第20話

 二〇三八年八月二十三日 月曜日 夜


                  1

 冷たく澄んだ月が夜空を碧く照らす。静寂の中を風が自由に泳ぎ、雲を踊らせた。闇夜に浮かぶ分厚い雲を縁取り、その形を明瞭にする天の光は偽りか。佇む月は今地球の裏で放たれている光を全身で受け止め、約束された移ろいの中で可能な限りの反射光を人々に送っている。それは明日も大地を温める光である。その光は強く明るい。煌く星は長い歳月をかけて光を送り、人々の視力を確かめている。それは遠い過去の光である。その光は脆く薄い。ただ、いずれの光も真である。そして、いずれの光も新首都は受け付けない。人々は、若く、浅く、冷たく、従順で、一時的な光に頼り、闇に立ち向かう。ただ、その光は必ず犠牲と害悪という名の影を作り、そして、偽である。人々はそれを誤魔化すように、仮性を真性に根拠付け、必要以上に放ち、ぼかす。

 今夜の新首都もそうだった。日中に溜めた太陽光を電気に変えて放出し始めた夜の摩天楼は、眩い光に包まれていた。ビルの中は発光パネルの天井で燦々と輝き、外では街灯のLEDが路面を照らしている。繁華街には電飾が際限なく灯り、車道の上は車のライトで埋め尽くされていた。歩道の上も家路につく人と出かける人で混雑している。


 それぞれの夜が始まろうとしていた。


 AI自動車の強いライトが幾つも往来する広い道路の路肩に一台の青いスポーツ・バイクが停まっている。そのライダーはバイクに跨ったまま、夜空を見上げていた。

 建ち並ぶビルとビルの間から見える狭い星空の前を一機のオムナクト・ヘリが横切っていく。ライダーはシートから腰を浮かせて雲とビルの間を覗き、そこを高速で移動していく機影を目で追って飛行進路を確認した。

 ラピスラズリ色のヘルメットに無線の声が届く。

『ヘリが到着する。現地に移動し、合流しろ』

「了解。移動します」

 青いスポーツ・バイクのフロント・ライトが眩い光を放った。

 そのライダーは、ヘルメットの黒いバイザーを素早く下ろして路面から足を離すと、ハンドルのグリップを強く握った。タイヤがアスファルトを強く擦り、白煙を上げる。

 青いバイクはオムナクト・ヘリが飛び去った南東の方角へと走っていった。



                  2

 司時空庁長官室の津田幹雄は苛立っていた。彼は机の上を強く叩いて言った。

「くそ! 奥野大臣からは何の連絡も無いのか」

 横に立っていた佐藤雪子が報告する。

「はい。どうも、かなり泥酔されていらっしゃるようで、情報局の兵士が身辺を警護しているとか。おそらく、実際は保護の名目で介抱されているんでしょうね。それで、ウチからの連絡員も大臣に接触しにくいのかもしれませんわ」

「何をやっているんだ、こんな時に。あの馬鹿が……」

 額に当てた手を荒っぽく手を下ろした津田幹雄は、さらに佐藤に尋ねた。

「例の奴らが神作たちを捕まえたというのは、確かなのだろうな」

「ええ。それは確かなようですわ。郷田さんたちの小隊が、タイムマシンの発射施設に向かっているようですわよ。郷田さんも記者たちと一緒にヘリで向かっているそうですわ」

 津田幹雄は色めいて指示を出す。

「よし。現地を警備しているSTS隊員たちに、至急、撤収するように伝えろ。郷田たちのチームをSTSに見られないようにするんだ。何としても、今夜中に決着をつけるぞ。土日に辛島総理が主要閣僚を集めて会合を開いていたと聞いた。この分では、おそらく奥野は明日にでも大臣を罷免されるはずだ。それまでに何としてもバイオ・ドライブと田爪博士の研究データを手に入れなければならん」

「最終的に、あの記者たちはいかがされるおつもりで? ご決心は御つきになられましたの?」

「ああ。データかバイオ・ドライブの在りかさえ聞き出せば、後は消えてもらう。あの広い施設の中だ。遺体の処理に困ることもない。とにかく、朝までには聞き出さなければ」

 津田幹雄は厳しい顔で椅子から立ち上がる。

 佐藤雪子は、前を通り過ぎていく津田に言った。

「警察が彼らを探し始めるかもしれませんわよ」

 津田幹雄は速足で出口へと移動しながら応えた。

「だから急いでいるんだよ。モノさえ手に入れば、警察を捻じ伏せることなど簡単だ。車の手配をしてくれ。私も発射施設に向かう」

 勢いよくドアを開けた津田幹雄は、割れた顎を上げて長官室から出ていった。



                  3

 日没が過ぎたばかりの新日ネット新聞社の社会部フロアでは、日勤の記者たちが帰宅の準備を始めていた。窓の外は薄青色になっていて、室内は蛍光灯の明かりだけに頼り始めている。フロアの奥にはワイシャツ姿の上野秀則が立っていた。彼は左目を黄色く光らせていた。イヴフォンを切った上野秀則は、目の前の机の「島」の隅に顔を向けて言った。

「どうですか、シゲさん。山野の方のイヴフォンは」

 ウェアフォンを切った重成直人が、しかめた顔を左右に振った。

「駄目ですな。電源が切られている」

 上野秀則は首を伸ばして、重成の向かいの席を覗いた。

「永峰、ハルハルは」

 机に電話の子機を戻しながら、永峰千佳は答える。

「駄目です。こっちも電源が切られています」

 上野秀則は肩を落とした。彼は眉間に皺を寄せて言う。

「そうか。こっちも駄目だ。神作のイヴフォンも電源が切れている」

 椅子を回して上野の方を向いた重成直人が言った。

「警察に届けますか。こりゃ、絶対に何かあったに違いない」

 上野秀則が首を横に振った。

「いや、警察は駄目ですよ。公安の赤上たちは全部の通報内容を聞いている。警察を挿むと、あいつらに先回りされます」

 重成直人は胡麻塩頭を掻きながら言った。

「でも、何か手を考えないとな」

 永峰千佳が言う。

「テレビは? テレビで、ウチの記者たちが行方不明だって流してもらえば。たしか、山野編集長は『ニュース・マックス』のキャスターと友達じゃなかったでしたっけ」

 上野秀則が問い返した。

「あの藤崎っていう女か。山野の同級生の」

 永峰千佳は短く数回頷いた。

 上野秀則は再び首を横に振った。

「いや、駄目だ。いくら何でも、ただの行方不明者の捜索に公共の電波は使わせてはもらえない。それにもし事情を添えて報道したら、神作たちが田爪博士の研究データのコピーを持っているんじゃないかという疑いを世界中に広めることになってしまう」

 重成直人が鼻から息を吐いて言った。

「神作ちゃんやハルハルちゃんの身が余計に危なくなるな」

「そういうことです。下手すりゃ、懸賞金すら懸けられかねない」

 そう言った上野秀則は、フロアの中を見渡しながら言った。

「あれ、朝美ちゃんは?」

 振り向いた永峰千佳は、椅子から腰を上げて窓際を覗きながら答えた。

「あら? さっきまで、そこのソファーで電子マンガを読んでたんですけど……」

「ったく、あの子は……。どこに行ったんだ」

 顔をしかめながらそう言った上野秀則は、永峰にもう一度尋ねた。

「ウェアフォンは持ってるんだよな」

 立ち上がった永峰千佳は、低いパーテーションと窓の間の列に移動しながら言った。

「ええ。マンションを出る前に取りに行きましたから」

 上野秀則は頭を掻きながら言う。

「って言っても、あの子のウェアフォンの番号を知らないしなあ……」

 永峰千佳は応接セットの横で周囲を見回しながら上野に言った。

「私、探してきます」

「ああ、頼む」

 永峰千佳は左右をキョロキョロと見回しながら、ゲートの方へと歩いていった。

 重成直人が憂いに満ちた顔で上野に言った。

「やっぱり、襲ったのは例のイカれた国防軍の連中ですかね」

「分かりません。山野は出かける前、ハルハルたちが公安の連中に襲われかけたと言っていました」

「特調かい」

「ええ。だから軍も警察も当てには出来ませんよ。何か他に頼れる所を探さないと……」

「ストンスロプ社は。光絵会長はハルハルには好意的だったように思えるが」

 上野秀則は頬を下げて暫らく考えた。そして、重成の顔を見て言った。

「期待は出来ませんが、今は賭けてみるしかないですかね」

 椅子から腰をあげながら重成直人が言った。

「私から直接、杉野副社長に話してみますよ。彼なら繋いでもらえるかもしれない」

「頼みます」

 上野秀則は、本棚沿いにゲートへと歩いて行く重成に頭を下げた。

 すると、重成の椅子の後ろのドアが開き、谷里素美部長がフロアに出てきた。彼女は深刻な顔で神作の机の横に立っている上野を見ると、澄ました顔で彼に言った。

「どうしたの。何か緊急ですか」

「神作や永山と連絡がつかんのです。下の山野と春木とも」

 谷里部長は神作や永山の机に視線を落としながら言った。

「いつものことでしょ。あっち行ったり、こっち行ったり、フラフラと」

 上野秀則は神作の机の上に置かれていた小さな二枚の写真を谷里に渡した。

「今回は違うんですよ。命を狙われているんです」

 谷里部長は手に持った小さな写真を一瞥すると、溜め息を吐きながらそれを永山の机の上に放り投げた。彼女は上野の顔を指差しながら言う。

「勝手なことをするからよ。記者は判明した事実を読者に伝えればいいの。事実の解明は警察の仕事でしょ。記者の仕事は捜査じゃないのよ。そんなことは捜査権限を与えられている公的部署に任せればいいって言ったでしょ。正当に調べる権限もないのに興味本位で余計なことに首を突っ込むから、危ない目に遭うのよ」

 上野秀則は自分の前に突き出された谷里の手を振り払って、苛立ちをぶつけた。

「あのね、あんたの部下が殺されかけているかもしれないんですよ!」

 そこへ勇一松頼斗と別府博が駆けて来た。勇一松頼斗は息を切らしながら上野に言う。

「ハルハルと、編集長が、居なくなったって?」

 上野秀則は脱力したように神作の椅子に腰を下ろし、勇一松の方に体を向けた。

「ああ。神作と永山も一緒だ。さっき永峰が下に電話して説明しただろ。ハルハルと永山が例の工場に調べに……」

 上野秀則が視線を落として発言をやめた。

 勇一松頼斗は左右の眉を寄せて上野に言う。

「まだ私の推理も説明してないのよ。それが当たってたら、大変なことになるわよ。どうして私の話を聞かないうちに、みんなを行かせたのよ!」

「そうか!」

 顔を上げてそう叫んだ上野秀則は、椅子から立ち上がると、自分の部屋へと駆け込んでいった。パーテンションの壁と天井の隙間からガタガタと音が聞こえる。再び上野秀則が出てきた。彼は背広の上着の片袖に腕を入れて、谷里と勇一松と別府の前を走って通り過ぎていく。次長室のドアは開けられたままだった。

 勇一松頼斗はゲートへと慌てて走っていく上野を視線で追いかけて、彼に叫んだ。

「ちょっと、どこに行くのよ。聞かないの、私の推理」

 振り返った上野秀則は、叫び返した。

「そんな時間は無い! 部長、助言をどうも」

 すぐに背中を向けた上野秀則は、ゲートの外に駆け出していった。

 谷里部長は首を傾げる。

 勇一松頼斗と別府博が顔を見合わせていると、背後から谷里部長が二人に言った。

「ちょっと、週刊誌のお二人さん。これ、どういうことなのよ。またウチの社員におたくの社員が迷惑を掛けてるわけ? もう、こっちも我慢の限界だわ。納得のいく説明をしてもらえるかしら」

 別府博は指先でこめかみを掻きながら言った。

「いや……それが、そのですね……」

 鼻の穴を膨らませた谷里部長は、別府の顔に指先を突き向けながら言った。

「私ね、これから、おたくの社長に正式に抗議してくるわ。もう、これで何度目なのよ。いくら合同取材でも、これじゃ納得いかないわよ。限度ってものがあるでしょ。現時点で新聞は、この事件から手を引かせてもらいます。だから、あんたたちもこのフロアから出て行ってちょうだい」

 谷里素美部長は別府をにらみ付けてゲートの方を指差した。別府博は困惑した顔をしている。

 手を下ろした谷里部長はスタスタと歩いて行こうとした。すると、彼女の前に勇一松頼斗が立ち塞がった。

 目を据えた勇一松頼斗は、低い声でゆっくりと言った。

「トボケたこと言ってんじゃねえよ。あんたもジャーナリズムの端っこに座ってる人間だろうが。まして、てめえの部下の身に危険が及んでんだぞ。納得がいかないだって? 分かったよ、このライト様が納得のいくように、よーく説明してやるから、そこに座んな。この分からず屋ババア」

 勇一松頼斗は谷里をにらんだまま、真っ直ぐに窓際の応接ソファーを指差した。


 

                 4

 山野朝美は、廊下の突き当たりにあるエレベーターホールの奥の大きな窓の前に立っていた。彼女は精一杯に背伸びをして、暗くなった外の景色で鏡のようになっている窓ガラスの高い位置に、上げた右手を当てている。その手にはウェアフォンが握られていた。

 エレベーターから出てきた永峰千佳が、奇妙な恰好で窓に張り付いている朝美の後ろ姿を見つけた。彼女は胸に手を当てて息を吐きながら言った。

「ああ、居た。心配したあ。――何やってるの、朝美ちゃん」

 振り向いた朝美は、駆け寄ってきた永峰を見て言った。

「あ、千佳オバちゃん」

 急停止した永峰千佳は、目を細くして朝美をにらむ。朝美は姿勢を正すと、敬礼した。

「失礼しました。千佳お姉ちゃん!」

 大きく頷いた永峰千佳は、朝美に近寄ってきた。

「――で、何やってるの?」

 朝美は、右手に持った自分のウェアフォンを左手で指差しながら言った。

「ああ、このウェアフォンで、ママかパパのイヴフォンから発信されてるGPS信号を拾えないかなと思って。せっかく高いビルの上だし。向こうのトイレの横とか、上の階のピカピカの部屋の前とかで試してみたけど、やっぱり、ここが一番、電波の受信感度がいいんだよね」

「朝美ちゃん……」

 永峰千佳は何と答えようもなく、ただ言葉を捜していた。すると、永峰の後方で慌ただしい足音が響いた。永峰が振り向くと、上野秀則が社会部フロアのゲートを飛び越えるかのような勢いで走ってきていた。

「あれ、デスク。どこに行くんですか」

 エレベーターの前でバランスを取りながら急停止した上野秀則は、急いでエレベーターのボタンを押す。視界に入ったお下げ髪の少女に気づいた彼は、こちらを向いて言った。

「おお、朝美ちゃん、居たか。何してた」

 朝美はウェアフォンを見せながら言った。

「あ、ヒョウタンおじちゃん。これでね、パパとママのイヴフォンのGPS情報を探してたんだけど……」

「いや、無駄だよ。パパとママは……」

「デスク」

 永峰千佳が上野を制止した。

 朝美の不安そうな視線に気付いた上野秀則は、視線を逸らし、腕時計を覗いた。

「ああ、たぶん、今どっかで御飯でも食べてるんだ。夕飯時だからな。たぶん、地下のレストランとかじゃないかな。ほら、地下は電波が届きにくい所があるからな。きっと、店の奥の方の席なんだよ。きっとそうだ」

 それが嘘だということは、中学生の朝美にも分かった。日中の緊張した事態の後に、両親が二人で自分を忘れて夕食などに行くはずはない。しかも、母親はいつも、仕事が遅くなる時には合間に一時帰宅して夕食の準備をしてくれるのだ。そんなはずはなかった。

 朝美は上野の目を見たまま、黙って首を横に振った。上野秀則は、涙を溜めた目でじっと自分を見る少女の顔を見ることが出来ない。横を向いた彼はエレベーターの階数表示に目を遣り、片方の足で床を細かく踏みながらその到着を待った。

 朝美はウェアフォンを握っていた腕で涙を拭くと、上野に背を向けて、再び窓に近づいた。そして背伸びをしながら、再度、窓にウェアフォンを押し当て始める。その姿を見た永峰千佳は眉を寄せた。

