ファントム・ブレイン~ぼくの幻影戦闘録

岩間 孝

CODE0 悪夢

 冷たく白い床が延々と続いている。

 空には真っ黒な雲が空にひしめき合っていた。

「ここはどこなんだ?」

 ぼくは煌めく稲光と巨大な銅鑼を鳴らすような低音に、身をすくめて呟いた。


 ずっと遠くでは、空の雲と床が重なり合い、黒と白が滲んで混じり合ったような色に見える。

 ぼくは、とぼとぼと歩いた。当てがあるわけではなかった。

 すると、突然――

 轟音と強烈な光が弾けた。


 目の前で電気の糸が火花を散らし、黒い煙が渦を巻く。空で轟いていた雷が、すぐそこに落ちたのだ。

 突然の出来事に、尻餅をついて後ずさる。膝が震えていたが、やっとの事で立ち上がると、よろよろと逃げ出した。


 しかし――

 黒い煙は進む方角に移動し、行く手を遮った。速度を上げれば上げただけ、同じ速さでついてくる。


 息を荒げ逃げていると、何かが足首に絡みついた。

「ひっ」

 悲鳴が喉の奥で鳴り、その場に転んだ。

 足首に絡みついたそれは、黒い煙が細長く凝り固まったもので、うねうねと動いていた。


 慌てて両足をこすり合わせると、文句があるかのように、いったん強く締め付け、離れていく。そして、瞬く間に煙の塊へと戻っていった。

 風が吹き、煙が集まりながら、塊が大きくなっていく。

 それは見る間に、隆々と筋肉の盛り上がった男へと変化していった。


 二メートルはあるそいつの体は、薄く黒い煙をたなびかせながら、揺らめいていた。

 上半身は裸で、下半身には薄い金属板でできた西洋風の鎧のようなものをつけている。


 ――何だ、こいつは?

 呆然としていると、突然そいつが手を伸ばし、鋼のような指でぼくの顎をつかんだ。そして、そのまま、宙に持ち上げられる。


「久シブリダナ……」

 真っ黒な頭に口が開き、歯が生え、舌が踊った。瞬く間に、坊主頭の輪郭が形作られ、真っ赤に光る目が開く。

「お前なんか知らない……」


 顎に食い込む指の痛みに耐えて、やっと言葉を絞り出すと、

「忘レタノカ?」と、そいつが呆れた声で言った。

「は? な、何を言ってるんだ?」

「冷タイヤツダナ……」

 ふいに空中へと放り投げられた。


 ぼくは突然のことに上手く着地できず、背中を強かに打った。咳き込みながら床を転がる。

「本当に知らないんだ! お前は何て名前なんだ?」

「残念ナガラ、オレニ名ハ無イ。知ッテルハズダゼ? ッテ……アア……忘レテルノカ……」


 笑いながら答える男を見ていて、ぼくはあることに気がついた。男へと集まっていく煙と見えたものが、微細な0や1の数字、アルファベットなのだ。

「お前、一体何者なんだ? そんな物で体ができているなんて……」

 まるで、昔読んだおとぎ話に出てくる魔神だ。男の筋骨隆々とした体を見てぼくは思った。


 その途端、「ホウ、魔神カ? イイジャナイカ」と間髪入れずに男が言った。

 ――こ、心を読んでいるのか?

