お嬢様のいやがらせ その6
九段下桂華タワー。ムーンライトファンド中枢だった所。
正式に姿形を与えられたその場所は、色々ごたついている日樺石油開発を吸収合併して桂華商会の子会社『桂華資源開発』と名前を変える予定である。
そんな場所は現在、大掃除に追われていた。
「半分も残らなかったわね……」
「むしろ、1/3も残った事を喜んでくださいよ」
片付け中のムーンライトファンドオフィスを眺めながら私がぼやき、それに岡崎がつっこむ。
私の追い落としから始まる超巨大仕手戦の代償ともいう。
「リクルーターが派手に札束でぶん殴ったんでしょう?」
「そっちもそうですが、家族親戚を狙われたケースも多いみたいですよ。
日本人のヘッドハンティングは、外堀である家族親戚を狙い撃つべし。
有名な言葉です」
この仕手戦で防戦に回ったムーンライトファンドは完全にその名前を市場関係者に売った事で、大規模なヘッドハントにさらされたのである。
末端職員ですら一億のオファーで引き抜かれたというここの職員たちの1/3がそれで去り、桂華グループの組織再編に伴って元の職場である桂華金融ホールディングスや桂華商会に帰ったのが1/3。
「まぁ、本当にヘッドハンティングしたかったお嬢様をハントできなかった時点で、いやがらせ程度にしかなっていないのでしょうね」
形のなかったムーンライトファンドは、会計ルールが連結決算重視に変更された事に伴って、ついに形が与えられることになった。
とはいえ、きっとここの事は誰もがムーンライトファンドと呼び続けるのだろうが。
何しろ、桂華商会の子会社のくせに桂華商会の株式支配は49.9%なのだから。
残りは私名義で、私が提供する資金を運用するという業務になる。
私に累が及ばないように、私の手足を取られないようにと、必死に法との整合性を探りだした岡崎の努力に頭が上がらない。
それを言うつもりはないが。
「つーか、岡崎、なんでヘッドハンティングで移らなかったのよ?
好待遇だったんでしょう?」
私のわざとらしい質問に岡崎は火のついていない煙草をくわえたまま笑う。
ふてぶてしく、わざとらしく。
「まさか。
あまりの低待遇にびっくりしたもんですよ。
何しろ、年一億ドルぽっちのオファーですよ。
一千億円ぽんとくれたお嬢様の待遇が良すぎるとも言いますが」
あー。
こいつに危ない橋渡らせたボーナスで一千億円ほど渡していたな。
つつましく運用するだけで、一億ドルは稼げない事もないというのがこの世界である。
そんな大規模仕手戦の結果を聞きに、私はここに来ている。
「で、結果を聞きましょうか?」
「お嬢様が遊ぶものだから、あまりリターンは良くないですよ。
こっちのリターンはせいぜい五百億円です」
シナリオはこうだ。
1ドル120円近辺でうろついていた為替を、円買い方向で推し進め、一ドル110円を割り込ませる。
この時に買い込んだ円はおよそ二百億ドルばかり。
徐々に買い込んだので、平均価格は一ドル113円という所か。
解散総選挙前に110円で売り払った結果、得た利益は五億ドル。
手数料とかいろいろ差っ引いて、利益は五百億円という訳だ。
まぁ、ここからがえぐいのだが。
「しかし、お嬢様もえぐい手を。
わざと円高方向に誘導して、ハゲタカ連中をおびき寄せるんだから。
しかも、おびき寄せた当人は、すでに手じまいをしていると来た」
「頭からしっぽまで食べる業突張りは痛い目を見るべきだと思わない?」
意図的に、この仕手戦は桂華が仕掛けたものだと市場関係者に漏れるようにしていた。
市場関係者はそれを見てこう考えたのだ。
「桂華はテロ事件の対応で政府に激怒し、報復に出るらしい」
と。
ヘッジファンドが望んでいた政府と桂華の対立に火が付いたと更に円買いは加速する。
そのタイミングで恋住総理が私に頭を下げたシーンが放映されたのだ。
仕掛けた桂華はいつの間にか梯子を外して逃げており、国内投資家は立憲政友党分裂のシナリオが消えたという事で損切り覚悟で手じまいにかかる。
逃げ切れなかった海外ヘッジファンドは、もう更に突っ込んで円高を加速させるしか手がなかった。
貿易立国である日本は輸出品の代金を本土に回収するために常に円買いが発生しているし、恋住総理と私の確執はちょっと永田町に居た人間ならば誰でも知っている。
円高を加速させてロスカットによるポジション解消による円高加速という希望があったのも、退路があったのに彼らが逃げなかった理由の一つだろう。
総選挙序盤調査・中盤調査とも立憲政友党優勢が伝えられたのに、なおもヘッジファンドは選挙後の泉川派離反というシナリオに望みを掛けたが、終盤調査の野党の失速と与党大勝利の予想が出るに及んでついに望みが尽きた事を悟った。
もちろん、悟った時点でもう遅かったのだが。
1ドル108円まで上がった円は、選挙結果が出た翌日一気に2円の円安に振れた。
ヘッジファンドが仕掛けていた円高の仕手戦が完全崩壊した瞬間、巻き戻しの円安が始まる。
ここまでなら市場の予測範囲内だが、ここからがいやがらせの本質である。
「一日一兆円規模でのドル買いですか。
しかも、米国戦費調達を支援する名目だから、怒る米国も文句が言えない」
「そういうけど、私の一兆ドルあちこちで吹いて回ったの岡崎でしょう?
