第3話 アネモネ(三日目・朝)
週明けの朝——。前期が始まってはや一週間。オンデマンドの講義が次々と対面に切り替わり、家にいる時間が大幅に減少した。死ぬほどしんどい。一コマが九十分は長すぎる。どれも専門的な分野ばかりで嫌になる。オンデマンドなら二倍速で聞き流せる教授の無駄話も対面の場合は一倍速で聞かないといけない。眠気との戦いはもうウンザリだ。
改札口を抜け、とぼとぼとバス停へと向かう。月曜日の朝は心底、憂鬱。体が重すぎて、匍匐前進しそう。立つのがやっとだ。
「——おっ、ラッキー」
バスへ乗車すると、中はすっからかん。座りたい放題だ。
俺は後列の窓側の席を選んだ。
今日は天気がいい。足元に朝陽が差し込む。
「——隣、いい?」
「——?」
ぼんやり窓の外を眺めていると、耳元で聞き覚えのある女性の声が聞こえる。横を見ると、笑顔で手を振るあのギャルが座っていた。
「おはよう、優クン。また一緒だね」
「う、うん……」
今朝の服装はやけに大人し目。上半身は清涼感のある白シャツの上に丈の長いトレンチコート。下は脚線美が際立つ細身のジーンズ。シンプルだが、知的でクールな女性を演じる。一体、どういう心境の変化だ。
「この前、優悟クンに厚着にした方がいいって言われたから土日に急いで買い揃えたんだけど、どう、かな?」
上目遣いで小首を傾げ、俺の反応を待つ。その仕草はズルい。
「い、いいと思う……」
「ホント⁉」
「うん」
俺的には先週までの派手な服装より、こっちの服装の方がドキッとする。肌の露出度は圧倒的に低いが、それが逆にいい。大学生でありながら大人の余裕と色気を感じ、大変セクシーだ。
「よかったァ。褒めてもらえた」
「——お、おぉ」
小さくガッツポーズ。いちいち仕草が可愛い。イライラするあざとさが全くない。
「もっと横に詰めて。ちゃんと座れないから」とギャルは俺の体に密着してくる。彼女の柔らかい太ももが自分の太ももに触れ、心臓が跳ね上がる。
童貞丸出しの俺は所在なさげに窓の外へ視線を戻す。他のことを考えて、高鳴る鼓動を抑える。
「——優クン」
「はひっ⁉」
「もぉ、ビックリし過ぎ~」
自分の世界に入ろうしたその時。突然、名前を呼ばれて無様に変な声を漏らす。
ギャルがそんな俺を見て楽しそうにケラケラと笑う。
「優クンは週末、何してたの?」
「週末か——」
頭の中で週末の出来事を思い返す。
「——家でゴロゴロしてたかな」
「つまんないね」
「うぐっ……」
意外とハッキリと物を言うタイプか。たった一言だが、かなりメンタルが傷ついた。
「そっちこそ週末は何してたんだ?」
「今さっき言ったでしょ? 買い物だって」
「あっ、そうか」
「優クンの好みに合うように頑張ったよ」
「そもそも俺の好みとか全然知らないだろ……」
まだ会って三日(土日を除いて)しか経っていないはず。自己紹介もまともにしていない状態で、俺の好みを当てるのは至難の業。ほぼ勘に近い。
「それはどうかな。実際、今日の服装はどストライクでしょ?」
「確かにそうだけど……」
俺はとにかくクールで、足の長い女性が好み(脚フェチ)。ヒールの高い靴を履いているとなお、良し。ちなみに彼女の今日の服装はバッチリだ。非の打ち所がない。降参です。
「——うふっ♡」
顔を赤くさせる俺を見て、ギャルが突然ニヤッと笑う。胸の部分が開けた白シャツ。ボタンを一つ、二つと外し、白い谷間が顔を出す。
「ああ、急に熱くなってきちゃったァ」
「——んんんんんんんん~⁉」
俺は声にならない叫びを上げる。なんとか視界に入らないよう窓の外へ首を固定する。
「ん、どした? 外に面白いものでも見えんの?」
ボフッと腕に柔らかい感触。外を見るフリをして、自慢の胸をグイグイ当ててきやがった。
「ぎゃあアアア‼」