 エレベーターのドアが開いた。上野が乗ろうとすると、中から重成直人が出てきた。上野秀則は反射的に尋ねた。

「ああ、シゲさん。どうでした?」

 重成直人はエレベーターのドアを手で押さえながら、首を横に振った。上野秀則が溜め息を吐く。

 窓辺での朝美の様子を目にした重成直人は、上野に小声で話した。

「社長も副社長も、官房長官の立食パーティーに呼び出されて、不在だそうです」

 上野秀則は眉間に皺を寄せて小さく舌打ちすると、首を傾げた。腕時計を見ながら重成と入れ替わりにエレベーターに乗りこんだ彼は、顔を上げて永峰に言った。

「永峰、朝美ちゃんに何か夕食を食べさせてやってくれ。俺が払うから」

 永峰千佳は黙って頷いた。その隣で重成直人が上野に尋ねた。

「どこに行くんです?」

「国防省ビルに行ってきます」

「国防省ビル?」

 閉まり始めたドアの向こうで、上野秀則は再度腕時計を見ながら重成に言った。

「軍規監視局ですよ。彼らには捜査権限がある。この時間なら、まだ残業している職員がいると思っ……」

 閉じかけた左右のドアの隙間から上野の短い腕が飛び出した。上野秀則はエレベーターのドアを左右にこじ開けると、半身を出して朝美に大声で叫んだ。

「朝美ちゃん! 見つかるぞ! パパとママは必ず見つかる!」

 振り返った朝美は、真っ赤な目を見開いてキョトンとしていた。

 上野秀則は急いでエレベーターの中に体を戻すと、ドアの閉鎖ボタンを何度も押した。

 閉まりかけたドアの隙間から、上野の声が響いてきた。

「永峰、何でも朝美ちゃんの好きなものを注文してやれ! 朝美ちゃんの手柄だから!」

 ドアが閉まった。その前で重成直人と永峰千佳は怪訝そうな顔を見合わせていた。

 山野朝美はもう一度涙を拭くと、気丈に精一杯の笑顔を作って言った。

「じゃあ、特上ハンバーグですな。アイスクリーム付きの。くくく」

 永峰千佳が口角を上げて頷く。山野朝美は大きく鼻を啜った。

 窓の外では雲の後ろから月が薄い光を放っていた。



                  5

 タイムマシン発射施設の滑走路では、暗闇の中で何羽もの海鳥がアスファルトの間から伸びた雑草の上の虫を啄ばんでいた。南の那珂世湾から吹き込む潮風が鳥たちの羽を揺らす。

 約一ヶ月前に閉鎖されたこの施設は、隣の蛭川の対岸で煌煌と光り輝いている総合空港とは対照的に、闇に包まれていた。広大な敷地内に建つ何十棟もの建物のどの窓にも明かりは見えていない。そんな中、滑走路の隅で微かに点滅する光があった。その赤い小さな光の横には一機のオムナクト・ヘリが駐機していて、四方の羽の回転を止めている。その奥には低層のプレハブ立ての整備舎が立ち並んでいた。その中の一棟の小窓から微かに明かりが漏れている。明かりの前を数人の人影が移動していた。一列に並んだその人影は、建物の横の小さなドアから中へと入っていった。

 迷彩柄の戦闘服をだらしなく着た若い男がスチール製のドアを開けた。部屋の中には古いロッカー棚や段ボール箱、折りたたみ式の会議テーブル、束ねられたコード類などが雑然と置かれていて、散らかっている。その若い男は転がっていたパイプ椅子を蹴って除けると、裸電球の下で埃を被っている折りたたみ式の会議テーブルの上に腰を下ろした。外の廊下に立っていた戦闘服姿の大柄な中年男性が神作のシャツの襟を掴み、部屋の中に放り込んだ。バランスを崩した神作真哉は後ろ手に縛られたまま床に転がる。その後から春木陽香が押されて入ってきて、続いて永山哲也が突き飛ばされて入ってきた。二人とも後ろ手に縛られたままである。

 廊下の方から若い男の声がした。

「さっさと入れ、オラッ」

「分かったわよ。押すなってば!」

 最後に不機嫌そうな顔で、同じく後ろ手に縛られたまま、山野紀子が入ってきた。彼女は床の上に寝転んでいる神作を見ると、すぐに彼の傍に駆け寄った。

「真ちゃん、どうしたの。大丈夫」

「ああ、大丈夫だ」

 体を起こした神作真哉は、床の上に胡座をかいて座った。

 中年の男が入ってきて、大声を出した。

「そこに全員座れ!」

 神作に目で促され、山野紀子は渋々と神作の横に腰を降ろした。その隣に半泣き顔で春木が座る。永山哲也は指示に従わず、春木の横で立ったまま、その中年の男をにらみ付けていた。

 戦闘服姿の一番若い男が山野と春木の鞄と巾着袋を抱えて入ってきて、ドアを閉めた。彼はそれらの荷物を壁際の錆びた事務机の上に置くと、床に転がっていたパイプ椅子を机の前に持ってきて、そこに腰掛けた。そして、二つの鞄を逆様にして荒っぽく中身を机の上に出し、春木の立体パソコンと、散乱した荷物の中から見つけ出したMBCを横に置いた。顔の前で軽く両手を擦り合わせた彼は、興味深そうな顔で机の上に散らばっている山野と春木の私物に手を伸ばし、その一つ一つを手にとって丁寧に確認し始めた。それを見た永山哲也が抗議した。

「おい、何してるんだ! 他人の荷物を勝手に、ウッ……」

 永山の横で会議テーブルの上に腰掛けていた中堅の男が、永山の腹部を小銃の床尾で突いて、怒鳴る。

「うるせえ! 黙って座ってろ!」

 永山哲也は咳き込みながら身を丸めた。

「永山先輩!」

 春木陽香が立ち上がろうとした。中堅の男はテーブルに座ったまま素早く小銃を構え、その銃口を春木に向けた。

 神作真哉が男をにらみ付けたまま大きな声を出す。

「ハルハル! ――座ってろ。永山も早く座れ」

 春木陽香は少し浮かせた腰を下ろした。

 永山哲也は顔をしかめながら、渋々と床に座る。

 神作真哉は目の前の中年の大男をにらみながら言った。

郷田ごうだ零音れおんだな」

 次に永山に向けて小銃を構えている、机の上の中堅の男をにらんで言った。

「おまえが久瀬くぜ拓也たくやだ。そして、向こうで物色してるのが、野島のじま闘馬とうま

 机の上に散らばった山野と春木の私物を仕分けしていた野島闘馬は、神作から発せられた自分の名前に反応して手を止め、少し驚いた顔を神作に向けた。

 小銃を肩の上に抱えた郷田零音は神作の前に歩み寄ってきて、そこに屈むと、ニヤニヤした顔を近づけて言った。

「さすがは記者さんだ。どうやって調べた」

 神作真哉は郷田の目を見ながら答えた。

「おたくの仲間が教えてくれてね。簡単だったよ。軍人のカスのワーストスリーを教えてくれって言ったら、あんたらの名前が出てきた。因みに、ナンバーワンはあんただ」

 郷田零音は神作の顔面に拳で一撃を加えると、立ち上がって言った。

「くそ。バード・ドッグの奴らか。事務屋連中が出しゃばりやがって」

 神作真哉は倒れた上半身を起こすと、床に血の混じった唾を吐いた。

 苛立ったようにテーブルから腰を上げた久瀬拓也は、近くに置かれていた段ボール箱を蹴り飛ばすと、紅潮した顔で言った。

「軍規監視局のクソ野郎共が。あいつら、司法試験に受かったエリートだか法曹だか知らんが、調子に乗りやがって。ぶっ殺してやる!」

 郷田零音が久瀬に言った。

「落ち着け、伍長。この任務が上手くいけば、次は奴らだ。俺たちが受けた屈辱を奴らにも受けさせてやればいい」

 机の前の椅子に座ったまま、野島闘馬が言った。

「ですが、軍曹。こいつらに名前を知られているってことは、他の連中にも俺たちのことがバレてるんじゃないですか」

 郷田零音は、野島に怒鳴りつけた。

「いいから、おまえは黙ってブツを探せ!」

 神作に身を寄せながら、山野紀子が郷田に言った。

「私たちの荷物を漁っても無駄よ。あんたたちが探している物は持ってないわ。どうせ、バイオ・ドライブか、その中身のデータのコピーでも探してるんでしょうけど、お生憎さま。私たちも持ってないの」

「嘘を言うんじゃねえ!」

 久瀬拓也は山野に向けて銃を構えた。

 山野紀子は久瀬の大声に驚き、目を瞑って首をすくめた。

 郷田零音は久瀬を制止してから、山野と春木の前にしゃがむと、ニヤついた顔で二人の女性の顔を監察しながら、言った。

「なあ、お二人さん。俺たちのことを調べたんなら、俺たちが南米でやったことも知ってるよなあ。記録に残ってたのかね、俺たちがやったことの全部が」

 郷田零音は久瀬と野島の顔を見て笑みを浮かべた。久瀬拓也はニヤニヤしていた。野島闘馬は机の上で荷物を確認しながら、うすら笑っている。

 郷田零音は下を向いた春木の顎を掴んで持ち上げると、その顔を監察した。次に同じように山野の顔も監察すると、立ち上がり、頷きながら言った。

「どっちも悪くない。色々と楽しめそうだ」

 彼の言葉の後に久瀬拓也が続けた。

「二人とも記者さんたちだからなあ。南米で俺たちがどんなことをしたのか教えてやらないとなあ。取材には、しっかりと応じてやるからよ。自分で体験しないとリアルな記事は書けないもんなあ」

 奥の机で野島闘馬が吹き出した。

 永山哲也は歯を喰いしばって久瀬をにらみ付けていた。春木陽香は怯えて下を向いている。

 山野紀子は郷田の顔を見上げて言った。

「あんたたち、最低ね」

 郷田零音は山野の髪を掴むと、身を屈めて彼女に顔を近づけ、わざと神作に聞こえるように言った。

「あんた、資料で見るよりいい女だな。何なら別れた御主人の前で始めてもいいんだぜ」

 その言葉を聞いた神作真哉は、唸り声を上げて郷田に飛び掛った。郷田零音は後手に縛られたままの神作を払い除けると、床に倒れた神作の腹部を固いブーツの先で蹴った。転がった神作真哉は苦しそうに体を丸める。咄嗟に立ち上がった永山に久瀬が銃を構えた。

 郷田零音は腰から大きなナイフを抜いて、床に倒れた神作の方に向かう。

「やめろ!」

 部屋に響いた声に反応して、郷田と久瀬は動きを止めた。

 ドアが開けられた出入り口の向こうに津田幹雄が立っていた。

 郷田零音はナイフを仕舞いながら言った。

「どうも、長官。お早い御着きで」

 他の戦闘服の男たちを引き連れて現れた津田幹雄は、部屋の中へ入ってくると、郷田と久瀬をにらみ付けて言った。

「馬鹿どもが。拷問する前に痛めつけてどうするんだ」

 山野紀子は後手のまま、床の上で苦しそうに身をよじっている神作の横に寄った。

「真ちゃん、真ちゃん!」

「ゴホッ、ゴホッ……大丈夫だ。効いてない。ゴホッホッ……」

 神作真哉は額を床に着けて体を支えながら身を起こそうとした。山野紀子は彼を背中で支えて起こした。

 津田幹雄は野島の方に手を伸ばし、指先を動かして彼に合図した。野島闘馬は椅子から立ち上がり、そのパイプ椅子を津田の後ろに持ってきた。津田幹雄は床に置かれたその椅子にゆっくり腰を下ろすと、足を組み、神作と山野、春木、永山と順に目を向けてから、口を開いた。

「まったく。君たちは、自分たちが記者だという自覚があるのかね。どうして余計なことをしようとする。記者は黙って、我々が提供した情報を国民に伝えてくれれば、それでいいんだよ。吠えたり噛み付いたりはポーズだろ。九十年代から今まで、ずっとそうしてきたじゃないか。それなのに、君たちは、何故こうも我々の公務を邪魔するんだね」

 永山哲也が津田に冷ややか視線を送りながら言った。

「警官を殺害するのも公務なのか」

 怪訝な顔をした津田幹雄は、郷田に厳しい視線を向けた。

 郷田零音は笑みを浮かべながら、津田に言った。

「誰にも見られちゃいませんよ。周囲十キロに人が居ない区域ですから」

 津田幹雄は大きく溜め息を吐くと、舌打ちしてから立ち上がり、野島の方を見た。

 彼は少し苛立った口調で言った。

「こいつらの携帯端末は回収したのか」

 野島闘馬は机の上に置かれていた小さな巾着袋を持ち上げて見せながら答えた。

「はい。すべて回収しました。電源も切ってあります」

 津田幹雄は野島の傍の机の荷物を指差しながら言った。

「ブツは見つかったか。バイオ・ドライブか、データを書き込んだMBCの類は」

 すかさず山野紀子が声を上げた。

「だから、持ってないって。なに勘違いしてんのよ、あんた!」

 津田幹雄は、山野を無視した。

 野島闘馬は立体パソコンを取って津田に渡すと、春木を指差しながら言った。

「その女の、この立体パソコンとMBCが二枚。それだけです。あとは他に何も」

 春木陽香は勇気を出して大きな声で叫んだ。

「それには何も入っていませんよ! ただの取材データですから!」

 間髪を容れずに津田幹雄は言った。

「それはそれで、問題だ」

 そして、背後の兵士たちの一人に春木のパソコンとMBCを渡すと、指示を出した。

「そのパソコンとMBCを別室で解析しろ。念のため全部の携帯端末もだ。三号棟のラボに機材が揃っている。それを使用して中を徹底的に調べるんだ」

 敬礼をしてその兵士が部屋から出て行くと、津田幹雄は郷田の方を向いた。

「軍曹、警察の奴らが乗り込んで来るかもしれん。戦闘の準備をしておけ。防具と武器は届いている。人員が予定通り集合しているか確認して、適切に配置するんだ。そっちの指揮は君に任せる」

 郷田零音は津田に敬礼して言った。

「了解です、長官殿。で、それは何処に?」

「第二倉庫だ。急いで取り掛かれ。とにかく、朝までこの発射施設には誰も入れるな。それまでに、こいつらに研究データの在り処を言わせて、データを入手できれば、こちらの勝ちだ。あとは私に任せもらえればいい。君らの処遇など何とでもできる」

 郷田零音は久瀬と視線を合わせると、再び津田に敬礼して言った。

「はは。了解しました。要望どおり処遇していただけることを期待しております。次期総理大臣殿」

 続いて郷田零音軍曹は、それまでとは違う太い声で、他の兵士たちに指示を飛ばした。

「伍長、野島一等兵、行くぞ。おまえらも急げ。戦闘準備だ。おまえとおまえは、ここに残って長官殿を護衛しろ。残りは第二倉庫に移動だ。急げ!」

 郷田に指された二人の兵士以外の全ての兵士が、その場から立ち去った。

 津田幹雄は、残った二人の兵士に部屋の外に出ているように指示すると、ドアを閉めて鍵を掛け、再び椅子の所に戻ってきた。

 椅子に腰掛けた津田幹雄は、今度は少し前屈みになって、広げた左右の足の膝の上に左右の肘をそれぞれ載せた。顔の前で両手の指を組んだ彼は、下を向いて溜め息を吐く。そして顔を上げると、その大きな顎を少し引いて床の上に視線を落としたまま、四人の記者たちに対して静かに言葉を発した。

「夜は始まったばかりだが……。さて、誰からにするかね。拷問を受けるのは」

 眼鏡のレンズの奥から津田幹雄の冷酷な眼差しが記者たちを捉えていた。



                 6

 カウンターの向こうには、いくつも事務机が置かれていた。天井の電灯は煌煌と灯っているが、人は誰もいない。奥には業務用の大型記憶装置が置いてあり、左右の壁際には間隔を空けてドアが並んでいる。その壁の隅に、濃紺の制服を着て笑顔で敬礼する女性タレントのポスターが貼ってあった。タレントの下には「国防兵士募集」と大きな文字が並んでいる。

 手前のドアが開き、ポスターの女と同じ濃紺の制服を着た若い女が出てきた。革の鞄を提げたその女は、髪をきちんとまとめて上げ、綺麗な項を見せている。ドアを閉め、IDカードで鍵を閉めた女の背後から声がした。

「あのお、すみません」

「わっ、びっくりした」

 両肩を上げた女は、驚いた顔で振り向いた。大広間の受付カウンターの前に小柄な男が立っている。背広姿の男は、その上級軍人の制服を着た若い女に言った。

「あ、すみません。驚かせて。あの、軍規監視局は、こちらでよかったんですかね」

「はい。――そうですけど。どちら様ですか」

「ああ、先程お電話したうえにょ……違った、上野という者ですが」

「ウエノさん……?」

「ええと、ついさっきイヴフォンで下の門の所からお電話したんですけど」

 女はカウンターの前まで歩いてきて言った。

「はあ。すみません、私、聞いてなくて。電話を受けたのは事務の者でした?」

「ええ。監察官さんに口頭で通報したいことがありまして……。できるんですよね、口頭でも」

「はい。法律と軍の規則上はそうなっています。おかしいわね、みんな帰ったのかしら。まったく……」

 女は大広間の中を見回す。事務スペースに人影はない。女は上野の方を向いて言った。

「あの、何かお急ぎなのですか。私も一応、監察官なので、お話は伺えますけど」

 上野秀則は少し驚いた顔で言った。

「あ……そうなんですか? そうですか……」

 女をジロジロと見ながら、そこから先の発言を躊躇している上野の様子を見て、女は彼の意を察したようだった。

「あの、もし別の者がいいということでしたら、出直していただけると助かりますが。今日はもう皆帰っていますので。本当に申し訳ないのですけれど……」

「いやいや、こんな時間に押しかけたのは私の方ですから。構いません」

「そうですか。ただ、私は出勤が午後からなんです。一応、ご報告内容はメモで上司に伝えますが、手続き上は上司への報告も他の監察官への事件引渡しも、正式文書の提出と面前での口頭説明が必要だということになっていますので、私が担当するにしても、他の監察官が担当するにしても、内容に取り掛かるのは明日の午後からになると思います。どうしても急ぎの内容でしたら、明日の午前中に別の監察官に直接ご報告された方が早いと思いますよ。そのまま、お話を伺った監察官が手続きを進められますから」

