第36話 電車がかき消した

「僕は——楽しかった」孝太がフッと真顔になった。「今の風花ちゃんに当てつけで言っとるんじゃないから、気を悪くせんといてな」

 孝太が石垣から立ち上がって風花の前に回り込み、中腰になってまっすぐに風花を見ている。知り合って2ヶ月になるが、二人きりでこんなに至近距離で向かい合って話をするのは考えてみれば初めてで、風花はちょっとドキドキした。

「それは、ほら……孝太君は1回戦に勝てたし——」

「いや、そうじゃなくて。本当に楽しかったのは、2回戦の呉原との試合の方なんだ。負けたけど、負けたけどすげえ楽しかった」

 あのときの孝太の相手はB級の選手で、やる気の塊のような孝太でさえも、ほとんど抵抗したといえないほどの大差で負けていた。その試合が楽しかったと孝太が言う。

「でも……呉原には私の相手だけがC級で、だから私にだけは勝てるチャンスがあって……だからあの試合を私が勝ててれば」

 しゃべればしゃべるほどに、尻すぼみに風花の声が消え入りそうになる。

「違う。違うよ、風花ちゃん。A級からみたら弱いかも知れないけど、それでもC級って経験者で初段だよ? 勝てるチャンスが少ないのは、相手のエースと戦ってた上本先輩も、B級と戦ってた僕も、そしてC級と戦ってた風花ちゃんも同じだったんだ。かるたを2ヶ月前に始めたばかりの僕や風花ちゃんが勝てる可能性はもともとすごく低かったんだ」

 孝太が風花の顔を覗き込むように、ぐっと近寄ってきた。

「でも、上本先輩や僕や風花ちゃんの3人のうちの誰かに奇跡が——1回戦で僕が初段の人に勝てたみたいな奇跡が起こることを信じて、同じユニフォームを着た5人の仲間と同じ方向を見て闘ってたあの時間が、僕は身震いしてしまうほど、すげえ楽しかったんだ。強い人が予想通り簡単に勝って勝ち抜けた1回戦じゃなくて、チームのみんなで強い相手をなんとかしようって闘った2回戦の方がおもしれえって。僕らはさ、個人競技の選手だろ? だからなおさら、団体戦ってこんなにおもしれえって思いながら、あのとき僕はかるたをしてた」熱く語る孝太の顔が紅潮していた。「みんなもきっとそうだよ。誰も風花ちゃんのせいで負けたなんて思ってない。もちろん上本先輩でも、僕でもない。シード校の呉原を相手に僕らのチーム力が足りなかった。それだけだよ。誰のせいでもないんだ。それが団体戦だよ」

 そこまで一気にしゃべって、孝太は立ち上がり大きく肩で息をした。

「それにさ、僕だって相手はB級だけど勝つつもりだったんだよ。どうやら風花ちゃんには信じてもらえなかったみたいだけど」

 孝太がくるりと背を向けて、がっくりとうなだれて黙り込んだ。

 あっ、そうか。自分が信じられてないって言いながら、私が一番仲間を信じてなかったってことか——

「ごめんなさい。そんなつもりじゃ」

 いじけてしまった自分のことばかり考えて、ずっと一緒にいた相手の気持ちを全然考えていないのは私だった。

 ——どうしよう、私、孝太君をきっと傷つけてしまった。

 風花はあわてて立ち上がり、孝太の背中にそっと片手で触れる。

「ごめん、本当に……ごめん。私、自分のことばかりで最低だね。どうしたらいい? どうしたら許してくれる?」

 孝太の背中が震え出した。もしかして泣いてるの?

 風花はオロオロするばかりだった。

 すると突然、孝太がクルリと振り向いた。彼は泣いて——なかった。一生懸命笑いを堪えていたのだ。

「さあて、どうしようかなあ。お詫びになにをしてもらおうかなあ」

 ものすごくうれしそうに、孝太はニヤニヤと笑っている。

「あー、ずるい。私、本気で心配してたのに!」

 人の気も知らないで!

「まあまあ、落ち着いて。信用してもらえなかったのは間違いないし、そこはそれ。お詫びはちゃんとしてもらわなきゃな」

 それを言われたら、反論のしようもない。しようもないけど、その笑い顔が無性に腹が立つんですけど。

「じゃあ——」

 孝太が坂道の階段を一番下へ降り、風花から離れて振り向きざまに何か言いかけた瞬間、踏切の信号が鳴り始めた。孝太はいったんしゃべるのをやめ、まるで電車が来るのを待っているように駅の方をのぞき込む。

 やがて、孝太のほんの数メートル後ろにある線路を、大きな音を立てて電車が通り過ぎてゆく。それに合わせるように、孝太が何か言い始めた。

「えーっ? なあに? 聞こえなーい!」

 風花が大声で叫んだ。孝太の声が電車にかき消され、彼が何を言っているのか聞こえないのだ。


 電車が通り過ぎた時には、孝太はすでに言い終わったあとだった。

 もうその顔はまったく笑ってなかった。じっと真剣な、射抜くような目で風花を見ていた。

「ごめん、電車の音で全然聞こえなかった。もう一度言って」

 風花は少し歩み寄った。

 だが、孝太はすぐには返事はせず、じっと風花を見つめたままで何か考えているようだった。

「いや、今日はいい。そろそろ帰らなきゃ、学校に遅れるよ」

 それだけ言うとクルリと風花に背を向けて、いま電車が通り過ぎたばかりの踏切を渡り始めた。

 彼は、なにを言おうとしたんだろう。風花はすぐに追いかけて聞き直したかったが、やめた。なぜだろう、簡単に聞いてはいけないと思った。

 あのとき、彼は何かとても大事なことを風花に言おうとしたような、そんな気がしていたのだ。

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