魔の葉

鷺町一平

序章・第一章「高い壁」

序章


 その時すでに、母は僕の腕の中で虫の息だった。

母の身長程もある、あの巨大な塊が母を直撃したのだからひとたまりもなかった。

「アタシが馬鹿だったのよ……。あんな奴を信用したばっかりに……」

 それが最期の言葉だった。母は僕の腕の中で息をひきとった。

 あたり一面に咲いた曼殊沙華の花がそよ風に揺れる、穏やかな秋の日の午後だった。母は不慮の事故で天国に召された。

 とめどなく溢れる涙が頬を伝って草原に落ちた。

「絶対に許せない! 母さん、この仇は必ずとるよ!」

 僕は母の亡骸の前で天に誓った。


第一章「高い壁」



 下手を打った。何もかもが燃えるような緑だった。

 風薫る五月の新緑の季節、青々と繁った柿の木の枝葉の間を俺は滑るように移動していた。俺は若く、体中に力が漲(みなぎ)っていた。出来ないことは何一つないかのように感じていた。それが油断を生んだのかもしれない。

 俺は隣の枝に飛び移ろうとしていた。鎌首をもたげてその準備に取り掛かろうとしていたところだった。その、あまり太くない枝は、俺の体重を支え切れなかった。ボキッという鈍い音がしたかと思うと、なすすべなく俺は落下した。 

 それでも下が地面ならどうってことはなかった。ところがなんという不運であろうか。俺が落下した真下には、コンクリートで出来た円筒形の「サイロ」が大きく口を開けていた。なお悪いことに高さが一メートルくらいあるそのサイロは、半分くらいまで水が溜まっていた。俺はその中に折れた枝ごと落ちてしまったのだ。

 冷たく、濁った水の中でパニックになりながら、俺は必死で体をくねらせてもがいて、水面から顔を出した。

 垂直にそそり立ったコンクリートの壁はどう考えても、這い上がるのは無理に思われた。円筒の縁まで、優に五十センチメートルはありそうだった。

 俺は、沈まないようにするだけで精一杯だった。一体どうしたらこの窮地から逃れられるのか? ともすると口の中に入ってくるこの濁った茶色い水を出来るだけ飲まないように、溺れそうになりながらも必死に知恵を絞った。だがいい考えは何も浮かんでこなかった。

 もう一生、永遠にここから出られないのではないかと考えると、脳裏に絶望の二字が浮かんだ。必死にその不吉な考えを打ち消そうと努力する。どんな苦境に陥ったとしても決して諦めてはいけない。必ず道はあるはずだ。もう一人の自分が耳元で囁く。そうだ、何があっても希望を捨ててはいけない。

 その時、サイロの縁から不意に人間の顔がのぞいた。イガグリ頭に絣(かすり)の着物、肩から白いズック製の学生鞄を下げていた。そのイガグリ頭の少年は、俺を見つけるととても驚いたようで一瞬全身を硬直させた。その顔には恐怖の色も浮かんでいた。そして、すぐに顔を引っ込めた。

 しかし、しばらくすると、おずおずとまたそのイガグリ頭がのぞく。今度はじっと俺のことを凝視している。ひしひしと全身にその刺さるような視線を感じていた。少しの間、並々ならぬ興味を持って俺を観察していたイガグリは、去っていった。

 彼は次の日もやってきた。また昨日のようにしばらく俺をじっと見つめた後に、彼は意を決したようにどこからか、竹竿を持ってきた。イガグリはその竹竿の先端を上目使いでちらっと眺めると、先端をサイロの中に突き入れてきた。

 これはいったいどうした事なのだろうか? もしかしたら俺を救い出そうとしているのか? それとも全く別の意図があるのだろうか? 俺は訝(いぶか)った。だが躊躇っている時間はなかった。イガグリの真意がどこにあるか分からないにしても、これはここから脱出する千載一遇のチャンスであることは間違いなかった。俺は差し出された目の前の竹竿に縋(すが)りつくことにした。身体をくねらせ、竹竿に絡みついた。

 このままイガグリが竹竿をゆっくり持ち上げて、円筒形のサイロの縁の外まで移動させてくれれば、俺は確実にこの地獄から抜け出せる……そう思った刹那、俺の希望は打ち砕かれた。

 イガグリは、竹竿を勢いよく引っ込めたのだ。バランスを崩した俺は、再び水面に叩きつけられ派手な水しぶきを上げて、サイロの水たまりの中に水没した。夢中で水面に顔を出した俺が見たものは、サイロの縁から覗くイガグリの悪魔のような薄笑いだった。

