第一話:病院までの道のり



 ススムは今、この町にある大きな病院の前に居た。手には大きなアタッシュケースを提げている。このケースの中には、大事な"血清"が入っている

 『らしい』というのは、アタッシュケースを託されたススムも、中身を見ていないからだ。ススムは自分にこれを託した人物と、ここまでの道中の出来事を思い出す――



「……エレベーターが動いてない」


 家を出てエレベーターホールに向かうも、何故か全機非常停止モードで最寄りの階に停まったまま、扉も全開でロックされていた。仕方が無いので非常階段に向かう。

 この時、救急車を呼ぶという選択肢が全く浮かばなかったのは、身体は酷い状態ながらも体調は決して悪くなく、むしろ良く動く状態だったからだ。

 そうして普段はあまり使われる事の無い、タワーマンションの階段を下りて行くと、二階と三階の付近で白衣の男性と遭遇した。

 医者っぽい見た目のその男性は、足を怪我しているらしく、黒いスラックスの膝辺りが裂けており、巻かれた包帯から血がにじみ出ている。

 彼はアタッシュケースを脇に抱え、手すりにつかまって立ち上がろうとしていたが、上手く起きられないようだった。

 負傷した足が痛々しく、手を貸した方が良いかと思ったススムは声を掛けた。


「あの、大丈夫ですか?」

「……驚いたな、まだ生存者が残っていたとは」


 一瞬、動きを止めてススムを凝視した白衣の男は、そう呟いて立ち上がるのを諦め、階段に座り直す。そして、ススムにこんな事を言った。


「君は、発症者ではないようだな」

「発症者?」


 ススムはその言葉の不穏な響きから、今の自分の悪過ぎる顔色や斑色の皮膚を思い出す。が、敢えてその事には触れず、白衣の男の怪我の方を気にした。


「足大丈夫ですか? 救急車呼びます?」

「ははっ、呼んだって来やしないさ」


「? そうですか……えーと、俺は今から病院に行くところだったんですが、何なら知らせておきましょうか?」

「病院へ……? 一体何をしに?」


 怪訝な表情を浮かべた白衣の男は、少し逡巡しながらそう訊ねる。ススムは質問の意図が分からず、不思議に思いながらも、普通に「診察を受けに行く」と答えた。

 すると、白衣の男はますます怪訝な表情を深める。


「どういう意味なんだ……?」

「どういうって……」


 こっちのセリフだよとツッコミたいススムだったが、取り合えず自分の身に起きている変化というか異変について説明した。


「信じられないかもしれませんが、実は十日ぐらいぶっ通しで寝てたっぽくて、何か身体の様子が変なんですよ。なのでちょっと診て貰おうかなと」


 調子は特に悪くないんですけどね、と付け加える。それを聞いた白衣の男は驚愕を露にした。


「まて、それは……まさか君は、今の状況を理解していないのか?」

「と、言いますと?」


 ハテナ顔で聞き返すススムに対し、白衣の男は思案顔になってぶつぶつと独り言を呟く。『風邪のウィルスと新陳代謝が――』とか『自然治癒の過程でForウィルス腫瘍の寄生条件が――』とか聞こえるが、ススムには『何のこっちゃさっぱり』であった。


「……まだ発症していないだけか、突然変異か、あるいは適応体だったのか――」


 白衣の男はそこまで呟いて何かを理解したように頷くと、ススムに向き直って訊ねる。


「君、名前は? フルネームで言えるかね?」

「え? 大木おおぎ すすむです、けど」


「ふむ、記憶に欠如は見られない、自己認識もしっかりしているな。よし、ススム君と言ったね、君は今の現状を正しく認識していないようだ。私が掻い摘んで解説しよう」

「は、はあ……よろしくお願いします。っていうか、足大丈夫ですか」


 急に捲し立てられて面食らったススムは、言われるがままに解説をお願いしてしまったが、先程から白衣の男の怪我が気になっていた。包帯に滲む血は、今や全体にまで広がっている。


「正直、私はもう長くない。とにかく今は私の話を聞いてくれ」

「は、はい」


 そうして語られた内容は、おおよそ信じられないものだった。

 約二週間前、都内の病院にとある奇病患者が運び込まれた。その患者は海外の遺跡調査チームに所属している探検家で、病院に運び込まれる二日前に帰国したばかり。

 帰国直前から体調の悪さを訴えており、始めは何らかの熱病と思われた。しかし、身体中の皮膚が変色し、皮下組織や脂肪が体液と混ざりあって流れ出すなどの異常な症状を見せ始めた。

 奇病の正体は分からず、患者は三日後に収容先の病院で亡くなったという。


 ところが、患者の死亡が確認された翌日、病院内の安置所から遺体が消えるという事件が起きた。さらには、その患者と思しき死体が病院内を徘徊している姿を目撃した等という、オカルト染みた噂が囁かれるようになった。