 上野秀則は真剣な顔で訴えた。

「いや、一刻を争っているんです。友人が殺されるかもしれないのですよ。国防軍の人間に!」

 女は眉間に皺を寄せた。そして、カウンターの向こうの狭い応接ソファーを手で指し示して言った。

「話が穏やかではないですね。まあ、お掛け下さい」

 軽く一礼した上野秀則は、その応接ソファーに向った。

 上野秀則とその若い女は、壁際に置かれた合皮の硬い応接ソファーに腰掛け、小さな応接テーブルを挟んで対座した。姿勢よく座っている女の紺の制服の左胸には幾つもの小さな勲章が並んでいる。金バッジが付いたテーラードカラーの下に整う白いシャツと真っ直ぐにきちんと締められたコバルトブルーのネクタイが美しい。そこからすらりと伸びた首の上でナチュラルメイクの端整な顔がこちらを向いている。

 上野秀則は少し緊張しながら名刺を差し出した。

「新日ネット新聞社の上野と申します」

「監察官の外村です」

 そう名乗った女から名刺を受け取った上野秀則は、その名刺に目を通した。「国防省軍規監視局 監察官 外村美歩」と記載されている。

 外村ほかむら美歩みほは上野の名刺を丁寧にテーブルの上に置くと、彼の目を見て言った。

「それで。国防軍の人間によってご友人の命に危険が及んでいるとは、どういうことですか」

 上野秀則は少し警戒するような目で外村を見て、彼女に言った。

「その前に、失礼ですが、おたくは正規の監察官ではないので?」

 外村美歩は上野の眉を読んだように先を答えた。

「先程の勤務時間の話ですね。そうです。非常勤です。遅番のパートタイム勤務です」

 上野秀則はもう一度、受け取った名刺に目を通した。

「パートさん……」

 上野がそう呟いたの聞いて、外村美歩は続けた。

「ですが、法律上は私も正式な監察官です。法律上、勤務時間で区別する規定は設けられていませんので」

 顔を上げた上野秀則は、目の前の若い女に確認した。

「ということは、司法試験に合格された法曹の方なんですね」

「はい。憲法上、国防軍内には監察官を配置することが義務付けられていますし、法律上も、監察官の採用は法曹に限定されています。ですので、私も当然、法曹です」

 上野秀則は尚も警戒して尋ねた。

「ということは、法律は当然、遵守されるのですよね」

 外村美歩は真っ直ぐに上野の顔を見て答える。

「それは法曹に限らず国民すべての義務です。あえて言わせてもらえば、我々には、国防軍兵が軍規を遵守し法律を遵守するべく、彼らを監視する義務があるということです。国民主権を維持するために」

「監視……国防軍兵を実質的に仕切っているということですか?」

 外村美歩は静かに首を横に振る。

「それは最高指揮権者の内閣総理大臣の権能だと思います。つまり指揮命令系統の問題。ただ、我々『監察官』は全員が大佐階級ですし、各監察官は独立して、国防委員会が定めた国防軍規則に違反した国防軍兵を国防審議会に起訴報告し、内部法廷である同会主催の軍法会議で被告人に相応の罰を与えるよう申述する権限と、国防兵が刑法違背を為した場合には、彼らを刑事訴訟法に則って地方裁判所に通常起訴あるいは簡易裁判所に略式起訴する権限を有しています。もちろん、その前提となる国防軍兵の逮捕、尋問も。ですからそういった意味では間接的に軍の統制を補佐しているのかもしれません」

 上野秀則は外村の上着の勲章に目を向けながら尋ねた。

「あなたも大佐さんなのですか」

「はい。そのように任命されています」

 すると、上野の背後のパーテーションの後ろのドアが開き、大広間の中に外村と同じ紺色の制服を着た中年の男性が入ってきた。その男の歳は上野や神作よりも上だろうと思われたが、重成ほどに年季を入れてはいないようだった。

 男は応接ソファーに座っている外村を見て言った。

「あらら、外村監察官。まだ残ってたの。早く帰らないと」

 外村美歩は椅子から立ち上がって言った。

「ああ、局長。いえ、帰るところだったのですが、こちらの方が緊急通報に来られたものですから」

「緊急通報?」

 男は眉を寄せる。

 上野秀則もソファーから立ち上がり、自分の名刺を男に渡した。

 男は左手で名刺を受け取ると、それに目を落としながら言った。

「ああ、新聞社の方。記者さんですか」

 彼はずっと名刺を見ていた。

「ご友人が国防軍兵に命を狙われていると仰るもので……」

 外村美歩がそう言うと、男は名刺から目を放して上野の目を見た。その小さな目をじっと見据えた後、彼は上野にソファーに座るよう促した。そして上着のポケットから名刺入れを取り出しながら、上野の向かいのソファーの奥に座った。外村美歩が男の隣に座る。

 上野秀則は男から貰った名刺に目を通した。そこには、「国防省軍規監視局 局長 森寛常行」と記載されていた。

 森寛もりひろ常行つねゆきはソファーの背もたれに身を倒すと、腕組みをして言った。

「しかし、そういう話でしたら、まずは警察に行かれた方が早いのでは。一応、制度としては、向こうからも我々の方に連絡が来るようにはなっていますので」

「いや、それが、警察には行けんのです。だからこちらに伺ったのですよ。おたくの門番の兵隊さんと門の前で三十分以上もやり取りした挙句、ようやく敷地の中に入れてもらってね。だから何としても話を聞いてもらいたい」

 上野秀則は真っ直ぐに森寛局長の目を見て、そう言った。彼は一歩も退かぬと言わんばかりの気迫だった。

 森寛常行と外村美歩が顔を見合わせる。

 森寛常行は頭を掻きながら、小声で外村に言った。

「よわったなあ。実はね、今日は結婚記念日なんだよ。嫁と食事に行く約束をしていたんだが……こりゃ、話を聞かないといけないみたいだね。外村監察官、君はもう帰っていいよ。僕が聞いておくから」

 外村美歩は姿勢を正したまま言った。

「いえ、一応、伺わせてください。事務職員も全員退庁していますから、もし緊急で動く必要があれば、人手が必要でしょうし……」

 森寛常行は壁の時計に目を遣りながら言った。

「――そうかい……」

 そして、上野の方に視線を戻すと、真っ直ぐに座り直して言った。

「じゃあ、上野さん、手短に頼みますよ。要点をまとめてお願いします」

「分かりました。ありがとうございます。まずですね……」

 上野秀則は、これまでの経緯を語り始めた。

 軍規監視局の事務室の大部屋には三人の他に誰も居ない。

 窓の外はすっかり暗くなっていた。


 

                 7

 整備舎の隅にある用具置き場の冷たい床の上に記者たちは腰を下ろしていた。全員が後ろ手に縛られ、服も汚れている。その四人の前には、パイプ椅子に座って前屈みになっている背広姿の男が居た。男はシルクの赤いチーフで眼鏡を拭いている。

 チーフをポケットに戻した津田幹雄は眼鏡を掛け直すと、座っている順に、神作真哉、山野紀子、春木陽香、永山哲也へと顔を向けていった。その後、深く項垂れた彼は、床に視線を落としたまま言った。 

「どうします? 言いますか。データの在り処を」

 山野紀子が険しい顔で返した。

「だから、知らないって言ってるでしょ」

 津田幹雄は短く溜め息を吐くと、顔を上げて永山を見ながら言った。

「田爪博士から受け取ったのでしょ。研究データのコピーを。永山さん」

 永山哲也は真っ直ぐに津田の顔を見て答える。

「何も受け取ってはいない。僕が受け取った物は、あのレポートで述べた物だけだ」

 再び項垂れて溜め息を吐いた津田幹雄は、体を起こすと、背広の内ポケットから二枚の写真を取り出して床に放り投げた。それは、山野のマンションのエントランスの前に立っている春木と神作の写真で、今朝、勇一松から山野が受け取った写真を大きく引き伸ばしたものだった。春木が神作に差し出している紙袋の部分と、神作が春木に差し出している封筒の部分が、赤い線の四角い枠で囲まれている。

 津田幹雄は神作の顔を見て言った。

「神作さん。なら、どうしてわざわざ、離婚した奥さんの自宅マンションにまで行く必要があったのです。この女から何を受け取ったのですか」

 津田に指差された春木陽香はボソリと言った。

「レモンチーズケーキですけど……」

 津田幹雄は春木の方に反射的に顔を向けた。

「レモ……ふざけるな! そんな物を渡すために、わざわざ上司の自宅マンションまでバスを乗り継いで行って、その別れた元夫に、玄関エントランス前で接触したというのか。この男から受け取った封筒の中身はMBCだろ。田爪博士の研究データが保存されているMBC。違うか!」

 津田幹雄は春木を右手で指差したまま強くにらみ付ける。

 春木陽香は口を尖らせて呟いた。

「お金です」

「金?」

 津田幹雄は床の上の写真を覗き込んだ。そして再び顔を上げると、春木に向けて右手の人差し指を振って見せた。

「ははん、分かったぞ。神作に渡した、この紙袋の中にデータを入れたドライブが入っていたんだな。なるほど、バイオ・ドライブに記憶させた研究データなら、かなりの容量であるはずだ。MBCには入りきらなかったか。それで、他の容量が大きい記憶装置にデータを保存した。きっとドライブ・ボックスか何かだな。それを田爪博士から受け取った永山は、山野さん、あんたに渡して自宅に隠させていた。あんたが入院したので、この女に取りに行かせ、神作が受け取った。金は、その報酬だな」

 津田幹雄は春木から永山、永山から山野、山野から春木、春木から神作へと指先を向けていき、最後に春木を指差した。

 春木陽香はムッとした顔で言った。

「他人のことを指差さないで下さい。違いますよ。それはオムライス代です」

「なんだって?」

 津田幹雄はしかめた顔で聞き返した。

 春木陽香は口を尖らせたまま小声で言う。

「だから、オムライスの、ごにょごにょごにょ……」

「聞こえん。はっきり言え!」

 津田幹雄は、よく磨かれた革靴で床を強く踏み鳴らした。

 春木陽香は言った。

「オムライスの材料代です。私が買った玉ねぎとか卵とか、お肉とかの支払い分を、神作キャップが補填してくれたんです。少し多めに。お礼だって。私も最初は遠慮したんですけど、神作キャップが受け取れって言うから、申し訳ないなあと思いつつも、有り難く受け取ったんです」

 津田幹雄は唖然とした顔をしていた。そして、春木を何度も指差しながら怒鳴った。

「ケーキの次はオムライスだと? 私をからかっているのか! 次は何が出て来るんだ。ん? カレーか、シチューか!」

 春木陽香は首を横に何度も振って言う。

「ああ、やめてください。只でさえ、昼食はアンパン一個とコーヒー牛乳だけで、お腹が空いてるんですから。こんな夕飯時に……はあ……カレーにシチューかあ」

 端に座っていた神作真哉が呆れて項垂れた。

 山野紀子が春木を見て言った。

「お昼、それだけ?」

「そこかよ」

 顔を上げてそう言った神作真哉は驚いた顔で山野を見ていた。

 春木陽香は山野の方を向いて言った。

「だって、永山先輩が、張り込み中の刑事はアンパンとコーヒー牛乳だって。しかも、なぜか車の中で食べて。刑事でもないし、張り込んでもいないのに」

 山野紀子は春木の後ろから永山を覗いて、小声で言った。

「ちょっと、哲ちゃん。先輩でしょ」

 少し後ろに身を倒した永山哲也も春木の後ろで、小声で山野に言った。

「いや、まあ、雰囲気が出るかなと思って。工場に着く前でしたから」

 山野紀子が声を潜めて言う。 

「せっかく憧れの先輩との出張だったんだから、何かご馳走くらいしてあげなさいよ。ハルハルは満たされるはずもない恋に、無駄に胸を躍らせていたはずよ。せめて、胃袋くらい満たしてあげないと」

「他人の昼食までは無理ですよ。僕は所帯持ちですよ。小遣いも少ないし、特に今月は厳しい状況なんですから。もう少し大きなアンパンにすればよかったんですかね」

「違うでしょ。ハルハルは女の子なんだから。苺ジャムパンにしなさいよ。苺ジャムパンに」

 少し前屈みにしていた春木陽香は、引き攣った顔で言った。

「全部聞こえてます。菓子パンからは離れて下さい。大きさや種類の問題じゃないです」

 神作真哉が津田の顔を見て言う。

「な。俺たちは何も持ってないんだよ。もう、分かっただろ」

「分かるか! 今の会話から何を汲み取れと言うんだ」

 津田幹雄は大声で怒鳴った。春木を指差しながら、彼は怒鳴り続ける。

「それにな、行動が不自然な点だらけじゃないか! じゃあ、何かね、職場の上司の自宅に、わざわざオムライスを作りに行ったのか、君は」

 津田に再び指差された春木陽香は、キョトンとした顔でコクコクト頷いて見せた。

 津田幹雄はそれを目に留めることなく、向きを変えて、今度は神作を強く指差しながら言った。

「そして君は、その材料代に多少の額を上乗せした金を包んで、わざわざそこまで足を運んだと言うのかね。そんな金を渡すために、わざわざ」

 再び春木を指差した津田幹雄は言う。

「で、君は自分の直属の上司でもない男に、手作りのレモンケーキを渡したと」

 春木陽香が言った。

「レモンケーキです。それと、指差さないで下さい。訳も無く他人を指差すと、その指を怪我するって、ウチのお婆ちゃんが言ってましたよ」

 紅潮した顔に血管を浮かせた津田幹雄は、さらに大声で怒鳴った。

「うるさい! 君たちは、私を馬鹿にしているのかね。こんな不自然な話があるか。どこの世界に、職場の上司が入院して、その自宅まで行って食事を作る人間がいるんだね。そんなことはテレビドラマや三流小説の世界の話じゃないか!」

 また津田幹雄は春木を指差した。

「春木くん、君は出世したくて会社に入ったのではないのかね。上司が入院して、どうしてその上司が復帰するためのサポートをするんだ。不自然だろう。空いた椅子を狙うチャンスじゃないか」

 今度は神作の顔をにらみ付けて言う。

「材料代を補填しただと? 離婚したんだろ、君と山野くんは。少なくとも、法的にはそうだ。それに春木くんは君の直接の部下でもない。じゃあ、君とは関係ないじゃないか。どうしてわざわざ金を渡して補填しようとする。必要ないだろ、全く。本人の承諾なき第三者弁済じゃないか。しかも、わざわざ持参して。まさか、今時、現金で渡したなどと言い張るつもりじゃないだろうね」

 四人の記者たちは互いの顔を見て、それぞれ首を傾げた。

 津田幹雄は、やはり春木を指差しながら、厳しい顔で言った。

「春木くん。ちゃんと分かっているんだ。君は八月一日に永山くんの家を訪ねているね。その後、隣家の庭に回りこみ、永山くんから何かを受け取ったはずだ。それが田爪博士の研究データだ。そうなんだろ」

 続いて山野を指差した。

「そのデータは山野くん、君のマンションに保管されていた。それを春木くんが再び取りに行き、神作くん、君の手に渡った。いや、もしかして、まだ山野くんのマンションなのか。あるいは……」

 天井を見ながら思い出していた春木陽香は、口を開けた顔を津田に向けて言った。

「ああ、あの日のことですか。あれは『夏休みの友』ですけど」

「夏休み……? 貴様……」

 津田幹雄は鬼のような形相の顔を春木に向ける。

 神作真哉が大きな声で話しかけて、津田の注意を自分に向けた。

「田爪の研究データのコピーなど、誰も持っていない。さっき、あんたの部下が公安に逮捕されたばかりだろ。もし俺たちが持っているなら、とっくに公安が回収している。俺たちは何も持ってない」

 津田幹雄は長く息を吐いて自らを落ち着かせると、上げた顔を永山に向けた。

「どこに隠したんだね。そんなデータを手にしたところで、君らに金儲けは出来んよ。まして権力を手に入れるなど、到底無理だ。諦めたまえ」

 横を向いた山野紀子が、津田に聞こえるように呟いた。

「別に私たちは、そんなことは考えていないわよ。このパーチクリン」

 津田幹雄は山野に顔を向けると、引きつりながら口角を上げて尋ねた。

「では、なぜ、ここまで懸命になる。私なら自分の身の安全を優先させるがね。ああ、なるほど。永山くんか、春木くんだな。この二人の内のどちらかが隠し場所を知っている。だから神作くんと山野くんは二人を追いかけてきた。そういうことか」