 最初から少年は俺を助ける気などなかったに違いない。助けるようなふりをされて突き放された時の絶望は、なまじ助かるかもという期待が膨らむ分、余計に深くなる。イガグリは俺を助けるそぶりを見せて突き放すことで気まぐれで残酷なサディストのようにどす黒い欲望で俺を弄んで楽しんだのだ。サイロの茶色い水の中でなかば溺れそうになりながら、なすすべもなくジタバタする俺の様子をしばらく窺ったのちに、少年はイガグリ頭をぽりぽりとかきながら、黄色い歯をむき出して、ゾッとするような笑いを浮かべると踵を返して去っていった。

 俺がこのサイロに落ちてから、一週間が過ぎた。

 沈まないように水面を泳ぎ続けるというのは、恐ろしく体力を消耗する。元々空腹だった俺は、そろそろ限界を迎えつつあった。ちょっと気を許すと身体が水の中に沈んでいく。腹が減りすぎて、目の前が霞んできやがった。サイロの垂直の壁が普段より尋常でなく高く見える。

 イガグリ少年は、毎日決まった時刻になると俺の様子を覗きにきた。それはまるで、俺がこのサイロ地獄の池であと何日持ちこたえられるかを測っているかのような冷たい氷のような目だった。

 今日は、水面に落ちてきた葉の上にアメンボがのっているのを発見した。獲物だ。俺はゆっくり、アメンボに気づかれないように背後にまわり込むと、一気呵成に捕食にかかった。直前に俺の気配に気づいたアメンボは、その長い脚で水面の表面張力を利用して、滑るように逃走をはかったが、俺は必死にその脚に食らいついた。

 アメンボの脚は意外に丈夫だ。俺はそのまま一気に水中に引きずり込むと、夢中でアメンボを大量の水ごと飲みこんだ。久しぶりの獲物だった。これっぽっちで空腹が癒せる訳がない。一時しのぎに過ぎなかった。だがなにも口に出来ないよりはマシだ。

 アメンボを食した後は、本当にそう思った。ところが、空腹は少しでも食べ物が胃に入ったのちにより増幅されるものだということを初めて知った。気が狂いそうなほどの空腹が襲い掛かってきた。もはや瀕死状態の俺の顔にポツリポツリと雨粒が落ちてきた。

 やがて雨粒の勢いはたちまち大きくなり、まるで滝つぼをひっくり返したような豪雨となった。しばらくはぼーっと雨に打たれていたが、はっと気づいた。この勢いで雨が降り続いてくれれば、サイロが溢れることがあるかもしれないと思い至った時、胸が打ち震えた。

豪雨よ! 降り続いてくれ! と痛切に願った。事実、水位はどんどん上がっていった。俺の期待はどんどん膨らんでいった。だがある時点から土砂降りが続いているのにも関わらず水位は一向に上がらなくなった。俺の希望は打ち砕かれた。サイロに罅(ひび)が入っていたのだった。

 

 とうとう俺がこのサイロに落ちてから、二週間が過ぎた。もう限界だった。あれ以来全く獲物にはありつけない。ずっと水中にいるので、ウロコがふやけてきた。目の前が暗くなり視界が狭まってきた。

 俺は最後の力を振り絞り、鎌首をもたげて俺が落ちた柿の木の枝を仰ぎ見た。あそこから落ちさえしなければ……。痛恨の思いが胸を焼き焦がした。

 その柿の枝の中に、ひときわ青々と繁る大きな一枚の葉があった。周囲の葉たちよりもひとまわり、いやふたまわりも大きく、葉の色艶も周囲の葉たちを圧倒していた。俺は一度は助けるそぶりを見せたあのイガグリ頭の少年を思い浮かべた。

 なぜあの時彼は、救いの竹竿を直前になって引っ込めたのか……、恨みはつのる一方だった。俺が生きている最後にみたものは初夏の陽光に透けるきらきらとした葉っぱの葉脈だった。俺は意識を失い、ゆっくりと濁った茶色の水の中に静かに沈んでいった。



 少年の家には、槇(まき)の生け垣があった。家の敷地を囲っている槇塀(まきべい)は立派なもので、高さは優に二メートルを超えていた。手入れは主に父親と祖父が行っていた。槇塀は母屋に向かって回り込むように植えてあり、その槇塀の途切れた先には庭の入り口に向かって、そびえるような大きな梅の木があった。その梅の木の奥に作業場があり、脱穀機などの農機具を入れておく小屋があり、さらに奥には養蚕のまゆ箱などが置かれていた。

 その小屋の脇に柿の木があった。この家の家人はあまり柿が好きではなかったので収穫は家人たちも期待していなかったようだが、枝は自由奔放に四方に伸びていた。もちろん槇塀のほうにも際限なく枝は伸びていたが、さすがに美しいと評判の少年の家の槇塀の景観や見事な枝ぶりの梅の木に悪影響を与えかねないような枝は、少年の父親や祖父が神経質なくらいに剪定していた。

