生者の町
目覚める。意識は重い。……戦いの後はいつもそうだった。イリーナは沈思している。ここはどこか。どこに向かっていたのだったか。身を起こし、ぼんやり辺りを見回すと、暗い部屋の片隅に淡く光を放ちながら佇む少女がいた。
少女はまるで気配を殺してるかのように静かだった。イリーナはまず驚き、そしてこの不思議な少女とともに短い旅をしてきたことを思い出した。眠っているのかと思えたが、「ラナ?」とおそるおそる声をかけると、少女は小さな椅子の上でゆったりと眼を開く。そして常と変わらない調子で、「ようやく起きたのね」と言った。
ここはどこかと訊ねれば「ここは町の、大きなお屋敷。広すぎて迷ってしまいそう」と少女は言った。イリーナは寝台から身を降ろす。まだ体の節々が痛むが、確かめたい事が山ほどあった。「一緒に見て回りましょう」鎧を身に付け、帯の留め具に武器を落とす。正装のようなものだ。盾を持つかは悩んだが、見慣れぬ部屋に貴重な品を置いていくのは据わりが悪い。大盾を背負い、イリーナはラナを連れて屋敷の一室を出る。
廊下は暗く、部屋の扉が無数にあるが人の気配などは感じられない。どのみち用のない場所ばかりだ。階段を見つけると、イリーナは迷わずに下の階にくだっていった。
玄関口には僅かながら燭台に火が焚かれていた。人の姿も見える。使用人らしき彼女はイリーナたちを振り向き一礼した。「おはようございます、騎士様。お迎えにあがれず、申し訳ございません」「……いえ、構いませんよ」イリーナは安堵する。(普通の人だ)何事も変わらぬ、平凡な朝のような挨拶。それも、この冥界では奇妙なこととも取れる。
使用人はイリーナの恰好を見て「おでかけですか」と訊ねた。「いえ。あの、ケイ卿はどちらに?」訊き返すと使用人は淡々、「閣下は警邏の最中です。どこにおられるかは、私も与り知りません。ですが町中におられるのは確かかと存じます」と答えた。
「丁寧に、ありがとうございます」イリーナは礼を述べ、踵を巡らす。その際に使用人は「おでかけになるのでしたら、どうかお気を付けて」と思案げに言っていた。イリーナの体を気遣ってのことだろう。「平気です。私、頑丈ですから」と彼女はやや自慢げに返す。使用人は一礼し、静かにイリーナを見送った。
ラナと共に屋敷の小さな前庭に出る。そこには整然と草木や花が植えられ、人の営みの空気というものを感じられた。「空……白い」イリーナは微かに感嘆を零す。ここには、闇が薄かった。永遠の夜ではなく、僅かながらも午前の陽の光が届いているのだ。
然るに、冥界の闇とは天を覆うものではなく、霧のように地上を隠すものなのだろう。闇が濃い場所もあれば、薄い場所もある。「あの壁を越えたら、急に明るくなったの」とラナは述べる。イリーナが気絶して町に運び込まれた際にその変化を目撃したのだろう。
屋敷は町の小高い丘にあり、坂の下に街並みが見える。壁で区切られた街区は井井たる様子で、イリーナが通った壁の向こうの荒れ果てた様子とはまるで異なる。町の中央には司法神教の寺院が見え、頂は鐘楼となっていた。イリーナが幾度か聴いた、時を報せる鐘。この地は陽が差すため、冥界の中にあっても正しい時を知れるのだろう。
閂のかからぬ門を開き、二人は敷地を出た。坂をくだっていけばすぐに街並みに入る。「私、嬉しかった。ここに陽の光が届いていることも、人の息遣いが感じられることも」人々は家に篭もっているのか、姿が見えない。しかしどこからか子供の泣き声や、職人が鉄を打つ音が聞こえてくる。『銀なぞはいらん。冥界では誰も使わぬ』鍛冶師の言葉が、ふと思い出される。在りし日はこの道に客を呼び寄せる商人の声や、往来する人々の声が賑わっていたのだろうか。なぜ、とイリーナは思う。だが言葉にならない。この町は未だ、死してはいないのだから。「……ええ。そうですね、ラナ」
馬の蹄の音が聞こえる。振り返れば騎士ケイだ。「これは、閣下」とイリーナは言う。ケイは馬の上で項垂れた。「閣下と呼ぶのはやめてほしい。私は君主などではないのだ」彼はやはり警邏の途中で、イリーナたちには屋敷に戻って待っているように伝えてきた。イリーナは「もう充分休みました」と言い、「どうか供をさせてください。この町を見て回りたいのです。私ではなく、ラナのために」と申し出た。ケイはイリーナが連れている不思議な少女を見やる。「ラナと言うのか」「それも私が付けた名です。本当のところは何もわかりません。この子自身にも。しかしこの町の景色を見れば、何か思い出すこともあるかもしれません」ケイは頷いた。「よかろう。付いてくるがいい」