 納得したように頷いている津田を見ながら、永山哲也が言った。

「もし、ここに田爪博士が居たら、あなたは真っ先に消されていますね。あの量子銃で。きっと博士が最も嫌うタイプの人間だ」

 津田幹雄は鼻で笑った。

「ふん。実際、管理局時代も好かれてはいなかったがね」

 永山哲也は大きく頷いて見せた。

「でしょうね。僕らが必死になる理由も、ハルハルが料理を作りに行った理由も、僕の家に差し入れを持ってきてくれたということも、理解できない程度の人ですからね」

 前に頭を出した神作真哉が、山野と春木越しに永山に言った。

「無駄だ、永山。この男には何を言っても通じるはずがない。それは、こいつが今、窮地に立たされてパニクっていることだけが理由じゃない。この男は元々、俺たちの話を理解する素地を持ち合わせてはいないんだ。入っているべきであるはずのことが、こいつには入っていない」

 山野紀子が津田の顔を見て言う。

「長官、あんた、歳は幾つよ」

 津田幹雄は怪訝な顔で答えた。

「五十五だが」

 山野紀子は体を反らせて顔をしかめた。

「うわあ……あの世代だ。多いのよね、こういう人が」

 横から神作真哉が言う。

「紀子。世代の問題じゃないさ。育ちの問題だよ。きっと、周りの大人から育ててもらえなかったんだ、この人は」

 津田幹雄は片頬を震わせながら神作をにらんで言った。

「私の育ちの問題をどうこう言われる筋合いは無いがね。それに、金持ちの子供が立派な人間になるとは限らんさ。まあ、私の実家は平均的な世帯収入の家庭だったがね」

 神作真哉は下を向いて首を左右に振ると、溜め息を吐いて言う。

「そう言うことを言ってるんじゃねえよ。だから、分かってねえって言ってるんだ。育ちに貧富の差は関係ないだろ。ったく……」

 神作真哉は大袈裟に首を傾げた。

 震える手で眼鏡を少し上げた津田幹雄は、大きく溜め息を吐いた。

「どうやら、私と君たちは一生涯、理解し合うことは無さそうだ。考えてみれば、理解し合えるはずがない。そもそも根本的に、君らには欠けているものがあるのだからな」

「なんだと」

 神作真哉は顔を上げた。

 津田幹雄は神作を指差して言う。

「神作くん、君は地方の出身だったな。山野くん、君もだ。永山くんも、一応そうだったな」

「なによ。田舎者だと馬鹿にしてるわけ?」

 山野紀子は眉間に皺を寄せた顔を何度も縦に動かして津田にガンを飛ばした。その隣で春木陽香が目を瞑り、胸を張って誇らしげに咳払いをする。

「ゴホン。生粋の新首都っ子は私だけですか。いや、参りましたな」

「あんたも旧市街の生まれでしょ。あそこは遷都宣言がされた二〇二二年までは、地方都市だった所じゃない。同じじゃないのよ」

「ノンさん、ハルハルと競っても仕方ないでしょ」

「別に競っちゃいないわよ。私の方が美人でフェミニンでしょ。大人の魅力では、こっちの方が……」

 頭を前に出して永山に反論している山野の隣で、神作真哉が津田に言った。

「何が言いたいんだ。地方出身者が書く記事は信用できないか?」

 津田幹雄は首を横に振る。

「まさか。私自身、大学の時に地方から出てきた人間だからね。君らと同じだよ」

 そして、割れた顎を突き出して神作を見下ろしながら、彼は語った。

「だが、違う点もある。君らが親元を離れた時は、この国の経済は既に回復傾向にあっただろうが、私の頃は違った。どん底だ。君らはどんな夢を描いて都会に出てきたのかね。将来の出世かね、成功かね。私は違う。この国を変えようと思っていた。社会を変えようと本気で思っていたよ。誰かがそうしなければ大変なことになると思っていた。だから初めから官僚になるつもりだった。神作くん、君は九一年生まれだったね。ということは、二〇一〇年頃に田舎から出てきたのかな。経済の回復軌道と共に人生の基礎を積むことが出来たわけだ。東京オリンピックの小バブル景気の頃に二十九才か。羨ましいねえ。私は違った。私が田舎から出てきたのは二〇〇二年だ。長引く不況の中、ITバブルは崩壊し国際金融も混乱。株価も暴落。何もかもが逼迫していたよ。実家の父はリストラで解雇され、母もパートを切られた。私も随分と苦労して、やっとかっとで大学を卒業した。その後すぐに世界金融危機、続いてリーマンショックだ。経産省の官僚に成りたてだった私がどれだけの苦労をしたかは想像できんだろう。だが、同時にその時、私は知ったのだよ。この国のリーダー共は不適格者の集団だとね。見回せば二世政治家や二世官僚たちばかりだった。あいつらは苦労を知らん。庶民の苦しみも知らん。奴らに任せておく訳にはいかん。そうこうしている内にASKITが鎌首をもたげ始めた。そして、あれよあれよという間に国内に勢力を忍ばせてきたんだ。今、この国は強力な国外勢力から沈黙の侵略を受けようとしているのだぞ。いや、既に受けている。ようやく念願の新憲法を制定することができ、国防軍を備えることも出来たのに、これでは意味がない。何としても奴らを排除しなければならない。それにはリーダーが必要だ。強いリーダーがね。誰がいる。辛島か? 有働か? 彼らが何をしたというのだ。奥野も長船も、小園も、政界の大物を気取っているが、やっていることはどうだ。ただのビジネスマンじゃないか。奥野に至っては国賊だよ。国防大臣のくせに外国企業の子会社から賄賂を受け取っていた訳だからな。私が介入しなかったら、今頃どうなっていたと思うんだ。私しか居ないのだよ。私がこの国の実権を握り、この国の総理になる。そしてその後、ASKITを排除し、無駄な政治家たちの首を切ってみせる。世の中を正しい方向に変えてみせるさ」

 神作真哉が笑った。

「あんたが総理だって? 冗談だろ」

 津田幹雄は真顔で答えた。

「本気だよ。それが、私が若い頃から抱いてきた信念だ。私が変える。この世の中を変えるのだ。私は君らとは違うのだよ。観戦席から野次を飛ばしているだけの、君らマスコミの人間とはね」

 ゆっくりと椅子から腰を上げた津田幹雄は、床に座る記者たちを前にして胸を張って立ち、手を後ろで組んで滔滔と弁じ始めた。

「これまで君らマスコミが何をしてきたかね。いつも叩くのは政府や政治家ばかり。しかも視聴者や読者、閲覧者向けのポーズあるいはパフォーマンスだ。評論家連中と同じさ。所詮は金と出世のため。過激で受けのよいことばかり言っている。だが本当は、この国が国民の気付かないところで徐々に国外勢力に侵食させているという事実こそ、君らが国民に伝えなければならない事実なのではないのかね。君らが英雄気取りで我々政府の人間を攻撃し続けてきた結果がこれだ。優秀な人間が誰も権力者を目指そうとしなくなった。弁護士も、医者も、企業家も、学者でさえも、金を得ようとするだけ。世の中や社会のことなど考えない。優秀な頭脳を宮仕えして活かそうとも、政治家になって国民を説き伏せることに使おうともしない。独立だの自由だのと尤もらしい言葉を並べて、結局は自分の人生の幸せを優先させる。君たちと同じだよ。皆、自分が大事。そして、いざという時には必ず尻込みする。どいつもこいつもそうだ。臆病者で事無かれ主義。安全な道を選んでばかり。しかし、私は違うぞ。こうしてリスクを犯してでも、上に立とうとしている。そうやって官僚同士の熾烈な戦いを勝ち抜いてきたのだよ。何もかも捨てて、他の人間に構うことなく、一意専心で勝利のみを追い求めてきた。だからこそ、今のこの地位を手に入れることが出来たのだ。この今の私の地位こそが私の実力の証明なのだよ。私は実力者だ。その私がやらなければ、他に誰がこの国を救えるのかね。今こうしている時も、この国はASKITに乗っ取られようとしているのだぞ。誰かが自分の幸せを捨て、人柱として犠牲になる覚悟でこの国の舵取りをしなければならん。私にはその覚悟がある。能力も、経験も。私しか居ないのだよ、今、この国のリーダーになるべき人間は。だからここで些細なことに足を取られる訳にはいかんのだ。よく考えてみたまえ。奥野大臣はあの調子、辛島総理はバックのストンスロプ社に動かされているのだぞ。ストンスロプ社は私企業じゃないか。その証拠に、単に奥野が自分たちのライバル会社であるNNC社やNNJ社と内通していたというだけで、企業利益のために彼を政府から追い払おうとしている。ストンスロプ社に背中を押された辛島は、おそらく明日には奥野を更迭するはずだ。そうなれば国防軍を誰が掌握するのだね。軍が宙に浮く事態になれば、ASKITの連中は絶対にその隙を突いてくるぞ。解るかね、今は国防軍の力が必要な時だ。奥野の更迭は絶対に阻止せねばならんのだ。そのためには辛島を黙らせる必要がある。それには、あの研究データが必要なのだ。だから急いでいるんだ。君らも少しは国や社会のことを考えているのであれば、素直にデータを渡してくれないか。私なら、そのデータの価値を利用して、この国を救えるのだから。共に協力してこの国を救おうではないか。さあ、どこだ。データの在り処を教えてくれたまえ!」

 津田幹雄は、まるで舞台の上の俳優のように、大袈裟に懇願した表情で四人の前に手を差し出した。

 山野紀子が言う。

「だから、持ってないって。あまりに熱弁過ぎて、もう少しで、持ってもいないデータの在り処を適当に言いそうになったわ。危ない、危ない」

 横から神作真哉が呆れた顔で津田に言った。

「あのさ、『君子は豹変す』って言うだろ。間違えてるんだからさ、諦めて、早く俺たちを解放しろよ」

 再びパイプ椅子に腰掛けた津田幹雄は、深く嘆息して言った。

「そうか。やはり、理解はしてもらえないと言う訳だな。――分かった。では、もっと哲学的に検討してみよう」

 神作真哉と山野紀子、春木陽香と永山哲也が顔を見合わせた。神作真哉が疲れたように項垂れてみせる。

 津田幹雄は指先で眼鏡を上げると、ニヤリと口元を上げて、言った。

「なに、そう難しい話ではない。簡単な『べき論』だよ。その研究データは私が持つべきか、君らが持っているべきか。検討してみよう。まず、その研究データは国や社会を救える価値があるものだ。だが、国や社会を救うには犠牲になる覚悟も必要となる。さて、今も述べたとおり、私にはそれがあるし、こうして実践もしている。と、ここまではいいだろう。では、もう少し検討してみようではないか。君らはどうかね。自分を犠牲にする覚悟があって、その上でデータを隠しているのかね。では、その覚悟を見せてもらいたい」

 パイプ椅子の背もたれに深く身を倒した津田幹雄は、左の肘を背もたれの上に載せ、体を斜めにして言った。

「この中から誰か一人差し出したまえ。そいつに尋問を開始する。もちろん、拷問しながらだ。言おうが言うまいが、そいつが死ぬまで続けよう。君らの覚悟を知りたいだけだからな。交渉はその後だ。残った三人と話そう」

 神作真哉が剣幕を変えて怒鳴った。

「ふざけるな! 知らんと言っているだろうが!」

 山野紀子も津田に怒鳴り散らす。

「豹変し過ぎよ! グルッと回って元に戻るどころかレベルアップしてるじゃないのよ。私たちを解放しなさいって言ってんの。この分からず屋!」

 永山哲也は津田をにらみ付けながら叫んだ。

「あんた、自分が何を言っているのか分かっているのか! 公務員だろ!」

 春木陽香は先輩たちの抗議に混じって叫んだ。

「お腹も空いて、只でさえ死にそうなんですよ。いい加減、早く解放して下さいよお。今日は危ない目に遭ってばかりなんですからあ!」

 津田幹雄は目を瞑って頷きながら言った。

「国家の明暗を分ける重要な情報を隠し持つとは、そういうことだ。その覚悟が無いのなら、さっさとデータを私に渡したまえ。それとも、三人で他の一人を差し出すかね」

 津田幹雄は最初に拷問にかけるべき候補者の顔に視線を向けた。

 春木陽香が毅然として言う。

「編集長は仲間です。絶対に差し出しません!」

 横を向いた山野紀子が呆れ顔で言った。

「いや、あんたのことを言ってるのよ。あんたを見てるでしょ、コイツ」

 春木陽香は津田の視線を確認する。彼は真っ直ぐに春木を見ていた。

 春木陽香は言った。

「ああ、なんだ、私か。――って、ええー! 私ですかあ! い、嫌です。遠慮します。ご、ご、拷問ですよね」

 津田幹雄は春木に冷淡な笑みを見せながら言う。

「だが、君の身代わりになろうと手を挙げてくれる優しい先輩は、一人も居ないようだね」

 春木陽香はプルプルと顔を左右に振った。そして必死に叫ぶ。

「ち、違いますよ。それは、みんな後手に縛られているからで、特に、神作キャップは骨折してますし、編集長は四十肩が長引いて、もうすぐ五十肩に切り替わろうかって時ですし、永山先輩は……」

 春木陽香は永山の顔を見た。永山哲也は春木の視線から逃げるように、少し顔を逸らした。春木陽香は反対を向いて山野の顔を見た。山野紀子も目を逸らす。神作の顔を見た。彼は天井を見上げていた。

 春木陽香は大声で喚いた。

「ええー! どうしてですかあ! 私が一番若くて可愛いじゃないですかあ。普通、こういう時は、一番ガタガタの神作キャップが『やめろ、ハルハルを連れて行くなら俺を連れて行け!』って、立ち上がるんじゃないですかあ! で、神作キャップのことが大好きな編集長が『真ちゃんを連れて行くなら私を連れて行きなさい』って。そしたら永山先輩が『いや、ハルハルの身代わりには、この僕がなる!』とか言っちゃって。んで、私が『先輩、駄目です。私には先輩が必要です!』って、普通は、こういうパターンじゃないですかあ!」

 神作真哉が不機嫌そうに言う。

「誰がガタガタだ……」

 永山哲也も春木に言った。

「なんで僕がハルハルの身代わりになるんだよ」

 春木陽香は永山の顔を見て説明した。

「大丈夫です。最終的には、私のウルウルした目を見た編集長が、『あなたたちには新聞と週刊誌の未来から懸かっているのよ。私が行くわ』って立ち上がってくれますから」

「どうして最後は私なのよ」

 山野紀子が目を細くして春木をにらみ付ける。山野の方を向いた春木陽香は、目を大きくして言った。

「だって編集長、この前も電気ビリビリとか平気だったじゃないですかあ。肩こりも治ったって……」

 神作真哉が言った。

「こういうのは年齢順だ。まずは、一番若いおまえから行ってこい」

 春木陽香は焦った。

「ちょ、おかしいですよね、それ! ね、長官さん。こういうのって、普通、年上順ですよね」

「知らんよ」

 津田幹雄は横を向いて、そう答えた。

 永山哲也が隣で動揺している春木に言った。

「ごめん、ハルハル。僕、拷問されるのって苦手なんだ」

「得意な人はいません!」

 春木が怒鳴ると、山野紀子が申し訳無さそうに春木に言った。

「私、ほら、ビビリだから」

「どこかですかあ! 交差点にノーブレーキで突っ込んだり、バイクとチキンレースしようとしたりしたじゃないですかあ!」

 山野に怒鳴る春木に、神作真哉が前屈みになって、後ろで縛られている左腕のギプスを上げて見せながら言った。

「俺は怪我人だから。おお、痛い、痛い」

「私はもっと深刻な怪我人になるかもしれないんですよお! ていうか、死んじゃうかもしれないんですよ! いや……死ぬまで続けるんですよね、ベキッとか、クザッとか、ビリビリビリッってやつを……」

 春木陽香は津田の顔を覗いた。津田幹雄は黙って首を縦に振る。

「ほら、長官さん、そのつもりじゃないですかあ! いたぶって殺すってことですよ、これ! いいんですか、それで!」

 喚く春木に神作真哉が言った。

「すまんな、ハルハル。みんな、家族がいるんだ。おまえは独身じゃないか。頑張ってみてくれ。おまえなら、やればできる」

「何を!」

 涙目で神作に突っ込んだ春木陽香に、津田幹雄が言った。

「見たまえ。これが現実だ。自己犠牲の覚悟など誰も持ち合わせちゃいない。自分や自分の家族が優先だ。私は違うぞ。上に行くために、あらゆることを犠牲にしてきた。家族も何もかも、すべてを捨てて、この国のために自分が出世することだけを優先させてきたのだ。他の人間などに構っていられるか。私はこいつらのような中途半端な人間とは違うのだよ。春木くん、もう分かっただろう。こいつらは庇うに値しない。こいつらのことなど忘れて、自分の目標を大事にしたまえ。良い記者になりたいのだろう? 新聞社への復帰も考えている。それならデータの在り処を言うんだ。そうすれば君だけは助けてやろう。その後の君のキャリアも私が全力でバックアップするよ。世の中は競争だ。競争を勝ち抜くためには、時にシビアな決断をすることが必要になることもある。そして今がその時なのだよ、春木くん!」

 津田幹雄は春木の顔を力強く指差した。

 下を向いて考えていた春木陽香は、ゆっくりと顔を上げると、一度、左右の先輩たちの顔を見回してから、津田に視線を向けた。彼女は眉間に皺を寄せ、憤慨した顔で言う。「――解かりました。よーく、解かりました」

