Letter ─時空を超えて届け─

伊崎 夕風

letter─時空を超えて届け─

第1話 珈琲の香りの朝

 悩みがあれば、何でも話してね、力になるからね。

 夕べ、少し話した母の、努めて穏やかな顔を思い出す。母なりに私を心配し、思いやっての言葉なのだろう。だけど、その言葉にすらイラついた梓は、


『別にいいよ』


 後ろ手で乱暴にドアを閉めた。



 その日は、春休みに入ったばかりの日曜日で、あずさは珍しく朝早くに目が覚めた。スッキリ起きることが出来たことで気分がよく、カーテンと窓を開けた。


 ひんやりした新鮮な空気が、肺に流れ込む。家の前の桜並木に、もう蕾のほころんだ花が見えた。珍しくお腹も空いていた。1階に降りてそっとリビングを覗くと、母がいない。 代わりに父がキッチンで珈琲をいれていた。父は私に気がつくと眉をあげた。


「おう、梓おはよう、お前も飲むか?カフェオレ」


「うん」


 父が梓のために、キッチンの浄水の水をコップにくみ、カウンターに置いてくれる。朝一に水を飲むのは、この家の決まりごとのようになっている。おかげでお腹の廻りはよい方だ。


「ありがとう」


「おう」


 コップの水をコクコクと飲むと、身体の乾いた所に染み込んでいくようで気持ちが良い。


 父は口の細いポットでお湯を沸かして、ちゃんと直前に豆をひき、ドリップする。機械に頼らず手間をかける父は、珈琲は飲むだけじゃなくて、その淹れる過程が好きなのだと、幼い頃から何度も聞かされている。台所からリビングまで、珈琲の香りが漂う。


「ほい」


 ダイニングテーブル座ってカフェオレを待っていた私の目の前に、丸みのあるぽってりしたカップが置かれる。温めたミルクも既に混ぜてあり、揺れる湯気。両手でそのカップを持ち上げると、コーヒーのツンと香ばしい香りの中に、ミルクの柔らかく甘い匂いにほっとする。


「ありがとう」


「砂糖は好きなだけどうぞ」


 父は、喫茶店にあるような、茶色い塊の砂糖を入れ物ごと、梓の目の前に置いた。少し前まではダイエットだと言って砂糖を避けていたが、不登校になってからは、なんとなく自分に甘くなった気がする。ポトンとひとかけら砂糖を入れると、スプーンで混ぜた。


「お母さんは?」


 カフェオレを1口すすると、甘くてほっとする。


「親戚の法事」


「ああ、そっか」


 ゆうべ視界の端に映った、母の困り顔を思い出して胸がチクリとした。


 父は珈琲のお湯を沸かしながら朝食も作ってくれていた。トーストの上にハムエッグが載っている。梓がそれを好きな事を父は知っていて、父と2人だけの朝食は大抵このメニューに落ち着く。付け合せに、トマトを切ってドレッシングをかけただけのサラダがコトリと音を立てて、パンの皿の隣に置かれた。イタリアンドレッシングのバジルが爽やかに香る。


「なあ、今日用事あるか?」


 パンをかじろうと口を開けかけて閉じた。不登校になってから部活にも出ていない。友達とも疎遠気味でこの春休みも予定など入っていない。だが父はそれを知ってか知らずか分からないが、どんな時も、そうやってちゃんと私を尊重してくれる。


「別になんにも無いけど?」


「ならさ、おばあちゃんちに行くか?ちょっと頼まれごとしてるんだけど、お前が手伝ってくれると助かるんだけどなぁ」


 昔から父は、無責任に適当なようで、そうではない。不登校になってからもこうやってフラットに話してくれる。正直申し訳ないが、何とか復学させようと一生懸命すぎる母より、父と話す方が私は気が楽だ。


 私が学校に行けなくなって、もう2ヶ月が過ぎる。

 女社会というのはなかなかにシビアな世界で、仲間意識という盾に隠れて、そこに居ない子の悪口を言ったり、それに同調しないと今度は自分が陰であることないこと言われたり、そんなことに傷ついた。

 ある意味幼稚だな、とも思う。そんなことはとても言えないし、態度にも出すことは無かったつもりだけれど。


 最初は心配して、個人個人で訪ねてきてくれた友達も、少しづつ訪問が間遠になり、それまでみんなで話してた、無料メールサービスのグループトークが動かなくなった。


 みんなで違うグループを作ったのは目に見えてる。たとえ、学校に行ってない私を気遣ってのことだったとしても、やはり傷ついた。




 この2ヶ月、何もやる気が起きなかった。義務感から無理に学校へ行こうとして、気分が悪くなって道端で吐いた。通りかかった郵便局員さんが介抱してくれて、家に連絡を入れてくれた。


 慌ててやってきた母に連れられて家に戻ったが、その時の母の不安そうな顔に、ああ、また母を困らせてしまってる、と悲しくなった。


 母は、私がこのまま学校へ行けなくなり、引きこもりになったらどうしよう、と恐れているのを視線で、肌で感じる。


 耐えて自分が強くなるか、環境を変えるかしか仕方ないのだ。つまり私は後者を選んだ。そういうことだ。


 だが、何とか学校へ戻すことが、解決の最終ミッションだと信じて疑わない母に、半ばうんざりしている。だからと言って、今、ひたすら家に籠ってるのは、間違いだということも分かってる。


 どうしてこの国には、子どもは学校に行くしか選択肢が無いんだろう。

 どうして数学がどうしても苦手な子には、数学を取らない選択が無く、ほかの得意な事を教えて伸ばしてあげる教育をしないのだろう。

 疑問は増えていくばかりで、誰もちゃんと答えてはくれず、本当の答えを手にできないでいる。


「おばあちゃんちに行って、何するの?」


「ああ、家をな、建て直すんだって」


「ええ!?勿体ない」


「まあ、俺が生まれた時には、あの家も既に築50年過ぎてたらしいからな」


「凄い、じゃあもう90年とか経ってるって事?」


「ああ、まあな。で、家の余計なものを整理するみたいだよ?」


「そうなんだ」


「手伝ってくれる?」


「いいよ」


「じゃあこれ食べたら、俺が洗い物をするから、梓は動きやすい服に着替えておいで。後、汚れるかもしれないから着替えも持って行くんだぞ?」


「了解」


 トマトにフォークを差し込む。その鮮やかな赤に、今日の始まりが嬉しくなった。


 春休み初日。みんなも休みで私も休み。普段の学校を休む罪悪感からの解放もあってか、朝ごはんが久々に美味しいと感じた。

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