旅路
イリーナは冥界に来てから一切食事というものをしていなかった。
騎士ケイから貰った薬は傷口に塗るではなく飲むものだったが、それ以外のものは何も口にしていない。あれは苦かった、と素朴な所感を持つ。
だからといえ、哀れに飢餓を感じながらほうほうの体で旅をしているというのでもない。そもそも、腹が空かないのだ。
ここが時の流れぬ冥界の地であるゆえか、あるいは、冥界に潜るうち己もいつの間にか亡者と成り果てているのか……。益体のない想像をしながらいつ均されたのかもわからぬ平野の街道を歩いていると、目の前に一匹、兎の影が走り抜けていった。「おや珍しい、獣とは」イリーナは煌々と火を湛えるカンテラをそちらに向けた。兎はすでに見えない。
この冥界は生の気配に薄かった。獣の足音もさえずる鳥の声もなくたまに聞こえるのは吹き抜ける寂しい風の音のみ。それでも草木があるのならそれを食む獣やその獣を喰らう大きな獣がいたとて不思議はないはず。考えられるとすれば、彼らも腹が空かないのだ。ゆえに活動することもない。太古から続く自然の営みすらここでは停滞している。
(でも、何も口にしないというのもつまらない)イリーナは標的をあの兎に定めた。まだ近くにいるはずだ。何はなくとも冥界で初の食事にしてみせようと眼を光らせる。
と、そのとき下草を掻き分けて走る獣の足音が耳に届いた。イリーナは石を拾い上げ、その方向に全力で投じる。
凄まじい勢いで風を切った石は遠くに流れる川の水面に当たり大きな水飛沫を上げた。「川、流れてたんだ……」イリーナはやや驚き、そちらの方へ走った。兎は大きな水音に怯えたのかすっかりと気配を消している。「そんなにうまくいかないか」溜め息を吐き、振り返って街道に戻ると、イリーナは己がどちらの方から来たのかがわからなくなった。「水はこっちから流れてきていたはず……」独り言を残しながら、また一歩を歩き出す。やがて行き当たる三叉路には看板が立っていたが、人の手で描かれたと思しい図像は風に擦れて読めなくなっていた。「こちらの方が道が広い……」また一歩を歩き出す。
あてどない旅路だった。果たしていつ生者の町に辿り着けるのか。鍛冶師に町の詳しい所在を訊くべきだったかと後悔もする。それほど遠くではないはずという根拠のない勘が災いしていた。知らぬ土地では何よりも情報が大事であるのだ。ましてイリーナは冥界をあまりに知らなかった。ここに如何な歴史があり、如何な理があるのか。そしてなぜ……イリーナがいた現世と地続きであるこの土地に亡者の世が広がっているのか。イリーナは、何をも知らなかった。
古い地図では冥界が在るこの地に『ホルン』と記されていた記憶がある。それのみだ。その地図も旅の途中で路銀に替えた。大雑把でわかりにくい地図だった。現世での旅路で出会う者は皆、「ここから先には進まない方がいい」と彼女に言った。その先へと進めば自然と冥界に辿り着いていた。ここまで来れたのだ、歩む限りはいつか尋ね人も見つかるはずだと己に言い聞かせてイリーナは暗闇の中を彷徨い続けた。
するといつしか篝火の光が見えた。誰かがいるのだと期待を持ち近づけば、意外にも、そこにあったのはただ一人の少女の姿のみであった。少女の体は篝火と同じように仄かに光を放っていた。否、少女こそが火の正体であったのだ。温かなその光に包まれるように一匹の兎が少女の腕に抱かれ身をうずめていた。「あなたは……」イリーナが問うと兎は身を起こし少女の腕から逃れて走り去っていく。「あの子、何かに怯えていたみたいね」少女は神秘的な声を闇に響かせた。「かわいそう」「……そりゃ、悪いことをしました」イリーナは罰が悪そうに頭を掻く。対して少女は首を傾げた。「なぜあなたが謝るの?」
不思議なこの少女にイリーナは改めて名を訊ねると、「わからない」とだけ返された。生者か亡者かと訊ねるとそれも「わからない」。いつからここにいるのかと訊ねると……。「きみ、自分のこと何もわからないの?」この問いに少女はようやくこっくりと頷いた。
イリーナは困ってまた頭を掻く。「……どこに町があるのかとかは、わからないよね」それを聞いた少女はゆっくりと宙に指を差し向けた。「向こう」と、ちょうどそのとき、鐘の音が鳴り響いた。夜が巡ったのだ。「ああ、鐘が鳴るなら、そこに人がいるはず」とイリーナは得心する。鐘の音は近かった。ふと少女を見降ろし、「一緒に来ますか?」と訊ねてみる。輝く少女は静かに頷き、立ち上がった。二人の奇妙な旅路の始まりだった。