俺はとうとう我慢できず、本当の悲鳴を上げる。周りの皆さん。ホント、すみません。
「こら、バスでは大人しくしないと、メッだよ」
「その言葉、そっくりそのままそちらにお返します。今後、こういう激しいスキンシップはお控えください」
「これぐらいのスキンシップは男からすれば、普通なんでしょ?」
「全然、普通じゃない。付き合ってもない異性に胸を押し付けるのは禁止。貞操観念がバグってる。一体、誰の入れ知恵だよ」
「私の彼氏」
「その彼氏と今すぐ別れろ。きっと、ろくでもない」
そう云えば先日、その彼氏から暴力を受けていると不満を漏らしていた。どうして、未だにそんな奴と付き合っているんだか、理解しかねる。
『——まもなくバスが発車します。揺れにご注意ください』
やっと発車時刻を迎える。無機質なアナウンスが変な空気をリセットしてくれた。
「そういや、私の自己紹介まだだよね?」
「うん」
脳内で彼女をずっと『ギャル』と呼んでいた。できれば、早く名前を教えて欲しい。
「——別に本名じゃなくてもいい?」
「ん?」
「本名を言うのはまだ、恥ずかしいから……」
「別に構わないけど」
ギャルの顔が少し赤くなる。ひょっとして、人に言えないぐらいのキラキラネームだったり?
「じゃ、俺はなんて呼べばいい?」
「——アネモネ」
「アネ、モネ——?」
「そう、私のことは『アネモネ』って呼んで。お願い」
「えっと……」
なんか語呂が悪くて、呼びにくい。もう少し可愛らしくて、分かりやすいニックネームかと予想していた。
「どうして、その名前を?」
「私の大好きなお花だから、かな」
どうやら、『アネモネ』とは花の種類らしい。スマホで検索をかけると、赤、青、 紫と色鮮やかな花束の画像が出てくる。素人目でも分かる美しい花だ。
「好きすぎて、背中にタトゥー入れてるんだ」
背中のタトゥーを見せるためだろう。トレンチコートを脱ぎ、白シャツを上に上げる。
「わっ、ちょっと——‼」
俺は反射的に目を瞑る。女性の背中を見るのは、なんかいかがわしい。
「ほら」
「——」
「ちゃんと見て」
「——ハイ」
たまたま、後ろの席に人がいなくて助かった。危うく、変態カップルだと通報されるところだった。
俺は恐る恐る、目を開ける。
「——タトゥー、だ」
ぼやけた視界に映る黒い線。透明肌の背中で異彩を放つ、それ。スマホで見た『アネモネ』と同じ形をした絵が克明と描かれている。
「綺麗でしょ?」
「綺麗かどうかよりも、その歳でタトゥーがあることにびっくりしてる」
「そりゃそうか、みんな普通タトゥーなんて掘らないよね。アハハ」
乾いた笑い。恥じらいつつ、白シャツを着直す。
「——幻滅、した?」
「何が?」
「こんな私、イヤだ?」
「イヤというか、なんというか」
まるで恋する乙女。熱を帯びた眼差しでこちらの返答を待つ。
「趣味嗜好は人それぞれだし、別にいいんじゃない? 俺はタトゥーがあるからってアネモネさんのことを嫌ったり、避けたりとかはしないよ」
我ながらキザな台詞を吐きよる。咄嗟に出た言葉にしては上出来かな。
「そ、そうなんだ——。嬉しい」
俺の言葉を聞いて、顔が綻ぶ。三日月の目で、喜びを露わにする。
『——次は○○大学、○○大学~。終点です』
時の流れは早い。もう大学に到着だ。前の席に座る乗客はゴソゴソと荷物をまとめ始める。
「あの、名前についてなんだけど——」
「ん、なに?」
「『アネモネ』を短くして『モネさん』って呼んでいい?」
「どうして?」
「ちょっと言いにくいから」
「——」
暫く神妙な面持ちで考える素振りを見せる。そして、出た答えが——、
「いいよ。モネで——」
今日もモネさんは俺を置いて、一目散にバスを降りていった。
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