誤解は解けたんですが

「はあ…………」


 何度目か分からない溜息を部屋に放つ。もう、部屋の空気が全部俺の溜息に置き換わってしまったんじゃないかとすら思ったが、質の変化は感じられなかった。当り前だ、溜息も空気なんだから。


「…………何話してんのかな」


 今頃、どこかで静と真冬ちゃんがひよりんと話しているはずだ。静の部屋は論外として、ひよりんの部屋もしばしばお酒で溢れかえっているから、真冬ちゃんの部屋だろうか。


 真冬ちゃんの部屋はイメージ通りというか、とてもシンプルで、悪く言えば閑散としている。よく言えば機能美を追求した結果とも言えるその部屋で、ひよりんが口を開く。


「…………実は、お別れの挨拶をしにきたの」


 普段のおっとりした表情は鳴りを潜め、強張った顔つきのひよりんに、真冬ちゃんと静が泣きながら抱き着く。そんなイメージが容易に想像出来た。それは頭を振っても消えてはくれず、情けない事に少し目が潤んだ。


「消えてしまいたい…………」


 3人分の食器を洗いながら、そんな言葉ばかり口から出てくる。流しに吸い込まれていく泡と違い、消えていくことすら叶わない。俺が人魚姫だったら消えれたのかな。柄にもなくそんなことすら頭をよぎった。


 洗い物はいつもより早く終わった。1人分、いつもより少ないからだ。あらゆることが今の俺には辛かった。目に映るどこかに、常にひよりんを連想させる何かがあった。


「寝よう…………」


 起きている事すら辛かった。現実は変わらないけど、それならもう寝てしまいたかった。そう思い寝室に足を向けたその時────


「…………ん?」


 ────玄関の方から物音がした。静か真冬ちゃんが忘れものでもしたのかな、そう思ってリビングに通じるドアに目を向ける。けれど、現れたのはそのどちらでもなかった。


「ひよりん…………さん…………?」

「こ、こんばんは…………」


 今朝のままの、清楚なワンピース姿のひよりんが、ドアノブに手を掛け遠慮がちに立っていた。





「どうして…………?」


 決して現れることのない人物の登場に俺の思考はショートした。


 ひよりんは俺の事を軽蔑していて、だからうちに来るはずがないんだ。まだ静か真冬ちゃんが変装している方が可能性としてあり得るくらいだが、あのふたりがひよりんに変装する事は不可能だ。真冬ちゃんはひよりんより背が高いし、静はちんちくりんだから。


 それになにより────俺がひよりんの声を聴き間違えるわけがない。今目の前の女性が発した声は間違いなくひよりんのものだった。


 だからつまり、今目の前で起きている現象は、何故かは分からないがひよりんが家に来たのだと、そういうことになる。


「あはは…………えっと…………今日はごめんね…………? あの、私…………蒼馬くんのこと、嫌いじゃないよ…………?」

「え…………?」


 嫌いじゃ…………ない…………?


 …………どうして?

 俺は、決して言ってはならない事を言ったのに。


「さっき二人から、蒼馬くんが私に嫌われたって悲しんでるって聞いたの。だから…………誤解を解きたくて。私、蒼馬くんの事…………す…………えっと、嫌いじゃないよ…………?」

「…………まじ…………っすか」

「…………うん」


 嬉しかった。ひよりんに嫌われていないという事実は、なにより嬉しかった。けれど気になることがあった。


 それならどうして、ひよりんは俺の方を見てくれないんだろう。どうして、リビングに入ってこないんだろう。ドアノブを握りしめて、そっぽを向きながら立ち尽くしているんだろう。


「ひよりんさん────」

「え、えっとね! け、今朝の事なんだけど…………!」

「あ、は、はい…………」


 ひよりんは声を裏返しながら叫ぶ。

 今朝の事…………やっぱり嫌いじゃないというのは嘘だったんだ。そうだよな、到底許されるようなことじゃない。きっと、お別れの言葉を言いに来てくれたんだろう。それでも、あのままお別れになるよりは何倍も良かった。


