第81話 熊に勝てる人は本当に尊敬してしまう
「お兄さんそれは⋯⋯」
俺がズボンの中から取り出した物、それは人類の科学の結晶スマートフォンだ。
「えっ? 熊さんと写真を取ってくれるの?」
「ち、違う!」
何だか逆に熊に恐怖を覚えていない紬ちゃんが頼もしく見えるな。この笑顔だけは絶対に護らないと。
確か熊がこちらを威嚇してもう逃げられないと判断した時は、自分を大きくみせたり、大きな音をたてるといいとネットに書いてあった。
俺はスマートフォンをインターネットに繋げて熊が嫌がる音をダウンロードしようと操作する。
「早く早く、早く繋がれ」
だがスマートフォンの画面には砂時計が出るだけで中々インターネットに繋がらない。
この時の俺は1秒が10秒にも20秒にも感じた。だがいくら時間が経っても砂時計の画面から変わることはなく、おかしいと思いスマートフォンの右上の画面に目を向ける。
「電波がない⋯⋯だと⋯⋯」
ここが山の中だからアンテナがないのか! 遭難のリスクも考えて山の中にこそアンテナを建ててくれよぉ。
今までスマートフォンの便利さには感謝しかなかったが、俺は生まれて初めて携帯会社に怨み言を言った。
こうなったら熊に関して覚えている知識で戦うしかない。
熊が近距離にいる場合は静かに走らない。走ると時速50㎞のスピードで追いかけてくるからだ。
熊撃退スプレーがあれば1番良いがもちろんそんなものはない。死んだふりをする? いや、死んだふりはエサと間違えられることもあるらしいからそんな危険な賭けはできない。
落ち着き、熊を見つめながら距離を取るのが有効らしいが、威嚇してくる熊に聞くかどうか。
そしてやはり子熊の匂いが紬ちゃんにはついているのでこのまま俺達を逃がしてくれるとは思えない。
考えがまとまらない間に、親熊はのそのそと一歩ずつ確実にこちらへと迫っている。その距離は10メートル。
淡い望みではあるが、こちらに友好的な態度ならと思い、親熊に視線を向けるが、よく見ると右目に傷痕があって隻眼になっており、種族は違うが人間を恨んでいる様子が俺にもわかった。
「グォォッ!」
親熊は俺と紬ちゃんを憎しみの目で真っ直ぐに見すえ、握手のために右腕を出そうものなら、鋭い爪で引き裂かれることが容易に想像できた。
もう死へのカウントダウンが近づいているため、どうするか決断しないと行けない。
紬ちゃんを護りたい、俺も助かりたい、怪我を負うことなくこの場を乗り切りたい。
だけど全てを叶えられるほど俺は有能ではないことはわかっている。それなら何を護るか優先順位をつけなければならない。
俺は決意を固め、熊から視線を外さず紬ちゃんに語りかける。
「紬ちゃん。これから俺の言うとおりにしてほしい」
「何? 私は何をすればいいの?」
「ここから真っ直ぐ下に降りると道がある。そうしたら道沿いに左に進むと別荘があるから先に行っててくれないか」
「熊さんは? 私、ちっちゃい熊さんともう少し遊びたいな」
「熊さんはちょっと今機嫌が悪くてね。俺も熊さんを落ち着かせたら後から別荘に行くから」
「そうなの? わかった。私は良い子だからお兄さんの言うことを聞くよ」
「後、別荘に戻る時は走っちゃダメだ。それと何か聞こえても後ろは絶対に振り向かないでくれ。熊さんがびっくりしちゃうかもしれないからね」
「うん」
「良い子だ。それじゃあ紬ちゃんは先に別荘に戻っててくれ」
そして紬ちゃんは俺の指示に従い、緩やかな坂を降りてこの場から立ち去っていく。
だが親熊は、子熊の匂いがついているからかもしくは動く物が気になったのか身体の向きを紬ちゃんの方へと向けたので俺は自分に注意を引くため、地面に落ちていた木の枝を手に取り、素振りをする。
すると木の枝の風圧でヒュッと音が鳴ると親熊は紬ちゃんよりこちらに警戒心を抱き、歩くことを止めて再度唸りを上げてくる。
よし⋯⋯これで後は時間を稼ぐだけだ。
大人の脚で別荘まで10分、子供の脚なら15分程で着くだろう。
今、1番大切なことは紬ちゃんを護ることだ。何とかみんなの元へとたどり着けるといいが。
正直な話、紬ちゃんを犠牲にしている間に逃げれば俺の命は助かるかもしれない。だけどもしそんなことをしたら俺は一生自分を許せないし、そんなカッコ悪い人生を送りたくない。