 噂を聞きつけて週刊誌記者が取材に来るなど、騒ぎが公になり始めた頃、病院中でその奇病と同じ症状を発症する患者が次々と現れた。

 発症した者はほとんどが数日で死に至る。だがその後、心肺停止状態のまま活動を始める事が分かっている。空気感染の危険性は低いようだが、じかに触れれば高確率で感染してしまう。


 汎発流行パンデミックの危険性有りと認定され、直ちに隔離処置が行われたものの、その時にはもう既に他の病院施設や町の中でも同じ症状に陥った者が続出しており、奇病の発症者は数日の内に手が付けられないほど増えて行った。

 政府はどうにか拡散を抑えようと非常事態宣言を出し、諸外国に注意と応援を呼び掛けるも、ほぼ同時期に海外の主要な都市でも同じ事が起きていた。

 主に空港の近くで発症者が目立った為、世界中の国々で空港が閉鎖され、パンデミックに対処するべく医師チームが動き出した――というところまでは情報が届いていたのだが、現在は何処の国も音信不通状態になっている。


「もはや世界は、事実上滅亡したと言っても過言ではない。今はゆっくりと崩壊している最中なのだ」

「ええー……そんな事になってたなんて」


 寝ている間に世界が滅んでいたとかシャレにならない。ススムは呆然とそんな事を思う。しかも、まだ発症はしていないようだが、自分自身もその奇病に感染しているらしい。


「一つ、頼まれてくれないか」

「え? なんでしょう」


「この血清を病院に届けてほしい」


 白衣の男は、抱えていたアタッシュケースを差し出してそう言った。不死病のウィルスを滅する血清なのだそうな。

 彼は不死病の発生当時から研究室に籠もり、死体が動く原因となっている腫瘍を死滅させる血清を開発したという。

 急造品だが感染にある程度の予防効果が見込め、発症者に投与すれば、活動を止める事も出来るそうだ。

 交通も情報も寸断されて国中が混乱状態にある中、彼は独自に各地の病院へ血清を届ける活動をしていたのだが、この町の病院に向かう途中で武装集団の襲撃を受けて負傷した。


「いいか、特に注意すべきは武装した人間だ。それも民間人には気を付けろ」

「え、民間人……?」


「そうだ。この傷は、民間人の武装グループにやられたものなんだ」


 相手は自警団を名乗っていたそうだが、恐らくこの周辺を縄張りに設定した盗賊団のような集団と考えた方が良いと彼は言う。


「警察や軍隊は訓練された組織の人間なので、命令系統が機能している間は大丈夫だろう。むしろ、社会が崩壊して法律や倫理の枷から解放された一般人にこそ、危険な奴が交じっている」


 今は深夜なので身を隠し易い。なるべく目立たないようこっそり移動すれば、そういった集団に見つかる危険性も減らせるだろうとアドバイスする。


「徘徊する死体である発症者は、基本的に近付かなければあまり害はない。急に接近したり、叩くなど刺激を与えると、自己防衛なのか掴み掛かって来るなどの行動が見受けられるようだが」

「それって、ゾンビ映画みたいに噛まれたりとか……?」


「どうだろうな、私は血清の研究に没頭していたので、発症者の生態――というのも変だが、彼らの習性までは詳しく把握出来てないんだ」


 ただ、彼の詰めていた研究所に上がって来る調査報告書の中には、健常者に対して積極的な攻撃性が見られる個体も確認されているとの事だった。


「申し遅れたが、私は黒田という者だ。この町の安全は君に掛かっている。頼んだぞ、ススム君」

「は、はい……頑張ります」


 黒田からアタッシュケースを受け取ったススムは、何だか成り行きで重要な任務を請け負ってしまったと思いつつ、マンションの非常階段を後にした。



 マンションの敷地に面した通りに出ると、数台の事故車が道路を塞ぐように放置され、その辺りを徘徊する多数の人影が見えた。

 いきなり大勢の人に出くわしたかと焦るススムだったが、その人影は明らかに様子がおかしい。緩慢な動きでゆらゆらと歩いている姿が街灯の明かりに照らし出され、ススムは思わず息を呑む。


「……っ!」


 会社員だろうか、白いカッターシャツにネクタイを付けた黒ズボンの若い男性。

 服装はしっかりしているのだが、シャツの彼方此方に茶色い染みが浮き、皮膚は緑と青の斑模様で爛れているかのよう。

 眼は白く濁って、どこを見ているのか分からない。「ヴヴヴヴ……」という呻くような声を漏らしながら、ゆらりゆらりと徘徊している。他の人影も同じく、皆、感染者のようだ。


