狭間の街
夢魔満那子
第一話-1-
***
サラネア大陸北東部。
標高1000メートルを越す山々が連なるレゼル山脈の合間に小国『モールガン』は存在した。
古くは500年前。研究の地を求めてやって来た魔法師や国を追われた難民によって興された。
領土としては「一都市と山脈を含んだその周辺地域のみ」という小国ながらも、魔法を用いた特別な技法によってのみ錬成可能な鉱石『オリハルコン』を占有していた。
オリハルコンは「強度」や「柔軟性」において鉄や銅、鋼と言った既存の金属を遥かに上回っており、農具や戦争で使う武具、果ては衣服に織り込まれることもあった。
あまりの有用性と希少性から他国では金よりも価値が高く、それをほぼ独占しているモールガンは周辺列強諸国に多大な影響力を及ぼすことも出来た。
しかし、他国との交易こそあったものの他国の内政に関与することはなかった。
他国の問題へ下手に干渉すれば、そちらへ要領が割かれて魔法の研鑽が疎かになる。
建国時、魔法が密接に絡んだこの国は運営においても魔法が重要視されていたからだ。
そんなスタンスのモールガンであるが、およそ40年前にモールガンから西へ位置するザノシア帝国から武力行使を受けた事があった。
帝国は火薬を利用した当時最先端の武器である長銃を駆使し、大陸の西部を武力によって平定した。
オリハルコンという貴重な鉱石を手中に収めんと、帝国はモールガンへ一個師団という過剰なまでの兵力を派遣した。
後に『皆殺し戦争』と呼ばれたこの事件において、帝国の一個師団はほぼ壊滅状態となった。
戦略、戦術上においての失敗はあった。
山岳部に位置するモールガンへの出兵。山に慣れていない兵士達には移動だけで体力的・精神的負荷が掛かった上に補給ルートの検討も甘かった。
また、モールガン首都への移動ルートはある程度予測しやすいものであり、防衛に適した要所をモールガン側に的確に抑えられたのもある。
しかし、それ以上にモールガンの戦力が帝国のそれを遥かに上回るものであったのも一因だろう。
モールガンには宮廷魔法師団が存在した。多くの魔法師がいるモールガンでも選りすぐりの魔法師だけで構成されており、その中でも頂点に位置する魔“導”師長は『天才』と謳われる人物であった。
更には戦闘に特化した騎士団も存在し、当時の騎士団長に至っては10代後半の若さでありながら「大陸で五本の指に入る」実力者であったと云う。
大国からの脅威を圧倒的なまでの戦果で退けたモールガンに手を出す国は無かった。
下手に挑発し、報復されても恐ろしかったからだ。
この時点で、モールガンはある意味で「興盛を極めた」と言って良かった。
しかし、およそ10年前を境に様相は一変した。
モールガンが突如として深い闇に包まれたのだ——。
——以来、一切の交易は無い。
他国の調査団や財宝を求めてモールガンへ踏み入った人間もいたが誰一人として戻らなかった。
モールガンが滅んでいるのかどうかすら誰にも分かっていない。
ただひとつ言える事は、この地が人智の及ばぬ魔境と化してしまったことだけだった——。
***
男は濃霧の中を一人駆けていた。
「はぁ……はぁ……」
濁る視界。湿った空気。
流れる汗と乱れる呼吸。
男は既に長い距離を全速力で走り続けていた。
意識は朦朧とし始め、何度も「躓いては立ち上がり」を繰り返し、心臓が今にも破裂して死にそうであった。
「はぁ……はぁ……」
しかし、男は決して脚を緩めることはなかった。
狂ったように前へ進み続けた。
事実、男は気が狂っていた。
「逃げる」。
この必須にして絶対の命題を守るためであれば、いかなる手段も講じるつもりであった。
それは原初の生存本能から来るそれであった。
「くそ……」
男は追われていた。
相手の正体は分からない。
見たこともない……あれは生物なのか?あんなものを知っている訳がない。
身体からは無数に足が生え、常に何かを求めるように蠢いている。
口のような物が現れては裂け、溶け落ちる。
肉が腐ったような鼻が捻れんばかりの悪臭。
そして、何より、夜の闇の如く底抜けに昏(くら)い。
この街についてすぐに遭遇してしまった”それ”は筆舌に尽くし難い異形そのものであった。
そして、そのような物を目にして人は平静ではいられない。
「なんで……」
逃げても逃げても。
目の前の景色は変わらない。
何処かへ隠れようにも、まだ昼間なのか明るい上に今走っている路(みち)の両側は灰色の石壁で覆われていた。
それに濃霧の中だと言うのに”あの気配”はずっと後をついてきていた。
男は解っていた。
この行為は間違いなく無駄だ。
確定された死を刹那の時間先延ばしにしているだけだ。
……それでも戦う気など起きなかった。アレを正視していられなかった。
このまま走り続けても身体が壊れて死ぬが、あんな物に殺されるよりは遥かにマシだ。
逃げろ。
逃げ続けろ。
男はそう己へ言い聞かせながら、鉛のように重い足を必死に前へと突き出す。
——そうして走り続けていると目の前の風景に変化が現れた。
あれはなんだ。
