ドクターTの証明 サーベイランスA
与十川 大 (←改淀川大新←淀川大)
第1話
プロローグ
一匹のリスがふと上身を起こして四方を見回した。何かに気づいたリスは木の実を抱えたまま枝の上を駆けて行く。木の葉が大きく揺れ、深緑の中が騒めいた。鳥たちが一斉に緑の屋根の中から空へと飛び出していく。その向こうから、小さな回転翼を四方で回した機械が不快なモーター音と共に飛行してきた。それは本体の下のカメラのレンズを周囲に向けながら森の上をすべるように飛んで行く。その先には緑の中から大きな鉄塔が突き出していた。機械は鉄塔の手前の空中で停止すると、音を大きくして不自然に上昇し、その冷たいレンズで高い位置から景色を捉えた。
周囲を山々に囲まれたその森は深緑の中心にコンクリート製の無機質な屋根を覗かせている。屋根は広い。屋根の中央には金属製の巨大な鉄塔が立っていて、その鉄塔の側面には幾つものパラボラ式アンテナが取り付けられていた。
薄暗い部屋の中の大きなモニターに映るその鉄塔を、離れた席から男がにらんでいた。背広姿のその男は鼻の上に落ちた眼鏡を指先で少し持ち上げると、革張りの椅子の高い背もたれに身を倒した。そのまま机の上に並べられた数台の薄型モニターに目を配る。それらのモニターには、その巨大な建物を四方から映した映像と周辺の森の様子が映されていた。
彼の机の前には操作パネルやモニターが置かれた机が横一列に並べられていて、各机には白衣姿の人間が座っていた。彼らは自分の前のモニターに表示された折れ線グラフや棒グラフに目を凝らしている。誰もが慌しくキーボードを叩き、その後ろを他の白衣姿の人間が忙しく動いていた。
眼鏡の男は一段高い席から指示を発した。
「メインモニターを内部画像に切り替えろ」
男の正面に広がっている大きなモニターに白い卵形の物体が映った。横に倒された卵のような形状のその物体には、それを前後に挟む形で無数のフレームが取り付けられ、全長が増加されている。
白衣姿の人間たちは手許の計測器やモニターのデータを確認しながら次々に報告の声を上げていった。
「ミクロ単位調整が終了。気圧値も一定。全周辺機器、作動停止」
「撮影用ドローンを全機回収。ドッグも閉鎖しました。気圧、異常なし」
「体温センサーの最終チェックを終了。周囲に体温反応は無し。実験領域内の人体カウント、ゼロ」
「遠隔操作システム、良好。時差、プラスマイナス、コンマ〇〇〇二の範囲」
また眼鏡を少し持ち上げた背広の男が厳しい表情で言う。
「修正しろ。最低でももう一桁落とせ。目標はジャストだ。プラマイゼロを目指せ」
「了解」
パソコンの前の白衣姿の人間たちがキーボードを素早く叩いていく。カタカタと音が響く中、部屋の隅の若い男が大きな声で叫んだ。
「発射施設内の温度上昇を感知。上昇率、増加中。コンマ〇五パーセント。コンマ一パーセント……コンマ一五パーセント……」
続いて、室内のあちらこちらから声が上がった。
「ヒルベルト空間値に変化あり。変化率がレベル・ツーに入りました」
「サブミリ波を確認。ヘルツ値が上昇。現在、二コンマ三テラヘルツ」
「エネルギー準位にも変化あり。定常状態が崩れます!」
「空間余波を感知。強いです! レッドゾーンに達しています!」
背もたれから身を離した眼鏡の男は周囲を指差しながら声を荒げた。
「全モニターを熱感知画像に切り替えろ! 周辺地域の体温センサーを再確認。現地に人がいないか、もう一度よく見ろ! 警報を鳴らし、周囲に危険を知らせるんだ! 急げ!」
目の前の席の女が振り向き、叫んだ。
「熱レベル、気圧レベルが限界値に達します!」
別の男たちの声が続けて飛ぶ。
「臨界点到達まで十七秒です!」
「基底状態、
「トンネル効果、最大予測値を突破。波束、崩れます!」
眼鏡の男は椅子から立ち上がると、目を覆いながら大声で叫んだ。
「全員、ゴーグルを装着しろ。画面を見るな。音にも備えるんだ。来るぞ!」
その瞬間、室内のすべてのモニターが眩い白一色に変わった。
巨大な鉄塔を強い光が真下から照らす。鉄塔に装着されていたパラボラ式アンテナが熔けながら上に飛ばされ、蒸発した。
光源は膨らみ、建物全体を覆うと、そのまま一気に大きく広がった。森全体が一瞬にして白光に包まれる。
凄まじい振動と轟音が天地を揺らした。
やがて、山間から黒く巨大なキノコ雲が立ち上がった。稲妻が空を駆け巡り、烈風が山を揺らす。
その森は消えた。
二〇二五年九月二十八日、日曜日、午前十一時十七分五十二秒の出来事だった。
第一部
二〇三八年四月十二日 月曜日
1
昇ったばかりの太陽が「新首都」を照らしている。巨大な人工湖「
名前の無いこの街には二つの顔が有る。十六年前の遷都以前から存在した都市「旧市街」と、遷都に伴い新たに建造された「新市街」だ。これらの新旧二つの地域で構成される「新首都」は、光と陰、自然と人工、伝統と革新、経験と挑戦、成熟と未熟、冷静と情熱、静寂と喧騒、過去と未来を混在させながら、ある種の調和と秩序を生み出していた。アポロ的表象にディオニュソス的意思を秘めて。
昭憲田池の北部には日本の新たな中枢となった官庁街が広がっていて、東部に繁華街と工場街、南部には高台を越えた向こうの湾岸沿いに工業地帯や空港、港湾を構えている。昭憲田池の西部に群立する超高層ビルには日本中の大企業の本社が集中していた。その多くは旧首都・東京から移転してきたものであるが、遷都を契機に新たに設立された企業も多い。全国新聞社の「新日ネット新聞社」もその一つである。東京に本社を構える「新日新聞社」が所有する「新日ネット新聞ビル」には、その上層階に新設のインターネット新聞会社「新日ネット新聞社」が、その下層階に老舗の週刊誌発行会社「新日風潮社」の本社が入っている。新人記者・
入社十日目、彼女の一日は上司の怒鳴り声で始まる。
「コルァ! ハルハル! この原稿、全然だめ。はい、やり
編集室長の
春木陽香は突き返された原稿を受け取りながら、落胆した表情で答えた。
「はあ。またですか……すみません」
机のこちら側でハイバックの椅子に座っている山野に一礼した彼女は、肩を落として自分の席に戻っていった。
春木の背中を見つめながら、山野紀子は椅子の高い背もたれに深く体を倒して言う。
「あのさ、先週の記事はあれで良かったけどね、今度の記事はその追跡記事なのよ。客観的に、もっと掘り下げなきゃ」
「はあ……」
そう相槌とも了解とも取れない曖昧な返事をした春木陽香は、山野の席の目の前にある自分の席の横で、安物の事務用椅子の背もたれに手を掛けて立ったまま、もう片方の手に持った原稿を読み返した。口を尖らせて読んでいた彼女は少し首を傾げると、視線だけを山野に向ける。大きなガラス窓を背にして座っている山野紀子は、四十後半に入って痛み出した肩を回しながら、他の記者が書いた原稿に目を通していた。春木陽香は再び自分の原稿を読み直す。
ここは新日風潮社の販売事業本部製作課に属する編集室である。この会社のメインの発行物となる週刊誌「週刊新日風潮」の製作を受け持つ部署であるにも拘らず、部屋の中はそう広くはない。本来はもう少し広い正方形の部屋であったが、山野の要望で作られた壁の向こうの会議室のせいで、この部屋はビルの内側に向かって長く伸びる狭苦しい長方形の部屋になってしまっていた。左右の壁際には事務机が壁の方を向いて幾つも並べられ、その間に机同士を向かい合わせて並べた「島」が作られている。春木陽香の席はその机の「島」の一番前の角である。彼女の席からは、そこから間隔を空けてこちら向きに置かれた少し大きめの山野の机が、どうしても視界の右隅に映る。この編集室を束ねる山野紀子はそこから部下たちの仕事ぶりや部屋の出入りを監視するかのように、いつも目を光らせている。編集室の数十人の記者たちは皆、山野の視線を気にしながら、窮屈に置かれた机の上で黙々と記事の作成に取り組んでいた。
洗練されたデザインの茶色い机に両肘をついた山野紀子は、組んだ両手の指の上に顎をのせた。まだ立ったまま原稿を読んでいる春木を見ながら、諭すように言う。
「それにね、ハルハル。そもそも文章が、こう、情緒的過ぎるのよね。熱過ぎるの。
春木陽香は山野の机の前に戻ってくると、何枚か原稿を捲り、その途中の頁の上を指差しながら、遠慮気味に恐る恐る言った。
「あの……室長、ここにまとめてみたんですけど……」
「室長じゃない! 『編集長』って呼びなさい!」
山野紀子は部屋中に響く程の大声で怒鳴った。部屋にいた記者たちは皆、口を噤む。室内が一段と静かになった。春木陽香は目を瞑り、キュッと首をすくめている。自分が思わず必要以上の大声を出してしまったことに気付いた山野紀子は、咳払いをした後、少し口調を和らげて春木に言った。
「あのね、それは分かるんだけど、事実報道の部分にも推論や記者の直感が混じっているのよ。もっと分けて書きなさいよ。それにね、
春木陽香は山野が天井を指差したのにつられて、上を見た。山野が言った「上の階の連中」が上層階の新日ネット新聞社の記者たちを指していると気づき、彼女はすぐに顔を下げて前を向いた。山野紀子が呆れ顔で春木の手許を指差している。
「それ、連載する記事なんだからね。しかもゴールデン・ウィーク特別号にまで載せる特集記事の一部なのよ。分かってる?」
「はあ……すみません。すぐ、やり直します」
春木陽香は小さく一礼した後、再び肩を落として席に戻ろうとした。
「ちょいストップ」
山野に呼び止められて、春木陽香は立ち止まる。そっと振り向いた。少し涙目だった。そんな春木を見た山野紀子は、溜め息を吐いてから、春木に言った。
「あのね、このネタ、あんたが掘り出したネタだから、新人のあんたに任せたのよ。新人研修を終えたばかりのあんたには荷が重いのは分かるけど、ハルハルは前に上で記事を書いていたんだから、全くの素人じゃないでしょ。取り掛かったら、最後まで責任を持って……」
その時、ドアが荒々しく閉まる音が響いた。
この長方形の部屋の奥には、突き当たりの壁の左側からビル中央の広い廊下へと続く細い廊下が伸びている。その廊下の壁際には形を崩した古いダンボール箱が雑然と積まれていて、更に通りが狭くなっていた。廊下の途中の左手には給湯室があり、その先に少し進むと、今度は右手に応接室の入り口のドアがある。更に進んだ先の、その細い廊下の突き当りには、ビルの中央廊下に出る厚手のドアが設置されていた。さっき激しい音を立てて閉まったのは、そのドアである。
ベタベタとした騒々しい足音の後に、編集室内に小作りな男が駆け込んで来た。その男は背中を向け合って座っている記者たちの椅子の間を走ってくると、山野の机の方を向いて立っている春木の前に割り込んできて、茶色い机の上に両手をついた。そして、一度大きく深呼吸をした後、深刻な表情をした濃い顔を前に突き出して、山野に言った。
「編集長……」
「な、なに。別府君」
山野紀子は体を後ろに引いて、そう尋ねた。
三十代半ばの中堅記者・
「——来客です」
「はあ?」
全力でしかめた山野紀子は、肩まで伸びた黒いストレートヘアーの頭を数回だけ激しく掻くと、別府を何度も指差しながら彼に言った。
「あのね。今、新人記者に記者魂を植え込んでいる最中なのよ。子供じゃあるまいし、来客くらい、あんたが自分で対応しなさい」
別府博は困惑した顔で言う。
「それが……、弁護士さんなんですよ。応接室にお通ししても……」
「弁護士?」
山野紀子は眉間に皺を寄せて問い返した。
別府博は、眉を八字にして答える。
「例の時吉総一郎の息子の
別府博は春木が手に持っていた原稿を指差した。
春木陽香は自分が持っていた原稿を怪訝な顔で見つめる。
山野紀子は眉間に皺を寄せて少し考えた。そして、視線を別府に戻すと、歯切れの良い口調で言った。
「わかった。とにかく、応接室にお通しして。私が話を聞く」
細かく何度も頷いた別府博は、またベタベタと足音を立てて狭い廊下の方に駆けて行った。
春木陽香は困惑した顔のまま自分の席に戻ると、手に持っていた原稿を読み直しながら椅子に腰を下ろした。
山野紀子は椅子の背もたれに身を倒し、険しい表情をして言う。
「出版の差し止め? 冗談じゃないわよ。表現の自由を何だと思ってるのよ。時吉総一郎は
山野紀子は腕組みをして、口をヘの字に結んだ。
狭い廊下の奥でドアが開閉する音がして、別府の声がする。普段よりも高く弱々しい声だ。その後、再びドアが開閉する音がして、またベタベタとした足音が響いた。暫らくして、陶器が細かく振動する音が鳴ると、再度ドアが開閉する音がした。そして、もう一度ドアが開閉する音がして、またベタベタとした足音がする。それが徐々に大きくなり、お盆を抱えた別府博が走って戻ってきた。山野の机の前まで来た彼は、息を切らしながら、低めた声で言った。
「お通ししました。——応接室です。——お茶も出しときました。ばっちりです」
彼は山野にウインクして見せた。それを無視して勢いよく立ち上がった山野紀子は、自分の机を回り、春木の席の後ろを大股で歩いて移動した。彼女は鼻息を荒らしながら、狭い廊下の入り口の方へと向かう。部屋の中の記者たちは黙ったまま山野を視線で追った。
廊下の入り口の前で立ち止まった山野紀子が振り返り、席で原稿を読み直している春木を指差した。記者たちの視線が春木に集まる。視線に気付いた春木陽香は顔を上げた。他の先輩記者たちが視線で合図を送っている。彼女は山野の方に恐る恐る顔を向けた。
両脚を肩幅に開いて立っている山野紀子は、一度だけ下から大きく手招きして言った。
「カモーン。ハルハル、あんたも来なさい。担当記者なんだから」
慌てて椅子を引いて立ち上がった春木陽香は、原稿を机の上に放り置いて駆け出し、狭い廊下を歩いていく山野を追い掛けていった。
2
広い部屋の中央には、低い応接テーブルを挟む形で四人掛けのソファーが向かい合わせに置かれていた。テーブルの上には茶托に乗せられた湯飲みが置かれていたが、蓋は開けられていなかった。黒い革張りのソファーの横にタータンチェック柄の派手なスーツを着た男が膝の前で分厚い鞄を提げて立っている。室内に山野と春木が入ってくると、男は鞄を床に置き、準備していた名刺入れから二枚の名刺を取り出して、一礼してから、それぞれに渡した。改めて真っ直ぐに山野に顔を向けた彼は、丁寧な挨拶をする。
「弁護士の時吉と申します。お忙しいところ、突然お伺いして申し訳ない」
「あ、——いいえ。編集室長の山野です」
