「エレベーター」「楽園」「間違い探し」 作:吉弘航
光輝くリビングを、妻は居心地がいいというけれど、私にとってはどの方向を見ても目をつぶされそうになるものだから、実は少々頭痛を催す。頭痛とたたかいながら、妻の話に笑顔でうなずきつつ、彼女がホールに出かけるのを見送る。
半時間ほどのちに部屋にいる掃除屋は、もう顔なじみだ。最初に顔を合わせたときはお互いずいぶん驚いたものだ。彼にしてみたら、皆がホールに出払っているものだと思ってハイフロアに立ち入るため、この時間に人がいるなどとはつゆほども思っていない。とはいっても、話が弾むような仲ではない。私が下層階級の彼と共通の話題を持っていないのと同じように、彼も上流階級である私と共通の話題など持ってはいない。
時間を改めようか、と馴れ馴れしく掃除屋は言ってきた。私は、おおらかであるから、必要ないと首を振った。どのみち私はホールに行かない。それでもこの掃除屋は毎回時間を改めるかどうか聞いてくる。学習能力があまりないのだろう。私は目を休めるために夜景を眺め、シャルドネを舐める。ホールで騒ぐより、こちらの方がよほど充実した高層階の楽しみ方だ。。
ふと振り向くと、掃除屋はいなくなっている。彼はいつも突然入ってきて、突然いなくなるのだ。私が白ワインに体を預けているせいかもしれないが、存在感というものがまるでない。この前など、一度目に振り向いたときは影も形もなかったのに、二度目に振り向くときびきびとリビングを動き回っていたことがある。戻ってきたのか、と私が聞くと、はあ、というどちらともつかない返事をした。そのような返事をする男だから、なるほど存在感がないのだろう。
しかし、今回ばかりはさすがに驚いた。私が振り向いたタイミングで掃除屋が壁から溶け出るようにでてきたのだ。おい、と呼び止める。
「どこから出てきた」
ごてごてした金飾りのついた姿見を磨こうとしていた掃除屋は、私の言葉にけげんな顔をみせ壁を指さす。私はまばゆいばかりに白い壁を見る。下層階級では壁から出てくるのが当たり前なのだろうか、と考える。
「どうしたってんだ。ここからに決まってんじゃねえか」
そういって掃除屋はボタンを押す。私はそこにボタンがあることさえ知らなかった。何の前触れもなく壁に割れ目ができ、両開きのようにスライドしていく。
その先には、小さな、小さな部屋があった。豪華絢爛のリビングに完敗している無機質さで、半ば真っ暗闇のようにも見える。そして扉はスライドして閉じた。振り向くと、存在感の薄い掃除屋はもう姿が見えなかった。私は嫌な手汗をかきながらソファに戻る。酔いはとっくに醒めている。
一口ワインを口に含むが、いつもと違ってただ苦い。酒をたしなむ風流人にあるまじきことだが、ゴクリと喉を鳴らして飲みこむ。飲み込んだのはいいが、今度はむせる。咳き込んだ体勢のまま、何があしらわれているのかわからないカーペットを見ながら、しばし呆然とする。
もう一度、扉に歩み寄ってみる。知らなかったボタンを押してみると、今度は扉が開かない。壁を叩いてみても、何も起こらない。ボタンを押した人を判別して扉を開けているのだろう、と私は見抜いた。
その瞬間扉が開いた。開いた隙間に手を入れそうになった私は、開いた衝撃で思わず後ずさる。
「旦那、なにしてる」
後ろに掃除屋がいた。私は頭を抱えて座り込む。
「具合が悪いなら、外の空気でも吸おうや」
掃除屋にしては珍しく気が利く。窓を少し開けてくれ、ソファに座らせてくれ、ワインをもう一杯注いでくれ、と指示を出そうとするが、舌が回らない。
顔を上げると扉が開いている。掃除屋はボタンを押したまま手招きしている。
「早く乗りな」
外の空気と自分で言っておきながら、狭苦しい小部屋に迎え入れようとしてくる。こいつの評価を上げた私は間違っていたのだ。
いや、でもこいつは今、「乗りな」といった。「入れ」ではなく。
扉は閉まらない。開き続けている。早く来ないと閉めるよ。そんな声が聞こえてきた。
「旦那、もしあれなら医者知ってるぜ、腕いいやつ」
そうか、ホスピタルに連れて行ってくれるのか。ホスピタルまで連れて行ってくれる乗り物というわけか。珍妙な形だが、人の趣味は往々にしてそういうものだ。
そんなことを思いながら、ふらつく足取りで小部屋に乗る。あとから掃除屋も乗ってくる。
扉は閉まり、次の瞬間、小部屋は落ちていった。窓も何もないが、浮き上がるような気持ちの悪い感覚が全身を襲う。間違いない、落ちている。
死ぬのだな、と思うとそこからの記憶はない。
気づくとソファの上で妻に起こされていた。
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