霧の中でも分かる程の強烈な光が前方から差し込んできた。
ランプの光、ではなさそうだ。
陽の光でもない。
しかし、そんなことはどうでもいい。
男の心に希望の火が灯る。
ほんの僅かだが、状況に変化が訪れた。
あの光の正体は分からないが、背後からは怪物が迫っているのだから危険な状況に変わりはなかった。
走れ。
あの光へ向かって。
ここまで来て諦めるな。
男は己を叱咤した。
そうして光へと向かい最後の力を振り絞り——。
——ドン、と背中に衝撃が走った。
「え……」
腹から何かが突き出ている。
黒い棘。
「……が」
口から鮮血を吐き出した。
それと共に全身から力が抜けていく。
棘は男を貫いたまま向きを変えながら伸長し、男の顔まで接近した。その先端はまるで人間の口のような……いや、口そのもので、くちゃくちゃと何かを咀嚼していた。
「…………ぅ…………」
怪物の口から声のような音が漏れる。
「うまい」と。
その瞬間、男は理解した。
——ああ、俺のナカミを喰っているのだ。
男の中を「ゾワリ」とした物が走って、思わず身体が震えた。
そして、それをまるで見ていたかのように怪物の口は肉を呑み込むと、並びの悪い黄ばんだ歯を「カチカチ」と数度鳴らした後、口角を上げた。
「は…………」
「助けて」と言おうと口を動かしたが、空気がか細く漏れただけだった。
せっかくこの『狭間の街』まで辿り着いたというのに。
目的も果たせず、得体も知れない“怪物”に襲われて。
俺は……ここで死ぬのか。俺は。道半ばで。
感情によるものか。はたまた生理現象か。
男の目尻に涙が滲む。
「◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎——」
背後からとてもこの世のものとは思えない不快な音が通りに木霊した。
「キキカカキキキ」
それに共鳴するように歯軋りを立てながら、棘は男の身体を持ち上げると塵(ごみ)を捨てるように道路へ投げ捨てた。
「————あ」
痛みはなかった。
痛みを感じる程の気力もなかった。
男は受け身を取ることすら出来ず、為されるがすがままに石畳の道路へ叩きつけられた。る。
腹から血と共に何か大事な物が流れていく。止められない。
男はあと数秒で死ぬ。
それは確定された未来(げんじつ)であった。
寒い。
とてつもなく寒い。
とうに感覚はないはずだが、寒さは"感じられた"。
ああ、俺は死ぬんだなぁ。
己の死を改めて自覚した時、男は得も言われぬ程の感情が湧き起こった。
——怖い。
こんなところで。
無様に独りで。
嫌だ。
死にたくない。俺はまだ生きたい。
だが、男の願いも"虚しく"身体は限界を迎えた。
意識が完全に沈む直前に彼は見た。自身の生命を奪った怪物が、今まさに自分を喰らおうと顎門(あぎと)を開けたのを。
中は夜の闇よりも尚暗く冷たく、呑み込まれればもう消え果てるだけだろう。
そうして、ゆっくりとそれは迫り——。
×××
「……あ、起きた」
頭上から声。声の高さから子どものものだろうか。
「う…………」
身体が鉛のように重い。
気怠さと寒さが全身を包んでいる。
男は全身の力を振り絞って起き上がりながら声の主人を確認すると、ローブを纏った10代半ばの少女が男を観察するように見ていた。
「もう動けるんだ。凄いね。傷はもう平気なのかい?」
少女は可笑しそうに微笑みながら男に尋ねた。
「傷? 一体何を……」
そこまで口にした所で男は意識を失う前の状況を思い出した。
「————う」
この世ならざる異形の怪物に追われ、こちらを嘲笑うかのように己の肉が目の前で喰われた事。
「(……落ち着け。落ち着くんだ)」
込み上げてくる吐き気を抑えながら、心の中で必死に気持ちを整えようと自らにそう言い聞かせた。
しばし沈黙が流れた後、「落ち着いたかい?」と頃合いを見て少女は男に尋ねた。
「あ、ああ……大丈夫だ」
なんとか気持ちの整理を付けた男は少女にそう答えた。
「ここは……モールガンであっているな?」
「うん。君の言う通りここは小国唯一の都市であり同じ名を冠した首都の『モールガン』さ!」
「……そう、か」
男は心底安堵したように胸を撫で下ろした。そうして、冷静さを取り戻すのと同時に男の脳裏にひとつの疑問が湧いた。
「傷が……ない」
穿たれていた筈の胸は元の通りの状態へと戻っていた。
驚いている様子を可笑しそうに笑いながら傍らの少女が答えた。
「それなら、私が“直して”おいたよ」
「……『事象魔術』か」
「ふふ。ご明察」
魔術。
『魔力』と呼ばれる目には見えない資源を用いて、物理法則の支配する現実に介入、改変する強大な手段(ちから)。
中でも「事象魔術」は物体への干渉力が高い実利的なものだった。
「君は……魔術師なのか」
自分の胸を確かめながら、男は尋ねた。
「うーん、厳密には違うかな。そもそも私は人間じゃないし」
「それはどういう……」
「そんなことよりも。ねぇ! 名前、教えてよ。私はリラ」
少女の勢いに面食らいながらも、男は「俺はルギルだ」と名乗った。
