おじいちゃんの友達は死神さん
「ねえ、ののちゃん、入るなら入ろうよ」
後ろから急かされて、
どうして彼女は美術室の前で逡巡しているのだろうか。
ああ、なるほど、その後ろにいる少女の姿で読めた。希々佳のそばには同級である
当然、時期が時期だから、新入部員と勘違いされる。まず目をつけたのは入り口近くの机で退屈している小杉紅羽であった。彼女がちょちょいと隣に座る親友の成岩七海を突っつくと、ようやく七海も二人の存在に気づいた。
「あら、入部希望?」
そう言って立ち上がったものの、ドア前に立つ少女の後ろに見覚えのある顔があったから、急にトーンダウンしてしまった。
「咲良ちゃんが誘ってくれたの?」
バレちゃあしょうがないと、咲良は希々佳の肩に手を置いて、ズイと友人を前に突き出してから、ヒョイと顔をのぞかせた。逃げられなくなったものだからいよいよ希々佳はこわばってしまう。
「残念でしたね、入部希望じゃないんですよ。ちょっと瓦木先輩に用があって。部室、空いてます?」
そうでしたか、といった調子で七海は頷くと窓際の紗綾を呼んだ。
美術部の部室は中高で分かれている。この日紗綾が二人と面会したのは高校の方の部室で、ここは咲良のような中学部員にとってはなかなか入る機会のない、珍しい場所であった。咲良ですらそうなのだから、初めてここに来る希々佳にとってはいよいよ緊張する他なかった。いや、緊張というより、早く出たいという気持ちが強かった。なにせ、体育の帽子をかぶせられた石膏像が棚に向き合っているのも異常なのだが、赤や青の油絵の具でペイントを施されたマネキンの頭部が床に転がっているのだ。視覚だけならまだしも、油絵の具の鼻を突くような臭いが梅雨のむわっとしたまとわりつくような空気にかけあわされ、思わず鼻を覆いたくなる。さすがの紗綾も思わず窓を開けたが、しばらくこの臭気も飛びそうにはない。椅子をすすめられたものの、その椅子も一つの作品なのかと疑うほどに絵の具で着色されている。さいわいにも随分昔のことなのか、盛り上がった絵の具の渦は乾いてひび割れていた。
「さて、それで、お名前はなんて言いましたっけ?」
希々佳が椅子に座ると、紗綾も遠慮なく椅子に座って足を組んだ。その目はどこかで遠くを見ているようで、真にその場に意識があるようなものには見えなかった。だいたいいつもこうなのだ。おおよそ学内の人間が彼女に依頼するときは、探偵という言葉を世間的な意味で間に受けてしまったのか、彼氏彼女の浮気調査だとか、イヤな先生になんとか仕返し出来ないかとか、クラスで窃盗があったから犯人を見つけて欲しいだとか……。本人たちはいたって真剣なのかもしれないが、紗綾からしたら食指ののびぬ、くだらないと思えるような話ばかりなのだ。
彼女が欲しているのは不可解な事件である。彼女を楽しませてくれるような、機巧に満ちた事件を欲しているのだ。だからそういう、興味の湧かない『お悩み相談』は保健室にでも持って行ってくれ、というのが彼女の本音である。
それゆえこの時も紗綾は聞いているのかいないのか、どちらともつかぬ調子で希々佳に向き合っていた。
希々佳がひととおり自己紹介を終えると、ようやくこれから本題なのだが、希々佳はなかなか切り出せずにいた。彼女も紗綾から漂う気だるさを感じ取っていたのだ。本当にこの人は聞いてくれるのだろうかと。たしかに、ここにくる道中、咲良は言っていた。センパイちょっと気難しい人だけど、大丈夫だよ、と。いや、何が大丈夫なのだろうか。何か助け舟でも出してくれないかなと思っても、咲良は遠慮してこの部屋を出て行ってしまった。もうここから出たいのだが、相談に来てしまった以上出ることもできない。ふと、スカートの端をいじる自分に気づいた。はっとしてその手を止めるとちょっと面をあげた。あれ、と希々佳は少し気づいたことがある。顔を上げると果たしてそこには紗綾の視線があるのだが、最初よりもさっきの方が、さっきよりも今の方が、眼の輝きが増してはいないか? 自分の一挙一動、その心の中の理由まで見すかすような目! 一瞬目があった。紗綾がニッと笑った。思わず希々佳は目を伏せてしまった。
「ああ、いえ、久根別さん。大丈夫ですよ。こういうのは無理に絞り出しても仕方がない。あなたの思うように、言おうと思えたらお話ししていただければ。お待ちするのも仕事ですから」
いくら仕事と言われても、まじまじと見つめられ続けるのも希々佳にはたまらなかった。
「あ、その、すいません。わ、私もどうお伝えしていいか、よくわからなくて。まずどこからお話しすればいいか……」
「まとめる必要はありませんよ。思うところから話してくだされば大丈夫です」
「そう、ですか。じゃあ、とりとめがないかもしれませんけど……」
そう前置きをすると、希々佳は一つ一つ確認するように語り始めた。
「これは、まだ大きな事件になったというわけではないんです。ですから警察にも行っていません。話を聞いて紗綾さんがそういうのは警察に行ってくれと言うなら、それは仕方がないのですけど。私、どうすることもできなくて……。でも、何もせずにただ見ているというのもイヤなんです。それで、祖父には止められたのですがこうして相談に……」
「なるほど、つまり、希々佳さんのご家族に何か起きつつあると」
