第14話
アリアはゆっくりと目を閉じた。再び目を開いた時、その目は下を向いていた。
「そのあと、両親がいなくなった」
アリアの言葉が流れていた時間を切り落とした。いなくなった? 両親が? ぼくは黙ったまま次の言葉を待った。
「ね、レイトの両親はまだいる?」
アリアが再びぼくの方を見て言った。いるよ、と答えかけたけれど、本当か? と自問した。最後に両親に会ったのはいつだっただろうか。それはイマースモードだったのかエクステンドモードだったのか、ぼくは答えられるだろうか。
「最初はゲームだったのよ。シオンズゲイトっていうゲーム。ただ新しいゲームが届いたって感じだった。でもこれ、どこまでがゲーム?」
ぼくはアリアの言葉をまだ完全には理解できていないのに背中から体温が下がっていくのを感じた。
「イマースモードがあってエクステンドモードがあるよね。でも向こう側とこちら側の差はあまりない。向こう側とかこちら側っていう感覚はあるけどさ、どこが向こうでこっちなのかわからなくなってくるのよ」
アリアはゴーグルを外した。
「これ。このゴーグルだけが差なの。ゴーグルをかけてゴーグル越しにやるとエクステンドモード。イマースするとイマースモードで、イマースした先にはゴーグルがない。イマースモードでも家は同じ姿であったし、お父さんもお母さんもいた。でも一度イマースすると戻ってくる方法がわからない。わからないままいつの間にか戻ってきてる。戻ってきたことはこれの存在でわかる」
アリアはそう言って手にしたゴーグルをぼくに見せる。
「じゃあもし、イマースした世界にゴーグルがあったら? そんなこと簡単にできるでしょ。イマースモードならなんだって可能だもの。これと同じものをイマースした世界に出すことは簡単にできる。そうしたら私はもう自分がどこにいるのかわからないよね。ときどき目覚めるのよ。そのベッドで。そんなときはたいていいつ寝たか思い出せないの。目覚めるといつもゴーグルのある世界にいる。でもそれは世界を行き来してるのか、ゴーグルだけが現れたり消えたりしてるのか、あたしにはわからない。気づいたらしばらく両親に会ってないのよ。イマースとかそうじゃないとか関係なくて、会ってない。会おうと思うんだけど会えないの。いつ帰ってきても両親はいないし、ぜったいいるような時間帯にはあたしが家にいない。いるのかもしれないけど気づいたらいつも朝で、前の晩の記憶はないの」
アリアはそこまで言い終えてぼくの目を射抜いた。
「あたしの両親はいなくなった。あたしの世界から。お母さんやお父さんの世界にあたしはいて、会っているかもしれない。でもあたしはそれを覚えてない。あたしの世界はあたしの記憶でできてる。だからあたしの記憶にないものはあたしの世界には存在しない」
ぼくはアリアの目に吸い込まれたまま凍りついた。答えるべき言葉は見つかった。
「ぼくの両親も、きっといなくなったよ」
おそらくぼくは気づいていたんだ。今言われるまで自分の中で言葉にしていなかっただけで、きっとわかっていた。そう感じた。
「最後にいつ会ったか思い出せない。しばらく会ってないんだ。正確には会った記憶が無くなってる」
ぼくはアリアに向かって話しながら自分でも確認した。
「だけどぼくの場合は少し違うんだ。イマースモードとエクステンドモードはもう少しはっきり違う。ぼくの住んでるところはみらいって町の住宅街だけど、みらいの町の半分は超高層ビルが立ち並ぶビル街なんだ。そこは現実の世界では人がぜんぜんいなくてもぬけの殻。列車は一日に何本かしか走ってないし、歩いてもほとんど人なんかいない。でもイマースモードでそこへ行くと人が溢れてるんだ。だから町の様子で今自分がどちらにいるのかはわかる。ぼくはあのイマースモードはかなり昔の世界なんじゃないかと思ったよ。でも昔の世界そのままじゃなくて、あの町にそんなに人がいたころにはぼくが住んでる家はなかったはずなんだけど、イマースモードでも家はまったく同じ状態であった」
「過去」とアリアは確かめるように言った。
「イマースモードが過去っていうのは思ったことなかったな。この辺りは昔からそんなに人が多くなったことはないの。世界中の人口がどんどん減っていってもちろんこの辺の人口も少し減ったけどさ、もともと少なかったからほとんど差がないのよね。町の様子も長いことほとんど変わってないし」
通信の発達とエネルギー革命、人工知能とロボティクスによる労働革命、そして多様性の拡大による少子化などが相次いで起こり、人口の減少と地方都市への拡散が同時多発的に起こった。そのためメガロポリスでは極端な人口減少が起きたけれど、逆に地方都市では過疎化に歯止めがかかる結果になった。もともと大規模な建築もなく巨大な人口も抱えていなかった町はそう大きく姿を変えることもなかった。大都市のなれの果てで暮らしているぼくともともと人口密度の低いこの町で暮らしているアリアでは見ている世界がぜんぜん違うのだということをぼくは改めて知った。
