第9話 あなたの痛みにいつか癒しの訪れることを

 ムガマ・オ・トウリは、斎殿ウィルカ・ファシでの沐浴後のひとときを翠緑苑コメ・ムヤの静けさの中で過ごす。

 最近、その時間に二人の少女が加わった。

 ファラとルントゥである。

 あの日、トウリと出会ったファラは、その後すぐに現れた侍女に呼ばれて立ち去ろうとする彼に、片言のムルカ語ですがるように、「また、会いたいヤパ・トゥパムナイ」と言った。

 トウリは微笑み、うなずいた。

 そしてこの時間がある。


 ――露が纏う

 あなたの髪に

 まばゆくふるえる

 草の葉といった恰好で――


 翠緑苑コメ・ムヤの東屋の椅子に座るトウリにむかい、ファラは二弦琴リュリュトを弾きながら、繊絹ほそぎぬのようにつややかな声で歌っていた。

 トウリは目を閉じ、つま弾かれる二弦琴リュリュトの調べと歌に耳を傾けている。東屋の出入口にはルントゥと、トウリに仕えるチェスカという女性が控え、同じくファラの歌に聴き入っている。


 ――恐る恐るに

 手を伸ばすのは

 触れては消えると

 知っているから――


 ファラが歌い、トウリが聴く。それがこの時間であった。翠緑苑コメ・ムヤの緑と水の静謐に、歌の調べが流れていく。それはかけがえのない時間であった。ファラは北の言葉で歌われる唄の意を、彼がわからないと知るからこそ、そこに密やかな想いを込める。彼女は彼の前でだけ、自分の小さな望みを歌にする。


 ――なのにこの手が止まらずに

 そのきらめきに触れるのは

 消えずに残ると

 知りたいから――


 二弦琴リュリュトの音色が、長い名残を引いて消えていく。絶えた残響を惜しむような沈黙。そこに風が吹き、トウリが立ち上がってファラの前へと歩いた。

 自分の前に立ったトウリに戸惑い、ファラは胸を押さえて恐る恐るに彼を見上げた。赤い刺青の顔が自分を見つめる。

 そしてその手が伸び、彼女の髪に触れた。


私はノカ・消えませんよナ・チンクゥ


 微笑むトウリの手の感触が、髪の上を優しく撫でる。知らない言葉だった。けれどそれでファラは自分の歌が届いたことを知り、そして髪を撫でるその手に為すすべを知らず、ただただ身を委ねるのであった。


あなたはカン・痛みの中にいますねナナフ・カイ


 トウリの声はいつでも春の雨のように、しとりと胸に沁みていく。凍らせた痛みが疼いて苦しい。それでもファラは、その疼きを求めて彼の瞳を覗き込む。

 どこまでも深く透明な湖のような、静穏の色を――。


痛みは水とともにナナフ・ウヌ・クスカ流れると伝わります・スリュ・ウリャイ


 その声は翠緑苑コメ・ムヤを流れる水路のせせらぎと混じりながら、穏やかにファラの心に浸透する。


あなたの痛みも涙とカン・ナナイ・ウェケともに流れ・クスカ・スリュやがてウテク・雨とともにルアオ・クスカ遥かへと・カル流れていくでしょう・スリュリュ


 トウリはそう告げると目を瞑り、すっと息を吸って澄んだ声で歌い出した。


  ――雨は悲しみとルアオ・リャキ・ともに流れクスカ・スリュ

  痛みは水とナナフ・ウヌ・ともに去ろうクスカ・パサイ

  涙よウェケ絶えぬ悲痛のトゥクラ・カリャイ川となり・マユチュ

  海よクォチャ青き泉下のアンカ・ワヌス水底へ・ウヌシ――


 それは太陽の地インティ・パチャに古くから伝わる歌だった。あらゆる痛みも悲しみも、雨が川となって海へと流れる自然の働きのように、すべては水が運んでいく――。これがこの地に暮らす人々の、悲しみという感情に対する考え方であった。

 トウリはファラへの返歌のように、この歌を優しく歌う。


  ――悲痛の海よカリャイ・クォチャ

  忘れ去られしクォンサイ・涙を湛えウェケ・フンティ

  冥茫にたゆたいラチャ・チャパチュイ

  眠る海よプヌイ・クォチャ

  あなたの悲しみにカン・リャキ

  慈しみのトゥリ・恵みを与えムガマ・オ・トウリ

  あなたの痛みにカン・ナナ

  いつか癒しのウテク・ジャンピ訪れることを・ワツクゥヤ――


 歌い終えたトウリが目を開ける。ファラは自然と頬を流れる涙にも気付かずに、吸い込まれるようにその瞳を見つめる。溶けゆく氷が軋んだ音をたてるように、胸に凍る痛みが疼きとともに緩んでいく。もしも許しがこの世にあるのなら、ファラはそれを目の当たりにしていると感じた。湧き上がるその感情に戸惑う彼女は言葉を失い、ただ茫然とトウリの前に立ち尽くす。

 そんなファラにトウリは微笑み、


あなたの痛みにカン・ナナいつか癒しのウテク・ジャンピ訪れることを・ワツクゥヤ――」


 もう一度、歌の終わりをそう告げて、ファラの頭を胸に抱いた。

 耳に届いた彼の胸の鼓動は静かであたたかく、やすらぎとともにファラの心を包んだ。

 ファラは目を閉じ、このやすらぎがいつまでもいつまでもあることを、願わずにいられなかった。

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