 だが、目立たない反対側の枝には無頓着だった。一本の枝が野放図にサイロの上まで伸び切っていた。表通りからは見えない槇塀の裏側にまるで隠れるように、すでに使われなくなった半地下式のサイロがふたつ、ひっそりとあった。半地下式なので地上から一メートルくらいまでコンクリートの円筒が出ている。

 直径一・五メートルほどのサイロには雨水が溜まっていた。奥のサイロは、ギリギリまで雨水が溜まっていたが、手前のサイロは満水にならずに半分ほどでとどまっていた。コンクリートに罅(ひび)でも入っているのか、いくら雨が降ってもそれ以上水位が上がることはなかった。

 五月のある日、学校から帰ってきた少年は、何の気なしに、この半地下式のサイロを覗いてみた。少年は驚愕した。なんとサイロの内側に溜まった雨水の中に青大将が落ちているではないか! 少年は蛇が大嫌いだったので、思わず首をすくめた。だが同時に好奇心も人一倍旺盛だった。少年は恐る恐るもう一度、首を伸ばしてサイロの中を覗いてみた。

 やや角ばった頭を持ち、くすんだ緑色で濃い褐色の縦縞があった。体長は一メートルくらいであろうか。まだ若い個体に違いなかった。青大将は円筒形のサイロの中をぐるぐる回るように泳いでいた。時々、鎌首をもたげて、恨めしげにこっちを見ているように少年には感じられた。しばらくサイロの内周を旋回しながら、くねくねと泳ぐ青大将を眺めていた少年は、急に踵を返すと母屋のほうに走り去っていった。

 縁側にズック製の白い学生鞄を放り投げると、駆けてきた勢いを全く殺さずに器用に三和土(たたき)に走りながら下駄を脱いで座敷に飛び込むと、奥の六畳で洗濯物を畳んでいた母親に息せき切って報告した。

「母ちゃん、母ちゃん! 作業場の柿の木の下のサイロに青大将がいるよ! サイロの内側をぐるぐる回りながら泳いでる。青大将って泳げるんだねぇ!」

「近寄るんじゃないよ。危ないからね」

 忙しそうに大量の洗濯物を畳んでいた母親は、さしたる興味も示さず月並みなことしか言わなかったので、少年はちょっと不満だった。もっと驚いて興味を持って欲しかったのだ。やはり大人はつまらないと、彼はその時思った。

 翌日、学校から帰ってくると少年は、縁側にズックの白い鞄を放り投げると、一目散にサイロに向かった。おっかなびっくりサイロの内側を覗き込むと、青大将は昨日と同じく、ぐるぐると回りながら泳いでいた。

しばらく見つめたのち、少年は昨日からずっと考えていたことを実行に移した。すなわち、この蛇を助けてやろうとすることであった。

少年はどこからか、竹竿を持ってきていた。その竹竿の先端をサイロの中に差し入れた。先端は青大将が周回している水面にもう届きそうだ。警戒しているのか、助けようとしている意図が伝わらないのか、なかなか竹竿に身をあずけようとしないことにじれて、少年はサイロの縁(ふち)に手をかけて身を乗り出した。青大将はようやく竹竿に乗り移ろうとしていた。そのとき少年の手が、サイロに近い部分の柿の葉に触れた。

突然、少年は気が変わった。蛇を助けずにこのままにしたらどうなるのだろうかという興味がわいたのだ。その残酷な結末を思い浮かべたとき、少年は口の端に張り付いた微かな笑みとともに、竹竿をサイロから引き抜いてしまった。まさにその瞬間に竹竿に飛びつこうとしていた青大将は、なすすべもなく派手な水しぶきをあげて、その身体を水面に打ちつけた。その飛沫がかかり、先ほど少年が触れたひときわ大きい柿の葉が揺れた。

それから、毎日、少年は学校から帰ってくると、まず最初にサイロを覗いた。最初の数日こそ、勢いよくサイロの中をせわしなく動き、泳ぎ回っていた青大将だったが、日がたつにつれ動きが緩慢になってきた。

 そして二週間が過ぎたある日、少年がいつものように学校から帰ってきて、ズックの鞄も肩から斜めがけしたままに、サイロを覗き込むと、青大将は消えていた。少年は焦った。青大将が逃げたと思ったのだ。蛇にとって垂直に切り立った壁からいったいどうやって脱出したのだろうか? 少年は周囲を見渡した。すでに六月に入っていたが、初夏の風にサイロの周りの樹木の葉がささやかにそよいでいるだけだった。

それからも少年は毎日、サイロを覗きに来た。さらに一週間が過ぎた。夏を迎えようとしていた。覗き込んだ少年の額にうっすらと汗が光る。いつものようにサイロを覗き込むと少年は身を固くした。全身が恐怖にとらわれ、身動き一つできない。サイロの縁にかけた手が小刻みに震えた。脇の下から冷たい汗が流れ出た。

薄茶色く濁ったサイロの水面には、白骨となった蛇の骨が漂っていたのだった。

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