Sweet curse
半井幸矢
Ⅰ
きっと貴方は覚えていない。
あのときからずっと、私は貴方に焦がれてる。
「おはようござ……いま、す……?」
「えぇ~、っとォ……?」
この日鈴音が出勤すると、白いシャツに黒いベストとスラックス、そしてネクタイというモノクロームの装いの男が、自室のドアを開けっぱなしにした状態で、デスクも床も書類だらけにしておろおろしていた。普段軽薄なようでいて思慮深く冷静な彼にしては珍しいことである。
「……何してるんですか」
「あ、おはよぉ~。いやね、
もう買い換えかな、と
「もしかして、受信したメール全部印刷しちゃったんですか?」
部屋の隅にバッグを置いて、散らかっている紙を拾い上げていく。分類は全部拾い終えてからにした方が早い。
「や、見た感じ多分ここ二週間分くらいかな。あと開いてたウィンドウも余計に印刷しちゃったぽい……ここんとこセキュリティ更新サボってたからな~、何か変なの入っちゃったかなぁ……とりあえず壁作んねえとお嬢に怒られ」
一緒に紙を拾っていた手と手がぶつかる。
「ひゃ」
鈴音は慌てて手を引っ込め、その勢いで後方へ転倒し
「大丈夫?」
「あ、あっ⁉ はいっ、だいじょうぶっ、ですっ!」
恥ずかしくなった。スカートの中はストッキングを
羞恥心を何とか
「んぐっ……ンッ、っくくくっ」
「笑うところじゃないです! もう!」
「いや~、普段滅茶苦茶しっかりしてる鈴音ちゃんのドジってる姿というのは、こう、『あぁ、人間とは失敗するものなのだなぁ』と
「今のはっ、忘れて下さい!」
にや、と笑われる。
「ちょっと触るくらいまだ慣れない? 一緒に仕事してりゃこういうことも起こり得るのに」
「ぐうぅ」
慣れるわけがない。
彼は鈴音が二十年近くも想い続ける存在なのだ。
それは今でもそうだし、不意に距離が近くなるとどうしても緊張してしまう。しかも相手はたまにそれを利用して鈴音の動きを制してくる。
そんな鈴音の
「洗濯機回してお嬢のパソコンとサーバー室確認してくるから、これ昨日から今日までのメールだけ抜き出して机置いといて、あとはシュレッダーお願い。あー、今日十一時か~ら」
そうだ、仕事。ここは職場だ。我に返る。
「
「んーと、そうだな……プリンタのインクと紙、ポチっといて下さい。型番わかるよね?」
「あ、お客様用のコーヒーも残り少なかったかも……出すの、お茶でいいですか?」
「お茶に合うお菓子何かあったかな、最近買ってないんだけど」
「一昨日クレオの営業さんからいただいたの、開けてないですよね。確かあの箱きしだの抹茶小豆フィナンシェだから……お抹茶の味濃いし、紅茶の方がいいかな? この前買った国産紅茶にしましょうか」
「え、きしだの抹茶フィナンシェ? 超人気のやつじゃん。さっすが
「超人気かぁ……私が小さい頃からずっと売ってますけどね、あれ」
「へー、昔からあるんだ俺食ったことねえや。
「あの箱の大きさだと十六個か二十個入りのはずだから、充分余裕あると思いますよ」
「よォっし今日頑張るー! あ、じゃあコーヒーの注文もよろしく味は任せる!」
「はーい」
篤久が各種作業に向かった後、鈴音は何十枚とある紙の中から必要なものだけ抜き出し、卓上の小物入れから取ったクリップで留めて机の上に置き、残りをシュレッダーにかけようと部屋から出かけたのだが、
「…………」
何となく、振り返る。
仕事部屋も兼ねている私室は、ノートパソコンとプリンタと必要最低限の筆記用具が置かれたシンプルな机、長時間座っても疲れにくいと人気がある高級チェアー、書籍と資料のファイルがきちんと並んだ本棚、そして整えられたセミダブルのベッドと、普段の彼のいい加減そうな言動からは想像ができないくらいに整理されている。学生の頃のものなどはどこかにしまってあるのか、余計なものが一切飾られていないそこは、寝床があるにも関わらず生活感というものがあまり感じられない空間だ。