警邏と言っても、怪しき者の影は見えない。「まれに壁の外から亡者が入り込んでくる。警戒は怠れないのだ」と騎士ケイは話す。さほど時をかけずに壁内をぐるりと回ったが、幸いに異常は見られなかった。この静けさこそが異常と取れようが、腹も空かぬ冥界では一般の都市における犯罪など起きようもないのかもしれない。「何か思い出しますか?」イリーナはラナに問うたが、返事は無言であった。
一際高い壁の傍には砦があり、兵士達が槍を交える音、かけ合う怒声が聞こえてくる。町中とは一線を隔する熱気だ。「軍を編成してはや数年。彼らは士気を保ち続けている。亡者がいつ攻めてくるともしれぬのだ。気を休める者は、一人もいない」町に住む男は、ほぼすべてが兵に加わっているらしい。それが町の静けさに繋がっているのだろう。
「不思議です」イリーナは砦を見上げ、呟く。「ここは確かに生者の町であるようです。町を守るために努力する兵士もいます。だからこそ、不思議です。なぜ冥界にこのような町があるのでしょう」かぶりを振って、言葉を改める。「いいえ、違います。なぜここは冥界なのでしょう。この町は明らかに人の手により作られたもの。ここには、より多くの人々が生きていたはず。このような地になぜ冥界が広がるのでしょうか……」
イリーナの声はひどく寂しいものだった。僅かな間だが、この冥界という地に旅をして抱いてきた違和感を、ようやく言葉にした。それがこのように寂しい思いであったのだと、イリーナは今更に自覚していた。その手をラナは強く握る。イリーナはラナを見下ろし、顔を覗こうとした。だが、彼女は何かを思い出したのではない。おそらく今のこの少女はイリーナと同じ思いを抱いていた。イリーナはもう一度かぶりを振り、手を握り返した。
一行は屋敷へと戻った。使用人はケイを出迎え、「アルマ様がお戻りです」と告げる。ケイは「ちょうどいい」と頷き、イリーナ達を連れて客間へと向かった。話をするならば腰を落ち着けて話したいと言われ屋敷に来たが、さてアルマとは何者かとイリーナは訝る。
客間には黒いローブを着た魔女のような女がいた。そして実際、彼女は魔術師である。魔女はアルマ・モロウと尊大な態度で名乗り、我が家のようにイリーナたちを出迎えた。「イリーナ、きみには僅かにだが魔力を感じるね。女には誰しも魔術の素質があるんだ、そんな武骨な成りをしているのがまったく惜しい。比べてラナ、きみは凄まじい魔力だ、輝いているようにさえ見える。それは魔術的な光だ。妖精らしくもある。まあ元を辿れば人間も妖精も同じさ。だから人間の中にもあたしのような魔法の天才が生まれるんだもの」魔女アルマはこちらが名乗っただけで間柄を間違えたかのように長々と話しかけてくる。イリーナが面喰っているとケイが咳払いして彼女を止めてくれた。「よいか、アルマ殿」
アルマは半ば浮かしかけた腰を座椅子に沈めて、舌打ちする。魔法の天才と言ったが、魔術師には見合わぬ若々しい姿。否、ゆえにこそ天才なのか。イリーナはおずおずケイに「この方はいったい」と小声で訊ねた。「……アルマ殿はそなたと同じ、冥界を冒険する探索者の一人。そして我々の協力者でもある」と、ケイは淀みなく答える。「以前、そなたに渡した薬も彼女が作り出したもの。魔術師にしか作れぬ秘薬であった」「まあ……」
イリーナは僅かな驚きの後、アルマに向け深々と礼をした。「ありがとうございます。お陰で助かりました」「何の話かな。あたしは生まれてから誰かを助けた覚えなんてない。それよりもケイ、この子たちを交えて何の話をしようっていうんだ。あたしからの報告は聞かないのかい。面白いものを見つけたよ。東の山脈にはまだ……」「それは後で聞こう。まずはこの者達と話をしたい。この地のことを何も知らぬ様子だ。同じ生者として正しき導きを授けなければならない」「真面目だね、面白みのない男だ」アルマは立ち上がった。「あたしは話しすぎてしまうからね、ちょっと菜園の様子を見てくるよ。聞きたいことはそこの堅物がなんでも答えてくれる。好きにしていくといい、お嬢ちゃんたち」