「ソウダ。ダカラ、嘘ヲツイテモ無駄ダゾ」

 男が自分の顎に手を当てて言った。


 その手から伸びた黒い紐状の煙が、空中に煙を巻き散らしながら、ぼくの頭に巻き付いている。

 ぼくは慌てて、その煙を手で払った。


 その様子を見ていた男は、突然、「決メタゾ!」と大きな声を上げた。

「オレノ名前ハ、煙ノ魔神ダ。コレカラハ、ソウ名乗ルコトニ決メタ! オ前ガ感ジタ通リノ名前ダ。イイ名前ダト思ウダロ?」

 魔神はどこか楽しげで、はしゃいでいるように見えた。


 ぼくは走り出した。このままここにいると、とんでもないことになるような気がした。

「オイオイ、逃ゲラレルトデモ思ッテイルノカ?」

 嘲るような声が、追いかけてくる。

 床が次々と盛り上がり、頂点が裂けた。

 何かが上に向かって勢いよく伸びていく。それは、熱帯のジャングルに生えているような濃い緑色の巨樹の群生だった。


 凄まじい速度で生えてくる無数の樹を転がりながら避けていると、堅く冷たい床が、柔らかな土の感触に変わった。

 極彩色の花、背丈ほどのシダ、毒々しい原色のキノコ、滑らかな木肌の巨木群、そして、多種多様な苔。植物が発するむせるような匂いが、そこら中に溢れかえっていた。


 それは、妙に懐かしい光景だった。

 来たことがない場所のはずなのに、確かに来たことがあるような感覚――

 既視感デジヤビュに捕らわれていたのは、ほんの一瞬だったはずだ。


 気がつくと、目の前の木々が密生している辺りから飛び出してきた巨大な生き物にはね飛ばされていた。

 何度も回転し、泥まみれになりながら立ち上がった。


 それは、蜘蛛と蟹を合わせたような巨大な化け物だった。全身に短い毛がびっしりと生え、蠍のような尾には、細かい足が無数に生えている。そして背中には、あろうことか、煙の魔神の上半身が生え出ていた。


 生木をへし折る音を響かせ、そいつはぼくの前に立ちふさがった。

「ドウダ? 思イ出スダロ? コノ場所。ソシテ、コノ姿……」

 ぼくは、自分の中にある確信めいた考えに震えおののいた。


 ――この虫の化け物のことを確かに知っている。

 煙の魔神の上半身が、笑い声を上げながら虫の化け物の背中に溶け込んでいった。

 ぼくは後ずさりながら、足下に背丈ほどの太い木の枝が転がっているのを見つけた。


 化け物から目を離さないように、ゆっくりしゃがみ込み、それを拾い上げる。

 ――その瞬間、化け物が凄まじいスピードで突進してきた。

 夢中で転がりながら避ける。


 その攻撃を避けられたのは、ほとんど奇跡のようなものだった。急いで起き上がると、木の枝を振り上げる。

 夢だ。これは悪夢に違いない。しばらくすると、目が覚めて何もなかったことになるはずだ。


 ぼくは反射的に木の枝を振った。だが、分厚い殻に護られたその頭は、滑るように木の枝を弾いた。

 突然、下から強烈な衝撃が胃を抉るように突き抜けた。化け物の足が、ぼくを蹴り上げたのだった。


 魔神の笑い声が聞こえた。

 木の枝が、遙か遠くへと飛んでいくのが見える。体中から血の気が引いた。

 化け物は素早くぼくへと近づくと、大きな口でぼくの頭にかぶりついた。頭に牙が突き刺さる。体中から汗が噴き出し、頭蓋骨が軋むのが分かった。


「諦メルナ。死ヌゾ!」

 頭の中で誰かが喚いている。それは、死の間際に見たり、感じたりするという幻覚のように思えた。


「モガケ、モガクンダ……」

 頭の中で響く声に促され、半ばやけくそ気味に化け物の顔面をかきむしった。

 ぼくの抵抗に遭わせるかのように、ますます頭を締め付ける牙の力が強くなった。


「死にたくない!」

 心の底から叫んだ。



「うわあああ!」

 床に落ちる衝撃と自分の叫び声で目を開いた。振り回した右手が、ベッドの角を叩き、その痛みで頭が覚醒する。

 ここは……どこだ? 流れている涙を拭いながら周りを見回した。


 カーテンを透かし、朝日が部屋の壁に射し込んでいる。

 組み立て式の小さな本棚に学習机、その横には小型のラックにゲーム機とテレビ、床には乱雑に散らばる漫画の単行本。


 自分の部屋だ。

「夢……だったのか?」

 ため息をつき、額の汗を拭う――と、こめかみに、微かにくぼみができていることに気付いた。触ると、にぶい痛みが走る。手の甲に無数のかすり傷ができていた。

「夢のせいじゃないよな……」

 ぼくはぞっとして、思わず辺りを見回した。



 この悪夢が、くそったれの日常を覆す始まりの出来事だったとは、この時、ぼくは想像すらしなかった。

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