「よろしくルギル。貴方、街の外から来た人だよね」
「ああ。そうだ」
「やっぱりね。この街の状況を死なないのもそうだけど、この街で呪いに掛かっていないマトモな人間なんて——」
そこまで言って、リラはルギルの背後へ向けて片手を上げた。
「ああ、戻ったんだね」
——いつの間にか。ルギルよりも更に背の高い体格の良い男が長剣を片手に立っていた。
「(……気配がなかった)」
緊張感と共に男を見る。
男は少女と同じように焦茶色のローブを羽織り、頭はフードで覆っていた。
手に持つ長剣は剣身の表面が削られていたが、一眼で名剣と解る圧があった。
顔の大部分を布のようなもので覆っており顔付きは分からなかったが、僅かにのぞいている部分から黒く爛れた皮膚が見えた。
「(ーー火傷、だろうか)」
恐怖と興味が湧いたものの質問は憚られた。
……男の目がギロリとこちらを観察している事に気が付いたからだ。
「彼は大丈夫。とりあえずは」
「…………」
リラの言葉を聞いた男は剣を納めて興味を失った猫のように背を向けて歩き出した。
「ああ、待ってよ。まだ説明とかして……まぁ、良いか」
リラはひとつ苦笑してからルギルへ声を掛けた。
「これから安全な所へ移動するから付いてきて。色々と聞きたいこともあるだろうけど、それは移動しながらにするから……ほら、早く。置いてかれちゃう」
そう言うなり、少女は男の後を追って駆け出した。
ルギルは急な展開に困惑していた。
突如現れた正体不明の怪物。
現象魔術の使い手たる少女と謎の男。
まだ警戒は解いていないものの、ルギルは少女の後を追った。
前も後ろもよく分かっていない街で一人取り残されるよりは遥かに「安全だ」と判断したからだ。
「……待ってくれ。ひとつだけ聞かせてくれ」
「何かな?」
隣へ追いつきながらルギルは少女へ尋ねた。
「彼は……?」
「名前かい? 彼に名前はないよ」
何が可笑しいのか、笑いながらリラは答えた。
「でも、私達は『猟人(かりゅうど)』って呼んでるよ。この街で『虚の獣』を狩っている不幸な男さ」
***
「今、どこへ向かっているんだ」
「猟人(かれ)の家だよ。街の外れの方にあるね」
ルギルは前を黙々と歩く猟人を見やった。
彼はここまで一切、ルギルとリラの方を振り返らなかった。
「『虚の獣』っていうのは?」
「私達が駆け付ける前に襲われたでしょ。あの醜い存在に」
「…………ああ」
思い出したくないのに、目を閉じるとその姿形ははっきりと浮かぶ。
人智を遥かに超えた異形の存在。
あの時に比べれば恐怖も薄れているが、それでも腹の奥底に重い物がある気分であった。
「あれは別の場所から現れたモノ。まぁ、私達とは決して相容れない存在さ」
「別の場所?」
「そ。こちらと隣り合わせの負の世界。虚の世界とでも言うのかな。概念としては聞いたことあるかな?」
「一応は」
魔術とも縁のある数学の分野において証明された場所。
この世界と鏡合わせのように存在し、互いの世界の均衡をとっているという。
「だが……それはありえない」
「どうしてだい?」
「確かに存在自体は証明されたが、互いの世界への干渉は原則不可能な筈だ。大魔術であれば理論上では可能だが、それも成功例はなかった筈だ。しかも、仮にそんなことをすれば世界の物理法則そのものが歪む」
「そうだね。その通りだ。……でも、残念ながらここではあり得るんだよ」
「どういうことだ」とルギルは問い返そうとした。
しかし、それよりも先に「見えた。あそこが猟人の家だ」と指差した。
その方向を見やると、ちょうど猟人が戸を開けているのが見えた。
「あれが彼の家か」
猟人の家は霧に包まれた湖のほとりにあった。
街の外れというだけあって周囲に建物はなく寂しい雰囲気ではあった。
しかし、家の造り自体は石造りの二階建てで、意外にもしっかりとしたものだった。
「そうだよ。築20年は越してるかな。でも、隙間風もないし外も意外と綺麗でしょ」
「ああ確かに」
感嘆しながらルギルは同意した。
手入れが行き届いているのか、外装に目立った跡や歩行に邪魔な雑草の類も見受けられなかった。彼女が整備しているのだろうか。
「ほら。そこで呆(ぼう)としてないで早く入りなよ」
気が付けば、リラは既に家の中に半身を入れてルギルを呼んでいた。
「……確かに。ここで突っ立っていても仕方ないな」
ルギルはそう独り言ちてから、少女の元へ駆けた。
***
「単刀直入に尋ねよう。君は魔術師だね。しかも東から来た」
猟人の家に着いて促されるままに椅子へルギルが腰掛けると、テーブルを挟んだ反対側のリラがそう問いかけた。
「……何故、それを」
「君の身体から強力な魔力を感じたからさ。まぁ、それだけなら魔力の高いだけかもしれないけれど、事象魔術をすぐに見抜いたからね。魔術に関する少なからぬ知識がある。…………それに、ここでは『魔術』ではなく『魔法』と呼んでいるんだよ。『魔術』と呼ぶのは東の方だ。あの時、君は混乱していた状況だから、ついその単語を使ってしまったんだね」
