小説を読まない僕は、文芸部に誘われて。
「ねぇ、文芸部に興味、ってない?」
と、葉瑠が僕に言ったのは、再会してから半年ほど経ち、季節が秋に入った頃だ。僕と葉瑠はクラスも別で、学校内でそんなにしゃべることはなかったけれど、帰りのタイミングが同じになった時には、隣同士に並んで座り、一緒に電車に揺られることもあった。彼女が文芸部に所属していることは知っていた。
この時はまだ、幽霊になった彼女から聞かされたいまのように、憧れの先生がいて、そのひとがきっかけで小説を好きになった、なんてことも知らなかった。ただ趣味が増えたんだな、と思ったくらいだ。小学生が高校生になっていく過程の中で、それはあまりに自然なことで、おかしい、と感じることのほうが不自然な態度じゃないだろうか。僕だって、小学生時代は、チェスに興味なんて、欠片もなかった。
「文芸部……?」自分自身を指差して、僕は言った。「永瀬。僕がそんな小説、読むように見える?」
この時はまだ、葉瑠を、永瀬と呼んでいた。
「そんな、って言い方する以上、いままでには何冊か読んだことあるわけでしょ」
「まぁ、そりゃあ。ほとんど教科書か読書感想文くらいだけど」
「『ライ麦畑でつかまえて』とか『車輪の下』とか?」
「あぁ、いやうちの中学は、一冊本を好きに選んでいい、って形だったから。書店でいっぱい積まれている本を選んだかな。『アヒルと鴨のコインロッカー』とか『容疑者Xの献身』とか」
夏休みの時に、一度だけ書店に行き、面白そうな小説を一冊だけ買う。それまでの僕と本のつながりなんて、基本的にはその程度だったけれど、ちいさな町の本屋の持つ雰囲気、紙のにおい、そこだけ他の場所から切り離されたように、ゆるやかに流れていく時間は好きだった。そう、以前には亜美とも一緒に行ったことのある、あの書店だ。だから多少、苦さも混じっているけれど、それも含めて、想い出、なのだろう。
ふんふん、と、癖なのだろう、葉瑠が自分のほおを指でなでながら言った。
「好きなのは、ミステリ、って感じ?」
「そう、かな。……というか、本なんて、それくらいしか」
「本は、一冊でも読めばもう、誰もが自由に語っていいんだよ。すくなくとも私は、そう思ってる」
彼女の顔が、僕に近づく。
葉瑠はその日、普段は掛けない眼鏡を掛けていて、そのいつもとはすこし違う変化が、僕を余計にどきりとさせる。基本はコンタクトレンズを付けているのだけれど、たまに眼鏡を掛けるのだ、と葉瑠自身が言っていた。理由を聞くと本人も、分からない、らしい。完全に気分で決めているそうだ。
「とはいえ、さすがに僕が文芸部、っていうのは、あまりに不向きでしょ」
「別にそんなことを思わないけど、入ってから好きになったら?」
電車は市内を過ぎたところまで来ていて、車窓越しに見える景色から、マンションやビルといった高い建物が減っていき、周囲には田舎町に似合いの田んぼが広がっている。この辺りから、乗客は極端にすくなくなる。
「というか、そもそもなんで、そんなに僕を文芸部に入れたがるんだよ?」
冗談の意を含めて、もしかして気でもあるの、と言ってみたい衝動に駆られたけれど、そんな度胸もない。言ってはいけないと分かって頭に浮かべているだけで、実際に口に出してしまえば、その自分自身に気色悪さを覚えて、一週間は落ち込むはずだ。
「え、いや、実は部の存続の危機と言いますか……」
「そんなに部員すくないんだ?」
それまで僕は、葉瑠が文芸部にいる、という以外、文芸部について何も知らなかった。
「実は私以外、全員三年生で、いなくなったら私だけになるんだ」
「そんなすくなかったんだ……」
「部として認められるとしたら、最低、三人は必要だから、ね」
「でもひとりになるなら、別に部じゃなくても――」
「あ、それ以上は言ったら、駄目だよ」葉瑠がほほ笑み、人差し指を自分の口に当てる。「いままでの先人たちが築いてきたものを、私で終わらせたくないからね」
「そっか」
葉瑠は驚くほど真剣な目をしていて、断りづらい。いや実際、そこまで断りたい、とも思ってはいなかった。小説に興味のない人間がいきなり小説好きなひとたちの中に混じるのは、ためらってしまうが、葉瑠しかいない状態ならば、その辺の問題がクリアされるからだ。
「実は、もうひとり、誘っているひともいて」
「ちなみに、誰?」
少人数で活動するとなると人間関係は特に、大事な問題だった。
「
話したことはないけれど、隣のクラスの子で、葉瑠と一緒に歩いているところを何度か見たことがあった。特別悪い印象を持ったことはないが、はじめて話す相手だと、やっぱり緊張はしてしまうだろうなぁ、と考えていると、
「でも、未希ちゃん、幽霊部員を公言してる」
想像もしていなかった言葉が返ってきた。
「幽霊部員?」
「うん、もちろん本当の幽霊じゃないよ。そう言えば、むかしふたりで、幽霊屋敷に忍び込んだよね。懐かしいなぁ。まぁ私も、たぶん結城くんもだと思うけど、幽霊とか信じてなかったから、全然怖がってなかったね」と、くすくす、と過去を懐かしむように葉瑠が笑う。「ねぇ、幽霊、っていまでも信じてない?」
「うん、まぁ。でも……、あの時、確かに僕たちは、数子さんの霊を見たわけだし」
