【完結】ラグナロクなんて、面倒なので勝手にやってくださいまし~ヘルちゃんの時にアンニュイなスローライフ~

黒幸

序章 ラグナロク前夜

第1話 神々の運命

 極北の大地ニブルヘイム。

 見渡す限り、どこまでも続く真白き氷原は美しく、そして残酷だ。

 そこに生きとし生ける者の姿はなく、死が全てを支配する地である。


 静寂を破るように大気を震わせ、大地を揺るがせる獣の咆哮が大地に木霊した。

 地響きを立てながら、現れた轟音の主は燦々と降り注ぐ太陽の光で煌めく、白銀の毛が何とも美しい狼だ。

 しかし、その獣を果たして、狼と呼んでもいいのだろうか?

 堂々たる巨躯を目にした者はそう思わざるを得ない規格外の獣がそこにいた。

 まるで燃え盛る炎の如く、爛々と輝く紅の眼は周囲を焼き尽くそうとするかのようだ。

 天に向けて、吼える顎は、全てを噛み砕かんとするほどに大きい。

 上顎は天に届くほどもあり、下顎は大地に接している。

 まさに全てを喰らい尽くさんとする終末の獣フェンリルの姿がそこにあった。


 大いなる獣を先頭にその後ろに従う軍勢は闇夜を思わせる黒き軍勢だ。

 まず、目につくのが独自の進化を遂げた魔獣だった。

 漆黒の毛皮に包まれた狼は他の地方で見られる通常種に比べ、一回り以上大きい。

 その四肢は非常に太く、しっかりと大地を捉える爪もそれ自体が凶器のようだ。

 既に絶滅したとされる狼――古代に生息した恐ろしい狼ダイアウルフ――だった。

 ダイアウルフの群れの側には剣のように目立つ長い犬歯を備えた剣歯虎スミロドンや複数の鎌首を僅かにもたげながら、蛇行する大きな多頭蛇ハイドラの姿もあった。


 魔獣の群れから、やや離れた位置をゆったりとしたペースで進軍するのは黒衣を纏った物言わぬ死者の軍勢だ。

 腐り始めた肉体を有する動く死体リビングデッドだけではなく、既に骨だけになった動く骸骨スケルトンの姿も見受けられる。

 左手に盾、右手には剣や斧、鎚といった得物を手にして、黙々と進んでいた。


 地上だけではなく、空もまた、黒く染められていた。

 まるで空を埋め尽くさん勢いで黒雲のように飛び交う飛行体は大型の蝙蝠が大多数を占めている。

 蝙蝠を蹴散らしながら、羽ばたくのは飛竜ワイヴァーンだ。

 黒い鱗に覆われたその体躯は強靭で大きい。

 ドラゴンの亜種と呼ばれるワイヴァーンだが、尾に備えた毒針だけではなく、ブレスが吐ける個体も存在することから、その危険度は限りなく高い。




 定期的に響く、耳障りな音。

 地面を激しく、何かが叩きつけているような音だ。


 音の発信源は門を開かれたニブルヘイムから、今まさに解き放たれんとする黒の軍勢を遥かに見やる場所に佇む一人の少女。

 整った面立ちは美しく、まるで磁器人形ビスク・ドールのようだが、面影にはあどけなさが残っている。

 年の頃は十代前半と思われる少女のやや吊り目気味の双眸は猫を思わせるものだ。

 紅玉ルビー色の瞳は遠くを行く、軍勢を静かに見つめていた。


 陽光に煌めく、白金の色をした髪プラチナブロンドを両サイドでまとめ、真紅に染められたレースのリボンで飾られている。

 身に纏っている濡れ羽色のゴシック・ドレスにはふんだんにレースがあしらわれ、フリルの飾りは施されているもののどこか、大人びた雰囲気を醸し出していた。

 ドレスのデザインも非常に変わっている。

 短く、膝上までしかないスカート部は幾重にも重ねられた凝ったデザインになっており、太腿の抜けるように白く、美しい肌が垣間見えた。

 両袖も手首まで覆い尽くす着物の袖を思わせる意匠でありながら、肩と二の腕は露わになっており、こちらも白い肌がコントラストを描いているのだ。


 ズシンと大地が軽く、震える。

 少女がお尻の辺りから、伸びている長いモノを地面に激しく、叩きつけたのだ。

 短めのスカートをやや押し上げながら、伸びているソレはどう見ても何かの生物の尻尾にしか見えない代物だった。

 漆黒の鱗に覆われ、うねるように自在に動いている。

 彼女の意思で動くのか、時折、地面に激しく叩きつけるせいで耳障りな音が立っていたのだ。


「姫。本当によろしいので?」


 少女の背後に立つ影は頭一つ以上、少女よりも上背がある。

 黒の外套を羽織った上半身を覆うのは白銀の色をした金属製の帷子だ。

 しかし、腕の部分がないデザインのもので肩から二の腕までが露わになっている。

 無造作にざんばらとした状態を晒す髪は燃える炎のようにどこまでも赤い。


「……大丈夫ですわ。スカージ。大丈夫」

「ですが、このままだと始まってしまうのでは……」


 苛立ちを隠そうともせず、右の人差し指の爪を無意識のうちに噛もうとしていたことに気付いた少女のルビーの色をした瞳に初めて、焦りの色が浮かんだ。

 少女の両手の爪はまるで狩猟者たる獣の鉤爪のように長く鋭く、尖っていた。


「兄様でも子供のおつかいくらいはこなせましてよ」

「しかし、あの御方のオツムはある意味、五歳児以下ですよ」

「それは……否定出来ませんわね。でも……」


 少女は『お祖父じい様から、グングニルを借り受けるだけでしてよ』という言葉を飲み込み、口に出すことは無かった。

 実の兄でありながら、その簡単な用件ですら、達成出来ない可能性が高いことを思い出したからだ。


神々の運命ラグナロクなんて、起きませんもの」


 少女の呟きは誰にも聞こえることなく、風に流れて行った。

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