威勢よく応接室に乗り込んできた山野紀子は面食らった。それは時吉の挨拶が丁寧だったからではなく、彼の物腰が柔らかなうえに、三十九歳という年齢に似合わず、意外にも落ち着いて見えたからであった。山野紀子は少し慌てて、手に持っていた名刺入れから自分の名刺を取り出すと、時吉に差し出した。時吉浩一は受け取った名刺に少し時間を掛けて目を通した後、山野の隣に立っている春木に目を向けた。彼の視線に気付いた山野紀子は春木を手で指して言った。
「あ、春木記者です。記事を担当いたしましたので、同席させます。——ほら、ハルハル、挨拶」
挨拶するタイミングを失っていた春木陽香は、山野に紹介されながらペコリと頭を下げていた。彼女は顔を上げるとすぐに言った。
「春木です。はじめまして」
一瞬の間の後、山野が小声で春木に言う。
「名刺」
山野に促されてハッとした春木陽香は、少し気まずそうに言った。
「あ、すみません。机に……」
「早く取ってきなさい」
春木陽香はコクコクと頷いた後で、ドアを開けて慌てて駆け出していった。
山野紀子は愛想笑いをしながら、時吉に言う。
「すみませんね。十日前に社会人に復帰したばかりで、まだ学生ボケが抜けきれていませんの。オホホホホ」
「なるほど……」
時吉浩一は山野の名刺を丁寧に名刺入れに仕舞いながら苦笑いをして、開け広げられたままのドアの方を見つめた。
「まあ、先生、どうぞ、お掛けになって下さい」
山野にそう勧められて、時吉浩一はゆっくりとソファーの前に移動した。中央に腰掛けて分厚い革製の鞄を足下に置いた彼は、向かいに座った山野の顔を見て尋ねた。
「ところで、彼女が担当した記事とは、どんな記事なのです?」
山野紀子は顔の前で手を一振りする。
「嫌ですわ、先生。その記事の件でいらしたのでは?」
そこへ春木陽香が駆けて戻ってきた。彼女は室内に向けて開いた状態のドアを閉めるのも忘れて、慌てて時吉の横に駆けつけると、低頭したまま自分の名刺を時吉の前に突き出した。
「失礼いたしました。記者の春木陽香です」
時吉浩一は黙って名刺を受け取ると、それに軽く目を通してから名刺入れに仕舞った。
眉を寄せて春木を見ていた山野紀子は、自分の隣の席を指差して、春木にそこに座るよう指示した。春木陽香は、ばつが悪そうに山野の隣にちょこんと座った。
山野紀子は姿勢を正すと、時吉の目を真っ直ぐに見ながら笑顔を作って言った。
「先にお伝えしておきますけど、ウチの週刊誌のモットーは、『真実の追究』ですの。記事を書くに当たっては綿密に取材を重ねていますし、本誌掲載も厳選された記事のみとしていますわ。人々が知りたがっている事ではなく、知らせるべき記事を、吟味に吟味を重ねて載せていますの。売上げ重視の他の三流週刊誌とは違いますのよ。ウチは記事の中身でも勝負していますし。ですから、いい加減な記事を載せているつもりはありませんし、それがもし社会のために必要な記事なら、たとえ取材対象者が抗議しようとも、ちゃんと読者に伝えますわ。それが民主主義の根幹を支える我々ジャーナリストの使命ですから」
「それは立派ですね」
時吉浩一は話の途中で山野から視線を逸らし、湯飲みの蓋を外すと、その湯飲みを手に取ってお茶を一口だけ啜った。静かに湯飲みを茶托の上に戻した彼は、山野に視線を戻して言う。
「それで」
山野紀子は笑顔のまま、毅然と答えた。
「ですから、出版を止める訳には参りませんのよ。社会正義の実現のためにも、我々は客観的で曇りの無い記事を読者に……」
ドアが開けられたままの入り口の向こうから、記者たちが騒ぐ声が聞こえてきた。
「やりましたあ! みなさーん。聞いて下さい。あの清純派女優、
「おお、マジっすか。こりゃ、巻頭カラーだな。売上部数がドーンと行くな。よし、久しぶりにアレをやるか」
「アレって、まさか『袋とじ』ですか。今時はやっぱり、アクセスパスワードでネットから立体映像をダウンロードでしょ」
「馬鹿。『袋とじ』世代の好奇心をくすぐるんだよ。おじさん世代は『袋とじ』状態になっているだけで、それがただの製本ミスでも買うからな」
頬を引き攣らせながら体を硬直させて聞いていた山野紀子は、強張った笑顔を時吉に向けて言った。
「ちょっと、ごめんなさい……」
立ち上がった山野紀子はソファーの後ろを回り、速足で廊下に出ると、記者たちが騒いでいる編集室の方へと姿を消した。その後すぐに彼女の声が響いてきた。
「コルァ! バカ記者どもお! 接客中じゃあ、静かにせんかい!」
「あ、編集長。上の
「今、大っ事な話し中なのよ。それくらい分からんのか、別府う!」
ヒールが床を叩く音と共に再び山野紀子が姿を現した。応接室に入るとドアをしっかりと閉める。彼女はソファーの後ろを回ってきて、座っていた席に戻り、ゆっくりと腰を下ろした。そして、時吉に精一杯の愛想笑いをしてみせながら言った。
「オホホホホ。大変、失礼しました。——それで、何でしたっけ」
「えーと……」
時吉浩一は固まったまま何度も瞬きした。真顔に戻した彼は、言った。
「いや、父の記事の件で来たのではありません。それは御社の方で、どうぞご自由に」
春木陽香が尋ねた。
「お父様の批判記事になりますけど、いいのですか」
「ハルハル」
山野に制止された春木陽香は発言をそこでやめた。
時吉浩一は春木に顔を向けると、少しだけ口角をあげて言った。
「ええ。僕は父と離婚したいと希望している母の代理人ですから。批判記事だろうと、中傷記事だろうと、一向に構いません」
「そうなんですか」
安心した春木陽香は思わずそう呟いた。
時吉浩一は再び山野の方を見ると、背広の内ポケットから一枚の名刺大の薄いカードを取り出し、それを手に持ったまま山野たちに見せた。
「いや、今日伺いましたのは、これをお見せしたくて」
それはMBC(Memory Ball Card)という大容量記憶媒体だった。パソコンやその他の端末で使用できる統一規格の電子記憶媒体で、一般的に普及しているものでもある。
「中には、何が」
山野が尋ねると、時吉浩一は彼女の目を見て答えた。
「司時空庁の現長官・
時吉浩一はそのMBCを山野の前に差し出した。山野が手を伸ばすと、彼はすぐにそれを引っ込めて、山野に言う。
「但し、条件があります」
眉をひそめた山野紀子は落ち着いた声で返した。
「何でしょう」
時吉浩一は人差し指と中指でMBCを挟んだまま、山野に条件を提示した。
「父が浮気した女子大生の名前と住所を教えていただけませんか。あの男は用心深い男でしてね。どこにも相手の女性の名前や連絡先を残していないのですよ。母が不貞行為による損害賠償として慰謝料を請求しようにも、相手の氏名も住所も分からないのです。これじゃ、裁判も起こせない。それで、その女子大生とやらの氏名と住所を教えてもらいたいのです。取材したあなたは、ご存知なのですよね」
時吉浩一は和やかな表情で春木の顔を覗いた。
春木陽香は少し考えながら慎重に返事をした。
「ええ……まあ……
春木の頭を叩いた山野紀子が時吉に尋ねた。
「情報の交換ということですか」
時吉浩一は頷く。
山野紀子はソファーの背もたれに体を倒し、スカートの中で脚を組むと、はっきりとした口調で言った。
「しかし、そういうことでしたら、そのメールの内容によりますわね。いくら現役の司時空庁長官の津田幹雄から、前長官である貴方のお父様・時吉総一郎に送られたメールだからと言って、中身が重要な内容とは限りませんものね。ただのゴルフの誘いかも」
時吉浩一は山野の発言を予想していたかのように落ち着いていた。彼は天井を指差して答えた。
「ええ。それで、上の方々にも見てもらいました」
山野紀子は身を乗り出した。
「上って、新日ネット新聞?」
「はい。ええと……」
時吉浩一は上着のポケットから名刺入れを取り出すと、その中から三枚の名刺を取り出して、それを順に一枚ずつ確認しながら言った。
「社会部の
時吉浩一は名刺を仕舞うと、山野の顔に視線を戻した。
「以前、私の父・時吉総一郎がNNJ社から賄賂を受け取っているという疑惑を記事にしたのは、彼らですよね。それで、最初はそちらに行ったのですが、浮気ネタを追っているのは週刊新日風潮の方だから、そちらに行って情報を貰ってくれと。——という訳で、こうして今、お話ししているんです」
表情を険しくした山野紀子は、腕組をしたままボソリと呟いた。
「あいつ、売りやがったな……」
春木陽香は山野の顔を見ながら、目をパチクリとさせて尋ねた。
「売った? 何をですか?」
山野紀子は頭を春木に近づけると、小声で言う。
「こっちがネタを握ってるっていう情報よ。あいつら、それを知らせるのと引き換えに何か新ネタを貰ったはずだわ。この先生から」
山野紀子は時吉に鋭い視線を向けた。時吉浩一は笑みを浮かべてお茶を啜っている。
春木陽香はキョトンとした顔で言った。
「でも、神作キャップって、室長の……痛っ」
また春木を叩いた山野紀子は、時吉に少し早口で言った。
「とにかく、ちょっと上と確認させてもらってもいいでしょうか」
時吉が了承すると、山野紀子はすぐに立ち上がり、今度は春木の前を通ってドアの方に歩いていった。
山野がドアを開けると、再び編集室内の記者たちの声が聞こえてきた。
「馬鹿だな。ヌードは平面画像だから、いいんだよ。懐かしの袋とじ企画。タイトルは、そうだな……『堤シノブの包み隠さない体』、これでどうだ?」
「それよりライトさんに連絡だ。すぐに撮影の準備、準備」
山野紀子は深く溜め息を漏らすと、廊下に出てドアを閉めた。
応接室には春木と時吉が残された。
時吉浩一は黙ってお茶を啜っている。春木陽香は、時吉の斜向かいの席で気まずそうにモジモジとしていた。そんな春木に気を使ったのか、時吉浩一は静かに湯飲みを置くと、笑顔で口を開いた。
「随分と若い記者さんだったんですね」
「はあ。すみません……」
ペコリと頭を下げた春木に時吉浩一が言った。
「いや、別に謝らなくても」
時吉浩一は再びお茶を啜ると、春木に言った。
「そうだ、先週号の記事、よく書けていたと思いますよ。入社して十日ってことは、初めて書いた記事なんでしょ。すごいですね」
「いえ……大学行く前は、上に居たので……」
「え、新日ネット新聞? 君、新聞記者だったの?」
「あ、はい。社会部で……ていうか、見習いのアシスタントでしたけど。たまに記事も書いてました。小さなスペースでしたけど」
春木陽香は十八歳で高校を卒業した後の四年間、いわゆる「第一就職」で新日ネット新聞社の編集局社会部に勤務し、そこで記者アシスタントとして働いていた。
政府は労働政策の一環として、若者がまず実社会で経験を重ねてから必要な学問を大学で修得するよう、大学の入学に一定期間の就労経験を事実上義務付ける内容の法律を作った。だから、大抵の若者は高校卒業後すぐに就職した。これを世間では「第一就職」と呼んでいる。その後、大学に進学する者は企業から奨学金を借りて大学に通った。それで、四年制大学は二十三歳になる年に入学し、二十六歳で卒業するのが一般的となった。卒業後は、大抵の者が元の就業先に再雇用の形で再就職するか、同分野の別の就業先に中途採用の形で就職した。これを「第二就職」と呼んだ。春木陽香は事情があり、第二就職では後者の類だった。
彼女が新聞社に勤務していたと聞いた時吉浩一は、納得したように頷きながら言った。
「ふーん。だから、文章が上手なんだ。先々週号までの『週刊新日風潮』は、父が八年前の収賄で得た金と、その使い道、それから利益供与に関する記事だけでしたよね。上の新日ネットさんの記事の追跡取材とか、探求記事って言うのかな。シリーズのタイトルは『
春木陽香はその連載記事を精読していたので、記事内容は熟知していた。それらの記事は彼女が新日風潮社に就職する以前から連載されていたものだったが、どの記事も、目の前の時吉浩一の父である時吉総一郎の私生活を暴露する扇情的な文章に終始していた。
春木陽香は時吉浩一に対し申し訳ないといった様子で頭を下げて謝った。
「すみません。弊誌がお父様のことを随分と……」
時吉浩一は眉間に皺を寄せて、春木に言った。
「だから、謝らなくてもいいよ。理由は三つ。一、その記事を書いたのは君じゃない。君が書いたのは、その後の記事でしょ。二、その記事は間違っていない。真実だ。三、そもそも、記事を読んだ僕は、何も不快には感じていない」
「はあ……」
「でも、あれ、父の浮気のこと、よく気付いたね。僕ら家族は誰も知らなかったのに。母以外は……」
時吉が再びお茶を啜る間に、春木陽香は下を向いてボソボソと答えた。
「前の記事とか、取材資料とかを読んだり、インタビューの音声データを聞いたりして、何となく、そうかなと……」
茶托の上に湯飲みを戻しながら、時吉浩一は少し大げさに驚いたふりをして言った。
「へえ、それだけで、父の浮気に気が付いたの。すごいね。入社十日目なのに。あ、そっか、記事を書く時間とか、取材する時間とかがあるから、そうすると、君は相当に短時間で真相に行き着いた訳だ」
「相手の特定は資料からすぐに割り出せましたから、後は周辺の関係者に話を聞いただけで……」
時吉浩一は
春木陽香は顔を上げると、心痛な面持ちで時吉に尋ねた。
「それより、お母様は大丈夫ですか。随分と沈んでいらしたようでしたけど」
「なるほど。収賄事件でのインタビューの時の母の様子かあ。それで気付いた訳だ。なるほどねえ……」
春木の勘の良さに感心したらしく、時吉浩一は深く頷いていた。それでも春木陽香は心配そうな顔で時吉を見ている。そんな彼女の顔を一瞥した時吉浩一は、もう一度深く頷いてから春木に言った。
「うん、今は清々しているみたいだよ。あなたが書いた先週号の記事、あれを読んで胸の
時吉浩一は春木の記事から読み取れた彼なりの印象と感想を素直に彼女にぶつけた。
「そんな……」
春木陽香が謙遜して首を横に振っていると、ドアが勢いよく開いて山野紀子が入ってきた。彼女は速足で歩いてくると、足を引いた春木の前を通り、元の席に腰を下ろした。
姿勢を正した山野紀子は、時吉の目を見て言った。
「分かりました。そのデータはウチで預かります。但し、こちらも条件が有るわ」
「何でしよう」
時吉の鋭い視線を受け止めたまま、山野紀子は答えた。
「今後の訴訟と慰謝料請求の交渉について、進捗状況と結果を知らせて下さい。もちろん、上を経由せずに、ウチに直接に。特ダネということで」
時吉浩一は間を開けずに修正案を提示した。
「慰謝料請求の交渉については裁判外の民事交渉ですので、その過程も結果もお教えできません。弁護士には法律上の守秘義務がありますから。ただ、訴訟になった場合は、法廷は公開されていますから、その期日の日程を教えましょう。傍聴されたうえでの疑問があるのでしたら、私が直接、答えられる範囲で、口頭でお答えする。但し、質問はあなた方『週刊新日風潮』さんからしか受け付けない。もちろん、質疑応答は完全に非公開。これでどうです?」
