2人の帰る場所③
――嫌な予感が背中を押す。
部活が終わったのはもう暗くなった頃だった。
帰り道で兄への謝り方を考えていたナナは、自宅の方向の空がやけに朱く、明るくなっていることに気づく。
まさか、そんなはずはない。
たまたま方向が同じだけだ。
そう思おうとしても、いつの間にかナナの足は全速力で自宅に駆けていた。
燃えていた。
息を切らして辿り着いたその場で、ナナは理解し難い現実に呆然とした。
燃えていたのだ。
ナナとコウキ、2人の帰る場所。
たったひとつの家。
兄妹にはもう他に寄る辺がないのに。
たくさんの願いが詰まった大切なその場所が、無慈悲な炎によって破壊されていく。
その光景にショックを受けて一瞬唖然としたナナだったが、すぐに大切な者を探し始める。
もちろん、兄のことを。
だが辺りは人だかりで騒然としていて、その中に兄を見つけることができない。
ナナは人混みをかき分けて、声の限りに叫ぶ。
「お兄ちゃん! お兄ちゃんどこ⁉」
すぐに近所の人たちが駆け寄って来た。
ナナの声に気づいたようだ。
そしてそのうちの1人、40代ぐらいの綺麗な女性が、がばっとナナを力強く抱きしめた。
女性の背後には、ナナと同年代の少女も不安そうに佇んでいる。
「ナナちゃん! よかった、本当によかった! 無事だったのね!」
抱きしめてくれたのは、ナナの幼馴染のお母さんだ。
小さいころから何かとナナとコウキのことを気にかけてくれていた。
今も涙をいっぱい浮かべて、しきりに『よかった、よかった』と、ナナを抱きしめながら頭を撫でてくれている。
きっととても心配してくれたのだろう。
ありがたいが、ナナの心はそれどころではない。
兄がまだ見つかっていないのだ。
焦りで埋め尽くされる思考に鞭を打って、ナナがおばさんに兄の居場所を問おうとした時、抱きしめられていた身体が少し離される。
そして、ナナの両肩に手をのせ、おばさんが正面から真剣な表情で見つめてくる。
「ナナちゃん、落ち着いて聞いてね。
コウキ君がさっき、ナナちゃんを助けに家に入って行っちゃったの!
消防隊がかけつけて、あとを追ってくれ…っ⁉
待ってナナちゃん‼ ダメ‼」
おばさんの言葉を最後まで聞かずにナナは駆け出していた。
喉が潰れるのも構わず叫ぶ。
「お兄ちゃぁああああん‼」
(お兄ちゃんを助けなきゃ! あの炎の中にお兄ちゃんが!)
ナナの頭の中にはそれしか浮かんでこなかった。
玄関はまだ炎に包まれていない。
なんとか中に入ることができれば、生まれ育った自宅だ。
兄がどこにいるかぐらい、1分もかからずに見つけられるはず。
希望的観測に縋りながらナナは全力で玄関に走る。
だが、無情にも玄関の数歩手前で数人の大人に捕まってしまった。
なんとか暴れて振り切ろうとするも、12歳の少女の力ごときで抜け出せるはずもない。
「お願い! 離してっ‼
お兄ちゃんがあの中にいるの‼ 助けに行かせて‼」
ナナは懸命に訴えるが、大人たちはナナの身を心配して拘束を解かない。
時間が無い。
こうしている間にも兄は炎の中で苦しんでいるかもしれないのに。
大人たちに嚙みつけばさすがに前に進めるのではないかとナナが思い至った時、玄関から声がして消防隊員が何人か飛び出してきた。
待機していた隊員が彼らの救護に向かう。
彼らが運んできた男性が、用意されていた担架の上に寝かされる。
ナナを拘束する力が緩み、ナナは大人たちを振りほどいて駆け寄る。
寝かされた男性は、火傷だらけになってぐったりしている兄だった。
消防隊員たちが炎の中から担ぎ出してきたようだ。
ナナは叫んだ。
兄に向って何度も何度も呼びかけた。
「お兄ちゃん目を開けて! 私だよ、ナナだよ。お兄ちゃん!」
兄はぐったりして動かない。
いくらナナが叫んでも答えない。
隊員がコウキに何かをしている――いや、【何か】ではない。
ナナにもわかる。わかってしまう。
テレビでも学校の授業でも見たことがある。
その時は実感がなかったが、だから嫌でもわかってしまう。理解してしまう。
――それは、蘇生だった。
すでに兄の心肺は停止してしまっていたのだ。
何度も心臓マッサージと人工呼吸が繰り返される。
AEDによる処置の度に、ナナは兄から引き離された。
永遠にも感じる時をナナは、祈り、縋り、焦り、叫び、泣き、兄を呼び続けた。
兄に聞こえるように。
兄がいつもの笑顔で微笑み返してくれるように。
何度も、何度も、何度も、何度も、――しかし。
「そんな……そんなっ………いやっ、いやぁああああ‼
お願いお兄ちゃん、お願い!