「やっぱりあれは、そうだよね。というか、よく覚えてたね。あそこに住んでいたひとの名前」
「なんとなく、覚えやすい名前だったから。まぁ半信半疑ではあるし、それ以外に幽霊を視た記憶なんて一度もないから、まだ信じていない寄り、かな」
「ふぅん。私も、同じようなものかな。でも、いたほうが良いな。これからの人生、分からないことが多いほうが楽しいし、ね」
幽霊になるなんて思ってもいなかった頃の言葉で、特別な意味なんてひとつもなかっただろう。だけどその後の葉瑠を知っているいま、この時から何か予感のようなものがあったのではないか、と勘違いしてしまいそうになるから、不思議になる。
「そっか」
「……って、話が逸れちゃったね。未希ちゃんの話だけど、未希ちゃん、バイトしてるから、ほとんど部には顔は出せないけど、名前を貸すだけならいいよ、って言ってくれて。あっ、勘違いのないように言っておくけど、学校にはちゃんと許可取ってる、って言ってたよ」
「別に言わないよ」
「なら、良かった」
巽高校では、原則としてアルバイトが禁止されている。隠れてアルバイトをしている学生が多く、僕のクラスにも何人かそういう生徒がいた。だから彼女としても、そんな言葉を付け加えたのだろうけれど、もちろん言うつもりはなかったし、そもそも告げ口をするメリットがない。
「まぁ、考えておいてよ」
と話を締めるように葉瑠が言ったのは、もうすぐ彼女の降りる駅に着くからだ。小学校を卒業してすこし経った頃、ふたつ隣の町に葉瑠の家は引っ越してしまったらしく、もう不治見町には住んでいない。
葉瑠と別れて、また電車が揺れはじめた。不治見町を目指して。
確かその翌日だったはずだ。
教室で過ごす中で、城阪がときおり僕のほうを見ていた。最初はたまたまかな、と思っていたのだけれど、途中からは確信に変わった。休み時間に、城阪は別のクラスメート何人か、と野球の話をしていた。城阪は中日ドラゴンズの当時エースだった吉見のファンで、きのうの試合に勝ったとか、勝利投手になったとか、そんな話をしていて、興味はなかったのだけれど、彼らの結構大きな声がこっちの耳にも入ってきたのだ。ただその会話中に聞こえる城阪の声は、どこか心ここにあらず、という感じで、その時にも何度かこちらに送ってくるような視線があり、それが確信に変わった瞬間だった。
何か僕に話し掛けたいことがある、と気付きはしたものの、普段の城阪はちょっと聞きにくいようなことでも積極的に尋ねてくるので、すごく不思議に感じていた。
その視線は放課後になるまで続き、僕が下校しようとした頃になって、
「なぁ、結城、いいかな。すこし残らないか?」
と、城阪が言った。
「どうしたの?」
ずっときょう、変だったよ、と言いたい気持ちをぐっとのみ込み、自然な表情を意識した。
放課後の教室で僕を呼び止めた彼は、他のひとがいなくなるのを待っていたのかもしれない。僕と彼の、ふたりだけになった教室で、ようやく彼が話をはじめた。
「悪い。残ってもらって」
「いや、いいよ、別に。それより野球部の練習はいいの?」
「終わったら行けばいいさ。うちの監督は放任主義、というか、わりと緩いひとだから」
「ふぅん」
「で、まぁ本題なんだけど、単刀直入に聞くよ。永瀬、って、結城の彼女?」
「えっ、いや。違うけど。小学校の時、一緒だったんだ」
「そっか、彼氏とか、いるのかな?」
「いや、知らないけど、聞いたことはない」
「かわいいよな……。実は、ちょっと気になってるんだ。ほとんど話したことはないんだけど。ま、でも、前に結城と仲良さそうな姿を見たから、もし付き合ってたり、結城が永瀬のこと好きなら諦めようと思ってたんだけど、……ちなみに、彼女のこと、好き?」
「いや……。恋愛感情とか、だったら、あんまりそういうのは考えたことない」
緊張して、かすかに言葉は震えていたはずだ。
たぶん僕は、葉瑠に好意を持っていた。それは恋愛感情、という意味合いでも。ただ、感情の自覚している部分が、あまりにも曖昧過ぎて、はっきりと口にする自信がなかったのだ、と思う。
「そうか……良かった。仲を引き裂くような真似だけはしたくなかったから」
城阪が、朗らかに笑った。
例えば彼がとても嫌なやつだったなら、とそんなふうに考えてみたこともある。もしそうだったなら、葉瑠と想いを深めていたのは彼ではなく、僕だっただろうか。いや、それは分からない。ただすくなくとも、三人のうちの誰かがもうすこし違う性格だったならば、僕たちの関係がこんなにも歪な結末を迎えることはなかったはずだ。もしも、の話なんて何の意味もない。それはそうなのだが、それでも考えてしまうのが、もしも、の話なのだ、きっと。
「もしかしたら、この後、好きになることがあるかもしれないけど、……いまは、違うよ」
絞り出した、精一杯の言葉だった。城阪は鈍感ではない。まったく気付いていなかったわけではないだろう。
「そっか、まぁ未来のことは、誰にも分からないさ」
そう、あんな未来にたどり着いてしまうなんて、誰が予想できるだろうか。
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