山野紀子は自分の膝を叩いた。
「いいわ、乗った。——ハルハル、二人のバカ女子大生の名前と住所、ついでに、ウチで握っているその子たちの個人情報や顔写真も全て、こちらの時吉先生にお渡しして。どうせ何時か記事になるんだから」
「顔写真もですか」
何度も瞬きしながら尋ねた春木に山野紀子は即答した。
「全部よ、全部。裁判で先生のお母様の役に立ちそうなものは全部お渡ししなさい。正義の実現のためだから。いいわね」
首を縦に振った春木陽香は、暫らく山野の横顔を不思議そうに見つめていた。
3
新日ネット新聞社編集局社会部のフロアは遠くまで広がっていた。向かい合わせて置かれた机の「島」が何列も並べられ、それらの各机の上には、取材資料やプリントアウトされた記事原稿が雑然と積み上げられている。六つないし八つの机で構成される「島」の末席側には、スチール製の本棚が壁に沿って奥まで並べられていて、どの「島」も、その反対側の上座の位置に、各「島」の向かい合わせに置かれた机の列を正面に臨む形で、少し大きめの机が置かれていた。窓を背にして置かれたその少し大きな机の後ろには、通路部分も含めて広めの間隔がとられていて、その先に背の低いパーテーションが並んでいる。パーテーションと窓との間にも十分なスペースがあり、そこには打ち合わせ用のテーブルや、大型の複合機、応接セットなどが、余裕のある間隔で置かれていた。窓は高さのある半窓で、その前に薄い緑色のブラインドが掛けられている。半窓の下には低い棚が走り、その棚の上には二十センチ四方ほどの立方体の機械が、机の「島」が作られている位置に合わせて間隔をとって置かれていた。それらのデータ・バックアップ用のドライブ・ボックスは、どれも前面に並んだ小さな緑色や赤色のランプを不規則に速いテンポで点滅させていた。ドライブ・ボックスの間に置かれた大きめの置時計の針が午後四時を回っている。この時間、この社会部編集フロアの中は猛烈な忙しさと緊張に包まれていた。
報道スピードに価値が置かれたインターネット新聞は夕刊による当日ニュースの速報が中心となっていた。新日ネット新聞は午後五時の配信である。各部で編集した記事データを社内の専用サーバーに送信するタイム・リミットは午後四時となっていた。政治部や経済部、文化部などの他の部署が、その期限を念頭に計画的に取材を進め、余裕をもって記事作成と編集を実現していく一方で、突発的な事件・事故を扱う社会部の記者たちは絶えず時間との戦いを余儀なくされ、毎日、その時刻が迫ると猛烈な勢いで記事を仕上げ、期限ギリギリになって編集済みのデータを送信する始末であった。いや、むしろ規定時刻を過ぎることの方が多い。今日もその時刻を過ぎていた。壁際の本棚の上の掛け時計に何度も目を遣りながら、社会部の記者たちは必死の形相で記事データを作成したり、電話を掛けたり、忙しなく動き回ったりしている。室内には苛立った記者たちの荒々しい声が飛び交い、時には罵声とも呼べる発言も響いていた。
その怱々としたフロアの一番奥の突き当たりに社会部の部長室と次長室が並んでいる。二つの部屋のドアの前に作られた机の「島」には、三つずつ横に並べて向かい合わせに六つの事務机が置かれていた。壁の本棚に近い一番角の席には、部長室のドアを背にして、ワイシャツ姿の初老の男が座っている。老眼鏡を掛けた胡麻塩頭のその男は机上の薄型モニターの画面を睨んでいた。その向かいの席には、ジーンズ生地の薄いジャケットを着た三十代前半の女性が座っていた。彼女は薄型のヘッド・マウント・ディスプレイを顔に装着して、机の上に置かれた横長で黒く平らな板の上でキーボートを叩くように指を動かしている。その女性の隣の席は空席であり、机の上は隅の方に固定電話が一つ置かれているだけで、綺麗に片付いていた。同じく空席であるその向かい側の机の上は、資料や書籍が堆く積まれ、雑然として散らかっている。そこから窓側に隣の席には、肩幅の広い短髪の日焼けした男が座っていた。腕まくりしたワイシャツから筋肉質な腕を出したその三十代後半の男は、ホログラフィーで平面状に立体投影された文書に顔を向けたまま素早くキーボードを打っている。彼の向かいの席も空席であったが、やはり散らかっていた。正確には、そこは彼の隣の席のように物乗せ用に一時的に使用されているという訳ではなく、他の机から雪崩のように崩れて広がったままの書類によって占拠されている。これら六つの机の上座の位置には、窓際の棚の上の割り当てられたドライブ・ボックスを背にする形で置かれた、もう一つの机、つまり七つ目の机があるが、その少し大きめの机の上に積まれた紙の資料の山が崩れ、そこからはみ出し、左の前にある机の上に広がっているのだ。その上座の机の前には、四十代後半の背の高い男が長い脚を組んで座っている。皺だらけのワイシャツを着たその中年男は、自分の机の上に置かれた立体パソコンから空中に投影されたホログラフィー画像の文書に顔を近づけて、それを熱心に読んでいた。彼の横には、綺麗にアイロンが掛けられたワイシャツに細身のネクタイを緩めに締めた小柄な中年男が、険しい顔で立っている。彼は椅子に座っている長身の男に言った。
「どうする、
記事原稿の文書ホログラフィー画像に顔を向けながら、新日ネット新聞社会部第一班のキャップ・
「いや、待て、うえにょ。さっきの時吉弁護士の話がマジなら、この記事はまだ早いかもしれん」
彼の横で地団太を踏みながら、社会部次長の
「だから『うえにょ』って呼ぶな。『上野デスク』と呼べ、『上野デスク』と。今は俺の方が上司だぞ」
二人は共に四十七歳で、同期だった。だが、上野秀則が社内で「デスク」と呼ばれる次長職の地位である一方、神作真哉は現場の記者チームの指揮官である「キャップ」と呼ばれる職長クラスの立場に過ぎなかった。
神作真哉は肩を丸めて記事原稿に目を通しながら言った。
「そりゃ、悪かったねえ」
そして、顔を上げて後輩に尋ねた。
「永山、
神作の右前の席に座っていた筋肉質な短髪の男が、腕まくりした手で、机の上に置かれた外付けのキーボードを操作しながら答えた。
「はい。今、
一番下座の角に座っていた胡麻塩頭の初老の男性は、老眼鏡を掛けた顔を机の上のモニターに向けたまま、黙って左手を上げた。
神作真哉は、
「ストンスロプ社の研究機関『
上野秀則は腕組みをしながら、彫りの浅い顔の眉間に皺を寄せた。
「だが、ウラ取りするとなると、かなり時間が掛かるぞ。国防軍に納入される予定の新型兵員輸送機は極秘扱いだ。まず間違いなく、特許庁でも閲覧禁止になっているだろう。使用されている主な最新テクノロジーも何百とあるはずだし、それを一つ一つ手探りで調べていたら、何年もかかっちまう。ということは、この記事はお蔵入りだな。いっそ、今から大急ぎで記事を修正して、『技術盗用の疑いあり』で行くか」
神作真哉は険しい顔で言う。
「でもよ、兵員輸送機を製造しているのは、日本が世界に誇る研究機関のGIESCOだろ。それが他社から盗用した技術を使っていると書けば、GIESCOの親会社のストンスロプ社が黙っちゃいないぞ。今や『世界のストンスロプ社』だからな。しかも、ウチの有力スポンサー企業でもある。そこを叩くんだぜ。上がそんな記事の掲載を許すかね」
「黒木局長か。社長や会長の顔色ばかり伺っているからな」
そう言った上野秀則は、腕組みをしたままフロアの向こうに目を遣った。そこからフロアのほぼ対角に位置するところにある遠くの出入り用ゲートの前で、スーツ姿の大柄な男が壁際のスチール製の本棚の角を時計の秒針のリズムに合わせて指先で叩いていた。編集局長の
「おい、社会部、何やってんだ。また編集データの提出が遅れているぞ。とっくにサーバーへの取り込みの時間は過ぎてるじゃないか。このままじゃ、ネットへの夕刊のアップが遅れちまうだろ。ウチは電子新聞なんだ。時間は厳守しないと閲覧者からの信用を失って、アクセス数が減っちまうんだぞ。おまえら、会社を潰す気か。急げ!」
黒機健治は本棚を強く叩いた。スチールの音が広いフロアに響く。
神作真哉は下を向いて少し大きめの声で言った。
「いい加減な記事をアップする方が信用を失うっつうの」
「やめとけ神作。またヤバイことになるぞ」
上野秀則は立ったまま下を向いて、小声で忠告した。
フロアの奥に顔を向けた黒木健治が、遠くの上野を指差しながら大声で怒鳴った。
「こら、上野、何やってんだ。しっかり仕切れ! ここのデスクはお前だろうが!」
上野秀則は手を振りながら、大きな声で返事をした。
「はーい。今、取り込んでるんですよ。分かってまーす」
黒木健治は遠くから上野を一にらみすると、ゲートを潜ってエレベーターホールの方に出て行った。
上野秀則は、重成の後ろのドアに視線を向けながら呟いた。
「ったく、
同じ方向を見た神作真哉は、視線が合った重成に尋ねた。
「シゲさん、どうですか。出来の方は」
重成直人は老眼鏡を外しながら答えた。
「誤字一つ、後は問題なし。いま、千佳ちゃんにレイアウトしてもらっている」
神作真哉は重成の向かいの席に目を遣った。
「今、永山さんのパソコンに送りました。あとは記者の電子署名だけです」
神作真哉は顔を右に振ると、永山に尋ねた。
「永山、どうだ、終わったか」
「終わりました。今、そっちに飛ばしてます」
返事を聞いた神作真哉は、机の上に投影されたホログラフィーのキーボードに素早く触れて立体パソコンを操作した。それまで彼の前に浮かんでいた兵員輸送機の記事のホログラフィーが小さくなり、隅に浮かんでいる箱の中に吸い込まれていった。神作真哉は、そのホログラフィーの箱に指先を入れると、中から紙を摘まみ出すように手を動かした。すると、彼の前に別の文書がホログラフィーで表示された。永山哲也が書いた記事だった。神作真哉は椅子から立ち上がって横に退いた。その椅子に上野秀則が座り、細い目を更に細くして、顔をそのホログラフィー文書に近づけた。
「どれどれ、ウチのエースが書いた記事は……」
横で立っていた神作真哉は、何度も腕時計を見ながら、上野が記事原稿を読み終えるのを待った。重成直人は首を回したり、肩を叩いたりしている。ヘッド・マウント・ディスプレイを外した永峰千佳は、手鏡で目元のメイクが崩れていないかを確認していた。永山哲也はキーボードの上に指を乗せたまま、壁の時計と上野の顔を交互に見ている。
やがて、上野が記事を読み終えた頃合に神作真哉が彼に言った。
「どうだ、良く出来ているだろ。新興宗教団体の『真明教団』は、実は赤字続き。それなのに、そこが保有する学校法人や医療法人に政府から巨額の補助金が下りている。まるで破れたザルの中に国民の血税を際限なく投げ込んでいるようなものだ」
ホログラフィー文書から顔を離した上野秀則は、腕組みをしながら呟いた。
「財務省と文部省、厚生労働省の正式コメントも載せてあるな。文体も穏当だな……」
そして、自分の膝を叩くと、椅子から立ち上がって言った。
「よし、とりあえず、これで行くか。時間も無いしな。新型兵員輸送機の件は、時吉弁護士を信じて、今はストップだ。彼が顧問弁護士を務めるアキナガ・メガネ社がGIESCOとストンスロプ社を相手に特許権侵害訴訟を提起したら、その時に一気に攻めるとしよう。それまでしっかり追っとけよ」
上野秀則は神作を指差すと、速足で向こうの出入り口ゲートの方に歩いていった。
神作真哉は椅子に座りながら言った。
「了解。さーすが、うえにょデスク。判断が早いねえ」
隣の「島」の前で立ち止まった上野秀則は振り返って言う。
「おい、『上野デスク』って言え」
神作真哉は彼に顔を向けずに、左手だけを一度大きく振って答えた。
小さな鼻に皺を寄せた上野秀則は、永山に手を上げて言った。
「じゃ、黒木局長に話してくる。おつかれ」
緊張の糸が切れた永山哲也は一気に息を吐いた。
神作真哉はいつもの手順に従って指示を出す。
「じゃあ、千佳ちゃん。社会面のトップを差し替えだ。今から内部サーバーに上げる。それで調整してくれ」
「了解です」
永峰千佳は再びヘッド・マウント・ディスプレイを顔に装着した。
永山哲也は椅子に座ったまま左の肘を右肩の前に運んで右腕で引っ張りながらストレッチをしていた。そして、その姿勢で神作に尋ねた。
「キャップ、あれで本当にオーケーだったんですよね」
「おう、ばっちりだ。お前の記事のお蔭で俺もうえにょも首が繋がった。お礼に今度、何か美味い物でも奢ってやるよ」
「いいですよ、仕事ですから。それより、さっきの時吉弁護士の話、本当なんですかね。それなら、どうして彼は、すぐに動かないのでしょう」
神作真哉は後ろの窓を肩越しに親指で指しながら言った。
「例の大富豪のお楽しみのためさ」
「大富豪のお楽しみ?」
永山哲也はストレッチを続けながら、怪訝な顔で聞き返す。
神作真哉は腕組みをしたまま後輩にレクチャーした。
「アキナガ・メガネ社って言えば、世界の眼鏡シェア第一位の大企業だろ。そこの社長の
永山哲也は反対に伸ばしていた右手を下ろすと、神作に言った。
「いや、そうじゃなくて。その司時空庁ですよ。さっきの時吉弁護士が見せてくれた、津田長官からのメール。あれに添付されていた文書データは、どう見ても理科系の論文だったじゃないですか。中を詳しく読んでみないと分かりませんが、たぶん物理系の論文ですよね。そんなデータを何故、現役長官の津田が、わざわざ前長官の時吉総一郎に送ったのでしょう。しかも、『ご意見を伺いたい』とは」
「ああ、確かにな。何か裏がありそうだな」
眉間に皺を寄せた神作に永山哲也が更に指摘した。
「それに、その文書データの署名」
「——『ドクターT』か」
「ええ。そんな匿名の署名で、あんな大容量の物理論文データが送られてきたら、あの司時空庁なら、すぐに独自に動いて投稿者を調べるんじゃないですかね」
神作真哉は右手で顎を触りながら言った。
「そうだな。司時空庁と言えば、STS(Space Time Security)とかいう独自の実力部隊まで持っている官庁だからな。情報収集部隊とかを持っていても不思議じゃねえよな」
「それに、司時空庁は所管するタイムトラベル事業の成功で、今や政府の財政収入の要となっている官庁ですよ。そこに意見する学者が居れば、普通、政府そのものが正式に動くんじゃないですかね。なのに、どうして津田長官は個人メールアドレスで、
時吉前長官にこっそり連絡をとったのでしょう。どうも妙ですよね。やっぱり、例の時吉総一郎のNNJ社からの収賄疑惑、あれが絡んでいるんでしょうか」
神作真哉は首を傾げながら言った。
