第3話
ロンドン市内の小さなビルに、俺がシステムエンジニアとして働くオフィスがある。尻が痛くなるくらい椅子に一日じゅう座り、パソコンに向かってプログラム処理をし続ける。
馬鹿な息子が場末のバーでギターを弾き、魔法の粉でハイになっていた頃、エンジニアだった父はこのオフィスで黙々と働いていた。
俺は長い間、彼のパーソナリティーについて、ただの無愛想で勤勉な男だと思っていた。週六日、不規則なローテーションで単調な作業に没頭し、帰りにはスーパーマーケットで売れ残りのケーキを家族に買って帰る。休日には愛犬を膝に乗せてテレビを観るのが唯一の楽しみで、平凡だが家族を愛する穏やかな性格の男だった。
母が精神に異常をきたしてから、俺たち家族の生活は一変した。
母は留学時代に父と出逢い、結婚してロンドンに住んだ。学生時代から、日本とあまりに違うイギリスの暮らしに母はうまく馴染めていなかった。根が素直で真面目ではあるが、要領が悪く決して器用ではなかった。
彼女はロンドンの街はごみに溢れ、人々は部屋を土足で歩き回り不潔だと顔をゆがめた。父は異邦人特有のノスタルジーな感情だろうと、当初は特に気にしていなかった。時間が経てばそのうち収まると楽観的に受け止めていたのだ。
しかし彼の予想も空しく、母の症状は年々悪化し続けた。彼女のヒステリーは回を追うごとに過激になり、しまいには「イギリス人は信用できない、私を指差して全員で嘲笑っている、もう道を歩きたくない」と泣き出す始末だった。俺が小学校にあがる頃には、母はこの世に生きる人間とはかけ離れた、狂気に満ちた化け物へと変わっていた。
父がこんな極端に神経質で潔癖な日本人女となぜ付き合う気になったのかと聞いたことがあった。敬愛するビートルズのジョン・レノンがオノ・ヨーコと結婚して、俺も日本人の女に興味を持ったからだという答えだった。あの寡黙で地味な男がこんなミーハーな理由で母を選んだというのだから驚いた。
壊れていく自分の妻に成す術も無く戸惑うばかりの父親だった。彼女を然るべき施設に受診させるにも、本人が自身の正常であることを主張し、なかなか首を縦に振らなかった。
「私はまともだ、おかしいのはお前らだ。私を狂人扱いして楽しんでいるのか」
彼女の被害妄想に俺と親父は根気よく付き合わなければならなかった。
「分かったぞ。お前らの真の姿は英国から雇われたスパイで、私を監視するためにビッグベン地下の秘密基地に連れ込むつもりだな」
遂に俺達をジェームスボンド顔負けのスパイと決めつけ、一緒に暮らしているのに部屋中を漁って盗聴器を探し始めた。被害妄想もここまで奇想天外な内容だと笑うしかない。
「私を監視しても無駄だ、変装していてもお見通しだ! お前らは本当の家族じゃない」
俺達は上気してまくし立てる彼女をいつまでも無言で見つめていた。
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