『日本が米国債一兆ドル購入』なんて噂が立って、さらに円安に振れたのだから」
「お嬢様と日銀の手間を減らしただけですよ」
開票後に2円、その翌日更に3円、とどめとばかりに三日目も5円の円安ドル高に動いた結果、完全に円高を仕掛けたハゲタカ連中は逃げ損ねる。
そして、ヘッジファンドに一泡吹かせる準備が整っていた財務省と日銀はこのタイミングを逃さなかった。
私と岡崎はドル円チャートに映るハゲタカたちの断末魔を眺める。
ハゲタカたちは必死に円高方向に向けて円を買うが、それ以上に日銀がドルを買いまくる。
ハゲタカたちの円高主導は空売りによって行われていた。
空売りは、債権を借り入れて売却し、債券価格を下げた所でその債権を買戻して返却。その価格差を利益とする手法だ。
という事は、最後はどこかでポジションを解消、つまりドルを買わないといけない訳で、借りた時より高値である今の状況でハゲタカたちがポジションを解消したら大損害を負う形になる。
借りている債権は常にレンタルの手数料が発生するからだ。
巨額の仕手戦だから手数料も馬鹿にならないし、借りた時より高くなっている今の価格では買い戻す時点での差額がそのまま損失になるからだ。
それこそが日銀の狙いであり、私が誘導したいやがらせの神髄である。
「一日一兆円ぶち込むそうよ。日銀」
「イングランド銀行とは違いますな。
ハゲタカをすべて焼き尽くすつもりなんでしょうよ。
で、日銀を叩き潰せたとしても、お嬢様の本隊が待っていると」
「そこまで出番があればいいけどね♪」
選挙の結果発表が7月29日だったのもヘッジファンドにとって都合が悪かった。
30、31日のドル急騰で月のポジションがマイナスで終わったからだ。
そして月が替わった8月1日。
先月のマイナスを取り戻そうとうろたえるヘッジファンド連中の前に、この日銀の市場介入が突き刺さる。
『市場安定化の為』なんてアナウンスしているが、実態は米国債を購入する事での米国戦費支援であり、悪さをしていたハゲタカたちへの報復であった。
ヘッジファンド連中はバックにいる投資銀行を始めとしたウォール街のお偉方に政治工作を頼んだが、そのウォール街は某樺太銀行発端のマネーロンダリングに絡んで動けず。
米国大統領はテロにあってもなお米国を支えようと奮闘する私の戦費負担に口を閉ざした。
この一兆ドルの米国債購入だが、米国議会の承認が必要なので先行して売買契約を結ぶオプション契約にしている。
その時の売買レートが一ドル110円。
そして、この米国債購入の前線指揮官であるアンジェラ・サリバンの狡猾な所は、私が結んだ一兆ドル米国債購入のオプションを桂華を除いた日系金融機関に全部売り払ってしまっているという所にある。
現在日銀が絶賛介入中でこれ以上は下がらない米国債は濡れ手に粟の金の卵と化し、日系金融機関はこのボーナスタイムに我も我もと群がったのである。
え?
私の取り分?
今回はいやがらせが目的だったので、売買手数料は格安の5%しか頂いていませんが何か?
たったの五百億ドルである。
日本円にすると……今、120円乗ったな。
六兆円か。
桂華金融ホールディングスの次期CEOは六兆円もの収益を引っ提げて堂々と凱旋することになる。
「しっかし、アンジェラさんを取り込むとここまで楽に動けるんですなぁ。
古川の時の仕手戦の苦労は何だったのか……」
「あれ、実際私と岡崎の二人だけだったじゃない?
