第40話 溶ける

 火曜日の夕方、学校帰りの風花は尾道商店街にある大河内写真館の前を何度も行ったり来たりしていた。雨は相変わらず降ってはいるが、ここはアーケードなので傘はたたんで左手に持っている。

 今まで風花が孝太に会うときは、朝の坂道トレーニングを除けば、必ずミオが一緒だった。現在の建築基準だと不可能な造りだが、ミオの部屋から孝太の部屋へは、お互いの窓を開けておけば跨いで入ることができる距離にあり、実際、子供の頃から二人はそうして部屋を行き来していると言っているが、風花といるときは、絶対にミオさえも孝太は部屋に入れることはなかったのだ。だから、孝太の部屋へ行ったこともない。

 だが、今日はミオはかるた会へ行ってしまったので、孝太のお見舞いに行くためには、どうしても大河内写真館側から入らなければならない。ひとりで訪ねるのが初めての風花は、大河内写真館の重厚な木製ドアにはなかなか手をかけられなかったのだ。


「あら、風花ちゃんじゃ。どしたん?」

 そうこうためらっているうちに、ついにミオの母に見つかってしまった。孝太が熱があると聞いていたので、もし少しでも食べることができればと、先に立ち寄ってお見舞い用に買った「かるさわ」のアイスモナカを、つい後ろ手にサッと隠した。

「こんにちは。昨日はありがとうございました」

「こちらこそ。ご飯どきに長居しちゃってごめんね。今日はどうしたんね。ミオはかるた会——あっ、そうか。彼氏のお見舞いじゃね。野暮なこと聞いたわ」

「彼氏じゃないけど……まあ、お見舞いです。はい」

「そういえば、あんたのお母さんもそうやってきたことがあったわ。さすが親子じゃねえ。似たことするわ」

 珍しく、ミオの母が自分から母の話題に話を振った。

「えっ、母が、ですか?」一瞬、ミオの母が「しまった」という顔をしたのを風花は見逃さなかった。「孝太君のお父さんとうちの母は友達だったっておばあちゃんが言ってましたけど」

「そう、ね。孝太のお父さんが熱出して寝込んだことがあってね——」

 ミオの母が明らかに言い淀んだところへ写真館のドアが開いて、孝太の父が顔を覗かせた。

「表が賑やかじゃあと思うたら、何をしとるん」

「ちょうどよかったわ。風花ちゃんが孝太の見舞いに来たんと」ミオの母に腕を掴まれた。「ほら、早う行かんとアイスが溶けるで」

 アイスを持っているのはしっかりとチェックされていたようだ。

「べっぴんさんが来たら、よけい孝太の熱が出るかもしれんで。まあ、ついておいで」扉を大きく開けた。

「すみません」

 おじさんが来なかったら、おばさんにはもっと聞きたいことがあったのに——

 風花はミオの母には上手くはぐらかされたようで、後ろ髪を引かれる思いで、孝太の父の後ろについて写真館に入った。


 写真館のカウンター奥の開き戸を開けると大河内家の自宅となっており、居間の奥にあるカウンターキッチンに女性がいる。孝太の母だった。

 風花が挨拶をすると、孝太の父が「孝太の彼女が見舞いに来た」と笑っていう。

「そんなんじゃないですから」

 風花はここでも大慌てで否定するのだが、大人たちは誰も信じてくれない。

「あらあら、例の噂の彼女かいね。顔ちっちゃいねえ」

 ニヤニヤと孝太のお母さんも笑っている。

「孝太、どんな? 少しは熱も下がればええんじゃが」

「まだ喉がだいぶ腫れてるしね。すぐは無理そうよ」

「そうか。まあ、ええわ。感染る風邪じゃないけん、ついておいで」

 孝太の父の背中を追うように階段を上がると、孝太の部屋は左手の真ん中にあった。

「孝太、入るで」

 ノックをして返事を待たずに孝太の父が部屋の扉を開けた。

 ベッドの上で孝太は眠っているのか、振り向きもしなかった。

「ほら、入ってええよ」

 入り口で立ち止まっていると背中を軽く押され、そのまま数歩部屋に入ったが、孝太が眠っているのに勝手に入っていいものか少しためらいはある。

「ほいじゃ、ごゆっくり」

 優しくそう言って、孝太の父は階段を下りて行き、風花は眠っている孝太と二人っきりに取り残された。


 ほんの5分ほどだったとは思うが、どうしたものかと、しばらく孝太に近寄ることもできずに風花はその場に立っていた。よくよく考えてみると、自分が寝ているところを男子にじっと見られたていたら、どんな気分だろう。

 やっぱり帰った方がいいかな——

 そう逡巡していると、初めて孝太が大きく呼吸をして寝返りを打ちながら薄目を開けて風花を見ている。額が汗びっしょりだ。たぶん起き抜けでボーッとしていたのだろう、孝太はしばらく風花を見つめ合っていたが、やがてハッと気がついたように孝太の目が見開いたかと思うと、すごい勢いでガバッと起き上がった。風花もその勢いに驚いて、思わず後ろへ数歩下がってしまったくらいだ。

「い、いづからそごに——」

 ものすごいしゃがれ声。そういえば孝太の喉がまだ腫れてるって言ってたことを思い出していた。

「あー、あっ、アイス食べる?」

 いつから、にどう答えていいかわからず、とりあえず見舞いに買ってきたアイスモナカを風花は差し出したのであった。

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