1-4 アリアドネ

  午前10時―


この時間、アリアドネは2人の年若いメイド達と一緒にダイニングルームの清掃にあたっていた。彼女たちはステニウス伯爵家で働き始めてからまだ日数も浅く、アリアドネの出自を知らない。


「全くステニウス伯爵家の人達は私達にはケチで自分たちは贅沢よね」


窓ガラスを磨いていた眼鏡をかけたメイドがため息をついた。


「ほんとにそう思うわ。ここの屋敷には2カ月前にメイドとして働き始めたけど、お給金が最初に契約した時よりも3万レニーも少ないのよ。何故こんなに少ないのかメイド長に尋ねたら、ここはそういう職場だから諦めてと言われたわ」


余程栗毛色のメイドは不満が高まっていたのか、唇をとがらせた。


「でも長く勤めていればお給金が上がるのかしら…。ねぇ、アリアドネ」


2人からは少し離れた場所で、モップがけをしていたアリアドネは急に名前を呼ばれて顔を上げた。


「何かしら?」


モップ掛けの手を休めずにアリアドネは返事をした。栗毛色のメイドはアリアドネに質問してきた。


「ねぇ、貴女はここで働き始めて長いのよね?何年になるの?」


「私は10年になるわ」


「まぁ10年もこんな劣悪な職場で働いているのね…あ、でもひょっとするとお給金がいいのかしら?毎月どれくらい貰っているの?」


眼鏡をかけたメイドが興味深気に尋ねて来た。


「あの…私、お給金は…頂いていないの…」


アリアドネは言いにくそうに返事をした。


「えっ?!嘘でしょう?!」

「信じられないわっ!」


「でも…本当にお金は貰っていないのよ」


アリアドネはメイドでは無い。妾腹の娘とマルゴットに罵られ、お前は家族ではないのだからこの屋敷に置いてもらえるだけマシだと思えと散々言われて来た。

さらにメイドでも無いのだから、お給金も支払えない。雨風をしのげる部屋で眠る事が出来、3食タダで食事出来るのだから、有り難く思えと散々言われ続けて来たのだ。

メイド服ならタダで支給されるし、アリアドネが休むことが出来るのは1日の仕事が終わって眠る時だけであったから私服を着る必要性も無かった。


「私はここにおいて貰えるだけで幸せなのよ」


アリアドネは自分に言い聞かせるように2人のメイドに答えた。


その時、1人のフットマンが廊下から声を掛けて来た。


「アリアドネ。ステニウス伯爵がお呼びだ。直ぐに執務室へ行こう」


「え?伯爵が…?」


アリアドネは怪訝そうに首を傾げた。

しかし、彼女よりも驚いたのはむしろ2人のメイド達の方だった。


「アリアドネが伯爵に…?」

「一体何故なのかしら…?」


するとアリアドネを呼びに来たフットマンが顔をしかめながらメイド達に注意した。


「お前たち、無駄口は叩かずに真面目に掃除をしろ。メイド長に言いふらされたくなかったらな」


「はい、すみませんっ!」

「真面目に掃除しますっ!」


彼女達は窓ガラスに向きあうと、先程と比べてまるで別人の様に真面目にガラス拭きを始めた。フットマンは彼女達の様子を伺うと、アリアドネに声を掛けた。


「では行くぞ」


「はい」


そしてアリアドネはフットマンに連れられて、執務室へ向かった。



「…」


黙って前を歩くフットマンの背中を見ながら、アリアドネの心中は穏やかではいられなかった。何故ならアリアドネが伯爵に呼び出される事など滅多になく、大抵彼女を呼び出すものはマルゴットかミレーユで、自分たちの虫の居所が悪い時の八つ当たりをする為の道具として呼び出されていたからである。


(今日はどんな目に遭わされるのかしら…。出来れば食事抜きの罰で見逃して貰いたいわ…)


そんな事を考えながら歩いていると、いつの間にかそこは執務室の前だった。

フットマンは扉をノックすると声を掛けた。


「旦那様、アリアドネをお連れしました」


「ああ。中へ入れ」


すぐに扉の中から伯爵の声が聞こえ、アリアドネに緊張が走る。


(え…?お父様が私を呼び出したの…?)


「失礼致します」


フットマンがカチャリと扉を開けると、ソファに座ってこちらをじっと見つめる伯爵とマルゴット、ミレーユの姿が目に飛び込んできた―。

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