「うーん……でも、司時空庁の津田長官は、NNJ社や、その親会社のNNC社とも距離を置いているんだよな。ガチガチの国内派なんだろ」
永山哲也は大きく頷いた。
神作真哉は暫らく考えていたが、視界の隅で永峰がヘッド・マウント・ディスプレイを外したのを見てサーバーへの記事データの送信が終了したことを知り、その返事を待った。視線を永峰に向けたまま、彼は永山に言った。
「永山、ちょっと探ってみるか」
すると、奥の席の重成直人が、受話器を高く持ち上げて神作に言った。
「神作ちゃん。下の紀子ちゃんから内線だ。十三番だ」
神作真哉は更に深く眉間に皺を寄せると、自分の机の上の電話機からハンディータイプの受話器を取った。少し間を空けて重成の顔を見る。
永山哲也が横から言った。
「十三番」
「また、不吉な内線番号で……」
神作真哉はそう言いながら、その数字の内線ボタンを押そうとした。その時、永峰千佳が手を上げて神作にオーケーサインを出した。腕時計を覗き、何とか許容時間内に記事データの送信が終了したことを確認した神作真哉は、受話器を下ろして大きく息を吐く。そして、再び受話器を耳に当てた。
永峰千佳は髪を整えながら、向かいの重成に言った。
「さっきの内線の時も、山野編集長、ものっすごく怒ってましたよね。また始まるんでしょうかね」
永峰の発言が聞こえた永山哲也が、口の横に手を添えて、神作に聞こえるように、わざとらしい小声で永峰に言った。
「ノンさん、怒ると怖いからなあ」
神作真哉は内線ボタンに指を当てたまま固まっていたが、その手を引くと、永山と永峰を交互に指差しながら言った。
「ほらほら、早く仕事に戻れ。サーバーに記事を送っても、まだ他にやる事があるだろ」
永山哲也と永峰千佳は視線を合わせると、笑いを堪えながら首をすくめた。重成直人が心配そうに神作を見ている。意を決したように内線ボタンを押した神作真哉は、椅子を回して三人に背を向けると、受話器を耳に当てて咳払いをした。
「ゴホン。ああ、待たせたな。ああ、なんだ。時吉弁護士との話は上手くまとまっ……」
『なんだとは、なんじゃあ! 勝手にウチのネタを自分たちの交渉の道具にするんじゃないわよ! あんた、こっちが週刊誌だからって、馬鹿にしてるでしょ!』
受話器のスピーカーを破壊せんばかりの勢いで飛び出してくる山野の大声に、神作真哉は思わず受話器から耳を離した。
山野紀子は怒鳴る。
『時吉弁護士から手に入れたデータは、そっちには渡さないからね! ウチの情報と交換して入手した情報なんだから!』
神作真哉は受話器を耳に当て、眉をハの字に垂らして言った。
「そう言うなよ、紀子。こっちもこれから、いろいろ調べてみようと……」
『編集長って言いなさい! いくら元夫だからって、調子に乗るんじゃないわよ。ここは職場よ。あんたはキャップ、私は編集長。いいわね』
その言葉に神作真哉はキレた。
「あのな、編集長、編集長って、子会社の編集室の編集室長だろうが! こっちは時事新聞の編集局社会部のキャップなんだよ。部の方が室より上。アイドルの水着写真ばかり載せている週刊誌の編集室と一緒にすんじゃねえ!」
『なんですって。そっちだって、ウチと同列の子会社じゃない! ちょっと上の階にいるからって、いい気になってるんじゃないわよ。——ああ、そうか、高い所が好きなんだ。知能が低い動物は高い所が好きだって言うからねえ』
「なんだと、この、言いたいことがあるなら、こっちに上がってこい!」
紅潮した顔でフロア一杯に広がるほどの大声を出して怒鳴っていた神作真哉の横に重成が来て、神作の肩を叩いた。
「まあ、まあ、神作ちゃん。落ち着いて。替わるから」
神作真哉は受話器を重成に渡すと、顔から湯気を立てながら腕組みをして言った。
「何なんだ、あいつ!」
紅潮した顔でしかめている神作の背後で重成直人が穏やかに山野と通話している。
神作真哉は音を立てて大きく息を吐くと、椅子を回して永山の方を向いた。
「永山、とにかく、その『ドクターT』の正体を探るぞ。先にネタを掴んだら、下の馬鹿にさっきのデータを渡すように言えるからな」
頭の後ろで両手を組んだ永山哲也は、呆れ顔で上司に言った。
「同じグループ会社で、しかも同じビルに入ってるのに、競わなくてもいいでしょ」
「しかも、元夫婦だし。もっと仲良くされたら……」
永山に付け足した永峰千佳の発言の途中から、神作真哉は怒鳴った。
「うるさい! さっさと仕事しろ。チンタラやってると、定時になっちまうぞ。際限なく残業代が出るほど裕福な会社じゃねえんだよ、ウチは!」
神作真哉はパソコンに向かうと、ホログラフィーに触れてインターネットに接続した。
背中を丸めてネット上を探り始めた神作から壁の時計へと視線を移した永山哲也は、諦めたように肩を落として溜め息を吐いた。今日も定刻に帰れそうにない。両腕を広げて胸筋を伸ばした彼は、短く息を吐くと、椅子の背もたれから背中を離してパソコンのキーを叩き始めた。社内の資料サーバーに接続した彼のパソコンのホログラフィー画面に検索する文字列が打ち出されていく。そこには、「司時空庁 タイムマシン ドクターT」という文字が並んでいた。
4
週刊新日風潮の狭い会議室の中で、そこに置かれた楕円形の会議机の端に立ったまま、山野紀子は電話の子機を耳に当てていた。彼女は先程と違い、静かな口調で話している。
「はい。分かりました。シゲさんがそこまで言うなら。とにかく、ウチはウチで調べてみますから。――はい。それじゃ。失礼します」
電話機のボタンを押して通話を切った山野紀子は、上座の席に戻り、会議椅子に腰を下ろした。鼻から息を吐いて、彼女は言う。
「まったく、あの男。馬鹿にして」
会議室の机には山野の他に、他の記者たちが向かい合わせに座っていた。一番前の角の席に座っていた別府博が山野に声を掛けた。
「あの……」
「なに」
不機嫌そうな顔で言った山野に、別府は壁の掛け時計に視線を向けながら言った。
「そろそろ時間じゃあ……」
「ああ、しまった」
山野紀子は飛び上がるように椅子から腰を上げると、机の上に置かれた薄型のパソコンを脇に抱えながら言った。
「じゃあ、編集会議はこれで終わり。ゴメン、私、一旦帰るわ。七時までには戻るから、みんな、それまでに仮原稿を仕上げて、私のパソコンに送っといて」
山野紀子は話し終えないうちに、出口に向かって歩き出した。
別府の隣に座っていた春木陽香が机の上に置かれた名刺大のカードを指差して、大きな声で山野に尋ねた。
「あのお、さっきのこれは……」
それは時吉浩一弁護士が持参したMBCだった。
山野紀子は立ち止まって振り向くと、春木を指して答えた。
「あんたのパソコンで開いて、コピーを私のパソコンに送る。いいわね」
「はい。分かりました」
「そいじゃ。みんな、あと頼んだわよ」
そう言った山野紀子は、会議室から足早に出て行った。
ドアが閉まると、記者たちは各自、机の上の薄型パソコンと資料を重ね、席を立って会議室の出口へと向かった。出入り口の前の短い人の列の最後尾で背伸びをして、並んだ頭の向こうを覗いていた別府博が、バッグを肩に掛けながら自分の机から廊下の方に走って移動する山野の姿を目で追って言った。
「毎回思うけど、編集長も大変だなあ。締め切り前は時間休とって、夕食作りに一時帰宅だもんな」
薄型パソコンを入れた虹模様のトート・バッグを手に提げて別府の前を歩いていた春木陽香が、少し振り向いて別府の顔を見ながら言った。
「娘さん、中三でしたっけ」
会議室のドアを閉めながら別府博は答えた。
「うん。まあ、大事な時期だしね。それに今、新学期だろ。大変なんだよ、いろいろと。発行日前は深夜帰宅になるから、家が近いと、一旦帰ろうと思うんだろうね」
「でも、室長……じゃなかった、編集長のご自宅は
「だな。どのみち東西幹線道路は渡らないといけないから、渋滞にはまったら大変だろうね」
「……」
別府博は廊下の入り口の前で立ち止まった春木陽香を追い越して自分の席に戻っていった。春木陽香は立ち止まったまま、山野が出て行った廊下の突き当たりの出口のドアを黙って見つめていた。
各自の席に戻った記者たちは腕時計や壁の時計を見ると、それぞれの仕事に取り掛かった。壁際の一番前の席で自分の立体パソコンを起動させていた別府博が椅子を回し、後ろの席に戻ってきた春木に言った。
「ハルハルもそのうち結婚してお母さんになるんだ。大変だぞ、親になるって」
虹色模様のトート・バッグから薄型パソコンを取り出した春木陽香は、椅子に座りながら後ろの別府に返事をした。
「はあ……」
別府博は座ったまま椅子を転がして春木の横に移動すると、背もたれに体を反らし、彼女の顔を下から覗き込んで言った。
「あれえ、随分と気が無い返事だなあ。もしかして独身主義者ですか。一生シングルで通すつもりとか」
春木陽香はパソコンをスリープ状態から復帰させながら、別府の顔を見ずに答えた。
「いいえ。結婚する気、有りまくりです。相手がいないだけで」
体を起こした別府博は、腕組みをしながら春木に尋ねた。
「ハルハルは、いくつになるんだっけ」
春木陽香は、少しぶっきらぼうに答えた。
「今年で二十七です」
一度頷いた別府博は、腕組みをしたまま天井を見て言った。
「そっかあ。高校出てから二十二くらいまでは働かないと、大学行けなくなっちゃったからなあ。みんな婚期が遅れて大変なんだなあ」
春木陽香は復帰したパソコンの縁のスロット部分にさっきのMBCを差し込みながら反論した。
「そんなことはないですけど。私の同期も二十四歳で学生結婚しましたし、今度の六月に結婚する予定の友人もいます。別府先輩だって、何歳で結婚されたんですか」
別府博は額に横皺を作って答えた。
「三十だったかな。三十一か。遅いって言えば、遅いかあ。でも、ああ、もう少し独身で居ればよかったなあ」
春木陽香は、先輩の別府に冷ややかな視線を送りながら言った。
「結婚して四、五年で、そんな感じなんですか」
別府博は頭を掻きながら答える。
「父親するのも大変でね。たぶん、今度のゴールデン・ウィークもずっと子供の面倒だ。嫁は怒ってばかりだし、子供は泣いてばかりだし。ああ、上が三つで下が一歳になったばかりなんだよ。そうだ、ホログラフィー動画があるんだけど、見る? 僕の子だけあって可愛いぞお」
別府博は再び椅子を転がして自分の机に移動すると、起動しているパソコンの前に手を伸ばした。すると、背後から春木の声が聞こえた。
「これ……凄い量ですね」
別府博は立体パソコンから机の上に投影されたホログラフィーのキーボードの像に触れながら言った。
「いや、そんなに入れてはいないよ。これは仕事用のパソコンだからね。三分程度の立体動画だから、すぐに終わ……」
彼の発言を遮って、背後から春木陽香が言った。
「いえ、そうじゃなくて、さっき時吉弁護士から貰ったデータです。三ペタバイトもありますよ。あれ? これ、何だろう……」
別府博は椅子を回して春木の方を見た。
春木陽香は机の上に少し前屈みになって、パソコンの上に幾つも並んで浮かんだ小さなファイルのホログラフィーの中の一つを覗き込んでいた。そのファイルの斜め上に、板状に立てて表示された掲示板のような立体画像があり、そこにファイル内容の詳細項目が表示されている。
春木の横に再び椅子を寄せた別府博は、顔を春木の横に出して、その項目に目を凝らした。さらにホログラフィーに顔を近づけて、その小さな文字に目を凝らした彼は、眉間に皺を寄せて言った。
「んん? 多角撮影した立体動画みたいだね。圧縮して保存されているのかあ。それにしても、すごい解像度だな。こりゃ、かなり重い動画だね。超精密撮影した動画だ。なんかの実験記録じゃないか」
隣に寄ってきた別府から身を少し反らして体を離していた春木陽香は、別府の頭の横から右手を伸ばすと、ホログラフィー画像のファイルに触れてその立体動画を再生しようとした。すると、彼女の右手を別府博が慌てて掴んだ。
「ちょ、ちょ、ストップ」
手を放した別府博は、春木の立体パソコンを指差しながら言った。
「このパソコンじゃ、無理だよ。圧縮してこの容量だから、展開したら凄い容量になると思うよ。これで再生したら、メモリーがパンパンになってフリーズしちまう。この立体動画を再生するのは大型の高性能コンピュータじゃないと無理だよ」
手を引いた春木陽香は、目をパチクリとさせながら別府に尋ねた。
「
別府博は笑いながら首を横に振る。
「いやいや、そこまで巨大なコンピュータじゃなくてもいいと思うけど。でも、少なくとも業務用のタワー型コンピュータじゃないと駄目でしょ。それに、この容量の精密な立体動画をホログラフィーで出力するには、
それを聞いた春木陽香は、肩を落とした。
「外部電力を供給するタイプじゃないと駄目かあ。別府先輩のパソコンもO2電池内臓型ですよね」
「うん。今時、電気製品でコンセントに繋ぐタイプって無いでしょ。大抵は酸素発電式のO2電池内蔵だからね。なんてったって、O2電池は百二十年もつらしいからなあ」
別府博は左手の人差し指一本と、右手の人差し指と中指の二本を立てて見せた。
春木陽香はそれを一瞥すると、項垂れて言った。
「はあ、よわったなあ……」
別府博がアドバイスした。
「とりあえず、文書データだけ展開してみたら。立体動画の方は上の資料室の閲覧用パソコンを使えば見れるかもよ。あれは業務用だし、たしか外部配線から直接、電力供給しているはずだから」
「あ、そうですか。ありがとうございます」
気を取り直した春木陽香は、早速、ファイル・ホログラフィーの中の一番左端の像に指を伸ばし、それに軽く触れた。ファイルに格納されていた文書データが展開され、彼女の机の上に可接触式ホログラフィーで立体的に投影される。それは随分と分厚い冊子のホログラフィー画像だった。春木陽香がそのホログラフィーの端に触れて指先で頁を摘まんで捲るように動かすと、ホログラフィー画像の頁が捲られていく。
横から覗き込んでいた別府博が言った。
「なんだこりゃ。英文と数式ばっかりだな。何かの論文かな」
数頁捲った春木陽香は、本文の表題と思しき部分で手を止め、その冒頭部分に大きめのフォント・サイズで表記された英文を読んだ。彼女はそれを邦訳する。
「タイムトラベルに関する……ええと、理論の修正。AT理論の再構築って書いてあります」
別府博が怪訝な表情で言った。
「AT理論って、
「ええ。『abandon(放棄)and take(取得)理論』でしたっけ。でも、この論文、その理論の間違いを正すっていう内容の書き出しになっていますけど……」
「え? あれ間違ってたの。じゃあ、今、司時空庁が飛ばしているタイムマシンは、どうなってるんだよ」
「さあ……」
首を傾げた春木陽香は、そのまま頁を捲っていった。