ルギルはしばし呆気に取られたが、すぐに「その通りだ」と認めた。
「……虚の獣と出会ってかなり恐怖したんだろうね。君はかなり警戒していたよ。でも、財宝を求めてやってきた人間とは違う。その目からは何か決意が感じられる」
「ねぇ。君の話を聞かせてよ。どうしてこんな酷い場所(くに)なんかにやって来たんだい?」とリラが尋ねる。
明るい声の調子こそ変わらなかったが、その目の輝きはルギルの真意を見定めようとしているかのように鋭かった。
「……わかった。この国の状況を教えてもらっただけじゃなく、そもそも生命を助けられたからな。こちらについて話すのは道理だ」
それをルギルも理解していた。だから、嘘を吐かず正直に話すことにした。
「俺はレサイルの国立魔術学院から派遣されてきた魔術師だ」
レサイル共和国。大陸の東に位置する一大国家であり、モールガンと並ぶ『魔法』もとい『魔術』国家である。
「ふむふむ。さしずめ君は『学院に所属する魔術師』……と言ったところかな」
リラの言葉にルギルは頷いた。
「今、共和国では謎の病——『崩泥(ほうでい)病』が広まっている。共和国だけじゃない。西の帝国や南の諸国、大陸全土で、だ」
『崩泥病』。
この病が確認されたのはおよそ2年前。
ザノシア帝国の東部の小さな村においてであった。
村人の数人が突如として、体調不良を訴えた。
初めは軽度の発熱や頭痛、軽度の関節の痛みで、「風邪による症状」と考えられていた。
しかし、数日経っても症状は緩和されず、発症してから1週間後には全身が引き攣ったような激痛に襲われ、発症した全員が身動きを一切取れなくなった。
それから数日後。全身を引き裂かれるような苦痛とともに身体の末端から泥化して崩れながら死に至った。
この病は瞬く間のうちに大陸全土に広まった。
病の治療法はもとい原因や発生源も一切が不明。
発症すれば確実に死に至る不治の病。
人々は恐怖を込めて「崩泥病」と呼ぶようになった——。
「共和国は様々な国や地域を調べられる限り調べた。共和国だけじゃない。他の国も同じだろう。しかし、駄目だった」
「外の状況は分かった。私はこの国以外の事は何も知らないからね。でも、それと君がここに来る理由がどう関係してくるんだい?」
「……学院の上層部は『モールガンに原因があるのではないか』と考えた。ここだけ全く情報がなかったからな」
「——ああ。そういうこと。だから、君が派遣された訳だ」
「そういうことだ」
本当はそれ以外にも個人的な理由があったのだが、「大事な事でもなし、ここで語る程でもないだろう」とルギルは口にしなかった。
「…………なるほどなるほど。君がこのモールガンへ来た理由は分かったよ」
ルギルの個人的理由に気付いているのかいないのか。リラは一瞬、彼を細目で見やったものの納得はしたようであった。
「よし。良いよ君が来た理由はわかった」
「良いのか。隠し事があるかもしれないぞ?」
「別に構わないよ。隠し事がないなんて”人間にとって”も面白みないしね」
「……そうか」
「俺の話はこんな所だ」とルギルは話を締めた。
「ありがとう。……しかし、『流石は学院』というべきだろうね」
「……それはどういう——」
「なぁに、君を派遣したのは『正しい』ってこと。その病。原因はこのモールガンにあるよ」
「……な」
さも当然、というようにさりげなくリラは語ったもののルギルは面食らった。
そんな彼の様子などいざ知らず、「この国の状況を簡単に説明しよう」と彼女は話し続けた。
「この国は今、歪んでいる」
「歪んでいる?」
「そう。時間も空間も全てがあべこべになっているんだ。街の惨状を見ていない人間だったら今の話を一笑に伏しただろうね」
「そうかもしれないな」とルギルは頷いた。
正直、まだ完全に実感がある訳ではないが、虚の獣という異常な存在に襲われた今なら否定は出来なかった。
「……どうしてそんな事になっている。いや、そんな事あり得るのか?」
「あり得るさ。実際、なっているんだから」
「しかし、だとしても、だ。何があったと言うんだ」
「外の世界だと、かれこれ10年前の事かな」
「——この国が闇に包まれた時か」
「……へー、外からはそう見えてるんだ」
さも可笑しそうにリラは少し笑ってから、「全ては一人の“魔術師”の暴走から始まったんだ」と続けた。
「ここへ来るまでに、簡単にだけど『負の世界』の話をしたね。覚えているかい?」
「ああ。……まさか、いや、そういうことなのか?」
「今の話だけで解るんだ。凄いね。察しがいいのは助かるよ」
「成功……したのか。負の世界への干渉が」
「うん。その通り!」
「な…………」
負の世界への干渉は理論上では実現可能とされていたが、一度として成功した事はなかった。それが為されたという事実も驚愕ではあったが、それ以上に干渉に成功した結果が予想された以上の"惨事"をもたらしている事実にルギルは絶句した。
『負の世界』に干渉する。それはつまり「世界間の均衡を崩す」という意味でもあった。あくまで予測の範囲ではあるが、「物理法則が乱れとても生命の生存出来る環境でなくなる」とされていた。