そう言って魔術師は姿を消した。ケイは苦い顔をしている。「惜しいな。彼女ならば、話せることも多いのだが。なにぶん、私は神秘のことに疎いのでな」イリーナも同じだ。だが、彼女たちがそのような驚異の領域に身を置いているのも事実。魔術師が持つ知識は冥界での助けになるはずだった。「構いません。彼女には改めて話を伺うことにします。今はケイ卿が知る限りのことをお話していただければ」「私に話せるのはこの地にあった事実、純然たる歴史だ。それでよければ話してみよう」ケイはそう前置きし、語り出す。
「かつてこの地はホルンと呼ばれた小国であった。山脈に閉ざされ他国とは滅多に交流を持たぬ辺境の地であったが戦はなく民は平穏の内に暮らしていた。しかし数年前のこと。北の山脈から突如、闇が溢れ出した。そこは禁足地と定められた地。夢と現が重なる歪な場所であったと伝わる。そこから溢れ出た闇は国を覆い尽くし、亡者溢れる世に変えた。闇とともに生じた妖精は亡者を下僕として従え村や町を襲った。その軍勢に我らは抗い、やがて、滅ぼされた」語りに僅か、力が篭る。それを抑えるように騎士は声を落とした。
「私はホルンの騎士だ。王亡き後、国が滅びた後もそれは変わらぬ。私は生き残った民を救い出し、彼らを率いて安息の地を求めた。辿り着いたのが今在る名もなき都市だった。すでに亡者に滅ぼされた土地だったが、その数は少なかった。我らはここを拠点と定め、亡者を倒し、家を建て直して復興した。かつての都市の姿には程遠いが民が身を守るには充分な砦となっている。私はここの兵を率いて、亡者と戦いその安寧を保っているのだ」
屋敷はこの町の名士とされる富豪の土地だったが、現在は軍の司令部として騎士ケイが身を置く場所となっている。彼を領主と呼ぶ者もいるが、ケイは己には不似合いな名だと感じていた。騎士ケイにとり、君主とは亡き王一人のみ。彼は領地を持ったこともない。民を守るのはそれが王の最期の望みであったためだ。
「イリーナ殿。そなたには尋ね人がいるのだったな」問われ、イリーナは静かに頷いた。「ええ。祖国の王女です」「……そうか。その者は、北の山脈へと向かった。闇の根源。そこに求める者の魂があるはずだと」イリーナはにわかに眼を見開く。そこに、王女が。「そうでしたか。ありがとうございます、お話してくださり……」「構わない。しかし、かの暗黒山脈に向かうのは無謀なことだ。私はあの騎士を止めたが、制止などは聞かずに行ってしまった。恐らくはそなたも同じなのであろう。私にはもはや止める気などない。だが旅立つ前に、よく考えられよ。ここで引き返すべきか否かを」
北の山脈が危うい地であるなら、より放ってはおけなかった。だがその意を決する前、鐘の音が響き渡った。時を報せる鐘ではない。砦に備えられた、急事を報せる鐘である。「話はここで終わりだ。行かねばならない」「何があったのですか」イリーナに問われ、逡巡の後ケイは答えた。「亡者の軍勢だ。いまの冥界は幾つかの領地にわかれ闇の妖精が統治している。そのうちの一角がこの生者の町を落とさんとし、軍勢を送っているのだ」「……そんな」イリーナは立ち上がる。そして憤慨した。「それを先に言ってください!」
騎士は戦棍を握る。確かに己は王女を捜すために冥界に来たのだ。だが、他のすべてを見過ごしていくほど非情にはなれなかった。気づけばラナは客間の扉に立ち、イリーナを導くようにそこで待っている。「行こう、イリーナ。私もあなたを助ける。……いいえ、この町にいる人々を助けたい。なぜだか、そう思うの」ケイは眼を眇めた。この少女は、いったい何者なのか。だが魔女アルマが示した通りならば、尋常の存在ではあり得ない。ケイの逡巡はけっして長くはなかった。「被害を抑えられるに越したことはない。悪いが力を貸してもらおう。ただしラナはイリーナ殿の傍を離れぬことだ。魔力があるとはいえけっして無謀を働いてはならない」二人は頷いた。いま再び戦いの時が迫る。
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