暫らく捲っていると、何か乗り物の設計図らしき図面が現われた。手を止めた春木陽香は、顔を傾けてそれを眺めてみる。彼女の横で椅子から少し腰を浮かせた別府博も、暫らく黙ってその図面を見ていた。
春木陽香が別府に尋ねた。
「これ、タイムマシンの設計図じゃないですかね」
「だよね。司時空庁が飛ばしているタイムマシンかな。あ、ちょっと待ってろよ」
別府博は椅子を転がして自分の壁際の机に移動すると、ホログラフィーのキーボードの上で指先を動かして何かを入力した。机の上に双眼鏡のアニメーションがホログラフィー映像で表示され、やがて検索モードが終了する。空中に薄い木箱の小さなホログラフィーが幾つか並んだ。別府博はその一つずつに目を凝らした。
「ああ、あった」
そう言って、その中の一つに指先で触れた彼は、中から一つのホログラフィー・データを選択して、それを表示させた。別府の机の上に立体画像が表示される。椅子を回して春木の方を見た別府博は、自分の机の上のホログラフィーを指差しながら言った。
「この前、家族乗り用のタイムマシンがお披露目された時に、ウチの雑誌で特集を組んでね。その時に司時空庁から貰った公開用のデータが残ってたよ」
彼の机の上には、ライフルの長距離射撃用の弾丸のような細長い形状をした乗り物らしき物が浮かんでいた。その表面は白く塗装され、側面には搭乗ハッチらしき物が付いている。その横には小さく日の丸が描かれていて、その下に機体番号らしき数字が表示されていた。先頭部分と思われる細くなった端の部分に窓は無く、側面にも窓は無かった。反対の端の後部らしき部分には、どこから見ても黒い四角で覆われるように画像が修正されていて、その形状が分からないようになっている。その他にも、屋根の一部分や、底面の部分に同様の黒い目張りがされていて、隠されていた。
別府博はホログラフィーを表示させている立体パソコンを両手で平行に持ち上げると、慎重に椅子から立ち上がり、膝を曲げて腰を落としたままパソコンを平行にさせることに注意を払いながら春木の机まで移動して来た。彼が存在しない擬似画像であるに過ぎないそのホログラフィーの機体をパソコンの上から転がり落とさないように気をつけながら、口を尖らせて慎重にパソコンを移動させている様子を見て、春木陽香は首を傾げた。
彼女は文書ホログラフィーを表示している自分のパソコンをさっと机の左に動かした。当然、空中の立体画像もそれに従って横に移動した。
空いたスペースに自分の立体パソコンを慎重に置いた別府博は、意味の無い労力にもかかわらず、安堵して息を吐き、言った。
「ふう。それで、そっちの設計図のは……」
額の汗を拭いながら別府博は春木のパソコンから投影されている設計図と、自分のパソコンから投影されている立体図を見比べた。
春木陽香は、立体図を見るとすぐに手を伸ばして、文書ホログラフィーの頁を捲りながら言った。
「こっちの設計図は単身搭乗用のマシンみたいですね。大きさが全然違います。でも、この先の頁に、たぶん……あ、これだ。四人乗り」
春木陽香は頁を捲る手を止めて、その頁の設計図を指差した。
二つを見比べながら、別府博は言った。
「ああ、ホントだ。似てるなあ。でも、微妙に違う所があるのかあ……」
「修正点みたいですよね。こっちの頁には修正前の設計図がありますから」
春木陽香は頁を戻した。その頁の設計図と自分のパソコンの上の立体図を交互に見ながら、別府博は言った。
「ホントだ。これだ。この機体の3D画像と、ほとんど同じだよ。でも、そうなると妙だな。これ、司時空庁から特別に貰った立体画像だからね。マスコミ以外は持ってないはずなんだけど……」
今、春木たちの前に浮かんでいる図面は、国家が「司時空庁」という特殊省庁まで設立して運営している「タイムトラベル事業」において民間人を「過去」に送るのに使用されている「タイムマシン」の設計図に違いなかった。その事業は、実施されていることは広く国民に知らされていたが、実際の発射の様子やタイムマシンに乗った搭乗者の氏名など、全てが非公開とされていた。まして、タイムマシンの内部構造や設計に関する情報などは国家の最重要極秘事項であって、一般人だけでなくマスコミにも、また、当の司時空庁の一般職員にさえも秘密にされている。マスコミが執拗に情報公開を請求しても、せいぜいマスコミ向けに一部をマスキング処理されたホログラフィー画像が渡される程度である。しかも、それが実際に飛ばしているタイムマシンのホログラフィー画像なのか疑わしいものだった。タイムマシンの写真の撮影や内部構造の解明に挑戦した科学記者もいたが、成功した者はいない。司時空庁の情報管理は徹底していて、外部の者が情報を入手できるはずなど、あろうはずがなかった。別府博は、そのタイムマシンの設計図が今、目の前に実際に在ることに驚き、濃い顔の眉間に精一杯の皺を寄せながら呟いた。
「どういうことなんだ、これ。うーん、謎だ……」
「ガセネタなんじゃねえの?」
別の席から誰かが言った。他の記者たちは信じていないのか、あまり関心が無いようだった。
春木陽香は熱心に設計図のホログラフィーを覗き込みながら、小さな声で言った。
「現行のタイムマシンに欠陥が有るということなのでしょうか」
「いや、でも、司時空庁はタイムマシンを、もう十年も飛ばし続けていて、実際に全員をタイムトラベルさせている訳だから、問題ないんじゃないかな。事故も一度も起きてないし。その筆者が間違えているんじゃないの。それを書いたの、誰?」
春木陽香はホログラフィー文書の頁をまとめて掴むと、一気に捲り、巻末の方から逆に頁を戻していった。
「ええと……」
手を止めた春木陽香は、首を傾げてから、もう一度まとめて頁を掴むと、今度は巻頭に戻り、最初の方から数頁だけ捲って確認した。そして、また首を傾げてから言った。
「ドクターT……だそうです」
「ドクターT? 誰それ。それだけ?」
春木の横に立っていた別府博は、腰を曲げて春木の前に頭を出すと、その文書ホログラフィーを覗き込んだ。春木陽香は迷惑そうな顔で、自分に身を寄せてくる別府から体を離しながら、文書ホログラフィーの一箇所を指差した。
「論文作成者の欄には、それしか書いてないです。巻末の署名も『ドクターT』って」
そう言っている途中で何かに気付いた春木陽香が、別府の体を押し退けて顔を前に出した。彼女はその文書の隅に小さく書かれていた手書きの文字に顔を近づけた。
「下の方に何か書いてあります。ええと……偉大なる
その名前を聞いて、別府博は目を丸くした。
「田爪健三って、タイムマシンの発明者の一人じゃん。もう一人は、ええと……」
「高橋博士じゃなかったでしたっけ」
「そうそう、そうだ。
一人で頷いている別府に、春木陽香が尋ねた。
「二人とも、実験でタイムトラベルしたまま、消息不明なんですよね」
別府博は、もう一度大きく頷いた。
「うん。高橋博士が『第一実験』で、田爪博士が『第二実験』で、それぞれ自分が考案して作ったタイムマシンでタイムトラベルして、帰ってこなかった。結局、田爪博士が帰ってこなかったことで、高橋博士が唱えていたパラレル・ワールド肯定説が正しいと証明されたんだ。それで、司時空庁は高額納税者を対象にしたタイムトラベル事業を開始したって訳」
「二人とも帰ってこなかったのに、ですか」
キョトンとした顔で尋ねた春木に、別府博は事知り顔で言った。
「だからだよ。もし、どちらかの博士が生きて姿を現したなら、タイムトラベルして過去に行っても、今に繋がる同じ時間軸上を移動しているってことだろ。ということは、過去の世界に行った人の行動によって今の時代に何らかの変化が生じるかもしれない。田爪博士が唱えていたように、時間の軸は一本で、その流れも決まっているのなら、何も変化は起きない訳だけど、未来のことを知っている人間が過去で生きているなんていうのは気持ち悪いし、何か不公平だよな。だけど、高橋博士の説のように、タイムトラベルしても、到着した過去から別の時間軸に別れていくのなら、そんなことは関係ない。タイムトラベルした人は、パラレル・ワールドとしての別の時間軸上にいるので、今のこの世界とは交わることが無いからね。新しく別の時間軸が進行するから、その人にも未来のことは分からない。公平だ。その高橋説が正解だった。だから政府は司時空庁を発足させて、人々をタイムトラベルさせることにしたんだよ。それに対して世論の批判も無かったし」
春木陽香は暫らく考えていたが、ふと思い出したように別府に尋ねた。
「あれって、過去にしか行けないんですよね」
「タイムマシン?」
春木陽香はコクコクと首を縦に振った。
別府博は腕組みしながら答える。
「そうみたいだね。ま、そのうちいつか、未来にも行けるようになるかもしれないけど。今はとにかく、過去にしか行けないらしい。司時空庁が実施しているのも、人々を過去の時代に送る事業だし」
春木陽香は司時空庁のこともタイムマシンのことも知ってはいたが、これまであまり関心が無かった。大金持ちの道楽だと決め込み眼中に置いていなかったのも事実であるが、単純に最新式の乗り物や科学技術にはあまり関心が無かったのである。だから、タイムトラベルに関する新聞記事やテレビ番組も今まで真剣に目にしたことは無かった。
春木陽香はそのことを少し後悔しつつ、別府に質問した。
「ふーん。どちらのマシンが採用されたんですか。やっぱり、高橋博士のマシンですか」
別府博は首を横に振った。
「いや、それも逆。高橋博士が設計したマシンは骨組みがむき出しで、安全対策も採られていなかったんだ。それで、安全性も高く製造コストも低い田爪博士の小型のマシンが採用された。今、司時空庁が海辺のタイムマシン発射施設から毎月二十三日に飛ばしているタイムマシンは田爪型のマシンだよ。今月から発射されるこの家族搭乗機も、少し大きくなっただけで、基本的には田爪型マシンと同じ構造なんじゃないかな」
別府博は自分のパソコンの上に投影されているタイムマシンのホログラフィーを指差して、そう言った。
春木陽香は、文書ホログラフィーの頁を捲りながら言う。
「そうすると、これ、その『田爪型タイムマシン』の構造を修正したものなんですかね」
「そうみたいだけど、工学部を出た僕でも、さすがにこれは解かんないなあ。たぶんそうだと思うけど。ただ、その修正が正しいのかどうか。もしそうなら、司時空庁が先に気づいているでしょ」
「ですよね……」
そのまま適当に頁を捲っていた春木陽香は、ハッとしたように別府に顔を向けて、彼に尋ねた。
「あ、田爪博士と高橋博士って、あのAB〇一八とIMUTAを接続することに成功した二人ですよね」
「うん。僕が高校生の頃だったから、よく覚えてるけど、生体型コンピュータのAB〇一八と金属でできた量子コンピュータのIMUTAを接続したんだ。科学の常識から言うと考えられないよね。すごいよ、あの二人は」
「その二人を指導したのが、赤崎教授と殿所教授なんですよね」
「うん、そうだけど。それがどうしたの」
春木陽香は再び文書ホログラフィーを指差して言った。
「この『ドクターT』って、誰なんでしょう。そんな天才たちが導き出した理論や既に実用化されているタイムマシンの設計図に、こんなに細かく修正を加えるなんて、すごいと思いませんか」
別府博は顎を掻きながら答えた。
「うーん。まあ、それが正しければね」
春木陽香はもう一度、最後のページまでまとめて捲ると、その頁数を確認して少し興奮気味に言った。
「五百二十頁もありますよ。もし、この論文がちゃんとしたものなら、これを書くだけで数年はかかりますよね」
「かもね。でも、その修正が正しいかどうかは、とっくに司時空庁が確かめているはずでしょ。僕らは、その答えが出てから、司時空庁の発表を基に記事を書けばいいんじゃないかな。タイムマシンの発射は毎月二十三日だろ。今月の二十三日は来週の金曜日だし、金曜はウチの『週刊新日風潮』の発刊日。タイムマシンどころじゃないよ。それに、その時にタイムマシンが今まで通り発射されていたら、問題ないってことだろ。そしたら、その次の週はゴールデン・ウィークじゃん。有給を四日も消費すれば、夢と地獄の十二連休。どうしても気になるなら、その後で調べてみればいいんじゃないかな」
「はあ……」
春木陽香はその文書ホログラフィーを見つめながら、そう答えた。
別府博は自分のパソコンの上のホログラフィーに手を伸ばして、それを閉じながら、横の春木に言った。
「まずは、連休前の特別号の記事を仕上げないと、編集長にまた怒鳴られるぞ。コルァ、ハルハルって。はい、仕事、仕事。新人さん」
別府博は自分のパソコンを脇に抱えると、春木の肩を一度しっかり叩いてから、自分の席に戻った。
「――『ドクターT』さん、かあ……」
春木陽香がそう呟いた時、誰かの腕時計のアラームが鳴った。彼女は壁の掛け時計に目を遣った。午後五時だった。一斉に
誰かが大きな声で言った。
「おい、
「おお、そうだな。堤シノブのグラビア、しっかり段取らないとなあ」
「いいねえ。じゃあ、編集長が戻ってくる前に出かけるとするか」
男たちは色めき立った。リラックスした雰囲気に急変した編集室内で、記者たちが次々に腰を上げていく。別府博が春木の肩を叩いた。
「おい、新人、あんまり根を詰めるなよ。適当に切り上げろ。じゃ、お疲れっしたあ」
他の記者たちに挨拶した彼は、鞄を提げて狭い廊下の方へと去っていった。
春木陽香は椅子に座ったまま、机の上に立体投影されている英文の論文をじっと見つめていた。
5
文字盤の上にホログラフィーで浮かべられた針が時刻を表示している。音もなく動く秒針は時の流れを感じさせないまま、ただ情報としての「時刻」とその変化を伝えるだけである。その無音の時計の下には窓がある。そして、少し背を曲げた人影があった。
タキシード姿の年老いた男が杖にもたれて立ったまま窓から景色を眺めていた。海原の向こうには青い空が立ち上がり、手前では岸壁からその窓の下までの斜面を丸い葉の緑が埋めている。その部屋の中は薄暗く、静かだった。ロダンの彫刻やモネ、ピカソの絵画が飾れたその部屋は、床に靴の踵が埋まるほどに毛足の長い絨毯が敷かれ、天井には豪華なシャンデリアが吊られている。そのシャンデリアの下にブランド物のスーツに身を包んだ金髪の西洋人女性と背の高い黒髪の東洋人女性、光沢のある派手な背広を着た中年の東洋人男性が立っていた。
窓の前の老人は杖で強く床を突くと、三人に背を向けたまま言った。
「もうよい。さがれ。愚か者どもが!」
三人はほぼ同時に頭を下げると、それぞれ恐縮した顔でその場を去ろうとする。老人は杖に体重を掛けたまま、言った。
