消された皇太子の偽名放浪〜復讐、いまだ成らず〜

1976

宰相、オーギュスト・ド・フェラン

1

 はぁ、はぁ、はッ。

 息を切らして走る姉さんに手を引かれ、薄暗い廊下を駆け抜けて行く。

 無駄に広い場所ではあるが、ここは王宮だ。

 その廊下を走り回ったりすれば、いつもだったら叱られてしまう。

 そう、いつもならば。

「お待ちください! フィン皇太子、フォウラ姫」

 止まらない姉さんと僕。

 決して止まるわけにいかない。

 捕まってしまえば、いったいどうなるかわからないのだ。

 数々の彫像が並び絵画が掛けられた長い廊下をひたすら走ると、丁字路に差し掛かる。

 フォウラ姉さんは迷わず右へと折れた。

「キャッ!」

 磨きぬかれた石床は滑りやすい。

 足をとられて姉さんがバランスを崩す。

 僕は慌てて支えようと腕を引く。

 その甲斐あって一度は立て直すが、青いドレスの裾がもつれてビリッと破れる音がした。

 支えも及ばず、逆に倒れるフォウラ姉さんに引き込まれるよう、重なり倒れてしまった。

 包み込まれるような胸の中で、下になってしまった姉さんへ、「大丈夫?」と心配の声をかける。

「フィンのほうこそ怪我は?」

 僕は首を振るとすぐに上からどいて、膝付きで立って姉さんの腕を引く。

「ありがとう、フィン、急ぎましょう」

 そう言いながら先を見据えるフォウラ姉さんの顔には、金色の髪が張り付いていた。

 必死で逃げているのだ、汗をかくのも無理もなく、息遣いも荒くなってきている。

「こっちだ! こちらへ向かったぞ!」

 背後から追っ手の声が迫り、休むことはかなわない。

 僕らはふたたび走り出す。

 追っ手は大人の兵士とはいえ、重い甲冑を身につけていた。

 だから早くは走れない。

 それだけが救いであるが、金属が軋み擦れる嫌な音が、ずっと僕らの背を追いかけていた。 

「あぁ、どうしましょう、早くしなければ」

 姉さんは立ち止まると両手で口元をおさえ、いくつもある扉に視線を走らせた。

 その視線がある扉で止る。

「こっちよ」

 視線の止まった部屋まで、また走る。

 扉のノブを押したり引いたり捻ったりすると、ガチャリと音がした。

 細工がしてあったらしい扉を開けて中に入ると、フォウラ姉さんはドレスが汚れるのもかまわず、窓際の机の下へと潜った。

「フィン、ドアをふさいで!」

 扉の前で立ち尽くしたままだった僕は、姉の切羽詰まった声にあわてて部屋を見回す。

——早くしなきゃ、奴らが来る前に!——

 扉のすぐ脇の棚を引っぱって動かそうとするも、僕の力と体重ではピクリともしない。

 そのあいだにも、廊下では追手の声が響いていた。

 棚を諦めて中央の丸テーブルに手をかけるが、これもぜんぜん動きそうになかった。

 仕方なくテーブルのまわりのイスをドアの前に運び、積み上げる。

 さらにはワゴン、花瓶、鉢植えなど、とにかく運べるものはなんでも扉に寄せた。

「もう少しだから、待ってて」

 フォウラ姉さんは机に頭をつっこんだままでそう言った。

 動かせるものがなくなってしまった僕が近寄り、様子をのぞき見ると、めくった絨毯の下の床の一部が外れそうで外れず、手こずっているようだった。

 どこへつながるかはわからないが、おそらく非常用の脱出路なのだろう。

 それは僕には教えられていなかった仕掛けだ。

 ガチャガチャ!

 ガラクタを積み上げた扉の方から音がする。

 奴らがここを見つけたらしい。

「フォウラ姉さん、血が!」

 転んだときにできた傷だろうか、右のそでが破れて真っ赤な血がにじんでいた。

 僕の心配には答えず、白く細い腕で床板を外そうと必死になっていた。

 ドシンッ!

 扉にぶつかる音が変わった。

 開けることをあきらめて体当たりしているのか、室内に何度も何度も重い音が響く。

 そのたびにドアの軋み音が大きくなっている。

 ずっと作業に集中していた姉が、はじめて顔をあげて僕を見た。

「フィン、あなたはそこに隠れてなさい」と、重く垂れ下がるカーテンを指差す。

「いいこと、フィン。誰もいなくなるまで絶対に出てきてはダメよ」

「でも!」

「いいから!」

 姉さんは机の下から出ると、軽くハグをしてくる。

 それからスッとおしのけられ、僕は言われるままに、柱とカーテンのあいだに隠れた。

 バキッ!

 バキバキッ!

 メリッ!

 隠れるや否や、室内に不快な音が響く。

 扉が強引に破られたのだ。

 さらに扉の前に僕が積み上げた障害物を、侵入者たちは力に任せて乱暴になぎ払っていく。

 僕に運べる程度の家具では、バリケードにはならなかった。

 押し迫る危機に、カーテンをつかむ手に力が入ってしまう。

 すると裾が揺れてしまって、あわててそれを手で押さえた。

「フォウラ姫を発見ッ、確保せよ!」

 僕はカーテンの隙間から向こうをのぞき見る。 

 ヒョロッとした背の高い男が姉さんの腕を取り、つかみ上げる。

 姉さんは上に引っ張れられてつま先立ちするようになってしまい、たちまち自由を奪われてしまう。

「離しなさいッ! 無礼者!」

「これは失礼を。しかしながら、我々も任務なのです。新王になられます、フィン・デ・ダナーン様の命令なのです。どうかこれを受け入れて頂きたい」

「黙りなさい! どこの誰が新王ですかッ。フィンとは、愛する我が弟ひとりだけ! それ以外には存在しません!

 フィンの偽物をどこからか連れて来て、国を乗っ取ろうなど、決してッ、決して許されません!」

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