 …………ありがとうございます、優しいひよりん。たとえ嫌われても、俺は一生あなたのファンで居続けると思います。


「えっと、あの…………今すぐ、は。ちょっと無理というか…………ほらあのっ、私最近食べ過ぎて太っちゃったし! 心の準備の方も全然出来てないといいますか…………そういうのはもうちょっと段階を踏んでからがいいと思ったりもしますし…………ごめんね、私年上なのに…………」

「…………ん?」


 さようなら────そんな言葉を告げられると思っていたのだが、ひよりんはもごもごと口を尖らせるばかりで要領を得なかった。


 太った?

 心の準備?


 …………一体何のことだ?


「ひよりんさん、一体何を…………」

「あのっ、だから…………そ、添い寝の事はもうちょっと待って欲しいの! 私頑張ってダイエットするからっ、それまで待ってくれると嬉しいなって…………!」

「添い寝!? ちょっ、ひよりんさん一体何言ってるんですか!?」


 ひよりんが訳の分からない事を言い出し俺は口から唾を飛ばす勢いで焦った。

 なんだ、まさかこの人…………今朝の事を真に受けてたのか!?


「ふえっ…………? 今朝、私に添い寝して欲しいって言ってなかった…………?」

「全然言ってないですよ! いや言ってたかもしれないですけど、あれは本当に冗談というか、全然思ってもないことが口から出ただけなんです! ほんとーーーに、まったく、そんな事思ってないですから!」

「へ…………? あ…………そ、そうだったんだあ…………! ご、ごめんなさい私、なんだか勘違いしちゃってたみたいで…………!」


 ひよりんは顔を林檎みたいに赤く染めた。多分俺も人の事を言えない感じになっている。


「え、じゃあ今日晩御飯いらないって言ってたのは、本当に軽蔑された訳じゃなくて…………」

「うん…………顔を合わせるのが恥ずかしくて…………どうしていいか分からなくなっちゃって」

「はあーーー…………そういう事だったのか…………良かった…………」


 つまりひよりんは俺の事が嫌いになった訳じゃなくて、添い寝しろと本気で言われたと思い込んで、恥ずかしかっただけってことか。


「…………ごめんなさい、何かほっとして言葉が出ないです…………そういえばひよりんさん、夜ご飯は食べたんですか?」


 メンタルがぐちゃぐちゃになっていて、何か手を動かせることがあった方が個人的に楽だった。


「ううん…………何も考えてなかったから…………」

「それじゃあ…………お蕎麦食べます?」

「えっと…………うん。食べたい…………」

「了解っす。すぐ出来るんで座って待っててくださいね」


 キッチンに歩き出すと、すぐ後ろでひよりんがテーブルに着く音が聞こえた。なんだか涙が出そうだった。失ったと思っていた日常が戻ってきたんだ。


 冷蔵庫を開け、蕎麦と天ぷらを取り出す。天ぷらは揚げなおした方が美味しいけど…………流石に今からは無理だなあ。


 …………あ、そもそもだ。


「ひよりんさん、ダイエットしてるんでしたっけ? 天ぷら、無い方がいいですか?」


 ……………………


 …………


 …………結局、ひよりんは天ぷらを全部平らげた。

 ダイエットはいいのかな、とも思ったが、幸せそうなひよりんを見たらそんな事はどうでも良くなった。



 ────この時、俺は大事な事に気付いていなかったんだ。


 ひよりんは俺の言葉を本気にして、恥ずかしがっていただけだったけど。


 …………普通、気のない相手に「添い寝しろ」と言われたら、嫌いになるんじゃないかって。


 それで恥ずかしがるだけっていうのは、なんじゃないかって。


 それを思い知らされるのは、大分後の事になる。

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