「待て」
三人は足を止め、再び老人の方を向いた。老人は振り返り、部屋の中央にゆっくりと歩きながら言う。
「やはり、あの方の言われた通りじゃ。今後の日本での対応は、あの方の言われる通りに進めるのじゃぞ。よいな」
三人は再び頭を垂れた。老人は杖を振り上げると、一番端の派手なスーツの男の肩に強く振り下ろした。男は痛みに顔を歪めたまま腰を折っている。
老人は言う。
「奴の監視も怠ってはならぬ。よいな」
男は頭を下げたまま、声を震わせた。
「か、かしこまりました」
杖を降ろした老人は言った。
「行け」
三人は視線を下げたまま、部屋から出て行った。
ドアが閉まると、老人は大きな裸婦像を一瞥した。
「居たのか」
女性の裸体の彫刻の後ろから白い革靴が絨毯に踏み出す。白いズボンに白いジャケットのその男は、胸のポケットに紫のチーフを挿している。男の片方の目の上には大きな刀傷があった。隻眼の男は手に持った青い花の匂いを嗅ぎながら言った。
「まあ、品定めは必要ですから」
老人は言った。
「まだ手は出すな。何も動いてはならぬ。計画通りに進めるのじゃ。計画通りに」
刀傷の男は口角を上げた。
「分かりました。ですが、閣下もそういう御意向で?」
老人は床を強く杖で突いた。
「ワシの意見が、あのお方の意見じゃ。忘れるな」
男はニヤけた顔をして言う。
「了解です」
そして、片方だけの目を部屋の奥のドアに向けた。
「おっと、噂をすれば、ですな。では、私はこれで」
刀傷の男は前の三人が出ていったドアの前で振り向き、軽く手を振ってから退室した。
男がドアを閉めると、その対角の位置のドアが開き、上半身を前に突き出した背広姿の老人が杖を突いて歩いてきた。その老人はメイドに支えられながら部屋の中央まで小さな歩幅で歩いてくると、執事の男が置いた椅子に腰を降ろした。メイドと執事に退室するよう合図した彼は、膝の間に立てた杖の上に両手と顎を乗せて、擦れた声で言った。
「どうじゃ。計画通りか」
その老人の前に杖をついて立っているタキシード姿の老人は頷く。
「ええ。計画通りです」
背広姿の老人は満足そうに瞬きしながら言った。
「よし、よし。順調じゃ。それでいい。それでいい」
彼は鋭い視線をタキシードの老人に向ける。
「じゃが、まだ残っておるの。全てを計画通り進めなければならん。分かるな」
タキシードの老人は片笑んで言った。
「もちろん、そのつもりです」
背広の老人は頷いた。
「では、行くのじゃ。準備は出来ておる」
タキシードの老人は言った。
「では、行って参ります」
「うむ。よろしく頼むぞ」
「ご心配なく」
「心配はしておらん。する訳がない」
タキシード姿の老人は再び口角を上げ、杖を突きながら、背広の老人が出てきたドアの方へと向かった。彼が退室すると、椅子の上の背広の老人はニヤリと笑う。
「計画通りじゃ。計画通り」
広い部屋の中に一人残った老人は、静かにそう呟いた。
6
新首都北部の街・
「また官邸にか……」
男の眼鏡の奥で目つきが厳しくなる。彼の後ろを歩いていたスーツ姿の女が言った。
「はい。先月に引き続き二度目ですわ」
男は歩きながら頷いた。
「分かっている。それで、佐藤君。手は打ってあるのだろうね」
女は笑みを浮かべて答えた。
「はい。まずは主務官庁に下ろすよう伝えてありますわ」
「うん。いいだろう」
男は満足そうにそう答えると、女の少し後ろを歩いている小柄な中年男に声を掛けた。
「松田君。追加の一機の製造は、どうなっている」
「はい。それが、その……」
「――どうなんだ。今月中に完成するのか」
「いいえ。申し訳ありません。今月中には、とても……」
「来月になるのかね」
「それが、ゴールデン・ウィークを挟みますので、納品は早くても来月中旬以降になると思われます。安全点検や量子エンジンのテストの期間を含めますと、実射可能なのは六月半ば……いや、七月以降に……」
先頭を歩いていた割れた顎の男は立ち止まった。ついて歩いていた二人も足を止める。先頭の男は振り返り、小柄な男を指差しながら言った。
「松田君。君ね、ゴールデン・ウィークなどと言っている場合かね。我が司時空庁存亡の危機なのだぞ。つまり、国家存亡の危機だ。それに、安全点検やテストなどは省略していい。どうせ本人にいじらせるのだから。連休明けに納品できるよう取り計らいなさい」
小柄な男は顎の割れた男から視線を逸らして答えた。
「はい。承知しました」
顎の割れた男はスーツ姿の女に言った。
「佐藤君、発射のスケジュールの調整を頼むよ」
「はい。かしこまりましたわ」
女がそう答えると、男は再び前を向き、速足で歩き始めた。そして、廊下の突き当りまで進むと、そこにある両開きのドアを左右に勢いよく押し開けて、大きな声で言った。
「いやあ、皆さん。お待たせしました」
三人は大会議室の中へと入っていった。
その広い会議室の中には長方形の大きな会議テーブルが置かれている。テーブルには、三人が入ってきた扉がある壁と向かいの窓のそれぞれに沿って並べられた背もたれの高い重役椅子に年配の男女が座っていた。上座の壁には「
壁際の席には上座から順に、財務大臣の
司時空庁長官・津田幹雄は居並ぶ閣僚や役人たちの顔を見回しながら、割れた顎を突き出して言った。
「有多町の官庁街のこんな外れまで、わざわざご足労いただき、痛み入ります」
そして、指先で少し眼鏡を持ち上げると、窓際の席に鋭い視線を向けた。
「特に、国交省事務次官の木上さんには」
木上杏奈は目線を逸らす。
津田幹雄は前を向き、大きな声で言った。
「いやあ、このビルを建てるに際しては、もう少し西寄りの場所を希望したのですがね。できれば、総理官邸の近くに。まさか、皆さんの省庁ビルからこんなに離れた所に建てられるとは思っていませんでしたよ。ま、この新首都への遷都で国交省さんも忙しかったのでしょう。あの当時に担当された方も大変でしたなあ」
津田幹雄は再度、木上に視線を向ける。木上杏奈は下を向いていた。その隣で、国土交通大臣の小園慶人がしかめた顔で木上をにらみ付けていた。
司時空庁は国家権力の中枢で強大な発言権を有している。所管するタイムトラベル事業が国家に莫大な利益をもたらしているからだ。タイムマシンの開発に成功した日本政府は、二〇二九年から国家事業として正式にタイムトラベル事業を実施している。渡航費を支弁した民間人をタイムマシンに乗せ、月に一度、一人ずつ、過去の世界に飛ばしているのだ。その渡航費は巨額であったので、毎月のタイムマシンの発射に伴う収入は、財政赤字に逼迫していた政府の重要財源となった。そして、事業開始から十年が経とうとしている今、司時空庁は実質的に国家財源の要の官庁となったのである。当然、その長官は強大な権力を握っていた。その証拠と言わんばかりに今回も、議題に関係する省庁の大臣と官僚のトップや関係者たちを司時空庁長官の津田幹雄の一声で自庁ビルまで呼びつけていた。もはや省と庁の組織体系上の位置付けや、大臣と長官の身分の上下関係などは有名無実に近い状態となっていた。
財務大臣の長船武則が言った。
「それで、今日の話はなんだね。私を呼び出したということは、予算分配の調整だろう」
津田幹雄は頷いた。
「そういうことです。単刀直入に申し上げます。
会議室が一気に騒めいた。
国土交通省事務次官の木上杏奈は言う。
「我々の予算では到底無理ですわ」
津田幹雄は財務官僚の八重尾典一の顔を見た。
「だから財務省に来てもらったのですよ」
厚生労働相の入来愛美が眉間に皺を寄せた顔を津田に向ける。
「まさか、既に成立している本年度の予算編成を今から補正すると言うのですか。福祉だけでも、現予算額ではかなり不足しているのですよ。これ以上削られたら、要介護世帯への支援費をまた切り下げなければならなくなります」
国防大臣の奥野恵次郎が椅子に深く座ったまま、目線だけを横に向けた。
「まあ、入来先生。話は具体的な補正額の中身を拝見してからにしましょうよ」
入来大臣は与党の重鎮代議士でもある奥野に従い、口を噤んだ。
津田幹雄が佐藤に指示を出す。佐藤雪子は手許の薄型端末を操作して、全員の前に平面ホログラフィーを表示させた。各席のテーブルの上から光が放たれ、一人一人の前に修正予算額の計算書が浮かんで表示される。各出席者たちは空中に浮いているホログラフィーの書類に目を凝らした。
末席から二つ目の椅子に座っていた初老の男が声を上げた。
「馬鹿な。なんだ、この額は。警察の予算だぞ。こんな圧縮額など、あり得ん」
警察庁長官の子越智弘に追随して、海上警察本部長の渡辺光一郎が怒鳴った。
「我々が毎月のタイムマシンの発射の度に、どれだれの金をかけているのか知っているのか! 海上封鎖と警備だけでも相当な額を使っているんだぞ。それなのに、こちらへの配分額をこんなにカットするというのかね」
国防大臣の奥野恵次郎が渡辺をにらみ付けた。
「それは我々も同じですよ。毎月、発射場周囲の海上に哨戒艇を待機させて、海上警備体制を布いている訳ですからな。ねえ、右松さん」
防災省事務次官の右松美文は淡々とした口調で答えた。
「我々は人命救助が任務ですのでね。何時であろうと、出動態勢は整えています。ただ、二〇二五年の核テロ事件の時のように、危険な場所には真っ先に我々を向かわせておきながら、後から司時空庁さんがしゃしゃり出て来て現場を仕切られたのでは、たまったものではありませんがね。その上、予算まで削られては……」
津田幹雄は指先で眼鏡を持ち上げると、右松に冷ややかな視線を送りながら言った。
「あれは、旧
右松美文は津田を指差しながら声を荒げた。
「看板を替えただけでしょうが」
厚生労働事務次官の大萩真道が深刻な表情で空中の文書を読みながら、呟いた。
「この額だと、労災給付や年金までカットしないといけなくなる……」
それを聞いた厚生労働大臣の入来愛美は、津田の方を向いて怒鳴った。
「冗談じゃないわ。国民の命を何だとお思いなのですか」
国防大臣の奥野恵次郎が言う。
「では、我々の予算を削りますかな。しかし、外敵が攻め込んできたら、どうします? 防災だの福祉だのとは言ってはおられんでしょ」
渡辺光一郎海上警察本部長が奥野を強く指差した。
「あんたらは、いつもそういう理屈を持ち出す。だいたい、あんたらが他国の紛争に介入しなければ、我が国は諸外国から敵国扱いされることも無かったんだぞ」
奥野恵次郎は渡辺を見据えて、静かな口調で言った。
「我々は国益を守るために命を懸けているんだ。領海内だけで追い駆けっこをしている君らとは違うのだよ」
「なんだと……」
「渡辺君。控えたまえ」
怒りに顔を紅潮させた渡辺を、隣の席から警察庁長官の子越智弘が窘めた。
国土交通大臣の小園慶人が全員の顔を見回しながら言った。
「とにかく、
椅子の背もたれに身を倒した津田幹雄は、割れた顎を突き出して言う。
「ま、その点は心配ないでしょう。皆さんもご存じのとおり、辛島総理が各種改革の要とされている生体型ヒューマノイドロボットの大量生産事業、あれには金がかかる。だからと言って、中止はできない。我が国には『AB〇一八』と『IMUTA』という二機の超大型スーパー・コンピューターを接続して構築した、世界最高の情報処理能力を有する『
入来愛美厚生労働大臣がまた声を荒げた。
「何が『ご心配なく』よ。その分、自分たちの予算額を上げているじゃない。自分たちが支出する予定の額を他の省庁から吸い上げるつもりなんでしょ」
奥野の向かいに座っている阿多晃一防災大臣が言った。
「まったく。いつからこの国の政府は商人に成り下がったのか。これじゃ、完全にビジネスじゃないか。わしゃ、ビジネスはすかん」
津田幹雄は入来と阿多を無視して、財務大臣の方に顔を向けた。
「長船大臣、よろしいですな。これで予算修正を通してもらいたい」
長船武則は顔をしかめる。
「ううん。野党がどう言うかな。
津田幹雄は長船の隣の男を指差しながら言った。
「細部の修正と事務処理の方は問題ないですな。八重尾さん」
財務官僚の八重尾典一は頭を掻きながら答えた。
「は、はい。時間がありませんが、なんとか、精一杯、全速力でやってみます。ああ……こりゃあ、大変だあ……大変だあ……」
八重尾典一は頭を抱えた。
津田幹雄は反対側の列に顔を向ける。
「現在、昭憲田池の周囲を周っている地下リニアも地下高速も『都営』となっています。都の方との調整は小園大臣にお任せしますので、よろしく」
小園慶人国土交通大臣は頷いた。
「うん。まあ、上手く取り計らおう。木上君。都知事とアポをとってくれたまえ」
「分かりました。寺師町で今夜、ディナーを設定してみます」
「うむ。頼むよ」
末席の大萩真道厚生労働事務次官が手を挙げた。
「ちょっと待って下さい。ここで決めるのですか。こんな密室で、しかも、我々だけで。皆さんは議院内閣制や議会制民主主義を何だと思っていらっしゃるのですか」
奥野恵次郎国防大臣が嘆息を漏らして呟いた。
「小物が……」
津田幹雄は背もたれから身を戻して言った。
「いいですか、皆さん。我々は、ビジネスをしなければならないのですよ」
一同が津田に顔を向けた。津田幹雄は語る。
「わが国が世界に誇る、あの『SAI五KTシステム』が全世界の金融事情を把握し、国内の全てのインフラシステムを統制しているのは、皆さんもご承知の通りです。その『SAI五KTシステム』を構成している二機の巨大コンピュータのうち、量子コンピュータの『IMUTA』は、ストンスロプ社の研究開発機関である
「……」
一同は押し黙った。津田幹雄は続ける。
「そう。このままでは、この国は奴らに乗っ取られてしまうかもしれんのですよ。あなた方は統治者の一員だ。この国の国民の幸福を守る責務がある。奴らを国内から排除し、国民生活の頼りとなっているSAI五KTシステムを完全に国の管理下に置くために、AB〇一八を買い取るか、それに代わる新型の生体型コンピュータを製造しなければならないでしょう。それには技術と、手に入れたものを奪われないようにする軍備と、金が必要になる。技術と軍備にも金がかかる。結局、金です。だから、金を作る事業を我々政府が実施しなければならんのです。国民を守るために。ここにお呼びした皆さんは、私と同じく、奴らとは一線を画しておられる清廉な方々だ。だからお呼びしたのです。国会議員や役人の中には奴らと通じている輩も大勢いると聞く。現職の閣僚の中にも。もはや議会で事を決めている場合ではないのです。国会も閣議も形式的に進めるだけにして、実質的決断は別の場所でしなければ、事は動かせない。誰かが国民のために捨石になり、実質的に決断せねばならんのですよ!」