理論上では実現可能とされつつも成功例がなかったのは、大魔術の起動の難易度の高さもあったが、それによる被害が甚大であると予測されたため、事実上成功出来ないからだった。
「およそ10年前。この狂った世界を生み出したのは、一人の非凡な男だったらしい」
「らしい?」
「ここに関しては私も聞いた話だから。でも、概ね事実だと思ってくれていいよ。ーー宮廷魔法師の一員でもあったその男は、負の世界の力をその手にしようとして大儀式を行なったんだ」
「大儀式……どのようなら内容だ」
「この世界と負の世界を繋ぐ門を開いたんだ。その門を通して力を我が手にしようとしたんだろうね。まあ、結局はこの酷い有様になっちゃったけどね」
「じゃあ、その門が原因なのか」
「うん。そう。でも、勘違いしないでほしいのは、10年前に開かれた門自体は閉じられているんだ。ただ、その時この一帯には『呪い』がばら撒かれたのが厄介でね」
「呪い……?」
「そう。呪い。まぁ、負の世界へ干渉した際の影響のことだよ。時空が乱れたままなのもそうだけど、ここら辺の水や草木が毒を帯びたり……まぁ、色々さ。このモールガンにあったもののほとんどは変質しちゃった」
「……じゃあ、この街の人間は」
「うん。殆どの人間が既に死んじゃった」
「生き残っている人間は殆どいないのか」
「どうだろうね。確かに生きている人間は少ないけど、『人間』は比較的多いよ」
一瞬、リラの言葉がルギルには理解出来なかった。
「最初に門が開いた時に直接呪いを浴びたことと、この街の異常性——ほら、さっきも言った時空の狂いだよ——そのお陰で寧ろ死んだ人間がそのまま存在してるんだ」
「……『死人』がいるということか」
死、とは時間の経過とも取れる。
本来、死んだ生物の魂は魔力と共に水や空気、大地へ溶けてまた世界を巡る。そんな基本的な概念すらモールガンでは狂ってしまっていた。
「そ。死んでも死にきれない、と言い換えてもいいかもしれないね。……少し話が逸れたね。まぁ呪いのせいで厄介なことにはなってるんだけど、これの所為で折角閉じた負の世界への門ーー最初の物と比べれば小規模だけれどーーがあちこちに発生してるんだ」
「そうか。そこから虚の獣が現れるのか」
「そうそう。そして、新たな呪いも少しずつ溢れている」
「……読めた。その呪いがーー」
「崩泥病の原因だよ」
そこでリラは息をひとつ吐いて、「お茶飲む?」とルギルへ尋ねた。
「……いや、いい」
元々喉は乾いていなかったが、内容に衝撃を受けた上に得られた情報量があまりにも多過ぎた。
「……まぁ、君が目的を達成するためにやるべき事は単純さ。負の世界と繋がっている門。それを塞いでしまえばいい。そうすれば、この世界への呪いの浸食ーー新たな崩泥病の感染を食い止められる」
「……一つ疑問だ。どうして、話をしてくれた」
「そんなのは単純。君に今の状況を知ってもらうのが、こちらにとっても都合がいいからだよ」
「どんなメリットが?」
「私と猟人は虚の獣を狩っている。生活のためでもあるし、各々の使命なり欲望なりがあってさ。そして、新たに発生した門を塞ぐのも私達は行なっているんだ。……で、さ。厄介な所に大きな門が出来てしまってね。私も猟人もどうにかしたいと思ってたんだけど、人手が欲しかったんだ」
その猟人であるが「話す事はない」とでもばかり、ルギルが着いた時には奥の部屋へと引っ込んでいた。
「なるほど。俺にそれを手伝って貰おうとしている訳か」
「損はない筈だよ。おそらく、私と猟人が手を焼いている門が大陸に広まっている呪いの発生源だ。外では2年前に確認されたそうだけど、こちらではおよそ10日前発生したものなんだ。ああ、そうそう。さっきも説明したようにここは時空が歪んでるから、その分のズレはあるけど、まず間違いないと信じて良い」
そこで、リラは湯呑みに入れていたお茶を飲んだ。
「ルギルはまだこの街に疎い。一人だとまず間違いなく数日も持たない。協力してくれるなら住む場所も用意するし、街での生き方を色々と手ほどきもするよ。利害も一致しているし協力関係を結ぶのは悪くないと思うけど、どうかな?」
リラの提案をルギルは「よろしく頼む」と即決した。
ルギルはまだ完全にリラを信用しきっている訳ではなかった。
しかし、今の話が本当にしろ嘘にしろ、彼にこの提案を飲む以外の選択肢はなかった
「じゃあ、私達は仲間だ」そうリラが言った時、突如「バタン」と奥の部屋の扉が開いた。猟人である。
彼は二人など眼中になく、そのまま外へと飛び出していった。
ルギルは呆然と眺めていたが、リラには猟人の行き先が解っていた。
「……どうやら、また現れたみたいだね」
「現れた、って……虚の獣か」
リラは
「さぁ、行くよ」
「行くって」
「彼の後を追うのさ。いずれ君には猟人と一緒に虚の獣と戦ってもらうんだ。慣れるなら早い方が良い」
リラもそう言うなり、家を出て行った。
しばし逡巡したルギルであったが、すぐに2人の後を追った。
***
「……そうか。またアイツが現れたんだね」
