ネット将棋とルール

 現在多くの将棋プレイヤーは、日ごろネットを通じて対戦している。将棋倶楽部24や81道場といった対局専用のページ、そして多くの将棋アプリによって遠くにいる人とネット回線を利用して将棋をすることが可能なのである。ここではほとんどの人がハンドルネームを利用しており、匿名に近い状態となっている。そのため対面で行うよりも様々なトラブルが生じやすくなっている。

 ネット対局特有の問題として最も大きいのは、ソフト指しだろう。相手の対局姿が見えないため、ソフトは利用し放題なのである。ソフト指しは基本的にどこでも禁止されているが、実際どこまで洗い出されているのかは不明である。強豪がソフト指しと疑われる冤罪的な事態も生じている。将棋ウォーズでは「棋神」という5手の間ソフトに代わりに指してもらうというシステムがあり、「人間離れして速くて強い」からと言ってソフト指しとは疑えないケースもある。

 ソフト指しをする理由も、単にレーティングを上げたいというだけではないようである。ソフトで研究した手に人間がどこまで対応できるかという、実験の場としてネット対局が利用されることがあると聞く。ソフト指しである以上当然これも違反である。ソフト指しが増えれば、ネット対局を忌避する人も増えることになるだろう。それは将棋界全体の損失にもつながる可能性があり、どうにかして撲滅しなければならない対象である。

 

 サイトごとに異なるのが、「可能な反則の種類」である。ネット対局や将棋ソフトにおいては、ルール上にない駒の動きはできないことがほとんどである。しかし、二歩ができる場合はある。また、王手放置もできる場合とそうでない場合がある。場所ごとにルールが異なることを忘れていると、うっかり反則してしまうということもある。また、王手千日手などは自分で判断するのが難しく、したかどうかで対局相手ともめるという経験が私にもある。

 また、トライルールという「相手陣の王将のいた位置に自玉が行けば勝ち」というルールも存在する。トライルールを知らずにトライされる人、トライルールがあると勘違いして相手陣を目指す人を見ることがあり、場所ごとにルールが違うことの影響が感じられる。

 ネット将棋に慣れた後に実際の盤駒を使って対局すると、反則の可能性が一気に広がることになる。まずは駒をきちんとルール通りに並べなくてはならない。動かせないところに駒を動かせるのもリアルの対局ならではであるし、時計も押さなくてはならない。反則という側面から見たとき、ネットと対面の対局では全く別の競技であるとすら言えるのではないか。

 ネット将棋においてはサイトやアプリが独自に準備している「違反規定」がある。一番多いのが「接続切り」であろう。ネット対局においても負けを認めるときは投了の意志を示す。しかし中には、負けが確定した時や大きなミスをしたときに接続を意図的に切る人がいる。これ自体はマナーの問題だが、積み重なるとアカウント停止などのペナルティを科せられるため、ルールの内に含まれるともいえる。また、初手や二手目で投了する人もいる。ほとんどの場合はレーティングが離れていて勝ち目がないと考えてのことだと思うが、中にはわざとレーティングを下げる人もいるようである。

 これらは将棋のルールそのものに違反しているわけではない。しかし相手の気分を悪くする行為であり、場を提供する側にしてみれば「対局の場の価値を下げる行為」と言えるだろう。対面の対局でも局面を放置して立ち去ったり、初手で投了したりすることは理論上可能だが、今のところそういう例は聞いたことがない。やはり匿名で相手が見えないが故に起こる事象であろう。

 


 マイケルフェルダーは、「サイバースペースにおける我々の道徳的条件」(Our Moral Condition in Cyberspace)において、インターネットの普及により出現した「サイバースペース」を新しいタイプの世界ととらえ、「サイバースペースにおける新しい倫理学の必要性」を検討した。サイバースペースでは、物理的な自己とは異なる人格が主体となると考えられる。サイバースペースでは現実とは異なる行為が可能となるため、そこで人々の関係が良い者であるには、新しい枠組みの倫理学が必要となるかもしれないのである。

 マイケルフェルダーは結局、サイバースペースにおいてわれわれは日常とつながっており、新しい世界ではない、と考える。(Micchelfelder, D. P. (2000), Our moral condition in cyberspace. p.151)しかしこの問い自体はネット将棋自体にも投げかけることができるものだろう。ネット将棋の世界では現実世界とは違う人格で、違うルールの下で将棋を指すことになる。そこでは現実世界とは異なる倫理が求められるかもしれないのである。

 マイケルフェルダーの問いは、ハンス・ヨナスの考えをもとに立てられている。ヨナスは『責任という原理』において、科学技術文明によって世界の在り方は変化し、それに伴って倫理の在り方も変化が求められる、と考えた。


 伝統的な倫理学は、新しい力の形態やその力を生み出すことの可能な創造を指揮下に置く、善と悪の規範に対して何もわれわれに教えてくれることはない。われわれは高度の科学技術を入手し、集団的な実践という新しい領域に踏み込んでいる。この土地は、倫理学の理論にとって前人未到の地である。(Jonas, H. (1979), Das Prinzip Verantwortung. S.7)


 将棋もまたネット将棋の登場によって、その在り方を根本的に変えたと言えるかもしれない。そうであるならば、ネット将棋の場だけでなく、それに影響を受けた現実世界でも新しい形の倫理が求められることになる。

 ネット将棋の存在がどこまで従来の対面式の対局に影響を与えているかは、別の考察を必要とする。しかしこれだけネット将棋が普及した現状では、全くの無関係とは言えないだろう。



 前節で述べたように、単に反則を避けるためにルールを守るのではなく、私たちには積極的にルールを守るという倫理的態度が求められる。そしてネット将棋が新たなルールの在り方を持ったものである以上、そこには独自の倫理的態度が求められるかもしれない。たとえルールを破っても匿名であるため罪悪感が薄れるだろうし、アカウントを作り替えることにより「人格をリセットする」という現実世界では困難な手段も取ることができる。このような「新しい世界」において求められるのはどのような倫理なのか、それは後程考察することとする。




参照文献

Jonas, H. (1979), Das Prinzip Verantwortung. Suhrkamp Verlag. (PV)

(ヨナス(2000)『責任という原理』(加藤尚武監訳) 東信堂)

Micchelfelder, D. P. (2000), “Our moral condition in cyberspace”, in Ethics and Information Technology 2., pp.147-152.

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