津田幹雄は強くテーブルを叩いた。室内は静まり、視線が津田に集まっている。再び椅子の背もたれに身を倒した津田幹雄は、出席者たちの顔を一人ずつ見据えた後、深く息を吐きながら目を瞑った。
「国の収入を上げるために、我々はタイムマシンの発射を、これまでの月一回から週一回に増やそうと思っています。搭乗者も、世界中から広く募集するつもりです」
警察庁長官の子越智弘が津田を凝視している。その隣の席から海上警察本部長の渡辺光一郎が目を丸くして言った。
「しゅ、週一回だって? 無茶だ。
財務大臣の長船武則が言った。
「ならば、空港と港を移転させればいい」
入来愛美厚生労働大臣が眉間に皺を寄せて長船に言った。
「移転って、そんな簡単に……」
国土交通大臣の小園慶人が大きな声で入来の発言を遮った。
「那珂世湾の沖合いに人口の島を作るというのはどうです。建設用の水中ロボットを使えば、今はそんなに時間はかからない。そこに空港と港を集約すればいい」
入来愛美は鼻で笑うと、小園に言った。
「先生は建設業界が支持母体ですからね。それが決まれば、いい手土産が出来ますわね」
「失礼なことを言うな! 俺はこの国の未来を見据えてだな…… 」
小園慶人は入来を指差して怒鳴った。
手を上げて小園を制止した津田幹雄は、入来の顔を見て言った。
「このくらいの覚悟をもって望まなければ、国政は担えないということですよ。それに、タイムマシンの発射回数が増えれば、結果として、渡航費の売上げ分の外貨が大量に政府に注入される。それで一気に問題は解決です」
阿多晃一防災大臣は怪訝な顔をして津田に尋ねた。
「しかし、そんな頻繁にタイムマシンを発射して、そのエネルギーはどうするんだ。現在は量子エネルギーの足りない分を電力で補っているのだろう。あのマシンの一回の発射に使う電力は、昔の原発数機分の年間発電量じゃないか」
国防大臣の奥野恵次郎が口を挿んだ。
「だから、我々が南米の戦場で血と汗を流しているんだよ。我が軍が参加している協働部隊側が勝利すれば、ゲリラ連中は排除され、その後は完全な南米連邦政府の統治となる。そうなれば、ゲリラ掃討作戦に貢献した国ほど、あの国に対して発言権を得られる訳だ」
津田幹雄が奥野の発言に付け足した。
「あの国は資源も多い。それを安く大量に我が国に輸入することが出来れば、国民も潤うではないですか」
警察庁長官の子越智弘が静かに口を開いた。
「他国民の血を流して手に入れたエネルギーで国民が潤いますかな。更なる渇きを覚えるだけでは」
津田幹雄は子越に人差し指を振りながら言った。
「そこを抑えてもらうのが、警察の仕事ではないですかな」
子越長官は津田の目をにらみ付けていた。
司時空庁長官の津田幹雄は立ち上がると、大きな声で仕切りをつけた。
「とにかく、そういった事情ですので、大臣の先生方はその旨で閣議を進めていただきたい。我々官僚は内閣の決定がスムーズに実現するよう事前に調整しておきます。皆さん、よろしいですな」
全員の顔をにらみ付けた津田幹雄は、入来や阿多が渋々に頷いたのを確認すると、そのまま出入り口の扉へと向かった。彼は勢いよく左右にドアを開けて会議室から出て行く。佐藤雪子秘書官と松田千春業務管理部長が津田の後を追うように会議室を後にした。
国防大臣の奥野恵次郎は小声で隣の背広姿の男に言った。
「増田君。総理へは、君から上手く説明しておけ」
国防省情報局長の増田基和は答えた。
「了解しました」
出席者たちはそれぞれ立ち上がり、ある者は上機嫌で、ある者は不機嫌そうな顔で、会議室から出ていった。
7
記者たちが帰宅した新日風潮社の編集室。
春木陽香は一人、自分の席で記事を作っていた。時計の針はもうじき八時を指そうとしている。そこへ山野紀子が駆け込んで来た。
「ごめん。遅くなった。娘が急に家庭訪問の話とか……あれ? みんなは。帰っちゃったの?」
室内を見回している山野に春木陽香が言った。
「はい。皆さんで一緒に寺師町に行かれました。堤シノブさんのヌード撮影の『打ち合わせ』だそうです」
山野紀子は顔をしかめて、強く溜め息を吐いた。
「かあ、しょうがないわね。――まあ、清純派女優のヌードだから、仕方ないか」
山野紀子は地下の駐車場から走ってきたらしく、額に少し汗を浮かせていた。
春木陽香は手を止めて立ち上がると、給湯室へと向かった。給湯室は廊下の半分より手前の左手にある。中に入ると、そこは狭い。右側の壁際に小さなシンクがあり、その奥の突き当りの角に小振りな冷蔵庫が置かれていた。左側の壁際には分別用のゴミ箱が並べられていて、手前に安物の食器棚が置かれている。春木陽香は少し背伸びをしてその食器棚の上の段の扉を開けると、中の棚から、表面に大きな棘が無数に付いている赤茶色い湯飲みを取った。その横の自分のキリン柄のマグカップも取り、扉を閉めてシンクに運んで、二つを水で軽く濯いだ。準備していた急須をシンクの端に置いてあるポットの下に置き、そこにお湯を注ぐと、蓋をした急須を軽く平行に回してから棘の付いた湯飲みとキリン柄のマグカップに交互にお茶を注した。その後、それらを盆の上に乗せて、溢さないように慎重に持ちながら編集室へと戻った。
山野紀子は仕事に取り掛かっていた。彼女は椅子に座ってパソコンの立体画像に目を凝らしながら、白いブラウスの襟を掴んで暑そうにパタパタと動かしている。春木陽香は湯気の立ったトゲトゲ付きの湯飲みを山野の机の上に置いた。そして、自分の机にキリンのマグカップを置くと、急須が乗っているお盆を隣の席の端に遠慮気味に置いてから自分の席に座った。
息を吹きかけながら湯飲みのお茶を啜っている山野に、春木陽香は尋ねた。
「よく承諾が取れましたね」
山野紀子は口に含んでいたお茶を飲み込むと、春木に問い返した。
「堤シノブ?」
春木陽香は頷いた。
山野紀子は「トゲトゲ湯飲み」を机の上に置き、顔を少し前に出して小声で言った。
「ここだけの話だけどね……」
「はあ……」
二人の他には誰もいない編集室で小声で話そうとする山野に、春木陽香はそう中途半端な返事をした。山野紀子は右手を口の横に立てると、わざと小声で春木に言った。
「彼女、財務大臣の長船と、そういう仲なのよ」
「そういう仲?」
春木陽香は普通の声で聞き返した。
山野紀子はハイバックの椅子に身を投げると、普通の声に戻して事情を説明した。
「先月、外国での国際会議中に長船が宿泊していたホテルの部屋から堤シノブが出てくるところを、ウチの記者がスクープしたの。彼女が所属しているプロダクション側からの要請で、まだ記事にはしてないけど」
「弱みを握っているってことですか。じゃあ、彼女を脅したんですか」
目を丸くして再び尋ねた春木に、山野紀子は一度だけ手を振ってから言った。
「まさか。向こうから言ってきたのよ。ウチの経営陣の方に内々にね。表向きはこちらから口説いたってことにしてあるけど、本当のところは、堤シノブの事務所サイドからヌード出すという申し出があったらしいの。その代わり、スキャンダルの画像データを渡せって。もともと清純派イメージから脱皮する機会を伺っていたみたいだしね。こっちとしては、ヌードの方が売上げ部数は上がると踏んだわけ。ま、ウチの経営陣の判断だけど」
「ふーん……」
春木陽香は納得の行かない顔でキリン柄のマグカップを口元に運んだ。
椅子に深く
「
春木陽香はマグカップを両手で包むように持ったまま、目線を落として答えた。
「まあ……実は、少し……」
山野紀子は春木の返事を聞いて口角を上げると、はっきりとした口調で春木に言った。
「それで、よし。でも、これが世の中の現実なの。この世界はいろんな人間の様々な駆け引きで組み立てられている。そこの隙間から、奥に埋もれた『真実』を見つけ出すのが、私たち雑誌記者の仕事なのよ」
春木陽香は少し口を尖らせて言った。
「一応、そのつもりで記者を目指したんですけど……」
山野紀子は、一度だけ頷いた。
「うん。でもね、その『真実』というモノも、人によって見方が違う。右往左往しているのが『現実の真実』ってものよ。読者に解かりやすいように、しっかりと整理された真実なんて無い。まあ、フィクション小説の世界だけね、そんなものは」
「はあ……」
春木陽香は要領を得ない顔をしていた。それを見て、山野紀子は湯飲みのお茶を一口飲んでから、春木に言った。
「ま、いずれ分かるわ。それで、ハルハルは食べたの?」
「いえ。これからです」
「あらら。別府君は?」
「帰りました」
「帰った? もう、指導役の先輩が先に帰ってどうすんのよ」
「なんか、お子さんをお風呂に入れる時間だそうで」
「そっかあ。小さい子が二人だもんね」
「室……編集長は、夕食はとられたのですか」
「いや、まだ。ま、いいわ。帰ってから食べる。あんた、下の社員食堂で食べてきなさいよ。まだ開いているでしょ」
春木陽香は自分の机の隅に置いていたレジ袋を持ち上げて、山野の方にそれを差し出しながら言った。
「あの……お弁当を買ってきたんですけど……編集長の分も。よかったら、どうぞ」
「うそ。ホントに」
「たぶん、家で食べる時間が無いんじゃないかと思って」
山野紀子は椅子から体を起こして袋を受け取ると、中を覗きながら春木に言った。
「ありがと。気が利くじゃない。よし、じゃあ、食べよう」
山野紀子は袋の中から二箱の弁当を取り出すと、豪華な方を春木に渡して、自分の分の弁当の蓋を開けた。
閑散とした編集室の中で、女性二人は会話を交わしながら、ささやかなディナーを楽しんだ。
春木陽香は、ヒレカツを頬張りながら言った。
「でも、大変ですね。月曜は構成決定で、水木は原稿チェックですもんね。どうしても帰宅が十二時前になっちゃいますよね。その度に夕方は一度、自宅まで戻られているんですか。先週だけかと思っていました」
「娘がさ、中三になるのに、なーんにも出来ないのよ。困ったもんよ。ありゃあ、まだ、頭ん中が小学生ね」
「私も高校出て一人暮らしするまでは何も出来ませんでしたから。今も、実家の母が時々出てきて、色々やってくれていますし……」
「あらあ、それは駄目ね。あ、これ、美味しい」
甘酢の掛かった鶏肉の天ぷらを頬張る山野を見つめながら、春木陽香は箸を持った手を膝の上に下ろして、呟くように言った。
「なんか、編集長、すごいですね」
山野紀子は鶏肉の天ぷらで右の頬を膨らませながら尋ねた。
「何が?」
「何って言うか、働く女としてというか……」
飲み込んだ山野紀子は言った。
「水着やらヌードやらで盛り上がっている馬鹿共を取り仕切らないといけないからね。私がボーとしていたら、この週刊誌、あっという間にポルノ雑誌になっちゃうでしょ」
「それもですけど……」
春木陽香は持っていた弁当から箸でグリンピースを一つ摘み上げると、それを口の中に入れてから、下を向いて呟いた。
「家庭との両立とか、私に出来るのかなって。自分のことも出来ないのに……」
箸の先で春木を指しながら、山野紀子は言う。
「覚悟を決めたらね、出来るもんよ」
そして、山野紀子は黙々と弁当を食べ始めた。
春木陽香は少し考えていたが、弁当と箸を持ち上げて再び食べ始めた。
その後、二人は取留めの無い会話を暫らく続け、夕食を済ませた。
春木陽香は自分の弁当の容器に山野の弁当の容器を重ね、それをレジ袋に入れた。椅子から腰を上げる前に、一度、山野の方に視線を向ける。山野紀子は「トゲトゲ湯飲」みを握ったまま、机の上に浮かんでいるホログラフィーの文書に真剣な眼差しを向けている。どうやら早速、次号の仮原稿をチェックしているのだろう。春木陽香は腰を上げるのをやめて、山野に言った。
「でも、週刊誌の編集長って、こんなに忙しいんですね。原稿をチェックしたり、外部の人と会ったり、企画を調整したり」
ホログラフィーに目線を向けたままお茶を一口啜った山野紀子は、読みながら春木に言った。
「あら、目指す気になった、週刊誌の編集長」
「――まだ、雑誌記者として始めたばかりですから……」
「そうよねえ。まずは、取材と記事ね。そこから、そこから」
「あの……」
「ん? 何?」
山野紀子は春木の方に顔を向けた。
春木陽香は少し戸惑っていたが、思い切って尋ねてみた。
「えっと、あの……編集長は、どうして私の採用を推して下さったのですか。上の新聞社で再雇用を拒否された私を」
山野紀子は椅子に身を倒して、笑いながら答えた。
「勘よ、勘。それに、ほら、ここ、女は私一人じゃない。これからは少しずつ女性の記者やスタッフを増やそうと思って」
「上のシゲさんから聞きました。編集長が本部の人事課と掛け合ってくれて、私を再雇用扱いにしてくれたって」
「だって、あんた、大学出たら上のネット新聞の社会部で再雇用してもらう約束だったんでしょ。だから新日ネットから奨学金を借りて大学に行ったのに、帰ってきたら急に再雇用しませんって、あんまりじゃない。人事の連中、どうかしてるわよ。それに、系列会社で初任給と同額からスタートじゃ、奨学金の返済も出来ないでしょ。ハルハルは大学に行く前に四年間、社会部でアシスタントをしたんじゃなかったっけ」
「はい」
「なら、今年で五年目じゃない。五年は大きいわよ。ハルハルが三十になった時に、勤務四年目と八年目じゃ、給与が全然違うんだから」
「――感謝しています。本当に」
春木陽香はゴミを入れたレジ袋を提げたまま、深々と山野に頭を下げた。
山野紀子は顔の前で手を振りながら言った。
「いいの、いいの。大体ね、
「神作キャップも黒木局長とかと随分と掛け合ってくれたって、うえにょデスクが言ってました。永山先輩も一緒に……」
「くくく」
山野紀子は口を手の前に当てて笑った。彼女独特の奇妙な笑い方である。
春木陽香は椅子に座ったまま、キョトンとして言った。
「どうしたんですか」
「いや、ハルハルも『うえにょ』って呼んでるんだ。くくく……。そうよね、そんな感じよね、あいつ。くくく」
山野紀子は笑いが堪えられなかったらしく、息苦しそうに笑い始めた。
春木陽香は、つられて少しだけ一緒に笑ったが、山野は春木が笑うのを止めても、まだ苦しそうに笑っていた。
やがて笑い終えた山野に、春木陽香は尋ねた。
「うえにょデスクって前は政治部にずっといて、編集長も上の政治部に在籍されてたのですよね。その頃からそう呼んでいたんですか」
山野紀子は涙を拭きながら答えた。
「いや、上の新日ネット新聞の方じゃなくて、紙新聞の方の東京本社。そこの政治部に居たの。あの当時は東京が首都だったから、それなりに忙しかったけどね。で、遷都になって、ネット新聞の本社が新首都のここに設立されて、みんな異動になった時に、私はこの週刊誌の方に飛ばされたってわけ。でも、東京に居た頃からみんな呼んでたわよ、『うえにょさーん』って。くくく」