今回はここだけでなく、桂華証券ニューヨーク支店がバックアップに動いたのだから、ある意味この結果は当然よ」
情報を扱う元CIAのウォール街の人間がいるとここまで楽だとは。
アンジェラがウォール街で情報コントロールとワシントンでのネゴシエーションをやってくれたので、古川の時みたいに私が謝る事も岡崎がぶん殴られる事もない。
なお、アンジェラの独断だが、大やけどを負ったハゲタカ連中にサブプライムローンを勧めているらしい。
次の破滅に向けての準備はすでに整えられていた。
「で、大金積まれて去っていた人たちってやっぱりあそこに行ったの?」
「ええ。
ソブリン・ウエルス・ファンド。
国富ファンドと訳される事もありますが、やっている事はお嬢様の亜種というか、お嬢様の方がこれを真似したというか」
ヘッジファンドがさらに過激に、強烈に動くようになるのは、これら国富ファンドの台頭が挙げられる。
彼らが莫大な資金を投じ、それを運用するヘッジファンドが過剰なリターンを追い求めた結果……
「……待っているのは大崩壊……か」
思っていたことが口に出る。
気分はカルタゴ滅亡の炎を見上げる小スキピオのごとし。
岡崎が私の気を紛らわせようと口笛を吹いた。
「市場において大崩壊は必然であり、敗者復活戦でもありますな。
勝者が没落し、敗者が台頭する歴史のうねりみたいなものです。
大恐慌しかり、暗黒の月曜日しかり。
お嬢様。
貴方は今、勝者です」
「そうね。
私は勝った。勝ち続けているわね」
笑顔を作ってその先の言葉を飲み込んだ。
それを運命というなら受け入れよう。
だが、黙って受け入れるつもりもない。
(きっと、そんな私もいつかは負けるのよ……
神様。
そんな存在が居るのならば、あと一回、2008年のあの勝負だけは……)
日銀の市場介入。
世に言う日銀砲は二年にもわたり長期間かつ断続的に行われ、その間マネーロンダリングの件も絡んで四千ものファンドが市場から退場する事になる。
そんな彼らを拾い上げて豊富な資金によって台頭してくるのは、国家をバックに豊富な資金でヘッジファンドを駆り立てるソブリン・ウエルス・ファンド。
血ではなく、札束で殴り合う戦争が到来しようとしていた。
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リクルート
人材不足の桂華金融ホールディングスや桂華商会の弱点がここで出る。
元社が消えて桂華への忠誠心も育ち切っていないので、大金でぶん殴られると弱いのだ。
なお、SWFにとって一億円ははした金でしかない。
末端までリクルートして彼らが欲しかったのが、意思決定情報流通経路。
つまり、瑠奈-岡崎-アンジェラのラインの確認である。
欧米系ファンドはこの手の意思決定情報流通をものすごく重視する。
日本人ヘッドハンティング
有名な所で面白いなと思ったのがフィクションだけど『マグマ』(真山仁 角川文庫)。
地熱発電のスタンダードを握るために、ヘッジファンドは地熱発電に反対する地元温泉組合の切り崩しに、その温泉組合の不良債権を銀行から買い取って圧力をかけた。
こういう取引を仕掛けるためにも、キーマンを狙い撃つ人の情報を彼らは欲しがるのだ。
現地国の探偵を必ず雇って調べるのが彼らの流儀であり、いまだこの国がそのあたりに無頓着なのが……
米国債オプション
議会に諮る必要があるのですぐに発行できないが、現場は金が必要な訳で。
国債発行前に『売った』形にする契約を結んで、現金を渡しているのがポイント。
しかも一ドル110円という格安で仕入れた米国債だから、発行後にすぐ売っても相場は120円より上10円以上の差益が出る訳で。
日系金融機関で余力のある所は飛びついて巨額の利益をあげて不良債権処理の原資となる。
巨大インサイダーなんて言ったらイケナイ。
こういう人たちがワシントンで頑張るからだ。
米国国防族<<ネオコンでないのがポイント
「イラク安定化のために、さっさと金よこしやがれ!」
日銀砲
この砲のえぐい所は火力よりも持久力にある。
一年間ほぼ同じ火力で撃ち続けた結果、二千羽ものハゲタカが焼き鳥となって地におちることに。
この長丁場を書き続けるのが難しいので、こういう形におちつかせた。
なお、この結果のドル円は1ドル121円まで上がるが、カンネーもかくやのマネー包囲殲滅戦の結果130円超えるんじゃないかなぁ……
ソブリン・ウエルス・ファンド
略してSWF。
リーマンの陰の主役の一つ。
こいつらのマネー供給がヘッジファンドの過度な利潤追求を推し進めていき……
なお、そんな中位SWFの運用資金を短期間でかっさらったのが、瑠奈と岡崎とアンジェラである。
カルタゴ滅亡の炎を見上げる小スキピオ
こんな言葉を吐いたらしい。
「アッシリアはすでに滅び、ペルシア、マケドニアも滅びた、そして今やカルタゴも炎上しつつある。次に来るものはローマであろうか」
暗黒の月曜日
1987年10月19日の大暴落。
ブラックマンデーの方が通りがいいかもしれない。
ベルリンの壁崩壊が1989年11月9日。
陰謀論じゃないが、この並びは使えるんだよなぁ。
なお、しばらくウォール街では雨ではなく人が降る模様。
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