シオンズゲイト -zion's gate-

涼雨 零音

序章

 この町は大昔からみらいだ。みらいっていうのは永遠とほとんど同じもので、それはつまり退屈ってことだ。この町はみらいという名前を付けられたとき、永遠の退屈に閉じ込められた。もう少しなにかちがう名前をつけていたらどうなっていただろう。学校からの帰り道、坂道からみらいの町を眺めるとき、ぼくはいつもそんなことを考える。町の名前を思うとき、自分の名前のことも考える。ぼくに与えられたのはレイトという名前だ。名前には名付けた者の期待が宿っている。期待のこもった名前は呪いのようなもので、名付けられた側にはいい迷惑でしかない。名前なんてただのラベルだっていう見方もあるだろうけれど、それでも生まれたときから呼ばれ続けるその名前が明るい響きなのかしめっぽいのかで生き方さえ左右されてしまうってことはあるんだ。町がもっと違う名前だったら、ぼくがもっと違う名前だったら、どんな風だったろう。名前に縛られた頭でいくら考えても、それは想像することさえ難しかった。


 ゆっくりと歩みを止める。ぼくが止まると世界が動き出す。後ろから歩いてきた同じ学校の生徒たちがそれぞれに談笑しながら傍らを通り過ぎていく。立ち止まっているぼくなど存在しないみたいに。おれなんて五回でプラチナレア手に入れたぞ、ムラオカの試験範囲どこまでだっけ、なにそれマジキモくない、きのうのトクラ見た、ユナほんとに高校いくの、とりあえずだよとりあえず、ばっかそんなんじゃねえよ、 、 、


 通り過ぎる生徒たちはぼくの耳に会話の断片をこぼし、少し遅れて引き波みたいにその残り滓を連れ去っていく。笑いあう生徒たちはそれぞれが共通の話題でつながっている。この町にのっぺりと塗り込められた退屈に抗うには話題が必要だ。共通の話題を提供するためにゲームが作られ、プロスポーツが配信され、あらゆるエンターテイメントが用意されている。こうしてわざわざ学校へ集まるのだってそうだ。自分の部屋から一歩も出ずに授業や試験を受けることはいくらでもできる。それなのに登校や定期考査が未だになくならないのは、同じ時間を他の生徒たちと共有することで話題が生まれるからだ。定期考査がどのぐらい話題を提供するのか考えてみれば、その存在意義は明らかだ。


 ぼくは生徒の一群が去っていくのを見送ったあと、空気の向こうにかすんでいる町を眺めた。


 大昔の人々がこの町にみらいという名前をつけ、狂ったように背の高い建造物を建てた。ビル群のそばにある巨大なホイールは時計だったという。どんな小さな機械にだって入っている時計をあんなにばかでかい物にしなきゃならなかった理由はちょっとわからない。ましてあの時計には人が乗るゴンドラもついていたのだ。正気とは思えない。町から人が去った今、ゴンドラは取り除かれ、時計の機能も停止してホイールだけがある。ただ、ある。


 数百メートルもの高さのビルには数メートルおきに床がある。そのたくさんの床を持ったビルが何棟もある。人が増えすぎて地面が足りなくなったから海を埋め立てて地面を作り、その上におびただしい床を持った超高層ビルを建てる。かつてはそのありあまる床に気が遠くなるほどの人がひしめき合っていた。それは養蜂の巣礎すそみたいな感じだろう。たくさんの床を詰め込んだ高層ビルはさながら巣脾すひだ。それが何棟もある。そこに集められた途方もない数の人々がミツバチのように働き、集めた蜜はごっそり奪われる。ミツバチは奪われたことにも気づかず、またせっせと集め続ける。


 ぼくはビル群から視線をはなして空を見上げた。青い空に残月のようにうっすらと白い影が見えている。衛星軌道にある居住空間。オービタルステーション。高層ビルから人はいなくなったけれど、あそこには今も人が住んでいるという。でもぼくはそこに住む人を見たことがないし、ステーション自体も白い影としてしか見たことはない。あれがオービタルステーションと呼ばれる場所で人が住んでいるんだと聞いたことがあるだけだ。そんなものは存在しないのと差がない。今じゃ歴史の教科書に載っているだけのそんな話を聞かされても、文明の滅んだ星にやってきた宇宙人みたいな気分になるだけだ。むかしむかしあるところで桃から男の子が生まれたっていうおとぎ話とほとんど変わらない。



 帰宅すると母さんは居間のソファで外出していた。ゴーグルと呼ばれる眼鏡型の端末が急速に普及したことで大人たちは家から出なくなった。ゴーグルにイマース没入モードで神経接続すると、その場から動かずに体験だけを得られる。居ながらにしてどこへでも行けるのだ。正確には情報として用意されている場所であればどこへでも。


 どこかに実在するものの情報と情報としてしか存在しないものが同じように知覚できるとき、その差はどこにあるのだろう。居間のソファに埋まっている母さんの行先は実在の場所のデータかもしれないし、架空の場所のデータかもしれない。そこにどんな差があるというのだ。口元に笑みを浮かべている母さんを横目にぼくは自分の部屋へ入った。