「他のプレイヤーの子と話して、両親に会えなくなったことに気づいて、それからイマースモードはやってないんだ。あたしはイマースせずに、このシオンズゲイトっていうゲームがいったいなんなのかを考えてた。今朝ゴーグルをつけたらエクステンドモードのミッションが届いて、それであさひかわの駅へ行ってレイトに出会ったのよ。イマースモードに入らなくてももう元には戻れない。ゲイトはあたしたちを導こうとしてる」
アリアはそう言ってぼくの方を見て微笑んだ。
「はこねでプレイヤーに会ったのは偶然か必然かよくわからないけど、レイトと会うことはミッションに決められてた。友を救え、って。だからあたしとレイトが出会うことはシオンズゲイトのシナリオにあったのよきっと」
「この先は協力して進めっていうことなのかな」
「わからない。それも含めて試されてるような気もするわね。それで、レイトの意見を聞きたい。これからどうするか」
「これからどうするか」ぼくは受け取った言葉を繰り返した。どうするか、そこにはどのぐらい選択肢があるのだろう。アリアとぼくの受けたミッションは異なっていた。それはエリアが違うからだ。同じエリアで一緒にいたら同じミッションを二人で進められるのだろうか。
「なにか飲み物でも持ってくるよ」
ぼくが黙っているとアリアはそう言ってゴーグルを机の上に置き、部屋を出て行った。アリアの足音が階段をおりて遠ざかっていく。ぼくは深く息を吸い込んで部屋の中を見回した。アリアの部屋はよく言えばシンプル、悪く言えば殺風景だった。なにもない。机の上にはゴーグルが乗っているだけで他にはなにもないし、家具と呼べそうなものもその机とぼくが今腰かけているベッド以外ない。壁にクローゼットらしき扉はあるけれど閉ざされている。アリアの趣向を感じさせるものはなにもない。逆にこのなにもないという状態がアリアのパーソナルを表しているような気もした。
ぼくはベッドの足元側にたたまれている布団と、枕の横にたたまれているパジャマを見比べた。たたんではあるけれどそれほど几帳面な感じではない。ぼくはアリアの気配を濃密に残すその布団やパジャマから熱のようなものを感じた。
階下から足音が近づいてくる。アリアが戻ってくる前にぼくはもう一度深く息を吸った。最初にこの部屋へ入ってきたときほどは匂いを感じなかった。ここに座っている間にアリアの匂いがぼくを内側から染めていくようだった。ぼくは自分がアリアに好意を感じているのかどうかよくわからなかった。少なくともアリアを好きだという感情は今のところないし、そもそもまだ好きだと思うほど知らない。ただアリアとこの部屋が持っている匂いは好きだった。ずっとこの匂いに包まれていたいという感覚はあった。
「おまたせ。はい、アイスコーヒー。近所のちゃんとしたコーヒー屋さんで買ってきてるやつだからおいしいよ」
アリアは氷の入ったアイスコーヒーにストローを立てたものを二つ、左右の手に一つずつ持って上がってきてその一つをぼくに手渡した。グラスの表面には水滴がつき、水滴は重力に引かれて他の水滴と融合しながら下へ下へと滴っている。グラスを離したアリアの手も掌が濡れていた。アリアはそれを気にする様子もなく机の向こうへ回って行った。アリアがグラスを机に置くとグラスの表面で集まった水滴が滑り降りて机との境界に集まっていく。ぼくの受け取ったグラスからも水滴が滴り落ちてぼくの膝を濡らした。落ちた水滴がぼくの膝でズボンの明度を下げながら広がっていく。少しして水滴の冷たさが膝に伝わってきた。
「ありがとう」
ぼくはそう言ってストローに唇を寄せた。コーヒーの香りが入ってきてぼくの頭蓋骨を満たしていたアリアの匂いを散らしていく。ぼくはアイスコーヒーを吸った。口の中に冷たい液体が流れ込み、半拍遅れて香りが口腔を満たす。口の中を一巡りさせた後で飲み込むと胃壁に浸透していくのがわかるような気がした。ブラックのアイスコーヒーというものをぼくは今初めて飲んだ。こんなにもおいしいものなのかと思った。もう一口飲む。最初ほどの感動はなくなった。コーヒーというのは苦いものだと思っていたけれど、この味を苦いと表現するのは違うような気がした。コーヒーそれ自体は苦いのとは違うなにか淡い味を持った飲み物だ。たいしてうまいものではない。しかし飲み下した後に喜びが訪れる。口の中に置いて味を楽しむのではなく通り過ぎた後を楽しむものだということがすぐにわかった。ぼくは次の一口をあっさり飲み込んで後に残った余韻を味わう。目を閉じた。コーヒーが過ぎ去って香りが残る。その香りはゆっくりと時間をかけて広がりながら薄まっていく。香りが去っていったところで鼻から息を吸うとアリアの匂いがぼくを満たしていく。コーヒーの香りは口の中に満ちるけれど、アリアの匂いは脳を満たしていくような感じがした。
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