だけどこのままここで死ぬなんてまっぴらごめんだ。
もし俺が死んだら紬ちゃんは責任を感じて心の傷を負ってしまうし、何より俺にはまだやりたいことがたくさんある。
武器は木の枝というゲームで最弱っぽい装備しかないが、必ず生き残ってみせよう。
こうして俺は目の前にいる親熊との命をかけた戦いが始まるのであった。
親熊は唸って威嚇しているが、俺の枝を警戒しているのか3~4メートルの所からこちらに近寄って来ない。
こっちとしては時間を稼ぎたいから願ったり叶ったりな展開だが、いつ襲いかかってくるのかわからないため神経が磨り減りそうだ。それにこちらの武器は木の枝、攻撃しても大したダメージを当てられないのは明白だ。もし攻撃をするとしたら左目を狙う。聴覚と嗅覚が優れている熊だが、右目は過去の傷なのかつぶれているので、左目も潰せば逃げれる可能性が出てくる。
だが俺のそんな甘い考えを察したのか、熊が四足歩行でこちらに突進してきた。
もし熊に乗られたら、容赦なくかみつき攻撃や爪を食らい、一瞬で死が訪れてしまう。
「だが、当たらなければどうということはない」
俺は熊の突進を闘牛士になった気分でヒラリと左にかわす。
意外となんとかなったな。
しかし俺に攻撃ををかわされたことに腹が立ったのか、熊が唸り声を上げながら再びこちらへと突進してくる。だが熊とは3、4メートルの距離を取っているため、先程のようにヒラリとかわすことができた。
「あぶねえ。緊張感が半端ないな」
たった一撃食らっただけで敗けが決定するなんてとんだクソゲーだが、現実問題として身体能力のステータスに大幅な開きがあるので、自然の摂理としては仕方のないことなのだろう。
それにしても親熊のヨダレがすごい。こちらに突進してくる度にコップ一杯程のヨダレを垂らし、俺を食べる気満々なのか恐怖でしかない。
とにかく後数分はこのままの状態を保ち紬ちゃんの逃げる時間を稼ぐぞ。
そして俺は言葉通り熊の突進をかわし、何とか5分間熊をこの場に留めることに成功する。
だがその代償として親熊のイライラがMAXになったのか、今度は俺から1メートルくらいの所で立ち上がり、こちらに倒れるように右手の爪が飛んできた。
熊の力がどれくらいか知らないが、少なくともこんな枝で受け止めたら簡単に折られてしまう。
俺は親熊の爪に対して瞬時に後方へバックステップをして攻撃をかわす。
「か、間一髪だな」
しかし目測を誤ったのか、親熊の爪が予想外に長かったのか胸の所を切られ、Tシャツが引き裂かれた。
「爪は気をつけないとな」
だが何度も熊の突進を見て慣れてきたこともあり、木の枝で左目を突き刺すことは可能な気がしてきた。
紬ちゃんがこの場を離れてそこそこ時間は経っている。それならそろそろ攻撃に転じてもいいかもしれない。
それに今は熊の攻撃をかわすことが出来てもいつ不測の事態が起きて致命傷を受けるかわからないからな。
俺は木の枝を両手に持ち、剣道の中段の位置で構える。
「グァゥォッ! グォッ!」
親熊は獲物を仕留められないことにフラストレーションが溜まっているのか唸り、目が血走っている。
動物も人と同じで頭に血が上っている時ほど隙だらけなはずだ。
親熊がもう何度目かわからない突進を俺の方に向けてきたため、俺は1メートルの距離の所で親熊の左目を目掛けて、剣道の突きをお見舞いしてやる。
「食らいやがれ!」
そして突きは見事に親熊に当たる⋯⋯が、親熊が木の枝が当たる瞬間に首を捻ったため、左目ではなく右目に当たり、致命傷を当てることは出来なかった。
「グオォォッー! ガオァゥッ!」
そして親熊は木の枝の突きを食らったことで怒り狂い、声を上げ、見境なしに爪を振り回してきた。
俺は熊の怒り声に身がすくんでしまい一瞬爪への対処が遅れ、身を捻るように攻撃をかわすが、無理な体勢だったため、足を滑らして尻餅をついてしまう。
「しまった!」
このままでは攻撃を食らってしまう!
だが俺は立ち上がろうと前方に視線を向けると、親熊は既に右爪の攻撃モーションに入っていた。
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