「まさか、現実にこんな事が起きるなんて……」


 感染者は勿論、事故車にも近寄らないよう気を付けながら道路脇の垣根部分まで移動する。ここから病院までは徒歩で約15分の距離。垣根に沿って道路の端を進んで行く。


「うわっ、びっくりした!」


 行く手を塞ぐ事故車を避けようと回り込んでいると、車の陰から感染者が現れた。反応が遅れてぶつかってしまう。咄嗟に身構えるススムだったが、感染者からの攻撃行動は見られない。


「急に近づいたり叩いたりすると掴み掛かって来るって聞いてたけど……反応しないな」


 どうやら映画やゲームみたいに襲われたりする事は無いようだ。少し安堵しながら事故車と感染者を避けて道路の端を歩いて行く。

 ふと街路樹の向こうに目をやると、小学校の校舎とその周辺に明かりが見えた。校舎の二階にある教室の電気が点いている。校舎周りの明かりは、篝火を焚いているようだ。


「ああ、そう言えば、その内電気とかも止まるんだろうなぁ」


 学校の中はどうなっているのだろうか。校舎の周囲に篝火があるという事は、非感染者達が避難しているのかもしれない。ススムはそんな風に推察する。


(ある意味、大災害だもんな……世界の滅亡とか、災害ってレベルじゃないけど)


 その時、近くに複数の人の足音が聞こえた気がしたススムは、垣根の陰に身を屈めた。道路脇の垣根から街路樹を挟んだ反対側には、小学校の通学路にもなっている歩道が通っている。通学路の歩道は見通しが良く、隠れられる場所が少ないので避けたのだが、どうやら正解だったらしい。

 足音から五、六人と思われる集団が、ススムのすぐ近くを通り過ぎていく。足音に交じって衣擦れの音や、硬質な物体が軽くぶつかり合うような音。金属製の棒をガラガラと引きずるような音も聞こえた。


(も、もしかして自称自警団の武装集団?)


 息を潜めて集団が通り過ぎるのを待っていると、その集団の話し声が聞こえてきた。


「おい、武器をそんな風に引き摺るな。音で奴等が寄って来たら面倒だろ」

「えー? そんときゃコイツでぶっ潰しゃいいじゃねーすか?」


 そんなやり取りと共に、ブオンブオンとかいう素振りの音が聞こえる。


(鉄パイプ? それとも金属バットかな?)


 これは出来る限りお近づきになりたくない人達だと、ススムはじっと身を潜めて彼等が通り過ぎるのを待った。


「一々相手してたらキリが無いだろ。無暗に消耗させて肝心な時に壊れたら、潰されるのはお前や仲間なんだぞ?」

「へいへい、わかりゃーしたよー」


 主に聞き取れる会話の中心はその二人だが、他にも「なんだ――に向かってその態度はー」とか「まあまあ――さん、いいじゃないですか」などのやり取りが聞こえる。

 彼等の立てる『音』に反応したのか、道路をうろついていた感染者がこちらに集まって来た。


(うぎゃー、こっち来るなーーっ)


 感染者の呻き声に気付いた武装集団が雑談を止める。ススムはこのまま身を潜めておくべきか、今すぐダッシュで逃げるべきかと迷いつつ、武装集団のやり取りに耳を欹てた。

 何時でも走り出せるように、アタッシュケースを脇に抱えてクラウチングスタートの姿勢を取る。


「そらみろ、集まって来たじゃないか」

「あっれ? このへんのヤツラあらかた潰したと思ったんですけどねー?」

「二十体、三十体片付けた程度じゃあ、直ぐまた他所から集まって来るさ」

「物資の運搬路に奴等がいるのはマズいですね。狩っておきますか」


 そんな会話を交わした後、彼等は街路樹の隙間から道路側へと踏み込んで来た。


(あ、これ駄目だ)


 位置について、よーいニゲロ! とばかりにクラウチングスタートで飛び出したススムは、猛ダッシュで逃亡を図った。


「な、なんだ、あいつは!」

「おいっ、そこのお前っ、止まれ!」

「まて、こっちの処理が先だ」


 彼等のそんなやりとりを背後に聞きつつ、アタッシュケースをラグビーボールのように抱えたススムは、一度も振り返らずにこの小学校前の大通りを駆け抜けて行った。



「こ、ここまでくればもう大丈夫かな」


 姿を見られたのは痛かったが、今後も彼等を見掛けたなら、視界に入った瞬間ダッシュ逃亡発動で対処しようと考えるススム。


「ふう……10分ちょっとの距離なのに、随分掛かった気がするな」


 見上げる先には、赤い十字の看板に総合病院の文字が目立つ、大きな建物施設。こうしてススムは、どうにか無事に病院前まで辿り着いたのだった。


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