もう私を置いていかないでよぉおおお‼」
《 ――キュウサイヲ 》
不思議な声が聞こえた気がするが、ナナにはもう何を言われたのか理解できなかった。
コウキの手から感じる暖かさがどんどん失われていく。
ナナの心が後悔と自責に埋め尽くされる。
「間に合わな…かった……ここにいるのにっ………届かな…かった……
私の………せいだ。
いってきますを………言えばよかったのに。
わたしの、私のせいで……お兄ちゃんがッ!
……っ、私の……わた、し…の……」
周りの音が聞こえなくなって、頭が真っ白になっていく。
何も考えられなくなっていく。
暗闇に落ちていくときのような浮遊感と恐怖。
世界に独りだけ取り残されてしまったかのような、そんな絶望感。
三年前のあの日とは比べ物にならないくらいの、孤独。
激しく混乱する脳の思考が際限なく複雑高速化し、その大規模処理で思考回路を焼き尽くしそうになっていた。
現実と非現実の区別すらつかなくなったその時。
《 フサワシキセカイヘノテンイヲ―― 》
《 ワタシノ――ココロノホゴヲ―― 》
この世界に絶望した声の主が干渉を始めた。
先ほども聞こえた哀しげな声がナナの脳内に響く。
声はふさわしき世界への転移とナナの心の保護を切望している。
声に呼応して、ナナの無意識下の思考を担う脳細胞がフル稼働し、転移プロセスを構築、進行させていく。
並行して彼女自身の心を保護するために必要な、あらゆる手段を選定、実行した。
この手段の一つとして、直近24時間分の記憶へのアクセスが遮断されるとともに、ランダムに抽出された優しい記憶が意識下へ投影された。
不思議な声を聞いた直後、ナナはコウキが何気なく漏らした一言をふと思い出していた。
『ねえナナ。また今度時間が空いたらさ、よもぎ団子作ってくれる?』
刹那、ナナの意識は過去に引き戻され、ふらふらと歩き出す。
(――そうだ、忘れてた。久しぶりに作ろうと思ってたんだった。
よもぎ、取りにいかなきゃ)
そしてナナは近くの河に向かう。
不思議と誰にも気付かれることなく、火事で騒然とした場を抜け出したのだ。
河原のあたりによもぎが自生していることを教えてくれたのはコウキだった、ということを思い出し、懐かしむ。
(いっぱいつんで、いっぱい作ってあげようっと)
そこまで考えたところでナナの意識は途切れた。
無意識下で進行していたプロセスの負荷が高まり、声の主が、脳の処理能力の全てを振り向けたのだ。
……
………
数分後。
一瞬意識を取り戻したナナは、混濁する記憶の中で、この世界で最後となる思考を巡らせた。
(……虹色の光……に、包まれてる……
どうして私、泣いてるんだろう。
……そっか、そうだった。もう、願いが、叶わないんだった。
………ああ、よかった、お兄ちゃんを近くに感じる……
………そうだね、一緒に……いこう……むこうで……幸せに……)
◇ ◇ ◇
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