ピアノの地縛霊は今日も間違っている

青によし

第1章①

 頭に直接響いてくるかのようなピアノの音に、俺は足を止めた。ピアノは遠くに置かれている。それなのに、まるで目の前で鳴っているみたいだった。

「またこの曲か」

 大学の最寄り駅にはストリートピアノが設置されている。俺が帰る時間には、いつも誰かによってこの曲が弾かれていた。七十年代の洋楽、現在二十歳の俺でも知ってる有名な曲だ。

 音の主はとても上手いのだが、同じところでいつも間違えて不協和音を繰り出している。まるで楽譜がなくて、記憶を頼りに弾いているような、そんな印象を受けた。

 思わず足が音の方にむきかける。けれど、それに気付き慌ててホームへと向かった。

 そう、俺はもうピアノとは関わらないと決めたのだから。



「そこの音、違ってます」

 俺はピアノの前に立ち、鍵盤に手を伸ばしかけていた。

 さっきの決意は何、と問わないで欲しい。自分でも分からないのだ。無視して電車に乗ろうと思ったはずなのに。何故か気が付いたらピアノの目の前に来ていたのだ。

 ピアノを弾いていた人は、目をまん丸に開いて驚いている。年は同じくらいか、少し上だろうか。日に焼けてない肌は白く、長いまつげに縁取られた瞳は綺麗なアーモンド型をしている。真っ直ぐな黒髪が背中まで伸びていて、洋装をした日本人形のような美人だった。

「あ……その、急にでしゃばってすいません」

 急に冷静になった俺は、恥ずかしくなってすぐに出しかけた手を引っ込めた。

「君、分かるの?」

 首を傾げながら、女の人が尋ねてくる。

「その、昔ピアノを習っていたので」

「…………聞こえるんだ」

 女の人は口に手を当てて、さらに目を見開いた。

 確かに昼間の駅中だから騒音も多い。だけど、ピアノの音が掻き消されるほどじゃない。聞こえて当然だ。それなのに、どうしてこんなに驚いたような反応をするのだろうか。

「普通に聞こえましたけど」

「ふうん、そっか。じゃあさ、君はこの曲弾けるの?」

 そりゃ、こんな風に声をかけられたら弾けると思うだろう。だが、正直なところ俺は弾いたことはない。でも、弾いたことはないけれど有名な曲だからメロディーは知っているし、コードも弾けば恐らく分かる。適当に弾ききるのは出来るだろう。

「ええと、その、ざっくりとなら」

「じゃあ弾いてみてよ!」

 キラキラとした瞳で見つめられた。

「いや、俺はもうピアノは辞めたので」

「でも今鍵盤に手を出そうとしたもの。弾きたかったんでしょ」

「弾きたかったわけじゃなくて、その、いつもいつも、同じ場所で間違えてる音が聞こえるので気になってただけです」

「何それ、前から気付いてたの? ならもっと早く声かけてよ。恥ずかしいじゃない!」

 女の人がぷくっと頬を膨らませて見上げてくる。かなり機嫌を損ねたらしい。

 二度とピアノは弾かないつもりだったのに。改めてピアノを弾く、と考える。どうせ俺が弾いてもつまらないものになるだけだ。そう思うとやはり弾こうという気分になれない。

「君、そんな深刻に考えないでよ。大観衆がいるわけでもないんだから」

 女の人がけらけらと笑った。その明るい声に、ふっと体が軽くなる。

 辺りを見渡すと、誰もこちらを気にしてなどいない。このストリートピアノは駅構内の一番奥の出口付近に邪魔にならないようひっそりと置いてある。メインのコンコースに比べると当たり前だが通行人は少なく、歩いている人にとってもここはただの通路に過ぎない。足早に歩いていくだけだ。

 冷静になって考えれば、みんな自分のことで忙しいのだから、俺のことなんてわざわざ見ようと思う人などいないと分かる。この状況でかたくなに拒否すると、逆に自意識過剰な奴みたいではないか。それはそれで何かこっぱずかしい気がした。別に俺の演奏がつまらなかろうと誰も知ったことじゃないだろう。

「うろ覚えだから、間違えても怒らないでくださいよ」

 予防線を張りながら俺はしぶしぶ弾くことを了承する。

 やったぁと喜びながら女の人は立ち上がり、俺に椅子を譲った。

 久しぶりのピアノだ。ゆっくりと椅子に座る。ピアノの椅子の独特な軋む音、差し出した足でペダルの感触をそっと確かめた。両手を鍵盤の上に置き、一音鳴らす。鍵盤の重さが離れていた時間を感じさせる。

 小さく息を吐く。そして新たな空気を吸い、俺は弾き始めた。懐かしいメロディー、俺にとっては生まれてさえいない時代に生まれた曲。だけど、心にしみるような素朴な響き。

 指は当然のごとく動きは鈍い。思うように回らない。もどかしい気持ちと共に、慣れ親しんだ重苦しい感情が蘇りそうになる。

 俺は頭を振って曲に専念しようとした。すると、それを後押しするかのように、女の人が曲の歌詞を口ずさみ始めたのだ。ピアノの音と混じり合い、穏やかでノスタルジックな空気が満ちていく。泣きたくなるような懐かしさに支配され、気が付いたら曲は終わっていた。

「君、すごいのね。とっても素敵だったわ。ピアノ辞めただなんてもったいない」

「ははっ、まぁ大学の勉強もありますからね。今さらピアノを弾いてる時間はないですよ」

 俺は当たり障りなくよく言われるお節介な言葉をかわす。

 女の人は納得いかない様子だったが、俺が左手でハモりの旋律を弾くとそっちに意識が向いたようだ。

「あ、ここね。私が間違っていたところって」

 そう言って俺の左手の一オクターブ上に手を置いた。高い音で彼女の奏でる旋律が流れる。

 これで間違いは正した。不用意に声をかけてしまった責任もこれで取れただろう。だからもう帰ろうと思い、椅子から立ち上がる。

「待って」

 女の人が慌てたように両手を伸ばしてきた。だが掴まれると思った瞬間、とっさに身構えるも何の感触も襲ってこない。

「え……今の、何です?」

 すり抜けた? まさか、そんなことが起こりえるのか? 俺は呆然と女の人を見た。

「やっぱ会話できても、掴めはしないのね」

 女の人は肩をすくめて笑っている。いや、笑い事じゃないだろう。すり抜けるって、つまり、それは実体がないということで……。

「も、もしかしてなんですけど、生きてなかったりします?」

 バカなことを言っていると分かっている。久しぶりにピアノを弾いたから、精神が混乱しているだけかもしれない。むしろそうであってくれ!

「うん、そうだよ。私、このピアノにとらわれている地縛霊なの」

 躊躇いもなく彼女は言った。怖いくらいの満面の笑みを浮かべて。

 その笑みを見た瞬間、俺は脱兎のごとく逃げ出したのだった。

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