ルギルが追い付いた時、猟人とリラは話をしている最中だった。
「分かったよ。雑魚の方はこっちで見とく。ちょうどルギル実力も見たかったしね」
猟人はリラの応えを聞くなり、より霧の濃い路地へと走って行った。
「さぁ、行こう」
「彼は……?」
「大物を狩りに行ったよ」
「……大物?」
「最近、この一帯に出没するようになった虚の獣の中でも凶悪な個体(ヤツ)さ。手を焼かされていてね。既に被害も出ているから、『そろそろ仕留めないと』と彼も息巻いてるのさ」
「俺達も彼を追わなくていいのか?」
「うん。あっちは彼に任せよう。まぁ、あれでも専門家だし。やられることはないだろうさ。それよりも私達は他の場所に現れた雑魚の方を狩ってくよ。まぁ、雑魚と言っても並の魔術師で苦戦する相手だけどね」
言いながら、リラは猟人の行かなかったもう一つの道へと歩き出した。
「何、魔法や魔術は効くから恐怖心を抑えられれば君でも勝てるさ。私も援護するしね」
***
二人は前方に立ち塞がるよう広がる霧を掻き分けるように歩いて行く。
「ひとつ聞きたいんだが、この霧は虚の獣と関係あるのか?」
「うん。もともと霧の多い地域だったけど、虚の獣が現れると霧がより濃くなり、そして、世界が歪む」
「……ん? この街は、時空が歪んでいるんじゃないのか」
「うん。歪んでいるよ。でも、ある程度は安定しているんだ」
「安定……」
「そうだね。戦う前に少し虚の獣についてレクチャーしておこうか」
「ああ。頼む」
「オーケイ。……この街には4つの区画がある。特に今いるこの第一街は時空が安定してるんだ。でも、虚の獣が現れている時は別だ。ルギルも経験したんじゃないかな」
「……すまん。分からない。一体、何が起こるんだ?」
「どこまで行っても霧が晴れない。出られない。——覚えがあるだろう?」
「……ああ」
「そう。見つかったが最期。逃げるに逃げられないのさ。……まぁ、ある程度実力があれば、自らの力で脱するだけでなく虚の獣を倒す事だって出来なくもない。単純な戦闘力なら猟人より強い者はいるし、倒した事実もある。だけどね——」
そこで言葉が途切れた。
「——どうしたんだ?」ルギルは問いかけた。
「好き好んで虚の獣を狩り続けているのは猟人だけだ」
「それは……何故だ?」
「皆、虚の獣が”怖い”からさ」
「怖い……」
ルギルはリラの言わんとしている事が理解出来た。
「確かに虚の獣は恐ろしかったが、襲われた事に対する恐怖じゃなかった。もっと根源的な……冒涜的なまでの未知への恐怖。アレは気を狂わせるんだな」
「その通り! 虚の獣を見た人間は正気ではいられない!」
リラはまるで優秀な生徒を褒める教師のような調子で言った。
「未知への恐怖は本能に刻まれた物だ。私達は負の世界を正しく認識出来ない。故にそこから現れた『虚の獣』に対しても同じ恐怖を抱くのだろうね。それを増幅しているのさ」
「……奴等の恐ろしさは理解した。だが、そうだとすると俺は戦えるのか?」
「大丈夫さ。精神的に辛いだろうけど遭遇するのは二度目で多少なりとも耐性はついてるだろうし、君の場合は————」
そこまでリラが言いかけた瞬間、突如として前方からこの世のものとは思えない腐臭と重圧二人は感じ取った
「……話は終わりだ。どうやら、お出ましのようだね」
一際、霧が濃くなっている部分。そこに狩るべき獣はいる。
向こうも二人に気が付いた。全ての目が一斉に獲物を凝視した。
「さぁ、獣狩りの時間だよ」
この緊迫な状況の中、リラは楽しげに笑っていた。
×××
濃い霧の中を男——猟人は駆けている。
「…………」
獲物(ヤツ)の気配は既に小屋を出た時から捉えていた。
男は更に速度を上げる。
心臓が早鐘を打つのに合わせて気持ちも高まり、血が沸き起こる。
————見つけた。
およそ50メートル先。
まだ姿は見えないが、確実にそこにいる。
気配の感じから、向こうはまだこちらに気が付いていない。
猟人は腰に携えていた長剣を抜いた。そして、両手で右肩へ担ぐような構えをとると、一分の迷いもなく獣へ向けて跳躍した。
その速さは放たれた矢の如き。彼我の距離が一瞬で詰められる。
完全なる奇襲。
加速の勢いも乗っており、並の獣であれば一刀両断されていただろう。
重い金属音と石の砕ける音が通りに木霊する。
振り下ろされた一撃は空を切り、路面だけを砕いていた。
僅かな空気の乱れを感知した獣は、全エネルギー駆使して刃が達する直前に回避していた。
「……避けたか」と猟人は剣を構え直しながら、瞬時に状況を把握する。
気配はまだある。だが、様子を見ているのか姿を現さない。
数秒。静寂が流れる。
猟人は構えをとったまま微動だにしない。
不意に「ヒュッ」と空気の切れる小さな音。刹那にも満たぬソレを聞き逃さなかった猟人は。音の方向へ剣を振るった。
硬いものが弾かれる音。同時に猟人の身体が吹っ飛んだ。
「————ッ!」
虚の獣は身体の末端を先鋭、硬質化。更に鞭状に変化させて遠距離から猟人を狙ったのだ。
受け身を取りつつも猟人は既に次の一手を『撃って』いた。
