第12話

 アリアは二階建ての家屋の前に車を停めた。

「ついた」と言ってアリアは車から降りた。ぼくも反対側から降りる。降りて車の横に立つと周囲を見回した。家を囲うようにして砂利のスペースがかなり広くある。この家の敷地という意味では庭なのだろうけれど、庭というよりは駐車場のようだった。隣の家は一応肉眼で見えるところに建っているけれど、もやはそれを隣と呼ぶことには抵抗があるという距離感だ。広大な平地の中にところどころ木が集まっているところがある。防風林か防雪林かそういった種類のものだろう。地平線は山で縁取られていて、その尾根の上は全部空だった。巨大な空のドームに包まれているようだ。普段超高層の上に見ている空と一続きのものだとは信じられないほど高い空だった。


 ぼくが無言で周りを見ている間、アリアはぼくを見ていた。周囲を一巡り見終えてぼくの目がアリアを捉えた。

「いい、ところだね」

 声に出してしまってからもう少し気のきいた言葉を言えたらいいのに、と思った。

「なんもないけどね」と言って扉をひらいたアリアが「どうぞ」と促した。ぼくは玄関の前でためらって立ち止まり、扉を支えているアリアを見た。アリアは少し首を傾けてもう一度促した。緊張がどこからかわいてきて全身に広がっていくのを感じた。ぼくはこれまでほとんど友達の家に行ったことがなかった。そもそもぼくには家に遊びに行くほど親しい友達というのがいない。小学校に上がる前に母さんに連れられて同級生の家に行ったことはある。でもそれはぼくの友達ではなく、母さんの友達の子どもがたまたま自分の同級生だったというだけだった。


 アリアが友達なのかどうかまだぼくにはわからなかった。アリアはミッションの文言だけを根拠に今初めて会ったけど友だと言った。どこまで本気かわからないけれど、アリアはぼくを家に誘うことになんの抵抗もない様子だった。


 ぼくは意を決して玄関へ踏み込んだ。女の子の家なんてほとんど禁忌みたいなもので、ぼくはなんだかものすごく悪いことをしているような気分だった。一歩足を踏み入れたとたんにこの家の匂いがぼくを包みこんだ。息が止まりそうになった。この家が積んできた時間がぼくを塗りつぶそうとしている。きっと完全に塗りつぶされたとき、この匂いは感じられなくなるのだ。ぼくのすぐあとからアリアが入ってきて扉を閉めた。アリアはぼくの横をすり抜けて前へ出る。アリアの肩がぼくに触れ、髪がぼくの前で揺れる。家に立ち込めていた匂いとは違うアリアの匂いがぼくを包み込んだ。頭蓋骨の中がアリアの匂いで満たされたような気がした。ぼくはほとんど無意識に深く息を吸い込んだ。家の匂いにはなじめなかったけれどアリアの匂いは心地よかった。


 アリアは少しかがんで靴を脱ぎ、家に上がった。そのまま部屋へ入って行こうとして振り返ると「どうぞ、上がって」と言った。


 アリアの家は一階に大きな居間があり、居間の中に二階へ続く階段があった。アリアは居間を通って二階へと上っていく。ぼくは初めて入る女の子の家に緊張しているのにアリアに緊張は見られない。アリアにとってこうやって男の子がやってくることは珍しいことではないのかもしれない。そう思うとぼくはなぜだか胸のあたりがざわざわと熱くなるような気がした。


 ぼくは居間にさっと視線を走らせてアリアの背中を追った。居間はきれいに片付いていて誰もいなかった。

「家の人はいないの?」とぼくが聞くと、アリアはただ「うん」とだけ答えて振り返りもせずにそのまま階段を上っていく。


 それだけ? と思ったけれどほかに何を聞きたいのかよくわからなくて黙っていた。


 二階には三つの扉があって三つとも閉まっていた。アリアはその中の一つを開けて入っていく。ぼくは部屋の入口で立ち止まった。奥の壁に窓が切られていて、その窓を背にするように机が置いてある。机の上にはゴーグルが置いてあった。ぼくは思わず自分のゴーグルに手をやって自分がゴーグルを身に着けていることを確認した。アリアはゴーグルをここに置いたままぼくを迎えに来たのだ。ゴーグルなしで外出するなんてぼくにはちょっと考えられないことだった。ぼくはゴーグルから目をはなして視線を進める。部屋の入口から右手にはベッドがあった。布団はベッドの上で足元にたたまれている。枕にはバスタオルがかけてあり、その横には軽くたたまれたパジャマが置いてある。シーツは中央がよれていて、今朝までここに誰かが寝ていたという事実を伝えていた。この家に入ってきて目にしたものでもっとも生活感があるのがこのベッドだった。ぼくはベッドに残るアリアの気配に溶かされそうになった。


 アリアは机の前に立ってゴーグルを身に着けた。アリアのゴーグルはぼくのものよりも軽そうだった。

「入っていいよ」

 アリアはゴーグルの向こうからぼくを見て言った。ぼくはもとよりアリアを追って入るつもりだったのに、意思と関係なく足が止まったのだ。家に入ってしまえばあとはもう平気だと思っていたのに、アリアの気配に満たされたその部屋に入るのはこの家に入ったとき以上の罪悪感があった。ぼくは足元を見る。ぼくが立っている部分と部屋の中は床の色が違った。こちら側は鳶色で、アリアの部屋は乳白色だった。二つの色が並んでその境界に線を生み出していた。この線を越えたらぼくはアリアの世界に入ってしまう。それは同時にぼくの世界にアリアを入れることでもあると感じた。そうなればもう、アリアのいない世界には戻れないような気がした。ぼくが視線を上げるとアリアは変わらずぼくの方を見ていた。二人の視線が交わる。ぼくはまっすぐアリアの目を見る。アリアもぼくの目を見ている。アリアの目は見ていても見られていても怖くなかった。ぼくは少し微笑むと、そんな自分に驚きながらアリアの部屋へ入った。

「そこらへんに座って」

 そう言ってアリアはベッドを指さした。ぼくの視線はアリアの指を追ってベッドにたどり着き、跳ね返るようにアリアの顔へ戻った。アリアは促すように眉を上げた。ぼくはもう一度ベッドを見る。今朝までアリアを包み込んでいたはずのベッドはその名残をあちこちに残している。そこに座ったらきっとぼくは全身をアリアの色で塗りつぶされてしまうだろう。それはとても気持ちのいいことかもしれない。そしてきっと取り返しのつかないことだ。


 ぼくはベッドの前に立ち、はっきりとはわからないなにかを決意して長辺の中央付近に腰を下ろした。マットレスがぼくの体重を受け止めて沈み込む。同時にぼくはアリアの気配に抱きすくめられた。目を閉じて深呼吸をする。ぼくは着ている服の内側で自分の皮膚を意識した。衣服を突き抜け、皮膚の境界も溶かしながらアリアの気配が染み込んでくる。目を開くとアリアはぼくを見ていた。ぼくは自分の境界が曖昧ににじみ、水の中に垂らした水彩絵具のようにアリアの部屋の中へ漂い出ていくのを感じた。不思議と心地よかった。アリアと目が合っている。アリアは強い目をしている。その目の奥にあるのは意志だ。ぼくの視線はアリアの意志に捕まって動けなくなる。そこから感じるのは威圧や恐怖ではなく、安心だった。こんな人に会ったのは初めてだ、ぼくはもう一度そう思った。

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