第一部 雨と、僕たちのはじまり
久し振りの町に、彼女の気配がする。
車内アナウンスが、次に停まる駅の名前を告げていた。
気のせいだろうか。アナウンスに混じって、彼女の声が聞こえた気がした。久し振りに故郷に戻ってきた心が、彼女を求めて、敏感になっているのかもしれない、と一瞬そんなことを考えてしまったが、すぐに違う、と気付いた。
春に、長く降る雨を、春霖、と教えてくれたひとがいた。
彼女の気配を感じて、郷里へと向かう途中、降り出した雨がいつまでも続く様子を見ながら、僕はそんなことを思い出していた。窓の向こうのすこしぼやけた感じは、いまの僕の心模様にも似ている。未来が不透明で、漠然とした焦りと不安にさいなまれるような。
『帰ってくるの?』
と実家に電話を掛けた時、驚いた声をあげていたのは、姉だ。大学に入ってから、ほとんど実家に帰ることのなかった僕にとって、生まれた場所に足を踏み入れるのは、本当に久し振りのことだった。
僕がかつて住んでいた町は、周囲に海を持たない岐阜県の片田舎で、そんな類型的な物語でよく見るような、因習に鎖された、とまでは言わないけれど、それでも都心に比べれば、密接な人間関係が生み出す鬱屈とした雰囲気が根強く残る場所だった。決して家族との関係が悪かったわけではなく、そこに暮らす同世代の友人も多く、彼らが嫌いなわけではない。それでも帰りたいか、と聞かれれば、別に帰りたくはない、と即答できる。
中学から高校に上がる頃、姉は、遠くへ行けば、人生が変わる、と安易に考えてしまう僕の弱さを指摘したことがある。姉のことだから、そう考える僕の心を見透かしていたに決まっている。僕を知り尽くしている姉らしい反応だった。
「もしかして、
そろそろ電車は町に入った頃だろうか、と思った時、ふいに声が聞こえた。声のほうへと目を向けると、見覚えのある顔があった。高校時代の、同級生の男子だ。だけどすぐには名前が、思い出せず、とりあえず僕は、
「久し振り」
と答えた。
「もしかして、俺のこと、覚えてない? ほら、俺だよ。お前とも仲が良かった
帰ってきてすぐに、一番聞きたくない名前を聞いてしまった。僕は内心で、ひとつため息をつく。城阪という名前が出てきたことで、芋づる式に、彼の名前を思い出す。
「……伊藤だよね。ごめん。ただのど忘れだから、気にしないでくれ」
伊藤は同じクラスではなく、隣のクラスの男子で、いまは髪も黒くなっているけれど、高校の時は、髪を茶髪にしていて、一度廊下で髪型のことで先生と怒鳴り合っているのを見た記憶がある。
「ったく、同級生の名前くらい忘れるなよ。もしかして、お前も城阪のことで、帰ってきた感じ?」
と伊藤が苦笑いを浮かべているが、理不尽だ、と思った。高校時代、彼と話したことは指で数えられるほどしかない。
「城阪のこと、って?」
「あっ、何も聞いてないのか……。なんかお前たち、やけに仲が良い記憶があったけど。結城は、城阪と相性が良さそうなイメージなかったから、すげぇ意外だな、って思って、さ」
「そんな特別、仲が良い、ってわけじゃないよ。いや悪くもなかったけど、ね。まぁあんなすくない人数で、ずっと同じクラスだったから、しゃべったりは、もちろんしたけど……。卒業してからは、一回も会ってないし」
伊藤の表情は、明らかに納得がいっていない感じだ。
「本当に?」
「うん。なんで、こんなことで嘘、つくんだよ」
「いや、だって、さ。高校の時、城阪が、よく結城のこと、話してたよ。それ、好きか嫌いかは別にしても、興味がないと、そんなことしないだろ」
「どんな話?」
「正直たいした話じゃないから、あんまり覚えてないけど。あぁお薦めの小説を教えてもらった、とかは言ってた気がするな。ほら、俺と結城って、ほとんど話す機会もなかったけど、こうやって覚えてるの、って、たぶん城阪がよく話してたから、だと思うんだよね」