 春木陽香は決心したように、一度だけ、ゆっくりと大きく頷いた。



                  8

 第二倉庫の中には、棺のような木箱が幾つも並べられていた。小隊の兵士たちがその間を歩いている。先頭を歩く郷田零音の後を歩いていた久瀬拓也が、木箱を強く蹴った。

「くそ。津田の奴、威張りちらしやがって。指揮官にでもなったつもりかよ」

 立ち止まった郷田零音は言う。

「次は、あいつが天下を取るんだ。今のうちに恩を売っておけ」

 そして、向こうを覗いて叫んだ。

「野島あ。どこに行った。野島あ」

 木箱の間を通って、野島闘馬が手を振りながら駆けつける。

「防具と武器の確認をしろと言っただろうが!」

 郷田に怒鳴られた野島闘馬は、足下の木箱の蓋を開けながら答えた。

「全部届いています。この箱です」

 野島闘馬が開けた木箱には深緑色の金属製の鎧がパーツに分解されて梱包されていた。一人分が数箱に分けて梱包されているようで、その箱には胸当ての部分と、腕に装着するパーツが入っている。各パーツの内側から赤や黄色の配線が出ていて、箱の隅の方に、組み立て用のボルトがビニール袋に入れられて置かれていた。その隣の木箱の蓋を郷田零音が蹴り開けた。その木箱には自動小銃や拳銃が発泡スチロールで固定されて入れられていた。どの銃器もナイフも、通常の物より一回り大きい。

 野島が開けた木箱の中を覗いた久瀬拓也は、興奮した声で言った。

「おお! 甲一一二式のアーマー・スーツじゃないですか。こりゃまた、いい物をそろえてくれちゃって。上物じゃねえかよ」

 郷田零音が満足そうな顔で言う。

「さすがは司時空庁の津田だ、気前がいい。最新式って訳じゃねえが、実戦で使うには十分だぜ。こりゃあ、しっかり働かないとな」

 野島闘馬が甲一一ニ式アーマースーツのボディー部分を取り出して眺めながら言った。

「うわあ、カッコいいっすねえ。一度は着てみたかったんですよ。全員分あるんですか」

「バカヤロウ、それを数えろって、テメエに言ったんだろうが! さっさと確認しろ!」

 また郷田に怒鳴られた野島闘馬はボディーのパーツを置き、慌てて木箱と兵士を数え始めた。郷田は蹴り開けた別の木箱から専用の機関銃を取り出し、それを肩で構えて照準を確認する。久瀬拓也は鋼鉄のグローブを手にはめながら言った。

「しかし、軍曹、これを着て警察の連中と戦うのは、もったいないですね。相手は、たかが警察でしょ」

「ハイパーSATが出てきたら、どうする。奴らはオリジナルの国産アーマー・スーツを装着しているって噂だ。ライド・アーマー部隊も隠し持っているらしい。そんな奴らが出てきたら、生身じゃ勝てねえだろうが」

「なるほど、それもそうですね」

 久瀬拓也はサイズを確かめた鋼鉄のグローブを木箱に戻した。大きな機関銃を肩に担いだ郷田零音は、近くで屈んで木箱の中を覗いている他の兵士たちに言った。

「ま、おまえらはアーマー・スーツを着て戦うのは初めてだろうが、いい肩慣らしだと思えばいい。警察が最初に出してくるのは、どうせヒラの巡査たちに違いない。その程度が相手なら、丁度いい練習になるはずだ。好きなだけ殺せ」

 隣の木箱から大きめの小銃を取り出した久瀬拓也は、弾倉を引き抜いて、中に詰められている弾丸の数を確認しながら言った。 

「練習になりますかね。尻尾巻いて逃げるんじゃないですか。ホホッ。この弾倉もフル装填してありますよ。こりゃあ、いい。思う存分、撃ちまくれますね」

 郷田零音はニヤリとして言う。

「弾は腐るほど有るようだ。好きなだけぶっ放せばいい」

 野島闘馬が駆けて来て、報告した。

「軍曹。全員分、ちゃんと揃ってます」

 郷田零音は小隊の兵士たちに言った。

「よーし。各自、直ちにアーマー・スーツを着装しろ。着装の方法は久瀬伍長が教える。貴様らは、これより、機械化歩兵だ。警察が乗り込んできてもビビるんじゃねえぞ。どうせ奴らの弾丸は、この甲一一二式アーマー・スーツの装甲を貫通することは無い。武器もそろっている。思う存分に暴れるんだ。いいなあ!」

 倉庫の中がどよめき立つ。各兵士たちは嬉しそうな顔で近くの木箱の横に屈み込み、蓋を開けて中の武器や防具を手に取った。

 久瀬拓也伍長が大声で言う。

「このアーマー・スーツは軽量超合金製だ。いま軍曹が言われたとおり、大概の弾を跳ね返す。だが、徹甲弾までは無理だ。被弾した際は被弾箇所を確認して弾の種類を見極めてから前進しろ。それから、手榴弾程度なら平気だから、気にせずにどんどん前に進めよ。マッポ相手に後退しやがったら、後ろから俺が撃つからな。絶対にビビるんじゃねえぞ、分かったなあ」

 数人の兵士たちが久瀬に答えるように雄叫びをあげた。

 郷田零音が唾と共に大声を飛ばす。

「オラオラ、ボサッとするんじゃねえ。さっさとこっちに運んで着装しろ! 祭りはこれからだ!」

 兵士たちは二人掛かりで木箱を持ち上げると、重そうに久瀬の近くまで運んだ。野島闘馬は鼻の穴を膨らましながら鉄製の大きなブーツに足を突っ込んでいる。

 久瀬拓也が鎧のパーツを持ち上げて説明する。

「よーし。まずは、このファースト・アーマーからだ。サイズを確認しろよ。心拍計の類は切っておけ、必要ねえ。動力ケーブルと間違えるなよ。間接が動かし辛くなるぞ。赤色のコードだ。そっちを切れ。切ったらさっさと装着しろよ。時間がねえぞ」

 色めき立った兵士たちは、久瀬の説明を熱心に聞きながら、アーマースーツを装着していった。



                  9

 後ろ手に縛られたまま床に座っている春木陽香は、下を向いて何度も頷きながら、独り言のように呟いていた。

「解かりました。よーく、解かりました」

 向かいでパイプ椅子に深く身を倒して腰掛けていた津田幹雄は、その身を乗り出して春木に言う。

「そうか。ようやく理解してくれたかね。それで、データは何処だね」

 顔を上げた春木陽香は津田をにらみ付けた。

「私が解かったのは、みんながどれだけ家族を大切にしているかってことです。そして、あなたが、どれだけ自己チューで利己主義的な人間かということも」

 津田幹雄の表情が曇る。

 一度深呼吸をした春木陽香は、津田の顔を真っ直ぐににらむと、滔滔と語り始めた。

「あなた、二度も言いましたよね。他の人間に構っていられないって。楽ですよね、それなら。自分のことだけ考えて行動すればいいわけですから。だけど、他の人はみんな、家族のために働いているんですよ。神作キャップや編集長も、永山先輩も、うえにょデスクも、シゲさんも、永峰先輩も、別府先輩も、たぶんライトさんも。田爪博士だって、そうでしたよね。悪いことだけど、彼が搭乗者を抹殺してタイムマシンから量子エネルギーを少しずつ集め続けていたのは、本当は瑠香さんに会うためですよね。日本に戻って、夫としての責任を果たそうとしたんじゃないですか。瑠香さんだって、田爪博士を見つけるために研究を続けて、命を賭してタイムマシンに乗って南米に飛びました。高橋博士だってそうです。家族のために働いて、きっと家族の名誉のために自分の説が正しいことを証明しようと、実験機に乗ったに違いありません。みんな、家族や誰かのために自分を犠牲にして頑張っているんですよ。あなたの周りの人たちも、世の中の他の人たちも! それなのに、あなたはどうですか。社会のためだとか国のためだとか言ってますけど、本当は、ただ自分が出世したいだけじゃないですかあ!」

 春木陽香の大きな声が室内に響いた。彼女は続ける。

「私の父は、私たち家族のために、出世の懸かった転勤を断りました。他にもそんな人は大勢いるはずです。みんな、何かを抱えているんですよ! そのために、色んな制約が生じたり、限界にぶつかったり。それで夢を諦めたり、目標を引き下げたり、時には信念を曲げたり、プライドを捨てたり、そうやって家族のために耐えて、我慢して、罵倒されても、軽蔑されても、大切な人や周囲の人に対する『責任』を『自分』よりも優先させて、そうやって戦っているんですよ! 自分の子供や配偶者、実家の年老いた親、自分の配偶者の親のことまで、ちゃんと目配りして、考えて、その人たちへの『責任』を果たすために、大事な場面ではそっちを優先させて働いているんです。周りもそれを理解して、助け合って、そういう中で互いに競争をしているんですよ。それが国とか社会ってものじゃないんですか。あなた、自分が競争を勝ち抜いてきた実力者だ、みたいなことを言いましたよね。どこが実力者なんですか。みんな荷台に何人も乗せた荷車を牽いてるのに、あなたはその荷車をポンと置き捨てて、一人で手ぶらで走ってるんですもんね。勝って当然ですよ。ほとんどの人は、だれも本気で競争なんてしてないのに、もしかして、競争を勝ち上がった気でいるんですか。しかも、自分の出世の目標を達成するために『責任』を放棄して、他の人を犠牲にして、自分一人のためにやってきて、それで本当に勝負してきた気でいるんですか。ただ抜け駆けしてきただけですよね!」

 彼女は津田に突き刺すような視線を浴びせた。その目は怒りに満ちていた。溜まった涙の奥には恨みすら浮かべているようだった。それが彼女の思いだった。

 春木陽香は言う。

「この前の日曜日、あなたは何してました。どうせ、子供のこととか、田舎の御両親のこととか、奥さんの御両親なんかのことは、なーんにもしてないんでしょ。俺は国家のために仕事に生涯を捧げてるんだって顔で、御偉いさんたちとゴルフに行ったり、書斎で専門書を読み耽ったり、気さくぶってフットサルに汗を流したり、ストイックなふりしてジムで体を鍛えたり、気取って音楽鑑賞とか、自己満足するだけの海外旅行とかに行ってたんですよね。永山先輩は、家の庭木の剪定とか草取りとかしてましたよ。編集長は、部屋の片付けしたり、神作キャップの家を掃除したり。お盆には神作キャップの実家にまで行って、ちゃんと義理を果たされてました。神作キャップだって、空いている時間で介護施設とか、病院関係をネットで調べてるのを知ってます。編集長のお義父さんのためだって」

 山野紀子が驚いた顔で神作の顔を見た。神作真哉は困った顔をしながら山野に頷いてみせる。

 春木陽香は津田の目を見て主張を続けた。

「私だって、近いですけど、実家に帰ってお婆ちゃんの手伝いをしたり、母の手伝いをしたり、時々ですけど、やってます。みんな、誰かのために頑張ってるんですよ。その一環として職場で働いているんです。自分の夢だの目標だの、ましてや趣味や休養は二の次にして、人としての『責任』を果たそうとしているんです。そのための命なんですよ。私なんかのために、その大事な命を、色々な人への『責任』が重く伸し掛かっている大事な命を、犠牲になんか出来る訳ないじゃないですかあ!」

 春木陽香は涙目でそう叫んだ。

 神作真哉も山野紀子も、永山哲也も黙って春木を見つめている。

 上を向いて零れそうな涙を必死に堪えた春木陽香は、鼻水を啜ると、前を向いて津田に言い続けた。

「あなた、自分が国家のリーダーとして適任だと言ってますけど、そんな訳ないですよ。自分で分からないんですか。あなたみたいな人が、国の正しい舵取りなんか出来る訳ないです。国民や、日本で生活する人たちや、世界中の人たちのことを考えて、最善の決断をしないといけないんですよ。国家のリーダーって、そういう責任がある立場じゃないですか。どうして、あなたにそれが出来るんですか。今、こんな事態になって、こんなことをしてる、あなたに。これのどこが最善なんですか。私たちにとっては最悪なんですけど。それに、そういう責任って、本当は周りから託されて背負うものなんじゃないですか。あなた、自分が背負うべき人間だとか、自分なら背負えるからって、駆け引きして、勝ち抜いて、それで政治のトップに立とうとしているんですよね。政治家だって、会社の社長さんだって、地域の自治会長さんだって、何かの『長』とか『トップ』っていう立場は、本来は自分で成ろうと狙って成るべきものじゃないはずです。みんなから信頼されて、託されて、結果としてその地位に就くんじゃないですかね。あなた、自分で狙って今の地位まで登ってきたみたいなことも言いましたよね。ということは、別に誰からも託されていませんよね。試験を受けて、官僚になって、内部の人事的な駆け引きで配置されて、それで今の地位に居るんですよね。ただそれだけじゃないですか。何も国民から託されていないですよね。それなのに、その上の総理大臣に、自分から成りたいって思ってるんですよね。それって、ただ権力を得て、偉くなりたいだけじゃないですかあ! この威張り屋さん! いィィィー!」

 横に開いた口から歯を見せて、津田に精一杯の敵意と軽蔑を表現した春木陽香は、更に続けた。

「何が国家や社会のためですか。自分の周りの人への責任も果たさない人が、どうして天下国家を語れるんです? それじゃ、自分の親の介護もしないで、中央で政策立案している老人福祉担当の官僚さんたちと同じですよね。全然、良くならないじゃないですか、日本の福祉。あなたみたいな人が、万が一にも、億が一にも、京の一兆倍の一の確率で総理大臣に成れたとしても、良い政策の立案や実行なんて、ぜっっったいに出来ませんよ。まして、この国の危機を救うだなんて、富士山の山頂からソフトクリームが噴出するのと同じくらいに、あり得ないことだと思いますよ。だって、今、私たちの危機を救うことも出来ないんですもんね。あなたがあの兵隊さんたちに命じれば、すぐに解放してもらえるはずなのに、そんなこともしようとしないんですよ。そんな人が国を救うなんて出来るもんですか。あなたみたいな心持の人たちが中央や都会に出て、国の政策に関わったり、大企業の経営に関わったりして、一方で本当に優秀で優しくて責任感があって立派な人が、地方や家庭に戻って家族の介護や家業の手伝いをしているのを、変テコな競争意識と価値観で評価して、心のどこかで見下して、そういう世風をずっと放置してきたから、この国はいい加減なタイムトラベル事業を実施したり、こっそりと遷都しちゃったり、変な警察組織ができたり、年金の支払いが先延ばしになったり、学生が自由に就職できなかったり、何かおかしなことになってるんですよ! あなたみたいな人は、とっとと官僚を辞めた方がいいんです。バイオ・ドライブをASKITに盗まれちゃったことをさっさと認めて、潔く長官職を辞任してくれた方が、よっぽど国民のためなんですけどお!」

 神作真哉と山野紀子は怪訝そうな顔を見合わせた。永山哲也は上を見て眉間に皺を寄せている。

 突き出した顔を引いて、姿勢を正した春木陽香は、後ろ手に縛られたまま姿勢を正し、毅然とした態度で最後まで主張した。

「自分で自分の進退も決められないような弱虫さんに何を言われたって、恐くなんかありませんよ。私たちは、脅しになんか屈しませんからね。知らないものは知らないし、無い物は渡せません。あなたも男なら、自分の過ちを認めて、私たちを早く解放しなさい。そうでないと、いつか天罰が下りますよ!」

 春木陽香は澄んだ瞳で真っ直ぐに強く津田の顔を見据えた。


 室内に沈黙が走る。


 少し頷いてから、津田幹雄は言った。

「――はい、もういいかな。じゃあ、最初に拷問するのは、この子からでいいんだな」

 津田幹雄は神作と山野の方を見て確認を取り、続いて永山の方を見た。三人はコクコクと縦に何度も頷く。

 春木陽香は左右に顔を向けて先輩たちを見ながら言った。

「はあ? ちょっと、今の私の熱弁を聞いて、感動とかしないんですか。『いい、俺が行く』とか、『やっぱり、私が行くわ』とか、無いんですか?」

 神作真哉が頷きながら言う。

「確かに、おまえの言わんとすることは分かるし、それに同意もするが、それとこれは別問題だ。ハルハル、いっちょ頑張って来い」

「ええー! だったら途中で止めてくださいよ! 思いっきり毒吐いちゃったじゃないですかあ!」

「長めの『辞世の句』だと思って聞いてたのよ。先に盛り上げてからハードルを上げるなんて、見直したわ」

 山野にそう言われて、春木陽香は永山に助けを求めた。

「先輩は、分かってくれましたよね」

「分かる。分かるぞ。ハルハルの思いは、しっかりと僕が後世に伝える。任せろ」

「はあ? 違うことを任せたいんですけどお! ちょっと、本気ですか、皆さん」

 春木陽香は焦った顔で、うろたえながら左右の先輩たちの顔を見る。三人の先輩たちは下を向いて黙っていた。

 津田幹雄は春木に言った。

「職場の人間関係など、この程度のものだ。最後にいい社会勉強になっただろう」

 春木陽香は顔を引き攣らせて精一杯の笑顔を作り、津田に言った。

「あははは、さっきの発言は、ぜーんぶ冗談です。取消しまーす。若気の至りの『青年の主張』、ハルハル・バージョンでした。気にしないで下さい」

 津田幹雄は無表情のまま春木の顔を見据えている。

 春木陽香は津田に必死に訴えた。

「私、ほら、体も一番小さいですし、華奢きゃしゃですから、拷問なんかされたら、ポクッて、すぐに死んじゃいますよ。それじゃ、まったくアピールにならないですよね。やっぱり、多少はギャーとかウォーとか叫んで、踏ん張れそうな頑丈な人じゃないと。ね、永山先輩」

