後宮咫尺天涯物語

望月くらげ

第一章

第1話

 夏栄国の内廷の奥にある後宮。そのさらに奥深くに桂花宮という殿舎があった。上級妃の住まうものと比べると見劣りはするが、それでも絢爛豪華。朱色に塗られた柱には花を象った文様が彫られている。


 しゅ雪琳せつりんは華美――とは言いがたいが、庶民の子が一生かかっても着ることのできないであろう上質な襦裙を身に纏い、ひっそりと静かに暮らしていた。他の妃のように主上に媚を売ることも、はたまた宦官に賄賂を贈り引き立ててもらおうとすることもなく、ただただ時が過ぎるのを待っていた。


「ああ、自由に、なりたい……」


 読みかけの書物を方卓の上に置くと、雪琳はため息を吐いた。窓から見える細くなった月はまるで雪琳を笑っているかのように見える。もっとよく見たくて、窓に近づくと格子の間にはめ込まれた硝子に自分の顔が映って見えた。


 ぱっちりとした目、スッと通った鼻筋、小さい口は常に微笑みを浮かべているかのように口角が上がっている。笑ったときにできる笑窪はまるで野に咲く小さな花のようだ……と、幼い頃からよく屋敷に来る客人に言われてきた。


 けれど、そんな雪琳も後宮に上がってみれば十人並み。それどころか、ここ後宮では可愛いは幼い子供への言葉であって女性にとって喜ばしい言葉ではない。可愛いよりも綺麗、綺麗よりも美しい。


 そんな後宮において、雪琳はただいるだけの存在だった。


 だいたい、後宮にいて夜の帳が下りるこの時間に暇だ、というのもおかしな話なのだが雪琳にとってはこれが日常だった。――それも本人が望んだ形での。


 雪琳は正五品、才人という位階を与えられている。位階としては特段高いわけではないけれど、それでも宮女ではなく歴とした妃嬪だ。ただし形だけの、ではあるが。


 御年六十を超えた主上の後宮には妙齢の美女が揃っていた。雪琳のように年端もいかない少女に手を出す必要はない。そして雪琳としても、実家の意向で後宮入りすることとなったけれど、自分の父親よりも年を取った主上に抱かれたいとは思わない。たとえ、そうすることが雪琳にとってもそして実家にとっても名誉なことだとしても。


 それに、雪琳には思い描いている未来があった。主上が崩御されれば、雪琳のように手つきのないものは皆、後宮から出されることとなっている。その日まで目立たぬように、ただ静かに後宮の奥にあるこの房室で過ごすのだ。いつか自由になれる日を願って。



 当たり前のように朝が来て、いつもと変わらない日常が始まる。数時間前、真っ暗な空を照らしていた月は姿を隠し、照りつけるような日が昇っていた。


 今日も雪琳は特にすることがあるわけでもなく、ただ房室へやで時間が過ぎるのを待っていた。普段であれば仲のいい他の妃とお茶をすることもあるし、予定がなければ刺繍をして過ごすが、今日はそんな気分にもなれず、ただただ房室で呆けていた。


「外に、行こうかしら」


 あまりにも怠惰な自身の態度に雪琳はため息を吐いた。外と言ってももちろん後宮の外のことではない。雪琳たち妃は内廷の中のさらに奥にあるこの後宮でしか、生きることはできないのだから。


 ……この後宮の中ですら、雪琳が後宮に入るまで過ごしてきた三年間に比べれば、遙かに自由ではあるのだが。


 養父母の屋敷で、まるで人形のような貼り付けられた笑みを浮かべたまま生活してきた日々を思い出して苦々しい気持ちになる。誰の顔色を窺うことなく、生活することができるだけでいいと思って後宮に入った。結局は閉じ込められる檻の広さが変わっただけに過ぎなかったけれど。


 自由になりたい。本当の意味での、自由に。何かに縛られることなく、誰かの顔色を窺うでもない。雪琳が雪琳らしくいられる日々を手に入れたい。そう強く願っていた。


 雪琳は自分の房室を出ると、才人に与えられた桂花宮の回廊を歩く。ゆっくり歩みを進めていると、向かいからこの宮に仕える女官たちが歩いてくるのが見えた。


「あら、雪琳様。どこへ行かれるのですか?」

「少し、外に出ようと思いまして」

「今度は雑草を持って帰ってこないで下さいね。ああ、いっそ毒草を間違えて食べてしまえばいいのに」

「あらそんなことになったら片付けが大変よ」


 以前、女官達から苗を貰ったことがあった。嬉しくて大事に育てていたのだけれど待てど暮らせど、花が咲かない。枯らしてしまったのかと申し訳なく思い女官たちに謝ると、それは雑草だと笑われたのを今でも覚えている。


 試されていた、というよりはどうせわからないだろうと馬鹿にされていたのだということは雪琳にもわかった。けれど、実際に知識がないのはその通りだった。


 養父母は最低限の躾をしてくれたように思う。だが、それは最低限であって十分ではない。どこへ出しても恥ずかしくない娘、ではなく亡き兄夫婦の忘れ形見を世間体から仕方なく育てていただけだ。そしてそれは、雪琳本人にも告げられていた。


「お前は兄たちのように私たちに迷惑をかけないでくれ」と。


 雪琳にとって幸せそのものだった両親は、養父母にとっては忌々しくて仕方のない存在だったようだ。両親が駆け落ちをした結果、養父母は周りから白い目で見られ、馬鹿にされ跡取りを失った実家を急遽継ぐことになりと、兄夫婦のせいでどれだけ迷惑が掛かったか、引き取られてからの三年間、恨み言のようにそれらを聞かされ続けてきた。


 あの家に雪琳の居場所はなかった。興味を持ったものがあったとしても、とてもじゃないが口に出すことなんてできなかった。口に出したところで、その希望が叶ったとも思わないが。


 ただそれで困ることがなかったのも事実で、それならばと思考を停止させてきた。まさかその弊害が、こんなところで出るとも思わず。


 女官達の嘲笑う声を背に聞きながら雪琳は外に出た。桂花宮の周りには雪琳と同じ二十七世婦である婕妤や美人の位階にある妃嬪たちが住まう宮殿、芙蓉宮と木槿宮があった。


 そこを抜けるとまるで森へと続く小道のような場所に出る。その先には後宮の庭園と呼ぶにはあまりに小さすぎる庭園があった。

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