「キャアアアアアアアアアウッ!」
通りに甲高い悲鳴が響く。
虚の獣の胴体に猟人が持つものと同じ形状の剣が1本、深々と突き刺さっていた。
違いがあるとすれば、大きさがやや小さく錆びたような赤茶色をしていた事だ。
——猟人の扱う長剣はただの無銘剣ではない。
かつてモールガンの魔法師達の叡智を結集し鍛え上げられた究極の聖剣の成れの果てである。
刀身に刻まれた銘(かみ)の名は潰され、柄にはめ込まれた魔石は白く濁っており、在りし日の面影はない。
されど、至高の一振りである事に変わり無く、己が敵を屠りさる魔剣であった。
猟人は剣先を向ける。
すると、先程虚の獣を貫いた剣と同じ物が、猟人の剣から『射出』された。それも一振りだけではない。複数、それこそ雨霰(あめあられ)のような数が。
——この撃ち出されている錆びた剣は、周囲の魔力によって編まれたものだった。猟人の意思に合わせて魔剣が自動で精製、射出していた。
命中すれば虚の獣に痛手を与えたろう。
しかし、ここにいる個体は、この数日間猟人とリラが追っていた相手であった。
獣は身体の前面に無数の筒を展開。中から黒く小さい塊を多数、連続で発射。
無数の剣と黒塊が激突する。
「………………」
この展開を読んでいた猟人は、激突の余波に紛れて間合いを詰めた。
「キキキキキャキキイイィィイイイイイイッ!」
そして、獣もまた猟人へ迫る。
両者の刃と刃が激突し、剣戟が木霊する。
狩りはまだ始まったばかりであったーー。
×××
ルギルとリラは3体の『虚の獣』と相対していた。
ルギルが初めて遭遇した個体より小さいものの全身に目が付いており、3体とも四足の肉食獣のような姿形をしていた。
「怖いかい?」
隣のリラはこの状況下にも関わらず、楽しげに問うた。
「……え? あ、ああ……」
恐怖心はあった。「逃げるべきだ」と胸の奥で警鐘も鳴っている。
しかし、一目見た瞬間思考の全てが黒く染まってしまった前回と違い、今は目の前の獣を直視出来ていた。
この調子なら戦える。
ルギルは一度拳を強く握り締めてから、大きく息を吐いた。
「——大丈夫だ」
「そう。じゃあ、早速!」
そう言いながら、リラは右手を獣達の方へと向けると同時に光弾が壁際の一体へ飛んでいった。
流れるように自然な動作からの『早撃ち〈クイックドロウ〉』。
この一撃は敵も予測し得なかったのだろう。
放たれた光弾は獣へ命中し、身体を裂く。
ルギルも今の一撃に驚愕していた。しかし、それは彼がリラの高度な技術を理解し、警戒したが故の事だった。
「(『無詠唱(ノーカウント)』。しかも、あれだけの威力と発動の早さ——)」
魔法および魔術を使用する際、その発動には原則『詠唱』が必要であった。
物理法則をも改変させかねない程の強力な力である。しかし、それ故に準備と段階を踏まなければ正しく効果を発揮しないし、その代償も大きい。
この行為を行うからこそ、行使による反動を最小に抑えつつも望んだ結果を導き出せるのだ。
詠唱とはわかりやすく言えばプログラムのコード入力である。
その詠唱を行なわずに結果を導き出すのが『無詠唱(ノーカウント)』である。
並の使い手の中でも、無詠唱が出来る者もいるにはいる。ルギルも簡単な魔術であればこなせた。
しかし、発動するだけで多大な魔力を消費する。ましてや相手に傷を与える程の強力な魔法や魔術を、ほとんどノータイムで使用出来る者はルギルの所属する学院にもいなかった。
「ほら、ボサッとしてないで」
リラが声をかけた時には、ルギルは既に走り出していた。
「地に満ちし、多大なる力よ——」
ルギルの左手はナイフを握っていた。
果物ナイフのようなシンプルな形状であり、刀身は短く、やや蒼みがかった半透明である。これは彼自身が魔術によって鍛えあげた特別な得物だった。
「今、我が刃へ束の間の冴えを与えん」
1秒とかからずに詠唱を終えると、ナイフの刀身が僅かに光を帯び始めた。
最もシンプル且つ汎用的な魔術のひとつである『付与』。
ルギルは己が得物へ魔力を付与することで、刀身の変化および硬度、切れ味を強化しようとしていた。
詠唱から魔術の発動までおよそ2秒。
その間、虚の獣の攻撃を避けつつ間合いまで入らなければならない。
ルギルも脅威と判定したのだろう。
無傷の1体が身体を球体に変化させると、回避先を潰すように四方へ向けて鋭い棘を伸ばそうとした。
「————!」
敵の変化をルギルは見逃さなかった。
相手が何をするつもりなのか彼には分からなかった。
しかし、僅か2回ではあるものの『虚の獣』を目にしてきた経験から、刹那にも満たぬ時間で「危険」と判断した。
ルギルは進路を僅かに変えて通路右側の壁へ跳躍した。右足が壁面へ触れると同時に力を込めて蹴り、更に上へと移動する。
壁を蹴り上がった直後、無数の黒い棘が石畳の道路や煉瓦壁へと突き刺さった。
当たれば間違いなく致命傷。ルギルの咄嗟に上へと逃れたルギルの判断は正しかった。