 春木に顔を向けられた永山哲也は、わざとらしく咳き込みながら言った。

「ゴホッ、ゴホッ、風邪かな。ああ、キャップ、この前、消化剤を吸い込み過ぎたせいですかね。こりゃ、安静にしてないと駄目だ。息苦しくて悲鳴も出せないな。いやあ、残念だ。ゴホッ、ゴホッ」

「そうだな。ゴホッ、ゴホッ。しかも俺は骨折もしているから、医者から酒と煙草と拷問だけは絶対に駄目だと言われてるんだ。仕方ないな。紀子、朝美は俺が育てる。おまえ、行ってこい」

「ふざけんじゃないわよ。編集長は私だけなのよ。そっちにはシゲさんと千佳ちゃんも居るじゃない。こういう場合は哲ちゃんかハルハルでしょ。どうして私なのよ」

 春木陽香は永山の顔を見た。永山哲也が言う。

「あら、戻ってきた。ハルハルにパス」

 パスされた春木陽香は山野の方を見て言った。

「私が抜けたら、編集長のトゲトゲ湯飲みにお茶を注してくれる人が居なくなりますよ」

「ああ、いい。自分でやる」

「そんなあ!」

 春木陽香は項垂れた。

 津田幹雄は呆れ顔をしたまま、気だるそうに椅子から立ち上がると、言った。

「そうやって、いつまでも互いに押し付けあっていろ、愚民どもが」

 神作真哉が津田の顔を見上げて言った。

「こんなことをしてもな、結局、奥野が逮捕されたら終わりだろうが。国防兵がダイレクトにあんたに従うと思うか? バイオ・ドライブも無し。田爪の研究データも手に入れられない。あんたは終わりだよ。これ以上、罪を重ねるな。諦めろ」

「大丈夫。君らから研究データのコピーを回収すれば、全て上手くいくさ」

 自信たっぷりの顔で答えた津田幹雄は、ドアの方に歩いていく。そして途中で立ち止まり、少し振り返ってから言った。

「ああ、そうだ。期待を裏切るようで悪いが、一応、伝えておこう。NNJ社の西郷京斗は逃亡して行方知れずであるようだ。ということは、収賄の容疑で奥野大臣が逮捕されても、裁判では、贈賄した人間を証言台に立たせることも、贈賄の供述をとってそれを証拠として提出することも出来んということだ。君らが報じた単なる金の動きについては何とでも言い訳は付く。賄賂の罪は対向犯だから、奥野大臣を収賄罪で有罪に持ち込むことは、非常に困難になった訳だ。これでは検察も、起訴どころか逮捕も出来んだろう。その点も良く考えおくといい」

 神作真哉が津田をにらみながら尋ねた。

「おまえらが西郷をさらったのか」

 津田幹雄は首を横に振る。

「我々ではない。おそらくASKITの連中だろう。今頃、殺されているかもしれんな。我々としても、そう望むところだが」

 津田幹雄は下を向いた。その顔は薄っすらと笑っている。

 顔を上げた津田幹雄は、四人の記者たちに言った。

「まあ、どう頑張ってみたところで、状況が変わる訳ではない。ならば、せめて命くらいは大切にしたらどうだね。研究データさえ提出してくれれば、君らを解放しよう。誰でもいい、この中の一人が言えば、全員を解放する。二十分後にまた来よう。その時に言わないようなら、この中の誰か一人に尋問を開始する。もちろん、苦痛を伴うことは覚悟しておいてくれ。誰から始めたらいいかは君たちで決めればいい。誰でもいい。この中の一人だ。君らで決められないようなら、こちらで決める。まあ、苦痛と解放のどちらがいいかよーく検討してみてくれたまえ」

 津田幹雄は記者たちに背中を見せて歩いていった。ドアを開けた彼は、外の二人の兵士を順に指差して言う。

「君、ここに残ってドアの前を見張ってくれ。君は私と来たまえ。向こうの建物までペンチとガスバーナーを取りに行く」

 スチール製の無機質なドアが、外からしっかりと閉められた。



                  10

 国防省ビルの中にある軍規監視局事務部では、大広間の隅に置かれた硬い応接ソファーに上野秀則と軍規監視局局長・森寛常行が対座していた。監察官の外村美歩は、カウンターテーブルの内側の事務机で、立体パソコンの上に浮かんだホログラフィー文書に目を通している。

 その奥の窓の外では、夜の闇がビルの明かりに照らされていた。

 森寛常行は腕組みをしながら下を向くと、唸った。

「うーん……お話しは大体わかりました。要は、奥野国防大臣に不正な命令を受けた郷田と久瀬、野島たちが、おたくの記者さんたちを拉致した可能性があると」

 上野秀則は言う。

「他にも仲間がいるかもしれません」

 森寛常行は腕を解いて言った。

「でしょうな。そのバイオ・ドライブでしたっけ、それを警察と奪い合っているとすれば、相応の防衛態勢をとっているでしょうからな。まあ、まず三人だけということは、あり得ないでしょうな」

「なんとかなりませんか。あなたたちだけが頼りの綱なのです。こっちは警察にも行けない状況でして……」

 森寛常行は頷きながら、同情の眼差しを上野に向けた。

「お察しします。その状況では、警察には行けないでしょう」

 そして彼は、ソファーの背もたれに深く身を倒した。

「しかし、奥野大臣のバックに司時空庁の津田長官がいるとなると、こちらも下手には動けませんなあ。まして、公安が別口で動いているとなれば……」

 腕組みをして天井を見上げ、口を開けて思案する森寛局長に、外村美歩がプリントアウトした資料を持ってきて手渡した。

「彼らの資料です」

「ああ、ありがと。でも、こいつらのことなら大概は覚えてるよ。根っからのワルだからね。君もよく読んでみなさい」

 外村美歩は再び森寛の隣の席に腰を下ろしながら、眉をひそめて言った。

「ええ。今、目を通しました。ひどい連中ですね。おそらく認知されたこれら十数件の強盗の他にも、まだやっているかもしれないですね」

 体を起こした森寛局長は外村に言った。

「国防軍の面汚しだよ。こんな奴らは軍法会議での内部処分だけではなく、通常法廷で有罪にして豚箱に放り込んでやりたかったんだが、なんせ現在も戦闘が続いている場所での犯罪行為だ。実況見分も物証の収集もできない」

 唇を噛んだ森寛常行は、上野の顔を見て言った。

「刑法の属人主義規定をどれだけ適用したとしても、証拠の提出ができなければ、裁判所の刑事法廷では推定無罪で御咎おとがめ無しのお墨付きを与えてしまうだけですからね。我々としても歯噛みしながら通常起訴を諦めて、やつらを軍法会議に送ったんですよ」

 上野秀則は真剣な顔で話を本題に戻した。

「あなた方で対処することはできませんか。こういう状況では、奴ら、ウチの記者たちに何をするか分かりません。一刻も早く救出していただきたい。お願いします」

 上野秀則は両膝の上に手を載せて、その間に頭を深々と落とした。森寛局長が上野に頭を上げるよう促す。

 外村美歩監察官は隣の森寛常行局長の顔を見て言った。

「国防大臣が黒幕の一員なら、相手は相応の武器を所持している蓋然性が高いですよね。MP部門だけでは対応できないでしょうから、実戦部隊に応援を要請しましょうか」

 顔を上げた上野秀則は、期待した表情で森寛局長を見た。

 森寛常行は言った。

「いや、ちょっと、それは待って」

 彼は再び腕組みをして、天井を見上げ始めた。

「うーん……国防大臣かあ……」

 外村美歩が森寛に言う。

「局長、検察の協力を仰ぐというはどうでしょう。合同捜査なら、私も前に一度……」

 森寛常行は腕組みをしたまま外村の方を向いて言った。

「いや、公安が動いているなら、検察に協力を申し入れても、情報がそのまま警察の公安に流れるだけだよ。なんだかんだ言って、結構、親密だからね、警察と検察は」

 外村美歩は必死に上司に提言した。

「では、参謀司令本部に協力を仰いでは。極秘に部隊を動かしてもらうとか。監禁場所を特定するだけでも急いだ方がいいのではないでしょうか」

 森寛常行は腕組みをしたまま、下を向いた。

「うーん……」

 業を煮やした上野秀則が、少し苛立った口調で言った。

「あの、すみませんがね、おたくたちが思案しているこの時間にも、ウチの記者たちは久瀬や郷田たちから何かされているかもしれんのですよ! 春木という記者は若い女の子です。丁度、あなたくらいの年齢ですよ」

 上野秀則は外村を指差した。そして、話を続けた。

「山野だって、口は悪いが見た目は悪くない。いや、性根は悪い奴じゃないのですがね。とにかく、女性だ。それに、山野と神作には娘さんもいる。永山にだって奥さんと娘がいるんです。あなたたちの監視の下にいる、強盗魔か強姦魔か知れんそういう記者たちをさらっていったのかもしれんのですよ。あなた方が国防軍の風紀を監視監督していると言うのなら、少しは責任を感じて、早く動いてもらえませんかね!」

「上野さん、どうか落ち着いて下さい。私たちも力になろうと思っていますから」

 上野を宥める外村美歩の横から、森寛常行局長が言った。

「いや、無理だね」

 上野秀則が森寛の顔をにらみ付ける。外村美歩も驚いた顔で森寛を見て尋ねた。

「どういうことです? 局長」

 森寛常行は腕組みをしたまま、目線だけを隣の外村に向けて答えた。

「だって相手は国防大臣だよ。そりゃ、軽々には動けないよ」

 上野秀則は森寛に軽蔑的な眼差しを送って言った。

「結局、あんたらも奥野の犬だってことですか」

 森寛常行は腕を解いて座り直し、真っ直ぐに上野を見て言った。

「いいえ、我々は国防大臣に仕えている訳ではりません。我々が仕えているのは、この国の憲法です。組織体としての内閣や、そのメンバーの国務大臣に仕えている訳ではない。まして、奥野恵次郎という一人の国会議員に奉仕しているつもりなど、毛頭無い」

 隣から外村美歩が言った。

「では、どうして。監察官の身分は憲法で保障されています。しかも、各監察官は独立して逮捕・起訴の申請ができると規定されています。裁判所の逮捕許可さえ下りれば、奥野大臣だって逮捕できるはずじゃないですか。そうすれば、奥野大臣から郷田たちに命じさせて、全員を解放させることも……」

 森寛常行は外村の発言の途中で、はっきりとした口調で口を挿んだ。

「形式的にはね。そこがカラクリなんだよ。身分は保証されていても、人事権は国防大臣にある。いつだって国防職員を左遷することが出来る。今すぐにでもね。こっちが動き出した途端に、奥野大臣は僕らに異動命令を出して、僕らの監察官身分に実質的に何らかの制限を掛けてくるはずだよ。僕らは普通の公務員や民間の会社員とは違うからね。命令には即応しなければならない。命令を聞いたらすぐに、その足で、指定された基地に向かうことになる。きっと、どこか遠方の基地にね。つまり、捜査ができない。それにきっと、応援に呼んだ実力部隊にも基地に戻れと命令が出るはずた」

 外村美歩は困惑した。

「じゃあ、どうすれば……」

 森寛常行は腰に手を当てて視線を落とし、また唸った。

「うーん。――やっぱり、こういう時は待つしかないかな」

 上野秀則は聞き返した。

「待つ?」

 森寛常行は膝を叩いてから、上野に言った。

「実はですね、奥野大臣は、もうそろそろかなって思っていたんですよ。個人的にはね。あなた方の記事、奥野大臣と西郷の贈収賄についての記事が出てから官邸も決心したみたいですし、その件については検察も首都地検特捜部が慌しく動き出したみたいです。そうなると今日あたり、こっちにも官邸から何か言って来るかなって。で、待っていたところだったんですよ。こうして。ですが、官邸ではなく、あなたからの通報が来た。ウチとしては、官邸、つまり国防軍の最高指揮命令件者である内閣総理大臣から命令が下れば、いつでも動けるだけの理由が出来たわけです。あとは、その命令が届くのを待つだけ。そういうことです」

「そんな……」

 上野秀則は唖然とした。この軍規監視局の長は、要は内閣総理大臣からの正式な命令が出ないから動けないと言っているのだ。そんなものは目の前の軍規監視局が上申しなれば出るはずが無い。今の森寛の発言は、上野にとっては捜査拒否をされたに等しかった。

「それに、いくつかの大変有力な情報もご提供いただきました。軍としては、大いに活用させていただきます」

 森寛常行は笑顔でそう言いながら椅子からゆっくりと立ち上がった。外村美歩が慌てて立ち上がり道を開ける。外村の前を移動する森寛をにらみ付けて、上野秀則が怒鳴った。

「あんた、ただ、ここでそうして待ってるだけのつもりか!」

「局長」

 外村美歩も深刻な顔で呼び止めた。立ち止まって振り返った森寛常行は言った。

「いや、待っているだけでは無いです。ちゃんと、今伺った話を上に報告してきますよ。だから、あなたももう少し待っていて下さい。それより、外村君。君、そろそろ帰らなくていいの。お母さんの介護があるだろ。君の帰りが遅いと、お母さんも困られるんじゃないか。早く帰ってあげなさい」

 外村美歩は壁の時計を一瞥すると、真っ直ぐに上司の顔を見て言った。

「それは分かっていますが、今、まさに国民の命が危険に晒されているんですよ。国防兵の犯罪行為によって。早く救出しないと」

「ちゃんと救出するから。上がしっかりやってくれるって。じゃ、僕は話を伝えてくる。あ、電気は消しといてもらっていいからね。鍵も掛けといてね。それじゃ」

 軽い口調でそう言った森寛常行は、大部屋から出て行った。彼の最後の発言は、遠回しに上野にも帰宅を促すものだった。上野秀則は奥歯を強く噛む。

 外村美歩は険しい顔でソファーに腰を下ろすと、応接テーブルの上の資料を揃えて重ねながら言った。

「私、これから参謀司令本部に行って事情を話してきます」

 椅子から立ち上がった上野秀則は、憤慨した顔で言った。

「いや、いい。ここに来たのが間違いだった。のんびりと官邸からの命令を待つだけの部署じゃ、まったく頼りにならん。あんたはさっさと帰ってくれ。自分の親の介護があるんだろ。何が法曹だ、まったく。時間の無駄だった。もう、他を当たってみるよ。じゃ」

「ですが……」

 上野秀則は外村の言葉に返事をすることなく、荒っぽくドアを開けて大部屋から出ていく。ドアが激しく閉められた。

 外村美歩監察官は書類を握ったまま、困惑した顔で応接ソファーの横に立っている。彼女は壁の時計を見て呟いた。

「もう、こんな時間……」

 暫く時計を見つめていた彼女は、床に置いていた鞄を手に取ると、出入り口のドアに向かい、電気を消して出て行った。

 暗い大部屋の中に、外から閉められる鍵の冷たい音が響いた。



                  11

 散らかった用具室には、後ろ手に縛られた四人の記者が取り残されていた。揺れる裸電球がキシキシと音を鳴らしている。

 端に座っている神作真哉が項垂れて呟いた。

「はあ。行きやがった。津田の奴、結局、勘違いしたままか……」

 隣に座っている山野紀子が、閉められたスチール製のドアを見つめながら言う。

「ペンチとガスバーナーだって」

 永山哲也が頭を前に出して隣の春木越しに山野に尋ねた。

「鋳物でも作るんですかね」

 春木陽香は涙目で言った。

「そんなわけないでしょ! ベキッてして、ジューってするんですよ!」

「うわあ、痛そ」

 鼻に皺を寄せてそう言った山野の方を向き、春木陽香は叫んだ。

「他人事だと思ってますよね! 私を差し出そうと考えてますよね!」

 山野の横から顔を出した神作真哉が春木に言った。

「そう慌てるな。『心頭を滅却すれば火もまた涼し』って昔から言うだろ、ハルハル」

「昔はガスバーナーとか無いですよね! ペンチも!」

 両頬を膨らませて一人憤慨している春木に、隣から山野紀子が言った。

「誰も本気であんたを差し出そうなんて、考えてはいないわよ」

「だって二十分後には戻って来るんですよ! どうするんですかあ!」

 春木陽香がそう言うと、神作真哉が深刻そうな顔をして言った。

「奴が時間に几帳面で無いことを祈ろう」

「なんですか、それ! ああ、再就職先、別な会社にすればよかったあ」

 春木陽香は肩を落として天井を見上げた。

 山野紀子が春木の耳元に顔を近づけて、小声で伝えた。

「大丈夫よ。みんなで逃げればいいんだから」

 春木陽香は上身を前に倒すと、後ろで縛られた両手を少し持ち上げて見せた。

「これで、どうやって逃げるんですかあ!」

 山野紀子が声を潜めて言う。

「シー。外の見張り役に聞こえるでしょ。そっち、そっち」

 彼女は隣の神作を顎先で指し示した。春木陽香は山野越しに神作の方を覗いた。

 神作真哉がこちらに背中を見せて、右手の手首の上に乗せられて一緒に縛り付けられているギプスの中で左腕を動かしている。

「よっ」

 ギプスから左腕が引き抜かれた。向きを戻した神作真哉は、体の前で左手を使って、右手首に絡まっているプラスチック製の結束バンドとそれにぶら下がった空のギプスを右手から外すと、自由になった左右の手をブラブラと振った。