二人で歩むうち騎士は少女の名前を定めた。「ランタンとかどうかな。輝いてる感じがするでしょう」「私はものじゃない……」少女が不満を表明したためひとまず『ラナ』と呼ぶこととなった。そしてその後も『ラナ』が彼女の呼び名として落ち着くこととなる。
イリーナはラナに己のことを話した。大事な人を追いかけ冥界にくだったということ。騎士であること。騎士とは主の命で戦に加わる者のことであり、好き勝手に冒険している自分はひどく不実な騎士だと自虐したりもした。ラナは頷いたり首を傾げたりしながらイリーナの話に耳を傾けていた。「なんだか、大変そう。私も何か力になれたらいいけど」そう零したラナにイリーナは眼を細めて、「優しいですね。私は人の運には恵まれているみたいです」と、得がたきことのように言っていた。「私は優しいの?」ラナは問うた。「きみはまだ子供で、しかも自分のことすらわからないのに、見知ったばかりの私の力になろうだなんて……。そこは少し珍しいですね」イリーナは頬を掻きつつ宙を見つめた。考えるだに、ラナは不思議な子供である。「でも、私の使命は私が果たしますよ」
ラナが指し示した通り、街道の果てに町を囲っているらしき巨大な壁が立ち塞がった。「やっと着いた……」そう安堵しきったように項垂れたのも、無理からぬことだったか。二人は壊れた石門を潜る……その先に広がる景色にイリーナの足取りは、重くなりゆく。
町に篝火はない。壁の内に満ちるは一杯の闇。カンテラで辺りを照らせば割れた石畳、打ち棄てられた荷車、朽ちた建築、亡者が遺した骸が次々に浮かび上がる。生者の日々の痕跡がここには確かに残っていた。だが、そのすべては既に失われている。滅びた町が、旅人たちを出迎えていた。
イリーナは落胆を覚えた。ここは生者の町ではないのか。そも、生者の町など初めから存在しなかったのだろうか。騎士ケイの姿を思い浮かべる。あの男すら、幻だったと? 否、そのようなはずはない。確かにその姿を見、声を聞いたはず。では、いったい……。
「イリーナ……」ラナは仄かに光る指先で指し示す。イリーナも気配を感じ取っていた。亡者の骸が動き出している。否、それは骸などではないのだろう。骸の容を忘れられぬ、亡者の魂の影だ。そうでなくば、死した人間が動き出すはずもなかった。
イリーナは現世において冥界に旅立てと彼女に告げた魔術師の言葉を思い出していた。『亡者は血に飢えている。生者の血肉を奪えばそれは己の肉となり現世に復活することが敵うからだ。亡者を見れば敵と思え。そなたなど彼奴らの恰好の餌食になろうからな……』その言葉のすべてが正しいとは思えない。イリーナを救った亡者とていた。だが、冥界に落ちた亡者の多くとはそのように悪心を抱く存在だったであろう。他ならず、今の彼女の眼の前に立つ亡者は血肉を求め、据えた目付きを此方に向けているのだから。
「下がって、ラナ。私があれを倒します」イリーナは戦棍を構えた。このような場所で、くたばってはいられないのだ。(何としてでもこの亡者の世から王女を探し出す。たとえ何処にも手がかりがなくとも……!)
亡者は唸りを上げ、素手で襲い来る。恐れなどは残っていないのだろう。生者を見れば血肉を奪おうとする理性なき悪鬼。それが無辜の人間から生じたものであったとしても、今のイリーナにはそのように断ずる他なかった。
彼女は大盾で亡者の突進を受け止め、弾くと、その脳天に容赦なく棍棒を喰らわせた。亡者の頭部は破砕し、赤い塵となりゆく。それが死した魂に与えられた仮の器であったかのように、塵の山と化して亡者は消え去った。
イリーナは闇の中に気配を探る。亡者は未だ数息づいており、此方の動きを伺っていた。イリーナ一人であれば突破もできよう。だが彼女の背にはラナがいた。「逃げましょう。どうやら場所を間違えたようです」しかしラナはかぶりを振り、イリーナの横に並んだ。「この先に、誰かがいる」「誰か……?」「多くの人の息遣いを感じる。私も知りたい。ここに何があるのか、私が何であるのか」知らねばならない。それはイリーナとて同じであった。より多くを知り、冥界探索の助けとせねばならない。己の使命を果たすために。「しかし……」反駁するイリーナに一体の亡者が襲いかかる。イリーナは前に踏み込み、大盾で亡者に激突した。更に一体の亡者が闇から躍り出る。ラナは無造作に手を掲げた。
その片手に纏う輝きがいや増していく。イリーナはその光に振り向き、眼を見開いた。この少女が秘める不思議の一端、それが今、ひらかれようとしている。
「留まれ」ラナの腕から光の矢が放たれた。その矢は輝く絹糸の束であった。闇を掃い、切り裂くように飛ぶ光糸は拡散し、一体の亡者を閉じ込める光の繭と化す。
