第37話
休日が開けて、またいつも通りの日常が戻ってくる。この街を歩いている誰も、この国の第二王子が暗殺される計画があったとは知らない。あの後、聖騎士様と会うこともなかったから、私もあの日聞いたこと以上は何も知らなかった。
「フィーア様、はかどっていますか?」
「うーん、まあまあかな?」
「まあ、でも今見えている部分だけでもとても素敵に仕上がっています。
さすがフィーア様ですね」
嬉しそうにほほ笑むメイドに、私も嬉しくなってくる。メイドは私の邪魔をしないようにと考えたのか、休憩用のお茶を淹れるとすぐに下がってくれた。
あの日、アンさんに会った日、デザインを書き上げた私はすぐにリンガー布店へと向かってほしいものを頼んだ。私の注文は最優先だから、とすぐに仕上げてくれたのは驚いたけれど、おかげで思っていたよりも早く刺繍に取り組めている。
ついで、と言っては失礼だけれど、リミーシャさんたちにもものを選んだ。それにももちろん自分の手で刺繍をする。これが終わったら……、最後に私にできる形で恩返しをしたら、聖騎士様に会いに行こう。まだ迷う気持ちはあるし、自由でいたいとも願っている。それでも、このままでいて取り返しがつかない事態になったとき、私はきっと自分を許せないだろう。
あそこは窮屈だけれど、このギフトにとっても私自身にとっても最良の環境なのは間違えないから。そう、無理やり理由をつける。
心残りは……、ルイさんとマリーさんのことかな。本当のことは言えないけれど、遠くに行くことだけは伝えたい。別れの挨拶はやっぱりしたいから。ルイさん、最近忙しそうだけれど、無事に会えるといいな。
少しだけ冷めてしまった紅茶を口にしながら、ルイさんのことを思い浮かべてみる。私が困ったとき、何度も助けてくれた彼だ。また、と思うのはきっとわがままなこと。
ふいに扉がノックされる。返事をすると、返ってきたのはアンさんの声。え、それはまずい! これはサプライズだから、今はまだばれるわけにはいかない。すぐに布を適当なところに隠して、扉を開けにいった。
「あの、忙しかったかしら?」
「い、いいえ。
休憩していたところですから」
申し訳なさそうな問いかけに全力で首を振る。のんびりと話すアンさんと話していると、こちらまで穏やかな気持ちになる。昨日から、同じ屋敷に暮らし始めた彼女はそんな人だった。
「そう……?
あのね、実家からおいしいお菓子を持ってきたから、一緒に食べたいなと思って」
「私でよければ、喜んで」
なぜか嘘じゃないのよ、と焦ったように話すアンさんがかわいらしくて、ついくすりと笑ってしまう。そんな反応にちょっと拗ねたような反応をしたけれど、すぐに笑顔になって部屋に入ってきた。
アンさんは本当に素敵な方で、邪険にされても仕方ない私のことをこうして受け入れてくれている。席についてお茶を楽しんでいると、ふとアンさんがいたずらっ子のような表情をこちらに向けてきた。
「フィーアさん、思いを寄せている方はいないの?」
ごほっ、ごほっ! 口に入れていた紅茶が変なところに! しばらくごほごほと咳をしていると、慌ててアンさんがこちらへとやってくる。そして背中をさすってくれた。
「い、いきなり何を聞くんですか⁉」
回復したあと、すぐにアンさんをにらみつける。本当に驚いたんだから……。
「だって、気になってしまって。
それで、いないの?」
「思いを、なんて……」
そう言いながら思い浮かべてしまったのは一人の顔。本当に困っているときに、助けてくれる人の顔。
「あら……、誰かいるのね。
これはラシェットが衝撃を受けるわね」
「そ、そんな人! いない、ですよ」
そう、いないことにしなくてはいけないのだ。だって、私はもうすぐこの人たちの前からいなくなる予定なのだから。
「そ、そういうアンさんはどうなのですか?
どうしてラシェットさんと?」
「うーーん、私たちは……。
お互い大きな商会の子でね、小さい時から知り合いだったの。
年齢も近かったし、男女だったし、自然と婚約者という関係性になったかな」
「そうだったのですね」
それはきっと貴族の政略結婚と似たようなものなのだろう。少し寂しそうに、ラシェットさんがどう思っているかわからないけれど、と付け足す。
「そんなこと!
ラシェットさんはアンさんのことを大切に想っていますよ」
ふと、私に婚約者を紹介したいと話していたときのラシェットさんのことを思い出す。あの時は結婚という単語への衝撃に、あまり気にならなかったけれど。でも、あの時ラシェットさんはとても優しい顔をしていたのだ。アンさんのことを大切に想っていなければ、そんな顔はできないはず。
その話をアンさんにすると、驚いたようにこちらを見た。
「ラシェットが……?
そう、そっかぁ」
しばらく無言のまま、紅茶に口をつける。そんなアンさんに特に何かを言うことなく、同じように紅茶、そしてお菓子に口をつける。
「ふふ、フィーアさんに元気づけられるなんて、私もまだまだね。
ありがとう、フィーアさん」
照れたように笑うアンさん、本当にかわいらしい! 私にできることは多くはないけれど、守ります! と名乗りを上げたいくらい。でも、きっとそれはラシェットさんの役割だよね。
「いいえ」
そう笑顔で返した時、不意に音が遠くなる。あっ、と思ったときにはもう遅い。誰かが泣く声が聞こえた。それはわんわんとなく声ではなく、思わず漏れてしまったような泣き声。男性はベッドに縋りつくようにそうして泣いていた。その男性は……、ラシェットさん? まさか、ベッドに横たわるのは。
『どうして、アン……。
君の病にもっと早く気が付いていれば。
いいや、それでも治せる医師がいなかった……。
アン、アン……』
「フィーアさん、フィーアさん?」
「え、あ、はい」
「どうされたの?
急にぼーっとしてしまって」
「ごめんなさい、大丈夫です」
でも、と心配そうに顔を曇らせる。いつものように心臓がばくばくとするし、血の気が引いている気がする。心配させてしまって申し訳ないけれど、理由は話せない。
「長くいすぎたわね。
フィーアさん、ゆっくりと休んでね」
また、と言ってアンさんは部屋を出ていった。これは気を使わせてしまったよね。ひとまず休んで冷静にならないと。
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