 春木陽香は目を丸くして言った。

「あれえ? 骨折してたんじゃないんですか」

 神作真哉は春木にニヤリと片笑んで見せて、言った。

「これでも記者なんでね。騙し合いの中で生きている以上、こういうことの対処には慣れているつもりだ」

 山野紀子が言う。

「なに恰好つけてるのよ。私が教えてあげたんじゃない。イザって時のために、一応、ギプスしとけって。ほら、早くみんなの手を外してよ」

 神作真哉は山野の後ろに回り、両手首を縛っている結束バンドを外そうと引っ張った。

 隣の春木陽香が呆気に取られた顔で神作と山野の顔を交互に見ながら言った。

「じゃあ、本当は骨折なんてしてなかったんですか」

「そ。芸能人とか政治家がよく使う手なのよ。怪我なんてしてないのに、ギプスしたり、包帯巻いたり。それを目印に追いかける記者たちを撒くためにね。どこかで着替えて、ギプスとか包帯を外して、顔を隠して出てくるの。普通に歩いていたり、両手で運転してたりしたら、一瞬、記者たちは別人だと思って素通りさせちゃうでしょ。真ちゃんにも、念のためそうしといたらって言っといたの。こういうことがあるといけないから」

「ってことは、あれですか、ここに潜入した時に、私と永峰先輩が入れ替わったのと同じ作戦だったってことですか。あの時も私に包帯は外すなって……」

「まあ、あれは、これの応用ね。ま、あの時はいろいろな事態を具体的に想定しての準備だったけど、今回は念のための対策よ。いやあ、真ちゃんが嫌がらずにギプスしててくれてよかったわ。ごくろうさま」

 神作真哉は力を込めて山野の結束バンドを引っ張りながら言った。

「一応、紀子は、元政治記者で、今は週刊誌の編集長だからな。アドバイスには、従ったつもり……くそ、硬いな。全然、切れん」

「ギプスの中に何か入れてなかったの? ハサミとかナイフとか」

 神作真哉は再度、山野の結束バンドを引っ張りながら言った。

「この真夏に……健康な腕に……こんな物を巻いてるこっちの身にも……ふう、硬い」

「じゃあ、みなさん、それを知ってて、さっき私にあんなことを言ってたんですか。永山先輩も?」

「いや、僕は知らなかった」

「ええー! じゃあ、本気で言ってたんですか!」

 神作真哉は山野の手首を縛っている結束バンドを引っ張りながら、真相を伝えた。

「俺が……前に話していた……くそ、本当に切れないな。駄目だ。何か切る物はないか。ハサミとかカッターとか」

 記者たちは室内を見回した。

 春木陽香が声を上げる。

「ああ! 私の荷物の中にオウム貝の形をしたキーホルダーが在ります。別府先輩がミクロネシア取材のお土産でくれたもの。それ、貝殻の部分をクルッて回せば爪切りに変形しますよ」

 神作真哉は立ち上がり、野島が春木と山野の鞄をひっくり返して中身を確認していた机に向かった。すると、突如スチール製のドアが開いて、見張り役の兵士が入ってきた。

「おい、静かに……」

 置かれていたパイプ椅子を咄嗟に手に取った神作真哉は、それを兵士に振り落とした。不意を突かれた兵士が、構えようとした小銃を下に落とす。兵士は、すぐに神作に殴りかかってきた。神作真哉は飛んできた兵士の右拳を素早く屈んで避けると、兵士の顎に右拳の一撃を加え、続けて左から渾身の一撃を兵士の顔面に打ち込んだ。兵士は直立したまま後方に倒れ気を失った。

「やった、幻の左カウンター!」

 山野紀子は思わず声をあげる。

 神作真哉は左手を振りながら、自分でも驚いたように目をパチクリとさせて呟いた。

「生まれて初めて決まった……」

 永山哲也が言った。

「キャップ、急いで! 他の連中が来ますよ」

「ああ、そうだな。ええと、貝殻、貝殻……これか!」

 神作真哉は机の上から見つけたオウム貝の形をしたキーホルダーを手に取ると、その貝殻の部分を反転させた。すると、中から爪切りの刃が出てきた。彼はそれを持って山野の後ろに回り、彼女の両手首を繋いでいたバンドを切って、その爪切りを山野に渡した。そして、そのままドアの所に向かい、少し開いた隙間から外の様子を覗く。

 山野紀子は急いで立ち上がり、まず永山の後ろに回って、彼の結束バンドを切った。

 見張りの兵士が落とした小銃を手に取った永山哲也は、神作の近くに駆け寄る。

 続いて山野紀子は春木の結束バンドを切った。立ち上がった春木と山野は、すぐに神作と永山の後ろに駆け寄った。

 外を覗いていた神作真哉が小声で言う。

「よし。誰もいない。今だ、外に出るぞ」

 四人は足音を立てないように注意しながら、部屋から出ていった。スチール製のドアが静かに閉められる。部屋の床には、切られた結束バンドと、気絶して倒れている兵士、空のギプス、そして、オウム貝の爪切りキーホルダーが転がっていた。



                 12

 有多町の官庁街には幾つかの公園があり、各公園の地下は駐車場になっている。上野秀則のシルバーのAI自動車は、その中の一つの地下駐車場に停められていた。

 上野秀則は運転席に座り、左目を黄色く光らせている。イヴフォンで通話中の彼の視界では、ダッシュボードの上に不自然な形で重成直人が浮かんでいた。

 上野秀則は口を尖らせて言った。

「そうなんですよ。軍規監視局は全く当てになりません」

 重成直人の像は残念そうな顔をして応えた。

『そうですか。こっちも杉野副社長に何度も連絡してみているんだが、電話に出ないんですよ。一応、ストンスロプ社にも、光絵会長の自宅にも掛けてみたが、駄目ですな。まったく繋いでもらえない。前と同じです』

 上野秀則は深刻な顔で言う。

「神作たちと連絡が取れなくなってから、もうかなりの時間になります。早く何とかしないと」

 重成直人の像が胡麻塩頭を撫でながら言った。

『ストンスロプ社に望みを掛けるのなら、美空野法律事務所はどうだろう。顧問弁護士事務所なら話を聞いてもらえるのでは』

「なるほど。そうですね。じゃあ、近くに来てますから、直接行ってみます。何とか光絵会長に繋いでもらえないか頼み込んでみますよ。ストンスロプ社は国防軍に顔が利く。何か手を打ってくれるかもしれませんから」

『そうですな。じゃあ、こっちは警察内部の古い知り合いに探りを入れてみますよ』

「大丈夫ですか、警察は公安が……」

『なに、そいつの携帯に直接かければ、公安にも聞かれないだろう』

 少し間を空けた上野秀則は、怪訝な顔で重成に尋ねた。

「失礼かもしれませんが、その方は信用できるのですか。この状況で」

 ウェアフォンを使っている重成には、上野の様子は見えていない。しかし、彼には上野の不安が声で分かったようだった。重成直人の像は上野を安心させようするかのように落ち着いた声で頷いた。

『大丈夫。神作ちゃんが俺くらいの歳になったら、ああなるって感じの奴ですから』

 上野秀則は少し想像してみた。そして彼も頷く。

「ああ……なるほど、最悪のジジイですな。ですが、シゲさんが信用するのは分かります。俺も乗りますよ。じゃあ、シゲさん、そっちの方をお願いします。できたら、公安の動きも聞き出して下さい。とにかく、俺は大急ぎで美空野法律事務所に行ってみます」

『デスク。そっちも気をつけて下さいよ。俺たちも公安からマークされていることに変わりはないんですから』

「分かってます。でも、神作の奴にここで『借り』を返しとかないと、一生あいつにデカイ顔されますからね。じゃ、また後で」

 上野秀則はイヴフォンを切った。車の電気エンジンをスタートさせ、AI自動車を発進させる。ライトを点灯させたシルバーのAIハードトップが駐車の列の中からゆっくりと前に出た。通路を通り、地上へと続くスロープへと向かう。別の駐車の列の中から黒塗りのAI自動車が動き出した。ライトを点けずにスロープへと向かう。運転席の背広の男は上野のAI自動車がスロープを上ったのを確認すると、アクセルを踏み、車の速度を上げた。上野の車を追ってスロープへと向かったその車のナンバーは、公安の赤上が乗っていた車と末尾の数字が一つだけ違うナンバーだった。



                  13

 監禁されていた用具室から脱出した四人の記者たちは、身を屈めて整備舎の間の狭い路地を進んだ。先頭を神作真哉が走り、その後ろを山野紀子が追う。その後に春木陽香、永山哲也と続いた。永山哲也は、手に入れた新型の自動小銃の側面に並んでいる様々な形のボタンを観察しながら、春木から少し離れて走っていた。

 通りに出る直前で神作真哉が停止した。彼の背中に手を掛けて山野紀子も止まる。その後ろで春木陽香も停止した。小銃の操作に気を取られていた永山哲也は春木の背中にぶつかった。その弾みで春木陽香が山野にぶつかり、山野紀子に押された神作真哉が通りに飛び出す。慌てて路地に戻った神作真哉が山野に言う。

「馬鹿、何やってんだよ」

 山野紀子は後ろを向いて言う。

「そうよ、何してんの」

 春木陽香も後ろを向いた。

「先輩が押すからですよ」

 永山哲也が小銃を軽く持ち上げて言った。

「ごめん、ごめん。これの使い方を見てて」

「使い方も分からないのに、持ってきたんですか?」

「新型のマシンガンみたいだからね。分からないボタンとかも多くてさ。ていうか、旧式の使い方を熟知してる訳じゃないけど」

 その自動小銃の側面には小型のモニターが付いていて、そこにデジタル表示で三桁の数字が表示されていた。おそらく装填されている弾数であると思われた。その横にはスライド式の幾つかのスイッチが付いていて、旧式ステレオのボリュームのような摘みもある。前のグリップの近くにもゴム製のカバーが付いた押しボタンが付いていた。永山哲也はそれを押してみた。

「お、ライトが点いた。まあ、これくらいは特に珍しくもないか……」

 横から興味深そうに覗き込んでいた春木陽香が、その小銃の側面を指差して言った。

「その摘みを回して、照射範囲を調整するんじゃないですか」

 永山哲也がその通りにしてみると、銃口の下から発せられた光が絞られて真っ直ぐな光線になった。

「ホントだ。お、色も変わる。このボタンはなんだろう……」

 永山哲也は前の握りの側面の左右同じ位置に付いている小さなボタンを押してみた。

「わっ」

 小銃の後ろの小さな握りが、引き金とその上の部分ごと銃身から分離した。

「何やってんですか。壊しちゃったじゃないですか」

「違うよ。これ、外れるんだよ。この部分がピストルになってるんだ。これをこっちの銃身に合体させると、引き金が連動して、マシンガンの引き金になる。たぶんマシンガンの状態ではピストルの方の弾の発射はされない。外すと、拳銃として使えるようになるんだよ。よく出来てるなあ」

「ふーん。あ、これ、引き出せますよ。お、鏡が出てきた。女性用なんですかね、これ」

「角から射撃する時に使う奴だろ。一応、モニターにも先端のカメラが捉えた映像が映るみたいだけど」

 山野の潜めた声が通りの方から聞こえた。

「何やってるのよ、早く来なさい!」

 春木陽香と永山哲也は通りの方へと走っていった。


 

                 14

 四人の記者たちが監禁されていた用具室には、床の上にオウム貝の形をした爪切りキーホルダーが落ちていた。鋼鉄の大きな足がそれを踏み潰す。その深緑色の鋼鉄製の靴は、脛と脹脛を覆うレッグ・アーマーに足首の所でジョイントされている。膝の左右の側面には大きなねじ山のような器具が付いていて、腿の防具としっかりと繋がれ、隙間に配線を見せていた。腿の防具には側面に大きなナイフを仕舞うポケットが設けられ、弾避けの鉄板の下で腰を覆うパーツへと続いている。腰の側面には大きな拳銃が装備され、腰から上の腹直筋の部分は廃熱口の四角い穴が縦に並び、腹斜筋の部分は鱗状に並べられた蒲鉾板ほどの大きさの鉄板で覆われている。大胸筋を直線で模ったような胸部のパーツの左右には、肩を覆うしっかりとした防具が接続されていて、そこから出た上腕も鋼鉄の防具で覆われ、肘から手首にかけては頑丈な防具が更に重ねられていた。左腕の表には防弾仕様の通信端末のパネルが装着されている。背中にはランドセルのような四角い箱が装着されていて、その上部に予備の小銃が横向きで格納されていた。首も鱗状の防弾具で覆われている。その上には鋼鉄のヘルメットが乗っていた。頭部の前面は、目の部分に一文字の覗き穴を開けて顎の先端に小さな縦縞の呼吸口を設けた無機質な防弾マスクで覆われている。深緑色の超軽量超合金製の防弾具「甲一一二式アーマースーツ」で全身を覆った兵士たちには、弾丸が入り込む隙間が見当たらなかった。

 そのアーマースーツを着た兵士たちが、大きな鋼鉄製のグローブで機関銃を握ったまま、背広姿の男を取り囲んでいた。男は天井から下がった裸電球に空のギプスを翳し、眼鏡をしきりに上げながら中を覗いている。そのギプスを床に投げつけた津田幹雄は、歯ぎしりをしながら頬を震わせた。

「あいつら……どこまで、この私を……」

 顔を上げた彼は、周囲の機械化歩兵たちに言った。

「捕まえろ。必ず捕まえろ。絶対に逃がすな!」

 一人だけヘルメットとマスクを装着していない兵士がいた。郷田零音である。首から上を露出させたままの彼は言った。

「マシンガンを持って消えてるな。――ありがたいぜ」

 彼は片方の耳に装着したイヤホンマイクに手を当てて、他の兵士たちのヘルメットに内蔵された通信機に指示を送った。

「標的はこちらのマシンガンを奪って逃走している。全員、銃から送られてくる位置信号に注意しろ。発砲するか弾切れになれば、危険信号が全員に送られて来るはずだ」

 一人の兵士が左腕のモニターからホログラフィーの地図を立体表示させて、その中に点滅する赤い点を右手で指差しながら、郷田に言った。

「軍曹、サブ・ガンの離脱信号が出ました。この位置です」

 郷田零音はニヤリと片笑んだ。

「弾切れになった際しか使わない補助ピストルを興味本位で外してみたか。素人め。同時に仲間に危険を知らせる信号が送られるとも知らずに」

 郷田零音軍曹が歩兵たちに指示を出す。

「よーし、二手に分かれるぞ。北からと南から挟み討ちにする。伍長、おまえたちは南に回れ」

 久瀬拓也伍長はマスクをしたまま頷いた。

「了解。行くぞ、こっちだ」

 深緑色の超合金製戦闘防具で身を包んだ兵士たちは、間接の補助モーターの音と金属の足音を交互に鳴らしながら、その部屋から駆け出していった。



                  15

 建物に囲まれた十字路の真ん中で四人の記者たちは立ち止まり、四方を見回していた。暗くて遠くがよく見えなかったが、走ってきた距離から考えても、施設の外に出るゲートまではまだ随分と距離があることは明らかだった。

 山野紀子が息を切らしながら言った。

「それで、どっちに逃げたらいいの?」

 神作真哉は道路の先を望み、遠くの方で月明かりに薄っすらと照らされている大砲のような形の建物を指差して言った。

「向こうに見える大きな建物、あれが発射棟だ。その南にある海岸沿いの高いビルが搭乗者待機施設。ハルハル、この前ここに入った時、おまえはバスで通用ゲートから入ったんだな。位置は分かるか」

 春木陽香は南側の高いビルを見てから振り向くと、北の方角を指差して言った。

「ええと、向こうの方角だと思います。自動車が入る広い門と、人が出入する小さな門がありました」

 少し考えてから、神作真哉は決断した。

「よし。おまえと紀子はそっちに向かえ。ゲートを出たら東に移動しろ。たぶん、あいつらは西の総合空港に逃げたと思って、そっちに追いかけていくはずだ。東に何キロか進めば樹英田区の住宅街の外れに出るから、どこか民家に飛び込んで、警察を呼んでもらえ。うえにょにも連絡するんだ。警察に保護されるところを報道してもらえば、公安も手が出せん」