城阪は高校三年間、僕と同じクラスで、どちらかと言えば目立つのを嫌って、学生生活を過ごしていた僕とは正反対の、目立つし、周囲から人気もあった男子生徒で、客観的に考えても、僕と仲良くなるタイプの生徒ではなかった。野球部のエースでもあり、プロも注目しているような選手だった。プロではなく、進学して東京六大学のどこかに行くのではないか、という本人発信ではない噂もあった。結局それはただの噂で、城阪はスポーツだけではなく、勉強の成績も良かったこともあり、地元の国立大学を受験していた。合格したかどうか、聞く機会には恵まれなかったが、彼の成績を考えれば、きっと受かっているだろう。天は、ひとに二物も三物も与えているのだ、と思わせる好例のようなやつだった。
城阪との仲について、僕はひとつも嘘は言っていない。
僕と城阪が、クラスメートとしてそれなりに話す関係だったのは間違いないけれど、他のクラスメートと比べて、頭ひとつ抜けて仲が良かったわけではない。ただ伊藤の勘が間違っているわけでもない、ということは、認めなければならないだろう。
僕と城阪が、ひとりの女性を挟んで、ある種の特別な関係にあったのは事実だ。
「まぁ、いいか。じゃあ、結城は何も聞いてないわけだ。でも、そうだよな。離れて暮らしているやつのところになんて、気を遣って、連絡なんかいかないもんかもしれないな。俺なんかは、近くに住んでいるから知っただけで……」
「城阪に、何かあったの?」
聞きながら嫌な予感はしていた。
ひと呼吸おいて、伊藤が言った。
「……死んだんだ」
「死んだ? ……それって」
「事故、だって。転落事故」
事故、と聞いて、似合わないな、と思ってしまった。人間の死に対して、ひどく不謹慎な感情だということは理解しているが、心にまで嘘をつくことはできない。もし自殺だったら、あるいは殺されたのだとしたら、まったく別の感覚が胸に萌したのだろうか。とはいえ仮定を体験することができない以上、答えはいつまでも見つからないままだ。
事故の詳しい内容を、伊藤は教えてくれなかった。わざわざ口に出したくはない、と思ったのかもしれない。僕も聞かなかった。
なぁ死んだひとのこと、いつになったら忘れられるのかな。
彼がそう言ったのは、彼女が死んですこし経ったあとのことだ。その言葉を聞きながら、僕は彼を、卑怯だ、と思った。裏切られたような気分になった。だけど同時に羨ましい、とも感じていた。彼はいつか彼女を忘却の彼方に追いやることができる、と信じていたわけだ。卑怯で、羨ましい。だって僕は永遠に忘れることができないから。
想い出の濃度や罪悪感の深さ、とか、もちろんそういう感情はいまでも持っているが、そんな話をしているわけではない。
誰かに話したい、と相談してみたい気持ちはあるけれど、話す相手も見つからない。
「あっ、じゃあ俺は、ここで降りるから」
と伊藤と別れて、周囲には誰もいなくなった。まだ降り続ける雨を見ながら、ちいさく息を吐くと、隣にひとの気配を感じた。
男の姿があった。
たった数年で、ひとの顔はそんなに変わらない。たぶんそれは、城阪、だ。死んだはずの男がすぐ近くにいる。驚いたり、怖がったりできるなら、どれだけ良いだろう。だけど僕は、そこに城阪がいることを、何ひとつ不思議に思っていない。
「久し振り」
と声を掛けてみるが、返事はなかった。
返事がなかったことに、ほっとしている自分がいる。
車内のアナウンスが告げる。次に停まる場所の名を。
そこは僕の生まれた
駅を出ると、大きくひとつ伸びをする。
また彼女の気配を、近くに感じる。
久し振りの景色が眼前に広がり、それを見ながら僕は、懐かしい声に耳をそばだてていた。
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