壁を蹴って棘の届かない高さを維持しつつ、ルギルは魔術発動までの残り1秒を稼ごうとする。が、それを素直に見逃す程『虚の獣』"達"も愚かではなかった。
霧の中、砕ける音が連続する。
無傷のもう一体が壁を駆け登ってルギルへと迫っていた。
「キャアアアアアアアアアス!」
悲鳴のような音(こえ)と共に鋭く尖った前脚が迫る。
「————くっ」
空中で身体を捻りつつ、空いている右手で懐から新たな武器を取り出した。それは魔術を扱う者にはおおよそ似つかわしくない一丁であった。
「(——そこだ!)」
撃鉄は既に下ろしている。視界は悪いものの聞こえてくる足音と最後に見た動きから軌道を予測して引き金を絞る。
帝国で開発された最新の回転式拳銃(ダブルアクションアーミー)。
ルギルは学院にいる頃、伝手を使ってこれを手に入れ、自身の魔力に合わせて文字通り「魔改造」していた。
見た目の違いだけで言えば、フレーム表面に魔石が少し散りばめられているだけである。
性能面でも普通の人間が使用した場合、銃弾が発射されるただの銃でしかない。しかし、ルギルが銃撃した場合は別であった。
引き金を引くと魔石がルギルの魔力を感知。弾の精製構成を瞬時に変質させて小型の魔力爆弾と化す。
銃撃音の直後に続いて爆発音。
銃に不良は無し。弾も十全に効果を発揮した。
しかしーー。
「(ーー手応えが、ない)」
ルギルの確信と同時に、右後方から「ダン」という亀裂音がルギルの耳へと入る。
「(背後を取られたーー)」
銃口を向けている時間は無い。
さりとて回避しようにも先程身体を捻った時に空中での体勢は崩れている。
数秒後には、あの脚のようなモノに胴体を貫かれた骸を通りへ晒しているだろう。
ーーならば今、取れる手段は一つ。
この危機的状況において、ルギルは両目を閉じた。『虚の獣』の事は意識の片隅に置きつつ、それよりも尚、己が体内と周囲を流れる魔力の操作に集中した。
時間にしては刹那。しかし、今のルギルには長く苦しい時間であった。
空中を落ちていくルギルの右足裏に小さな風の塊が発生した。触ればあっさりと崩れてしまうほどの脆いそれを蹴って、ほんの僅かではあるが、ルギルは落下の軌道を変えた。
リラの使用した無詠唱魔法よりは遥かに小規模な無詠唱魔術。
虚の獣も対応して前脚を伸ばしてきたが服の一部を破くに留まり、辛うじて一撃を躱す事は出来た。
しかし、無茶な無詠唱魔術の行使による大量の魔力消費と急激な精神疲労がルギルにのしかかっていた。
戦闘の継続自体は可能であったものの、一度調子を整えなければならない。
————そして、ルギルがその状態になるのを見越していたのだろうか。ルギルの落下先に黒い影が一つあった。最初に球体針へ変化していた虚の獣であった。
視界の隅で待ち受ける絶望(はいぼく)を認識した時、ルギルは「してやられた!」と心の中で敵の強さに毒突いた。
獣は初手でルギルを「仕留め損なった」と理解するや否や四足形態へ戻ると、もう一体が交戦している間ずっと確実に止めを刺せる機を伺っていた。
「キキキキャアアアアアアアアアアアアアアア!!」
落下位置を見定めた獣は、不快な鳴き声と共に再度、球体針形態へ変形を開始。ルギルを仕留めにかかる。
ルギルにこの難局を乗り切る方法はもう残されていない。
「万事休すか」と思われたその時、虚の獣の身体が弾かれるように吹っ飛んだ。同時にルギルの全身が厚い風の波に包まれた。
「これは————」
「ゴメン。待たせたね!」
殺伐とした状況には似つかわしくない快活な声。
「リラか!」
「ご明察!」
手負いの獣へ止めを刺したリラが事象魔法で彼を援護したのだった。
風の力によってルギルが地面へふうわりと降り立つ合わせてリラもルギルの隣にやって来た。
「——助かった!」
「なになに。こっちも倒すのに手こずっちゃったからね。お礼はいいよ。…………それにしても、よく一人で持ち堪えたね」
「運が良かっただけだ。とっくに死んでてもおかしくなかった」
言いながら、ルギルは以前文献で読んだ古来の呼吸法を行ないつつ、魔力を全身隈なくへと循環させていく。
「面白い事してるね。それ、僧や武術家がやる呼吸だろ? 学院の魔術師なのに酔狂なことしてるね」
「戦いの時に役立つと思って習得した。実際、俺は学院所属と言っても主に荒事専門の上、魔術そのものよりは自身の肉体を使った戦いをするからな」
「みたいだね。もう平気かい?」
「……ああ。大丈夫だ」
調子を整えたルギルは、同じく状態を整えた残る二体の獣に相対する。
ナイフにかけた『付与』の魔術は既に発動している。ナイフを中心として魔力による半透明の刀身が形成されており、長さは腕の長さほどにまで伸びている。切れ味も下手な剣(なまくら)を優に凌いでいる。最早、光の剣と呼ぶべき代物と化していた。
ルギルの応えを聞いたリラは「ふふん」と笑った。
「そっか。じゃあーー」
パチ、っと空気が弾け、高濃度の魔力がリラの周囲に渦巻き始める。
「ーーさっさと終わらせようか」
続く
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