 山野紀子が眉を寄せて尋ねた。

「私とハルハルって、真ちゃんたちはどうするのよ」

 神作真哉は永山の顔を見た。永山哲也は黙って頷く。

 神作真哉は山野に言った。

「俺と永山は、発射棟の向こうの滑走路を抜けて、南の那珂世湾の方に出る」

 山野紀子が更に眉間に深く皺を寄せて言う。

「二手に分かれるの? 一緒に行動した方がいいんじゃない?」

 神作真哉は言った。

「俺と永山が囮になる。おまえらはなんとしても、ここから脱出するんだ」

 春木陽香は永山の顔を見て言った。

「駄目ですよ。一緒に逃げましょうよ。危ないですよ」

 永山哲也は笑顔を見せて答えた。

「大丈夫。上手く行けば、こっちも脱出できるよ。この銃の仕組みも解かったし」

 山野紀子が真剣な顔で永山に言った。

「哲ちゃんは防災隊にも入ったこと無いでしょ。消火銃の使い方も知らないのに。それは本物の機関銃なのよ。しかも、相手はプロじゃない。駄目よ、そんなの」

 神作真哉が説明した。

「全員で移動しても一網打尽に捕まって、共倒れだ。それに、この前ハルハルは従業員として普通にここに入ることが出来たから、俺たちよりも中の様子をよく見ている。逃げられるとしたら、おまえらの方が可能性は高い。だったら俺たちが囮になって、追っ手を惹きつけるべきだろ」

「そんな。あいつらは私たちを殺すつもりなのよ。データの在り処を言えば解放するなんて言っていたけど、そんな訳ないじゃない。口封じに殺すつもりに違いないわ。そんな連中を相手に、囮になるなんて、絶対に無茶よ!」

 神作真哉は山野の目を見て言う。

「紀子。おまえは母親なんだ。朝美は女の子だろ。女の子には母親が必要だ。俺じゃ、その代わりをすることはできん。どちらかが生き残らなければ、朝美は両親とも失うことになるんだぞ」

「だって、海の方に逃げても、そこで行き止まりじゃない。どうやって逃げるのよ。奴らに掴まって殺されちゃうでしょ!」

 神作真哉は狼狽する山野の両肩を掴んで、強い口調で言った。

「母親だろ、しっかりしろ! 紀子!」

 山野紀子は口を閉じた。

 永山哲也が真顔で言った。

「ハルハル、ノンさんをしっかり連れ出してくれよ。お前も絶対に生きてここから出ろ。二人で立派な記事を書いて、『週刊新日風潮』でこの事実を世間に伝えるんだ。いいな」

「永山先輩……」

 顔を見上げている春木に、永山哲也は深く頷いて見せた。

 神作真哉は駆け出しながら言った。

「時間が無い。行くぞ、永山。ハルハル、建物の間を抜けていけ。できたら車を見つけるんだ。徒歩で移動するには距離があるからな。紀子のことを頼んだぞ。行くぞ、永山」

 神作真哉は南の方角へと走っていった。

 永山哲也は山野の顔を見て苦笑いしながら言った。

「父親の責任って奴ですね。それじゃ。運がよければ明日、会社で」

 永山哲也は小銃を抱えて、神作を追いかける。

 男たちは駆けていった。

 山野紀子が二人を追おうとしたが、春木がブラウスの半袖を掴んで止めた。

「編集長、行きましょう」

「だって、これじゃ真ちゃんたちが……」

「朝美ちゃんを一人にするつもりですか!」

 春木陽香は歯を喰いしばりながら、山野の目を見ている。

 山野紀子は闇の向こうに消えていく二人の男たちの背中に目を遣ってから、再び春木の方を向くと、彼女の眼を見て黙って頷いた。

 春木に手を引かれて、山野紀子は北の方角に走っていった。 



                 16

 左腕の上に薄く平面で表示されたホログラフィー地図を見ながら、郷田零音は機関銃を構えて前進していた。角に差し掛かると、左腕の地図を一瞥する。兵士たちは肩の高さで機関銃を構えたまま、郷田を先頭に、腰を落として前進を続けた。

 郷田軍曹が角の手前で停止すると同時に銃から放した右手で拳を握り、その腕を直角に曲げて立てた。その合図を見て他の兵士たちも停止する。

 郷田軍曹は久瀬に通信した。

「北は塞いだ。そっちは」

 久瀬伍長からの返事がイヤホンマイクに届く。

『南に着きました。準備オーケーです。』

 郷田軍曹は小声で言った。

「いいか、足を撃て。動きを封じるんだ。絶対に殺すなよ」

 久瀬伍長が答える。

『分かってますよ。お楽しみは残しとかないと』

 一瞬笑みを浮かべた郷田軍曹は、真顔に戻って指示を発した。

「よし、行け」

 深緑色の鋼鉄の鎧の兵士たちは、郷田の手信号に従い、一斉に前進を開始した。小刻みな歩幅で進み、角を素早く曲がると、建物の間の車道に横一列に並んで銃を構え、通りを塞ぐ。列の端に立つ郷田軍曹が指を揃えた手を前に振ると、深緑色の兵士たちは機械音を鳴らしながら通りを南へと進んだ。建物のシャッターに挟まれた通りには、向こうの方の建物のシャッターの前に小高く積まれた木箱の山が見えた。その向こうの奥から、久瀬伍長が率いる分隊が横一列に並んで通りを塞いだまま前進してくる。

 左腕のホログラフィー地図を一瞥した郷田軍曹は小声で通信した。

「木箱の後ろだ。V字隊形で挟め」

 深緑色の兵士たちは郷田の指示通りに隊列を変えていく。郷田の分隊の兵士たちは列を斜めにしていった。一番前に出た郷田軍曹は、向こう側で同じく隊列の角度を斜めにした分隊の端の久瀬伍長と隣り合わせに並んで、V字の要の部分に立った。壁と隊列で木箱の山を囲んで停止した深緑色の兵士たちは、全員が銃口をその木箱の方に向けている。

「撃て!」

 郷田の号令と共に兵士たちの小銃が発砲音を鳴らした。銃口から凄まじい音と閃光が放たれ、周囲が明るく照らされる。兵士たちは積まれていた木箱の下の部分に向けて発砲を続けた。その木箱の下は木っ端微塵に砕け散った。底のアスファルトは四方に飛び散り、上に積み上げられていた木箱が音を立てて崩れ落ちる。

 郷田軍曹が無線で各兵士に指示を送った。

「撃ち方やめい!」

 一斉に発砲音が止み、周囲に静寂が戻った。硝煙が漂う中を据銃したまま前進した久瀬伍長は、散らばった木片を足で蹴って除ける。彼は不恰好に積み重なった壊れた木箱の隙間に手を差し込み、中から一丁の自動小銃を取り出した。その小銃の側面では小さなランプが点滅を続けている。小銃のグリップと引き金を兼ねたピストル部分は、中途半端にはめ込まれていて、結合部分の電極部位がきちんと接触されていない。小銃の無線機は危険信号を他の兵士たちに送り続けていた。

 久瀬拓也伍長は小銃を木箱の上に叩き付けた。

「くそ! あいつら、わざとサブ・ガンを中途半端に差し込みやがったな。こっちに信号を送って、俺たちをおびき寄せるために。畜生!」

 マスクを外した久瀬伍長は、ツバを路面に吐き捨てた。

 郷田零音は冷静に指示を出す。

「まだ近くにいるはずだ。ここからなら海の方が近い。第一分隊は東から、第二分隊は北から周って探索しろ。行け」

 兵士たちが一斉に向きを変えた。

 郷田零音は久瀬に歩み寄ると、彼に頭を寄せて小声で言った。

「おまえと野島は、北二番ゲートに向かえ。連中は二手に分かれているかもしれん。だとすれば、ここから一番遠いゲートから出ようとするはずだ。たぶん、そっちは女二人だ。捕獲はおまえらに任せる」

 郷田零音はニヤリとして片笑む。久瀬拓也も笑みを浮かべて返事をした。

「了解しました。行くぞ、野島あ!」

 久瀬拓也伍長は再びマスクを装着すると、北の方角に走っていく。

 頭部を鋼鉄製の防弾ヘルメットと防弾マスクで覆った野島闘馬一等兵が久瀬に続いて駆けていった。

 間接から機械音を鳴らしながら、二体の深緑色の人影が暗闇の中へと消えていった。



                  17

 神作真哉と永山哲也が建物の陰に駆け寄ってきた。二人は息を切らしながら、向こうの滑走路の先を伺う。暗闇に包まれた滑走路は静かだった。遠くからの波と風の音だけが耳に届く。

 振り向いて背後の低層ビルの先を望みながら、永山哲也が言った。

「あいつら、引っ掛かりましたかね」

 南の大砲のような建物の方を見ながら、神作真哉が応える。

「どうだかな。銃声が向こうで響いたところをみると、うまく引き寄せることが出来たかもな。こっちを追ってくれればいいが……。とにかく、あの発射管の下を通り抜ければ、滑走路だ。そこを全力疾走して横切れば海の方に出られる。行くぞ」

 神作真哉は左右を注意深く確認すると、飛び出して走っていった。

「南米より、ここの方が危険じゃないか、まったく……」

 愚痴をこぼしながら、永山哲也も駆け出していく。

 ワイシャツ姿の二人の男たちは、滑走路の上に広がる暗闇の奥へと走っていった。



                  18

 建物と建物の間の狭い路地から、春木陽香の顔と山野紀子の後頭部が順に出た。二人は頭を出した順番に言う。

「右よし」

「左よし」

 二人は路地から素早く出てくると、すぐに壁際のシャッターに背中を付けて、そのまま横向きに壁際を進んだ。

 前を進んでいた春木に山野紀子が言った。

「ホントに、こっちでいいんでしょうね」

 春木陽香は壁に背を当てて横歩きしながら答えた。

「前にジャガイモの皮剥きをさせられた時に、バスに乗って向こうの搭乗者待機施設まで移動しました。その途中で高級AI自動車がこの先に停まっているのを見たんです。隣の席の人に尋ねたら、搭乗者を待機施設から発射棟に移動させるのに使う送迎用の自動車だろうと言ってました。もしかしたら、近くに車庫があって、まだ中に車が停めてあるかもしれません。……ん?」

 春木陽香は足下に転がっているスチール製のパイプ棒に気付き、それを拾った。その端を両手で握って剣道の竹刀のように二度振ってから、言う。

「よし。使える」

 山野紀子は春木がスチールパイプを振り上げる度に、その先端を後ろでかわしながら、春木に尋ねた。

「ちょっと……危なっ……あんた、剣道でもやってたの?」

 春木陽香は構えた棒の先端をにらみながら、口をへの字にして答えた。

「いいえ。でも、子供の時、もぐら叩きゲームは得意でした」

「つ、使えない! 思いっきり使えない特技じゃないのよ、それ」

「臨機応変です。ほら、行きますよ」

 春木陽香はスチールパイプを持ったまま壁に背中を当てて、スタスタと壁際を進んだ。

 山野紀子は彼女の後ろを歩きながら春木に言う。

「あのさ、やっぱり移動するなら確実な方がいいんじゃないの? 車庫も車も無かったら時間の無駄じゃない。それよりも、さっさと通用ゲートとかに移動して、そこから歩いて逃げた方がよくない? それに車庫があったとしても、その中にどうやって……あ痛っ。ちょっと、急に止まらないでよ」

「はい、ストップ」

「してるわよ。止まる前に言いなさいよ」

 春木陽香は先を指差しながら言った。

「曲がり角です。この角を曲がった先の二つ目か三つ目の建物に車庫があるはずです。曲がり角が一番危険ですから、私が先に行きます」

「何よ、急に頼もしくなったわね」

「潜入活動は三度目ですから。ここは経験者に任せて下さい。コツは掴みました」

「嘘いいなさいよ! 前の二回とも、見つかって捕まってるじゃないのよ、あんた」

「三度目の正直です。今度は絶対、大丈夫です」

 春木陽香は角の方に進んでいった。山野紀子は眉を寄せて呟く。

「その自信満々のところが、ものっすごく不安なのよ」

 山野紀子は眉を寄せたまま、春木を追いかけていった。


 角の前で背中を壁に付けて停止している春木陽香の横に、追いついた山野紀子が背中を壁に付けて停止し、春木に尋ねようとした。

「本当にこの先に車庫が……」

「シッ。静かに。敵に気付かれますよ。角の先に敵が潜んでいるかもしれません。行動は常に最悪を想定して、注意深く、素早く、静かに、正確に。いいですね」

「注文が多いわね」

 口を尖らせた山野に、春木陽香は真剣な顔でアドバイスした。

「ブラの中のパットのズレをさり気なく直す時。要は、あれと同じです」

「ああ……なるほど。じゃあ、職場で思わず透かしッ屁しちゃう時とも同じね。最悪を想定して、注意深く、素早く……静かに……」

 春木陽香は目を細めて冷ややかな視線を山野に送る。

 山野紀子は愛想笑いをしながら言った。

「あははは。女同士なんだら、いいじゃない。気にしなさんな。ははは」

 春木陽香は真面目な顔で言う。

「とにかく、まず私が角から一瞬だけ先を覗いて、安全を確認します。編集長は、私が合図したら出てきて下さい」

「うん、分かった」

 春木陽香は眉間に皺を寄せた。

「すごく危険なので、とにかく慎重にいきます。一瞬のミスが命取りになりますから。注意深く、素早く、静かに、正確に確認しないと、本当に危ない……」

「分かったから、早く行きなさいよ」

 春木陽香は生唾を飲んだ。

「――じゃ、覗いてみます。行きますよ。カウントスリー。スリー、ツー、ワン……」

 グー。

 腹が鳴る音がした。春木陽香は後ろを振り向き、緊張に満ちた厳しい顔で山野に言う。

「編集長! ちょっとした気の緩みが『死』に繋がるんですよ。気をつけてください!」

「鳴ったのはあんたの腹でしょうが! いいからさっさと行きなさいよ」

「ちょ、押さないで、まず確認しますから! せーの……チラッ」

 春木陽香は、一瞬だけ、少しだけ、頭を角から出して、素早く引っ込めた。

「ふう」

 額の汗を拭う春木の隣で、山野紀子が声を押し殺して尋ねる。

「どうだった?」

 春木陽香は深刻な顔で答えた。

「分かりません。早過ぎて見えませんでした。いたっ。――ちょっと、編集長、角は危ないですよ」

 春木に拳骨をした山野紀子は、その拳を握ったまま春木の前をスタスタと歩いていき、角から外に出た。山野紀子はT字路の突き当たりで肩幅に両足を開いて立ったまま、自分の正面の道路と、左の道路を見回す。そこに誰もいないことを確認した彼女は、右の道路の角に隠れている春木に手招きして言った。

「誰も居ないわよ。さっさと来なさい。ビビッてたら、いつまで経っても逃げ出せ……」

 光の筋が走り、風を切り裂く音がした。同時に銃撃音が響き、山野紀子の背後を弾丸が幾つも横切る。T字路の突き当たりの壁の表面が細かく粉砕されて飛び散った。

 春木陽香が叫ぶ。

「編集長!」

 山野紀子は春木に手招きする恰好のまま固まっていた。そして、ゆっくりと顔を正面の道路に向ける。向こうから、全身を深緑色の鎧で覆った兵士が一人、こちらに小銃を構えて歩いてきた。その兵士は鎧で常人よりも一回り大きく見える。

 山野紀子はT字路の突き当たりの壁際の方に後退りしながら、春木の方に目を遣った。スチールパイプを握って構えたまま角に身を隠していた春木陽香の背後に、大きな深緑色の影が現われた。

「ハルハル、後ろ!」

「え? うし……わあ!」

 後ろを振り向いた春木陽香は、背後で両手を広げて抱きつこうとしていた深緑色のアーマースーツの兵士に気付き、咄嗟にその場から逃げ出した。スチールパイプを右手に握ったまま山野の隣に駆け寄った彼女は、自分たちを取り囲んだ二人の兵士に向けて、へっぴり腰でスチールパイプを構える。

 春木陽香は後退りしながら、隣の山野に言った。

「だから、角には気をつけて下さいって言ったじゃないですかあ! 何が誰も居ないですか。思いっきり居るじゃないですかあ!」

「老眼が始まってるんだから仕方ないでしょ。遠くは見えないのよ!」

「早く言って下さいよ、そう言うことお!」

 正面のアーマースーツの兵士がマスクを外して放り投げた。久瀬拓也だった。彼は薄ら笑いを浮かべながら言った。

「みいーつけたあー。へへへへ」

 すると、久瀬のヘルメットの無線機に他の兵士の声が届いた。

『伍長、発砲信号を確認しました。応援に行かなくてもいいですか』

「いや、必要ない。威嚇射撃だ。女たちを見つけた。春木と山野の二人組だ。これから武器を隠し持っていないか身体チェックをする。安全はしっかり確認しろって、訓練兵の時に予科で教わったからなあ。暫く無線は切るぞ。へへへ」

 久瀬拓也はヘルメットを外して、それも放り投げた。もう一人のアーマースーツの男も左腕の機械を操作して、無線通信を無効にする。そのアーマースーツの兵士も両腕を広げて一歩ずつ近づいてきた。深緑色のマスクの下から垂れたよだれが顎を伝い、呼吸口から糸を引いて下に落ちる。

 山野紀子と春木陽香は彼らと距離を保って後退りをしていたが、やがて、壁に背中をぶつけた。

 二人の男は、前と横から少しずつ、逃げ場を失った二人の女に近づいていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る