ユーリ~宇宙を飛んだ魔法使い

雪見桜

第1話

「ユーリ!」


 花畑の中央まで走っていったヴァレンチナはこちらを振り向き、彼の名を呼んだ。裾の長いスカートの端と彼女が両手に持ったバスケットが遅れて回転する。

 その顔は満面の笑みをたたえている。気に入ってもらえたようだとユーリは密かに胸をなで下ろした。


 統一ロシア帝国南西部。ユーリが生まれ育った村からほど近くにあるこの草原は、これと言って特徴のない草原であったが、この光景の中で育ってきたユーリにとっては是非ともヴァレンチナに見せておきたい光景であった。


 今は短い夏に備えて花々が一斉に開く季節で、草原には色とりどりの花がまるでその美しさを競うように咲き誇っていた。

 ヴァレンチナは空軍士官学校の二年後輩だ。彼女が入学したときから学年一の美少女として有名で、クラスメイト達――もちろんユーリも――がざわついたのを今でも覚えている。


 自分とは世界の違う女性ひとだと漠然と思っていたが、数ヶ月前のダンスパーティで偶然パートナーになったことが転機だった。

 少しずつ話をするようになり、そしてついに休暇に彼女を連れ出すことに成功したのだ。


 花畑のヴァレンチナはその場にしゃがみ込んで花を摘み、その見た目と香りを楽しんでいる。その姿はまるで花の妖精のようだとユーリは思った。思わず笑みがこぼれる。


「あーっ!」

 そんなヴァレンチナに見とれていると彼女が声を上げた。こちらを見て、すこし頬を膨らませている。何か気を悪くしたのだろうか?


 ヴァレンチナは少し離れた所にいたユーリの元まで歩いてきて、胸を軽く押した。

「私のこと、笑ったでしょ。花畑ではしゃぐみたいなんて、子供みたいだって!」

 怒らせてしまったとユーリはどきりとした。しかしそんな彼女の顔を見てからかっていたのだとすぐに気づいた。


「いや……」

 からかい返してやろうと思った。それで冷静さを装うためにつばを飲み込もうとしたのだが、口の中はすでにからからで飲み込めるものはなにもなかった。


 それでも言った。それは男としてのプライドか、年上としての意地か。

「君に見とれていたんだよ」


 その時、ユーリの心臓は新型爆裂魔法ほどの轟音で血液を全体に流し、その結果彼の顔は国旗よりも赤くなっていたが、ヴァレンチナはそれに気づかなかった。


 なぜなら、その言葉に彼女も狼狽し、顔を真っ赤にさせていたのだから。


 そのままお互い向き合いながらも目を合わせることができない状況が続いた。金縛りのような状況から先に逃れたのはヴァレンチナだった。彼女はぎこちない動きで持っていたバスケットに手を伸ばし、中からチェック柄の布を取りだして花畑の上に広げた。


「お、お弁当持ってきたの。ランチにしましょう」

 ヴァレンチナの声は緊張のためにうわずっていたのだが、ユーリにそれに気づくほどの余裕はなかった。


 ヴァレンチナが持ってきたのは手作りのサンドイッチだった。固めのパンに焼いた肉と卵焼き、それに申し訳程度の野菜が挟んであっただけであったが、それでもユーリにとっては今まで生きてきた中で最も豪勢なランチのように思えた。


「これをきみが?」

 その問いにヴァレンチナは恥ずかしそうに頷く。

「うん。おいしくないかもしれないけど、食べてみて」


 言われるまでもない。ユーリはバスケットの中のサンドイッチをひとつつまみ上げて口に運んだ。


「どう? まずくない?」


「まずくない?」と聞いてくるのが彼女らしいと思った。硬いパン、少し焦げた味のついていない肉、逆に半熟のままの卵焼き、しなしなのレタス、そして固まりで入っていたマスタード。お世辞にも美味ではなかったが、彼女が早起きしてくれたというその事実だけでユーリの胸は一杯になっていた。


「どう? ユーリ?」

 ヴァレンチナが感想を求めてくる。


「ユーリ? どうしたの?」

 待ってくれ。感想なら今言うから。とてもおいしいよ、と。


「ユーリ」

 そんなに急かさなくても、おれはいなくならないよ、とヴァレンチナに言おうとしたが、口が上手く動かない。


「ユーリ?」

 待ってくれ、何かがおかしい。おれは確か、故郷の花畑で……。


「ユーリ!」

 頭の中を彼女の声が響き渡る。いや、これは本当にヴァレンチナの声か? もっとこう……。


「ユーリ!」




「ユーリ!」

 怒鳴るような男性の野太い声で我に返った。彼の前でしゃがみ込み、腰に備え付けられた四個の箱のうちのひとつの調子を確認している軍服姿の男が怪訝な顔でこちらを見上げていた。


「どうした、ユーリ。体調でも悪いのか?」

「いや、何でもない。大丈夫だ」


 彼の名はゲルマン。空軍では一年後輩にあたるが座学も実技も優秀で、今回のミッションの大本命だと言われていた男だ。

 そのゲルマンが今こうしてユーリのサポートとしてこの場にいる。


 そう。この歴史的な挑戦に抜擢されたのは主席のゲルマンではなく、次席のユーリだったのだ。


 実力はあるが人柄に難があり、軍内部に敵の多いゲルマンよりも人当たりが良くて上層部に好かれているユーリこそが歴史的な偉業にふさわしいと周囲は噂していた。


 しかし、そうではないことをユーリは知っていた。


 一九六一年四月十二日。統一ロシア帝国ウリヤノフ朝、南西部に位置するバイコヌール地方。


 目の前に広がるこの草原はあの頃の草原とは異なる場所であったが、どこかあの故郷の草原に近い印象をユーリに与えていた。

(それであの時のことを思い出していたのか……)


 この見渡す限りの草原で今、ロシア空軍の手によって歴史的な実験が行われようとしている。


 今ユーリは通常の空軍のほかにさまざまな装置やケーブルが取り付けられている。その中で最も目を引くのは彼の腰回りに四個くくりつけられた大きな箱と彼の足元の周囲二メートルほどの草を刈り取って描かれた魔法陣。


 魔法。それは世界を形作る万物の法則。


 物が燃え、水が湧き上がるのはもちろん、太陽の輝きも、ものが下に落ちるのも全て魔法の力であることがわかっている。古来から人類は――人類だけでなく魔物モンスターも亜人もドラゴンも――この魔法の力を利用してきた。


 魔法を体系化し、魔法技術――魔術として確立した人類は、産業革命を経てその力をさらに増大していき、この惑星ほしの支配者としての地位を確固たるものとした。


 そして今、魔法技術のひとつの到達点としてロシア空軍は“ボストーク計画”を実行しようとしていた。


 ボストーク計画――それは人類初の有人宇宙飛行計画。


 古来から万物の霊長・ドラゴンを筆頭に、魔法の力で大空を自在に飛び回る知的生物は多く存在した。しかし大地のくびきを振り払って宇宙空間にまで到達するほどの技術を持ち合わせる種族、国家は存在し得なかった。


 そう、この日の統一ロシア帝国までは。


「いいか、この俺を差し置いてお前が人類最初の宇宙飛行師になるんだ。無様な真似をしたらただじゃ済まないからな」

 各種装備の最終チェックを行っているゲルマンがユーリに活を入れる。


 しかし当のユーリはそんなゲルマンの言葉にも、人類初の偉業という作戦を前にしても、心が冷え切っていくのを自覚していた。

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