イリーナは目の前の亡者の頭を叩き割り、更に光の繭に囚われた亡者をも叩きのめした。「すばらしい、ラナは魔法使いだったんですね!」興奮した口調で話すイリーナを他所にラナは次々に光糸の矢を放ち、闇に潜む亡者の動きを封じていく。「今のうちに行こう」頼もしいその言葉に頷き、イリーナはラナの手を取って動けぬ亡者の群の間を走り抜けた。
「おい、あんたら!」と何者かの声が響く。滅びた町の只中、その奥には更なる壁があり、二人の男が壁の門前に立ってイリーナたちに声を投げかけていた。「あんたら、生者か! よくここまで辿り着いたもんだ!」「は、はい!」イリーナは走りながら希望に満ちた声を返していた。「今、門を開ける! さっさと入ってこい!」もはや亡者が追ってくる気配はない。それでも気が逸った。イリーナはラナを抱え上げ、門前へと急いだ。
門番は旅人達を迎え、「変わった嬢ちゃんたちだ」と言った。「あんたは、騎士か? そんで、そっちの嬢ちゃんは……」「いいから、さっさと通すぞ」と隣の門番が急かす。「あなたたちは生者ですか?」イリーナがラナを降ろしながら問うと、「死んでるように見えるか、俺達が」と彼らは笑った。「ああ、よかった。それなら、やはりここが……」
安堵したそのとき、イリーナの背に、冷たい感覚が走った。
怖気とも言えよう。死への恐れとも言えよう。その根源的な恐怖を、なぜかイリーナはここに至って、鮮烈に感じ取っていた。
すぐさま彼女は振り返った。忘れがたき存在がその眼に映し出されている。
「痛え……」角を失くし潰れた側頭を手で抑え、ふらふらと覚束ない足取りで迫り来る。「痛えよお……」鋭い鉤爪を持つ妖精。その者がイリーナを追ってきていた。
「なんだ、あいつは」門番が訝しがる。その声は震えを帯びていた。「妖精、なのか?」「馬鹿な。こんなところに居るはずがない。あれから何年経ったと……」「お二人とも。この子を連れて、門を閉じてください」イリーナは、己でも驚くほど冷然と言っていた。
その意を察し、門番は慄く。「あ、あんた一人で戦うつもりか。クソったれ、俺も戦うぞ。妖精がなんだ。門を守るのが俺達の役目だ」槍を持つ手を震わせる門番を強いて制し、「あの妖精は私を狙っています。それに並の人間に敵う相手ではない。大丈夫、私は頑丈ですから」イリーナは言い残し、大盾を構えて突進する。
それは一瞬にも満たなかった。騎士は持てる膂力のすべてを用いて妖精に盾をぶつけ、押し切り、壁から引き離す。妖精はその間際に抵抗するでもなく笑みすらを浮かべていた。「ああ、ようやく見つけたぞ。おれの角をへし折ったうつくしい女。おまえを思うたびに傷痕が疼いた。頭が痛んで、痛んで仕方がない!」廃屋の外壁に妖精を叩きつけ破砕し、両者、屋内に転がり込んだ。廃倉庫であったのか、広々とした空気の流れを肌に感じる。
数歩離れた距離に立ちながら、イリーナは闇の中にいる妖精の変化を感じ取っていた。かの妖精は人間の男のような成りをしており、それは確かに彼の容のひとつだったろうが、イリーナが見た怪物とはより悍ましき姿をしたものだった。
匂う、獣の気配。闇の中で妖精の輪郭は肥大し、その身は炎を纏う。炎の内に在るのは、角を冠する黒い巨犬。違いなくイリーナを傷つけた甚大なる妖精の荒々しき形象であった。
倉庫は一瞬で熱気に満たされる。その中にあってイリーナの足は震えていた。果たして己に勝ち目はあるのか。(否、勝たなければ)今、ここで、この妖精を除かねばならない。さもなければあの壁の内にあっただろう生者の町が消えてなくなる。あの少女も助からぬ。そして何より、己が死ぬ。王女を二度とこの眼に映すことも敵わぬ。それだけは。
イリーナは笑みを浮かべていた。獰猛に牙を剥き。両脚を地に打ち付け、大股を開く。「さあ、さあ、勝負です! 我はイリーナ・マクレガン! 我が君、我が愛を追いかけ、冥界にくだりし騎士! 冥界の住民よ、その庭を守るつもりあらば、私は棍棒以ってそのド頭叩き潰してやる! 冥界の土を舐めるのはどちらになるか、勝負と参りましょうや!」無茶苦茶な口上をまくし立てながら戦根を振り上げる。恐怖を押し殺し、意地を通すため。たとえ蛮人と誹られようが構わぬと己を名乗り上げた。うら若い娘の顔だちにだらだらと汗さえ流しながら。冥界にくだった女騎士イリーナはこの夜、冥界の破壊者となる。
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