希々佳はコクリと頷いた。
「私の一家というより、私の祖父だけが標的にされているみたいなんです。祖父の車のブレーキペダルが折れていたり、開けずに置いておいたお茶から変な味がして、いらないからと受け取った部下が飲んだらお腹を下して入院してしまったり……」
「お祖父様の身の回りで不審なことが相次いでいると」
希々佳は再びコクリと頷いた。
なるほど、確かに昔の車ならいざ知らず、現代の車でそう簡単にブレーキペダルが折れるとは思えない。それにお茶にしたって、もし製造過程に問題があったなら消費者の声がすでに大々的に広がっているだろう。何より、このようなことが一人の人物の周囲で重なることなどそうそうないはずだ。
「お祖父様はそれについてなんと?」
「ちょうど厄年だからだろうとか、死神さんが会いに来てるだけだろうとか、笑って取り合わないんです」
「死神さん……ですか?」
希々佳はハッと口を抑えたが、目の前の先輩が自分に注目していることを知ると手を下ろし、自嘲気味に口にした。
「死神さんは友達みたいなものだって、だから怖くはないって、祖父は言うんです。葬儀屋の社長ですから。私は死神の友達の孫娘ってことです」
紗綾には希々佳の気持ちも分からなくもなかった。彼女の友人である浦川葉月もそうなのだ。葉月の実家は集落の葬祭を司る家系で、幼少期は死神の娘と言われて避けられていたと聞く。彼女もまた同様だったのではないか。たとえ、祖父本人が軽くうそぶいても、センシティブな年頃の孫娘、彼女には重大な問題なのだ。それに自嘲を差し引いたとしても、祖父が命を狙われている。死神なんて迷信とわかっていようとも、大きな不安を覚えるのは無理もない。
いや、現実はもっと俗物的なものかもしれない。葬儀屋の社長が命を狙われているとは、あまり噂になって欲しくない話であろう。ひょっとすると祖父が警察への相談を拒むのもそこにあるのかもしれない。
ぐぅ。
紗綾がそんな想像たちをふるい落とそうとした刹那、彼女のお腹がなってしまった。肝心な時によく鳴るもので、緊張した空気は一気に和らいでしまった。紗綾は照れ隠しに軽く咳払いをした。
「そうですか。ときにお祖父様はまだお仕事をされているんですか? 厄年といえば数え年で六一歳ということですよね」
「ええ、ですから社長といっても名誉職みたいなものなんです。普通の人なら、ですけど。でも祖父の場合、現場に出向くのが主義で、今でもよく現場に立っているそうです。死ぬまで現役なんて言って、常日頃、健康には人一倍気を使っています」
「失礼かもしれませんが、お祖父様は何か他人に恨まれるような節でもあるのですか?」
「いいえ、確かに、人間六十年も生きていれば恨まれることの一度や二度はあるでしょう。でも、命を狙うほどのことなんて、私にはわからなくて……」
まあこの質問は希々佳に向けても仕方ないのかもしれない。なにせ彼女は祖父の四分の一ほどしか生きていないのだから。紗綾はそこで脚を組み替えるとちょっと希々佳の方に身を乗り出した。
「それで希々佳さんは私に何をして欲しいのですか? 身辺警護ですと、私にはあまり向いてないと自覚してるのですが……」
「ええ、それはわかっています」
希々佳の目元はちょっぴりとも笑っていなかった。冗談のつもりで言っただけに、紗綾はいくらか顔が赤くなるのを感じた。希々佳はそれに気づいているのかいないのか、何も言わずにかばんから一枚のチラシを取り出した。
「実は来週の土曜日に、運営するホールの一つでイベントがあるんです。そこに先輩にも来ていただきたいんです」
イベントとは突然話が飛躍したものである。紗綾が目を丸くしていると、希々佳はそのまま言葉を継いだ。聞けばわかるということらしい。
「そのホール、あまり経営が良くないそうで、何か話題を呼ぶイベントをやろうということになったそうです。そのイベントというのが生前葬のデモンストレーションになっていて、その故人役が祖父なんです」
紗綾はチラシを握りしめたまま、はっと顔を上げた。
「もちろん、家族は大反対です。でも祖父はとても乗り気で、こういう災厄が重なる今だからこそ仏がナンタラカンタラ、戒名まで考えてもらって大はしゃぎなんです」
「そこで何か起きると、希々佳さんはお考えなんですね」
しかし、希々佳は首を縦には振らなかった。
「いえ、何か起きるだなんて、そんな恐ろしいこと……。でも、もし誰かが祖父を陥れようとしてるなら、これほど絶好のチャンスはないと思うんです。もちろん当日はスタッフが祖父の周りに立つとは思いますけど、私それだけでは不安なんです。どうか、瓦木先輩に祖父と、その周りのスタッフをしっかり見ていていただきたいんです」
なるほど、と紗綾は希々佳の顔を見直した。彼女は聡明なのだ。確かに彼女の祖父は安全対策としてスタッフを自分のまわりに立たせているのだろうが、もし先ほどのお茶の件が事実ならば敵は身内にいるはずなのだ。しかし孫娘として祖父にあまり込み入った忠告もできない。それだから紗綾に出馬を要請し、不穏な行動をする者がいないか外部の視点から見てもらおうとしているのだ。
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