山野紀子は、また暫らく一人で笑い続けた後、深呼吸をして気を落ち着かせてから、春木に話し始めた。
「あいつ、真ちゃんと同期でしょ。先輩だから私も若い頃は気を使っていたけど、結構大変なのよ、これが。仕事できないし。それなのに、なんであいつが次長職の『デスク』で真ちゃんがまだ現場職長クラスの『キャップ』なのよ。上の人事の連中、やっぱりどうかしてるわよね」
今度は一人で怒り出した山野紀子であったが、真剣な顔で神作を擁護する発言を繰り返す上司の顔を、春木陽香はまじまじと見ていた。
春木の視線に気付いた山野紀子は、慌てて話題を変えた。
「それより、時吉弁護士が持ってきたメールの添付データ、どうだった。開いてみた?」
春木陽香はレジ袋を横に置くと、立体パソコンの上のホログラフィー文書を一旦閉じて、自分のパソコンに保存した文書データを立体画像で表示しながら答えた。
「はい。それが、タイムトラベルに関する学術論文みたいでした。精密撮影の立体動画も幾つか付いていて、かなり本格的なものです」
「ふーん。メールの本文は、何だったの」
「津田長官から時吉前長官に、意見を聞きたいと。ただそれだけです」
山野紀子は手に持っていた棘付きの湯飲みを机の上に置くと、腕組みをした。
「意見かあ……。うーん。こりゃ、何か裏があるわね。なんせ、前司時空庁長官の時吉総一郎は、赤崎教授と殿所教授のAT理論に疑問を提示して一大論争を巻き起こした張本人だからねえ」
椅子を回して山野の方を向いた春木陽香が言った。
「たしか、『時吉提案』と呼ばれたものですよね」
山野紀子は頷いた。
「そ。結局、あれのせいでパラレルワールド肯定説と否定説のどちらが正しいのかっていう論争が起こったのよ。国民を二分する」
「結局は、高橋博士が唱えた肯定説が正しかったんですよね」
「うん。でも、それって私が三十の頃の話だから……ここへの遷都宣言がされた二〇二二年のことでしょ。ハルハルはまだ小さかったんじゃない。その頃、何歳だっけ」
「ええと、二〇二二年だから……十一歳です。――でした」
「よく覚えていたわね」
「テレビとかで、よくやっていましたから。AT理論とかタイムマシンの事はよく解りませんでしたけど、パラレルワールドの事は子供同士でも何回も議論したのを覚えています。で、クラスの男子と女子とに分かれて、喧嘩になったり」
「ふーん。そうなんだ。随分と人騒がせな話だったわよね。子供まで巻き込んで。大人はもっと盛り上がっていたからね。ま、遷都をスムーズに進めるために国民の注意を逸らそうっていう政府の意図があったのかもしれないけど」
過去を懐かしむように語っていた山野紀子は、「トゲトゲ湯飲み」を手に取ってお茶を一口飲むと、真剣な顔で言った。
「それにしても、その時吉に現職の司時空庁長官がこっそりと意見を訊くなんて、絶対に何かあるわね」
「論文の方を読んでいる最中ですけど、全部英文ですし、難解な物理の専門用語や数式が多くて。明日、資料室が開いたら、そこで少し調べてもいいですか。添付されている立体動画も、そこのパソコンじゃないと再生できないって、別府先輩が……」
もう一口お茶を飲んだ山野紀子は、トゲトゲ湯飲みを机の上に置くと、立体パソコンの上に浮かんだホログラフィー文書に再び顔を向けて、左手で春木を指差しながら言った。
「時吉総一郎のスキャンダルの記事、水曜日までよ。浮気相手の女子大生の生活調査が未だでしょ」
「あ、そっか」
思わずそう答えてしまった春木陽香は、机の上に浮かんだ論文データの立体画像に手を添えて、それをフォルダーに格納しようとした。しかし、彼女の手は止まっていた。なぜか論文の内容が気になって仕方なかった。春木陽香は、これまで自分が無関心だった分野で、しかも、謎が多そうな不可解な資料をもっとよく調べてみたいという衝動にも駆られていた。彼女は山野にこの件の調査もさせて欲しいと申し出るべきか迷っていた。その様子を見ていた山野紀子が春木に言った。
「ま、いいわ。スキャンダル記事の方は木曜の昼まで待ってあげる。その代わり、ちゃんとした記事を書きなさいよ」
嬉しそうな顔でホログラフィーから手を離した春木陽香は、山野に向けてコクコクと首を縦に振った。山野紀子は口角を上げて受け止めた。そして、すぐに言う。
「あ、そうだ。英文の論文なら、ライトに尋ねるといいわ。あいつ、帰国子女だから」
「ライト?」
「ああ、あんた、まだ会ってなかったわね。
「スクープと芸術の両立……ですか……」
首を傾げている春木に山野紀子は言った。
「そ。自分でも、いろいろと両立してるわよ。ま、英語は母国語並みに堪能だから、一度読んでもらったらいいんじゃないかな。ハルハルも英語が出来るのは知ってるけど、時間の短縮になるでしょ」
「助かりますけど、その方、お忙しいんじゃ……」
ドアが開く音の後、リズムに乗った声が聞こえてきた。
「ローレン、ローレン、ローレン……」
振り向いて廊下の暗がりを覗いた春木に山野紀子が言った。
「ほら、来た。噂をすれば、ね」
「なんか、歌が聞こえますけど……」
春木陽香は廊下の方を指差しながら、前後を交互に見て、その方向と山野の顔を何度も確認した。
山野紀子はホログラフィーの文書の続きに目を通しながら呟く。
「根っからの『げいじゅつ』家だから。――今日は、ウエスタンか……」
廊下の暗がりから、カウボーイハットを被りジーンズとブーツを履いた人物が現れた。勇一松頼斗だった。
「ハイ、エヴリバーディー! 堤シノブのフルヌードだって。どうやら、このライト様の腕が必要に……あら、誰もいない」
その少し痩けた頬の顔は、よく日焼けしていて、彫が深く、皺が多い。背丈は小柄な春木よりも少し高いくらいだった。胸を張ってモデルのように優雅に歩いてきた勇一松頼斗は、春木の後ろを素通りして、山野の机の前に来ると、ポーズをとった。
山野紀子はホログラフィーに顔を向けたまま、素っ気なく言う。
「みんな、打ち合わせと称してエロ話しに出かけたわよ」
大きな目をパチクリとさせて、勇一松頼斗は言った。
「打ち合わせ? どこに」
彼の背後から春木陽香が答えた。
「寺師町だそうです」
勇一松頼斗は頭の上のカーボーイハットを掴むと、その手を大袈裟に振り下ろして言った。
「オウ、マイ、ガッ! 要はただの飲み会……ん?」
くるりと向きを変えた彼は、春木に気づき、彼女の顔に自分の顔を近づけた。春木陽香が体を後ろに引く。山野紀子が勇一松に言った。
「ところで、新人アシスタントの発掘の方はどうなってるのよ。研修が始まる九月までには決めなきゃなんないのよ。ちゃんと絞れてるの?」
またくるりと振り向いた勇一松頼斗は、胸の前でクロスさせた腕を左右に広げて言った。
「ノープロブレム。面接はいたって順調。九月までなら、あと四カ月以上もある。余裕、余裕」
顔の前で手を振ってみせる勇一松に、山野紀子は疑い深い目を向ける。
「ホントかなあ。また前の時みたいに、今回は適任者がいなかったってことになるんじゃないでしょうねえ」
勇一松頼斗は山野に言った。
「大丈夫、大丈夫。今回は、ちゃんと時間掛けて話を聞いてるから。週に五人ずつ面接しても、八十人はいける。上手くいくって」
「あの……」
春木陽香が声を掛けた。勇一松が少し振り返ると、春木陽香は言った。
「秋の採用なら、採用される側も、いろいろと準備もあるかもしれませんから、少し早めに通知を出してあげた方が……」
山野紀子も勇一松に言った。
「そうよねえ。遅くても、お盆前までには内定通知を送ってあげた方がいいかもね」
勇一松頼斗は山野の方を向いて言った。
「あのね。写真は芸術。芸術は感性。感性ある人間は簡単には分からない。たとえアシスタントでも、ちゃんと芸術が分かる人間を……って、あんた、誰」
彼は三度くるりと振り向いて再びポーズをとり、春木の方を指差した。
春木陽香は椅子から立ち上がって一礼する。
「あ、失礼しました。始めまして。新人の春木陽香です。四月一日からこちらの勤務になりました。よろしくお願いします」
「新人……」
もう一度深々とお辞儀した春木を上から下までジロジロと見ている勇一松に、背後から山野紀子が言った。
「そうよ。あだ名は『ハルハル』。例のほら、上から引き抜いてきた再雇用の子よ」
「ああ、新聞の方で再就職を蹴られた、あの……」
斜に構えて腕組みをしたまま、勇一松頼斗は流し目で春木を見た。
春木陽香は少し恐れながら、もう一度お辞儀して言った。
「頑張りますので、どうぞ、ご指導のほど、よろしく……」
勇一松頼斗は春木の手を両手で包むと、その手を持ち上げて自分の頬にすり寄せながら言った。
「いやん。かわいい。『ハルハル』ね。わたし、勇一松頼斗。『ライトさん』でいいわ。よろしくう」
「あ……はあ……ライト……さん……」
春木陽香は返事に戸惑った。机の向こうの山野を見ると、山野紀子はホログラフィー画像に顔を向けたまま、下唇を噛んで笑いを堪えていた。
勇一松頼斗は春木の両手を自分の両手で握り締めたまま、言った。
「気の毒にねえ。こんな可愛い子を採用しないなんて。もう! 今度、人事部の人に会ったら、私がギャーって言って、ペチペチってしちゃうから。あんたも頑張るのよ。いい記事書いて、リベンジするの。見返してやりなさい。いいわね。私も、完璧な写真で、あんたの記事を引き立ててあげるから」
勇一松頼斗は春木の手を強く握り締めたまま、顔を近づけて何度も頷いた。
春木陽香は目をパチクリとさせながら言った。
「は、はい。――よろしく……お願いします」
取り合えず宜しくお願いしておくことにした。それしか思い浮かばなかった。
勇一松頼斗は春木の手を放すと、今度は自分の胸の前で拳を握って、春木の目を見た。拳に力を入れて少し興奮気味に言う。
「パッション。パッションが大事よ。それが芸術を生むの。あああ、パッション!」
その場でバレリーナのように綺麗に一回転した勇一松頼斗は、両腕を上に大きく広げ、まるで天に向かって開く花のような形でポーズを決めた。こちらを向いてニヤリと笑う。
鬱陶しかった。が、春木陽香はとりあえず愛想笑いで応じた。すぐに視線を外して落とす。ポーズをとった弾みでズボンからシャツが出ていた。春木の視線に気付いた勇一松頼斗は、顔を赤くしてシャツの間から覗いている腹部を手で隠し、慌てて後ろを向いた。内股でシャツをズボンに押し込みながら言っている。
「キャー、恥ずかしい。ポンポンが見えちゃってるじゃないの。男の子の前じゃなかったからいいけど、芸術家には身だしなみが大切だものね。もう、このシャツは短いから要注意だわ。ウィズケアっと……」
春木陽香は項垂れると、思わず呟いた。
「そっちの『ゲイ術』かな……」
またまたくるりとこちらを向いた勇一松頼斗は、さっと腕組みして斜に構えると、目を細めて春木に言った。
「ん。何か言った?」
「いえ、何も」
春木陽香はプルプルと首を横に振る。
山野紀子が口を挿んだ。
「ねえ、ライト。今、ハルハルが英文の文書を読んでるんだけど、それやらせてたら、別の記事が今度の特別号に間に合わないのよね。あんた、代わりに読んでみてくれない?」
振り向いた勇一松頼斗は、大きな目を更に大きくして言った。
「ええ! 私は写真家よ。翻訳家でもないし、記者でもないの。呼ばれた件で忙しいんだから。呼ばれたからには、次は飛び出て、じゃじゃじゃジャーンでしょ。撮影場所の選定とか、セットのイメージとか。ヌード撮影は背景が大事なのよ」
よく意味が分からなかった。春木陽香は首を傾げる。
山野紀子は勇一松の顔をにらみ付けながら、歯を剥いて、ゆっくりと言った。
「でも、私の部下よねえ、ライトは」
「は、はい。そうです。そうでございます」
山野紀子は指の関節を鳴らしながら言った。
「じゃあ、読むわよねえ。まさか、ノーとは言わないわよねえ。ライトお」
「はあ、もう。仕方ないわねえ。読めばいいんでしょ、読めば……」
山野紀子は手を耳に添えた。
「は? なんて? 仕方ない? 堤シノブの企画がボツになってもいいのかなあ」
「いえ。読ませていただきます。はい。さっさと読ませていただきます。ほら、ハルハルだったっけ? その英文はどこにあるの。さっさと出して」
勇一松頼斗は山野に背を向けると、春木にそう言って急き立てた。
春木陽香は自分の机の上に浮かんでいる論文データのホログラフィーを指差した。
「ああ、これです。すみません」
勇一松頼斗は春木の椅子に座ると、その立体画像の文書に目を凝らした。そのまま、その立体画像に触れて、頁を最後までまとめて捲ると、声を裏返した。
「やだ。何よコレ。五百二十頁もあるじゃない。私を殺す気?」
山野紀子は自分のパソコンの上のホログラフィーに顔を近づけたまま、勇一松の方を軽く指差した。
「数式の箇所とデータ資料の部分を除けば、そんなに無いでしょ。ややこしい所はいいから、全体的に肯定か否定か、大まかな論拠、それだけが分かればいいの。いいわね」
この論文データに山野がまだ目を通していないと思っていた春木陽香は、山野の口から論文の全体像が語られたので少し驚いた顔で山野を見ていた。春木の席からは見えていなかったが、山野紀子の机の上のホログラフィーの横には開封済みの小さな封筒を模したアイコン・ホログラフィーが浮かんでいた。それは春木が山野のパソコンに転送した、その論文データのコピーだった。山野紀子は仮原稿ではなく春木が送った論文データに目を通していたのだ。ということは、次号分の仮原稿のチェックは終えているに違いない。春木陽香は、ただ雑談に浸っていた自分を少し恥ずかしく思うと同時に、いくつもの事を並行して手際よくこなす山野に感心した。上司として、先輩記者としてだけではなく、女としても敬意を持った。それは憧れに近い感覚だった。
春木陽香は立ったまま、口を尖らせて一人でコクリコクリと何度も頷いていた。
一方、勇一松頼斗は春木の椅子の上でガックリと項垂れていた。
「そんな……ヌードの打ち合わせが……」
「つべこべ言わずに、さっさとやる!」
山野紀子が低い声で怒鳴った。
勇一松頼斗は姿勢を正して敬礼する。
「はい。やります。すぐ読みます」
「すみません」
後ろから申し訳ない様子で謝った春木に、勇一松頼斗がパタパタと手を振りながら言った。
「いいから、あんたはそっちの記事を書いてなさい。ええと、これは……ちょっと集中しないといけないわ。――ああ、もう、ツイてない!」
勇一松頼斗はカーボーイハットを外して隣の机の上に放り投げると、真剣な顔でその論文データを読み始めた。
春木陽香は急須が乗ったお盆を持って、廊下の途中にある給湯室へと走っていった。
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