 模様のない布団を置いたベッドとほとんど何も乗っていない机だけがある見慣れた部屋に入り、バックパックを傍らに置くと大げさな背もたれと肘掛けのついた椅子に深く腰かけて深く息を吐く。プログラムされているみたいに毎日同じ動作だ。息をついたらエクステンド拡張モードのゴーグルをオフにして視界に出ている情報を非表示にする。机の上から立方体型のパズルを手に取って背もたれに体重を預ける。快適さを追求した椅子は座面を前方へスライドさせながら背もたれを傾け、ぼくの体重を完璧に支える。ストレスのかからない自然な姿勢に落ち着くようにできている。ぼくは快適さを確かめるように身体をよじってからパズルをこねくり始める。


 この立体パズルは大昔のどこかの学者が考えたものらしい。小さな立方体を一辺に3個ずつ並べた立方体のような形状で六つの面がそれぞれ別の色で着色されている。それぞれの面は小さな正方形9個で構成されていて、それが大きな立方体の面ごとに回転するようになっている。動かすとそれぞれの面を構成する小さな正方形の組み合わせが変化していき、6色のパネルが無秩序に散らばった状態になる。僕は毎日、家に帰ってくるとこのパズルを二分ぐらい適当にいじくりまわして無秩序を作り出し、そこから元の、各面に一色ずつ集めた秩序ある状態に戻す。もう日課のようになってしまっていて特に目的があってやっているわけじゃない。ただなんとなく、これをやると落ち着くからやっている。そんなところだ。ゴーグルをオフにして手で立体パズルに触れながらそのメカニカルな機構を感じる。パズルの動く音は耳に心地よい。たしかにそこに存在して手に触れることができ、物理的な構造によってこの複雑な動きが実現され、そのために動いている部品たちが小気味よい音を立てるこのパズルは、ぼくを身体をもった存在として地面につなぎとめておいてくれる最後の錨のように感じられた。


 ぼくは数分かけてパズルを元の状態にしてから机の上に戻し、ゴーグルを起動しなおした。エクステンドモードのゴーグルは通常の視界にさまざまな情報を表示する。情報はゴーグルのレンズに表示されているのに、まるでレンズなど存在せず空中に直接表示されているかのように知覚される。視神経から入ってくる情報を処理する脳を騙しているわけだ。対象までの距離を測ることができる脳の処理を逆手にとって実際とは違う距離にあると錯覚させる。人はそんな風にして自らの脳を騙すことを覚え、遂にはゴーグルのイマースモードなどというものを生み出した。イマースモードは脳神経に直接作用し、感覚器官をシミュレートした神経情報を直接脳に送り込む。脳はそれを実際の感覚器官からの情報だと錯覚して身体を操作しようとする。ゴーグルはその脳からの信号を横取りし、それを基にして脳にフィードバックを返す。こうして脳はどこにも存在しない世界をそこにあるものとして知覚し、その中で身体を動かしていると錯覚し、その結果として母さんは今のソファに沈んだまま世界のどこかへ出かけているわけだ。


 背もたれに背中を預けながら視界に展開される情報を眺めていると、視界の隅に新着情報の通知が点滅していた。「なんだ?」と誰に向けたわけでもない声がぼくから発せられた。ぼくはその通知の方へ目をやってまばたきをする。目の前の空間が立体的に回転して視界が別の空間に満たされる。ビル街の大きな道路の真ん中でこちらに背中を向けて立っている少年が表示された。片側三車線もある道路だけれど自動車は一台もいない。信号機も消灯している。少年の手前の空間で、白い文字が下から上に流れていく。


――――――――――――――――

あなたがひらく、あなただけの未来。新感覚のトランスワールド・ロールプレイング。エクステンドモードとイマースモードを行き来しながら、プレイヤーはひとりひとり異なる物語を体験します。あなたはあなたとして今その場所から冒険へと旅立ちます。あなたは降りかかる試練を超え、未来へとつながる扉にたどりつくことができるでしょうか。これはまったく新しい体験。まさに生きることそのものです。

――――――――――――――――


 文字は全体が視界に収まったところで流れるのをやめた。ぼくはたっぷり時間をかけて、最初から終わりまでを三回読んだ。

「これゲームなのか?」と小さくつぶやいた。それぞれ異なる物語だと書いてある。それが本当ならこのゲームは共通の話題になり得ない。どこまで進んだ? っていうような話ができないからだ。それにあなたがあなたとして、だとするとロールプレイングですらない。自分じゃない誰かになって冒険するからロールプレイなのであって、自分が自分のまま冒険するんじゃそれはただのリアルライフでしかない。なにがしたいんだこれは。そんな感想を抱きながらぼくはかえって興味が湧いた。こういうコンテンツのもっとも大きな目的は話題になることだ。話題にならなければ広まらない。このゲームはそういう常識的な発想とは違う方向を向いているようにぼくには思えた。


 画面に表示されていた説明文の色が薄くなって小さな粒子になった。その粒子がふわりと散り、同時に背景の景色、道路に少年が立っていたあれもフェードアウトする。入れ替わるようにしてタイトルが表示された。


――――――――――――――――

シオンズゲイト zion's gate

――――――――――――――――


 ぼくはタイトルを見つめて二回まばたきをした。「イマースモードに入ります。安全な場所で、安定した姿勢を確保してから進めてください」という音声が流れ、dive to zion's gateという文字がゆっくりと点滅し始めた。ぼくは椅子の上で肩と首を動かして按配を確認してから中央で点滅する文字を見つめてまばたきをした。ゴーグルが脳波と同調して部屋の気配が遠ざかる。背中を預けているはずの椅子さえも知覚の彼方へ薄らいでいった。

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