機械鯨と廃海の姫
鍵崎佐吉
Episode 01
長年にわたって進入禁止海域に指定されていた「廃海」が解放されたのは今から三か月ほど前のことだ。そこはかつての大戦において激戦地となった海域であり、エスカレートしていく戦闘の中でついに化学兵器まで使用され、ほとんどの生物が死に絶えてしまった。潮流操作によって周辺海域から遮断され、戦後も除染処置が施されないまま放置されていたのだが、この度の選挙で環境保護団体の支援を受ける政党が与党に加わったために、負の遺産と化しているこの廃海の除染も前向きに検討していこうという事になったらしい。
その結果として海洋生物学者である私が、この生き物のいない海に駆り出されるという妙なことになってしまったわけだ。名目上は調査ということになっているが、はたしてこの海に生物と呼べるものがいるかどうか。その疑念は現地に到達してからは確信へと変化しつつある。
海霧に覆われたぼやけた世界には命の気配はなく、ただ調査船と波の音だけが静かに響いている。小型の水中ドローンもいくつか放ってみたが、海中には魚影どころか死骸すら見つからない。海にもある程度の自浄作用があるとはいえ、やはり我々人類が与えた影響はかなり深刻なもののようだ。別に自分に何らかの責任があるわけではないのだが、ここまでの惨状を目の当たりにするとどうしようもなく罪悪感を覚えてしまう。
「シマザキさん、大丈夫ですか?」
甲板でぼんやりと海面を眺めていた私に誰かが声をかける。振り返るとそこにはヤンさんが立っていた。彼もまた私のように調査に加わった学者の一人だ。といっても彼の専門は生物ではなく化学物質の方だが。私は頭をかきながら彼に返事をする。
「いや、船酔いしたわけじゃないんだよ。ただこうなってくるといよいよする事がなくてね」
「やっぱりいませんか」
「いないですね。魚類だけでなく甲殻類や貝類すらいません」
「……本当に恐ろしい場所ですよ、ここは」
「そっちはどうです?」
「正直こっちもお手上げですね。除染と言ってもこれだけ範囲が広かったらいくら予算があっても足りない。もう自然の力に任せるしかないでしょう」
いつだって何かを壊すのは簡単だが、それを修復しようとするとその何倍もの時間や労力が必要になる。人類は何度こんな過ちを繰り返すのだろうか。窮屈な艦内での生活も相まって、そろそろ本当に気が滅入ってしまいそうだ。
その時、不意にけたたましい騒音があたりに響き、思わず体が飛び上がる。どうやらこの船に搭載されているサイレンのようなものが鳴っているらしい。だが船員ではない私たちにはその音が何を意味するのかわからない。
「これ、なんですか!?」
「まさか、火事とか起こったんじゃ……!?」
すると甲板に一人の乗組員が現れて大声で叫ぶ。
「早く中に戻ってください! 敵襲です!」
「敵襲!?」
「レーダーに反応があったんです! すでに魚雷と思われる推進物がこっちに発射されています!」
「な——」
慌てて駆けだそうとした時、轟音と共に水飛沫があがり波を受けた船体が大きく傾く。一瞬、体が浮かび上がるような感覚があった。そして次の瞬間には甲板の手すりに激しく体を打ちつけていた。激痛の中で眩む視界、世界がぐるぐると回っているように見える。どこか遠くから自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
私は鎖で縛られた状態で海の中にいた。海は冷たくどこまでも暗い。体を動かそうとしたが鎖はびくともしなかった。ああ、これでは死んでしまうだろうな。だがそれも仕方のないことのように思えた。これはきっと罰なんだ。海を汚した者は海に呪われる。海を一つの巨大な生物として捉えている学者もいるくらいだ。呪いくらい使えたっておかしくはない。すると目の前に巨大な鯨が現れた。鯨は大口を開けて私を飲み込もうとしている。これはおそらくマッコウクジラだな。鯨というとシロナガスクジラやザトウクジラを思い浮かべる人が多いかもしれないが、私はマッコウクジラの方が好きだ。あの漆黒の体皮と洗練されたフォルムはまさに自然の芸術と言っていい。最初に海洋生物に興味を持ったのは子どもの頃に父に買ってもらった「海の生き物図鑑」を読んだ時だ。私は鯨のその巨大さに驚嘆し、いつか絶対に実物を見てやろうと誓ったのだった。あれから二十年以上経ち、三十代に片足を突っ込んだ今でもその時の気持ちは忘れていない。そう考えるとマッコウクジラに食われて死ぬのなら本望かもしれない。私はそっと目を閉じた。
しかしいつまで経っても何も起こる気配がない。私はゆっくりと目を開けた。白い天井と壁、そして明るい照明。そこは医務室のような場所だった。どうやら私は夢を見ていたらしい。そして私が横たわるベッドのそばには一人の女性が座っていた。二十代前半くらいだろうか、かなりの美人だ。しかし調査船のメンバーの中にこんな若い女性はいなかったはずだ。私がぼんやりしているとその人と目が合った。
「あら、おはよう。気分はどう?」
「……えっと、ここは?」
「海上基地B4、そう呼ばれていたわ。軍事用に建設された人工島ね」
「人工島? いったいどういう……」
「言語能力に異常はなさそうね。あなた、海からこの島に流されてきたのよ。この海に放り出されて生きていられるなんて運が良かったわね」
そうだ、私はあの時海に落ちてしまったんだ。そして奇跡的に助かった、ということだろうか。確かに私の着ていた救命ジャケットは体温保持や海上での姿勢制御を自動でやってくれる優れものだ。たとえ意識を失っていたとしても助かる可能性はある。いや、しかしそうだとしても不可解な点が残る。
「ちょっと待ってくれ。廃海の調査が始まったのはつい最近だ。人工島なんて作れるはずがない」
「別に作ったなんて言ってないわ。前からここにあったの。それにしても今は廃海って呼ばれてるのね」
前からあったとはどういうことだ? それこそあり得ない話だ。廃海は十年近く誰も立ち入れなかったのだから、彼女の言うことが真実であるならここは戦時中かそれ以前に作られたという事になる。しかしそうであるなら彼女はなぜそのことを知っているのか。
「おや、目覚めたようだね」
不意に部屋の入口の方から別の誰かの声がする。そしてそれは明らかに人の肉声ではなかった。そこに立っていたのは一体のアンドロイドだ。その白い流線型のボディはどことなく医療従事者を連想させる。
「メディック、この人を診てあげて」
「わかった」
「メディック? なんで医療用アンドロイドがこんなところに……」
「さっきも言ったでしょ? ここは軍事用に建設された人工島よ。彼はここに派遣された機甲兵なの。メディック、脳は念入りに調べてね。記憶障害があるかもしれないわ」
「了解だ、姫」
メディックと呼ばれたそのアンドロイドは私のバイタルスキャンを開始する。機甲兵というのは軍用に開発されたアンドロイドのことだ。メディックという呼称からしておそらく衛生兵としての役割を担っていたのだろう。私があの廃海に落ちたのはおそらく事実だろうから、ひとまず私もおとなしく診察されることにする。しかし今、妙な単語が聞こえたのは気のせいだろうか。
「姫……というのは?」
「私のことよ。ここでは皆そう呼んでたの。おかしな人たちよね。でも人間のそういうところ、私は嫌いじゃないわ」
「人間って……君はいったい——」
そこで私はようやくある一つの可能性にたどり着く。そして彼女の首元にかすかに光る青いランプが、その推測が事実であることを裏付けていた。
「私は士官たちのために作られた性処理用アンドロイド、いわゆるセクサロイドってやつね」
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