端もいかぬ少女であっても容易に想像できるはずである。
けれどファラはサタハの問いに、ゆっくりと首を横に振った。
「生きるためです」
他に道がないことを確信するように、その目は揺らぎなくサタハを見た。思い詰めたような目ではない。わずかなさざ波もない水面に浮かぶ満月のように澄んだその目は、その選択を運命として受け入れた静かな決意を湛えていた。
彼女の視線に気圧されて首を引いたサタハは、動揺を誤魔化すように舌打ちをする。
「――それで俺にその悪巧みの協力をして欲しいとでも言うのか?」
「砂漠を越えて北に行きたいのです。あなたに道案内をして欲しい」
そこでファラはムガマ・オ・トウリを連れ出す計画について話した。その内容はルントゥがファラと入れ替わって、ファラがいなくなったことに気づかれないよう時間を稼ぎ、
「話にならん」
聞き終えたサタハは顔をしかめ、内心に呆れた。ひとつひとつの手段や方法が、あまりにも漠然とした計画であったからだ。入れ替わってどう時間を稼ぐ? ムガマ・オ・トウリをどうやって呼び出す? そこからどう宮殿を抜け出し、砂漠を越えるというのか? 子供の考えた幼稚な計画だった。そしてサタハはそれ以前の疑問を感じていた。
「そもそも俺のどこを信用してこの話をしているんだ? 俺がこのまま誰かに告げ口をすればそこで全部終わりだぞ?」
しかし、そう問われたファラの瞳は変わらぬ色でサタハを見つめ、逆に問い返した。
「それでは、何故あんな話を私にしたの?」
サタハの表情が固まる。あんな話。そう問われてすぐに脳裏に浮かんだのは、
「その理由に私は賭ける」
理由。ファラの瞳は微塵も揺れることなく、それを覗くように自分を見つめ続ける。美しい瞳だった。わずかばかりの澱みもなく澄みきった水のように純粋な意志を持った瞳。だが、その瞳は純粋過ぎた。きれい過ぎる水は棲む魚を殺すという。サタハの直感はこれが狂気だと告げていた。ひたむきに捻じれた狂気は時に歪みを見失い、まっすぐな想いへと姿を変えて美しく人を魅了する。けれどそれは、清純な水のように呑み込んだすべてを絶やす、破滅の美しさであった。
サタハはそれを知り、知りながらにして羨んだ。この瞳こそ、かつての自分に足りなかったもので、それが故に残る後悔こそがファラの賭けた理由であったからだ。
「とんだ博打があったもんだな」
そう苦笑しながらも己の心が水に浸かっていく感覚があった。ひやりとした情熱が手足に絡み、引きずり込まれていく感覚。その先に見えるのは狂気に澄んだ少女の黒い瞳。サタハはその瞳を確かめるように訊ねる。
「……ムガマ・オ・トウリを本当に呼び出せるのか?」
「問題ないわ」
ファラは即答する。サタハは重ねて訊く。
「もうひとつだ。その計画では上手くいってもこいつは死ぬぞ」
親指で後ろに立つルントゥを差す。ファラ達が宮殿から逃げ出す時間を稼ぐということは、ここに残るということである。それは当然、彼女の死を意味した。
「それも問題ない」
けれど少女の瞳は怖気るほどに美しく澄んだまま、一瞬の動揺もなく、一瞥の視線もなく、前の質問と変わらずに即答した。
振り返ってルントゥを見る。そこには少女の覚悟の顔があり、それは破滅の美しさに魅入られた者の表情だった。サタハは笑った。
「……いいだろう。お姫様、あんたの勝ちだ」
それは自嘲だった。この迷いなき狂気の果てに何があるのか。この狂気を持てなかった自分の後悔が、少女の叶わぬ恋にあのような話をした自分の後悔が、この結末に何を求めているのか。そして――、
(そもそも俺は、どうしてこの土地へ戻ってこようとなど思ったのか――)
ファラの頼みを聞き入れて三日。サタハは計画の粗を正して準備を進め、そして決行の日を今夜に定めた。
「ルントゥの手筈通りになれば、今夜、
「必ず来るわ」
にべもなく断言するファラに、サタハは肩をすくめて苦笑し、そしてそこに自嘲を交える。
(逃げた後悔の後先にこんな運命が待っていようとは――)
サタハの脳裏に過去に打ち捨てた少女の面影が浮かび、その姿が今、自分の部屋に佇む少女の顔に重なる。
(だから人生はおもしろい、か……)
ファラは再び窓の外へと視線を向ける。簾外の明かりが徐々に薄暮の色に染まり、陰影が深く時を刻んでいく。
(おまえならそう言うか? なあ、ティッカ――)
この視線の先にこの少女は何を見るのか。自分は何を見たいのか。とぷりと冷えた水に浸かるように宵口の静けさが増していくほど、その熱が胸の内に形をもって浮かび上がってくる。
夜が来る。
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