軽い溜め息が出た。
「ちゃんとしてる、なぁ」
もう少しだらしなければ、もっといろいろしてあげられるのに。
頼ってほしいのに。
鈴音は少しつまらない。
理由があれば、彼の生活にもっと自然に入り込めるはずの距離にある。
それなのに、相手にはそんな隙がない。
食事の準備は手伝わせてもらえるが、洗濯は流石にまだ少し手を出し辛い。掃除はロボット掃除機二台と、アルバイトだといって知人の大学生に週に何度か依頼してやらせている。庭も定期的に馴染みの庭師がやってきて手入れをしている。
つまらない。
が、忙しい中でも自分でできることは大体自分でしているし、無理だと思えば切り替えて他を頼り、しかも従業員として来ている鈴音には、就業時間内には昼食とおやつの準備以外の家事の手伝いはほとんどさせない。そんな「ちゃんとしている」ところがすごい、とも思う。
「ぬうぅ」
持っていた紙束を机の上に置いて、ベッドに突っ伏す。
本当はこんなことをしてはいけない、わかってはいるが、枕を手に取り、ぎゅうと抱き締める。仄かに彼の匂いがする。すぅ、と深く吸い込むと何ともいえない幸福感に包まれる──確か、匂いをも好ましいと感じるのは、
(遺伝子レベルで好き……なんだっけ)
思い出す。
一年と少し前、思い切って抱き付いてしまったこと。
その直後に壁際に追い詰められたこと。
とある事情で頼ったときに、腕を絡めて手を握ってしまったこともあった。
それ以来は何もない。何もできていない。それどころか、手と手が少し触れた程度でもどきどきしてしまう。
それでも、また、触れたいと思う。
「うぅ、寧ろ! 寧ろ抱き締められたいぃ~!」
「何やってるの」
「はっ⁉」
慌てて身を起こして部屋の入り口を確認すると、金茶の髪の少女が呆れた顔をして立っている。とんでもないところを見られてしまった──鈴音はそのまま固まる。
「あ……あの、
「大丈夫だよ、
「……お見苦しいところを」
ベッドから降りてスカートの
「ほぼ毎日会えるようになったのに、なかなか上手い具合に進展しないものだね」
「……謠子ちゃんがせっかく整えてくれたのにね」
実は最初に鈴音に浄円寺データバンクで働かないかと誘ってきたのは、謠子である。鈴音の能力を見込んで、というのが表向きの理由ではあるが、鈴音の父が篤久に対し娘を
近付いてきた謠子が、
「二人きりにしてあげようか?」
十三歳らしからぬ
「え」
「
「でも、マナベ電子の本社って」
車で片道二時間はかかる。謠子を迎えに行くのが遅くなってしまうのではないか。
「僕は大丈夫だよ、
「え、え」
「あ、そうだ、確か……ね、鈴音さん、来て来て」
謠子が楽しそうな顔で鈴音の手を引く。鈴音は慌てて処分する分のメールの紙束を
「ちょ、ちょっとっ」
「もしかしたら、ね」
連れて行かれたのは謠子の仕事部屋兼私室。書類や資料がぎっしり詰まった書棚に囲まれた大きなデスクには、デスクトップ型やノート型、大小さまざまなパソコンが何台も乗っている。
篤久が使っているものよりももう少し高価そうなオフィスチェアーにぽすりと収まった謠子は、メインで使っているパソコンのディスプレイに目をやったまま、キーボードの上で軽やかに指を踊らせる。
「あぁ、やっぱり、ふふふ」
「な、何? どうしたの……?」
「これ見て」
謠子が指差す画面には天気図。
「明後日は夕方から天気が崩れる、しかも大雨だ。もしかしたら、そう、この辺り。通行止めになっちゃうんじゃないかな」
「え⁉ そんな、それじゃ行かない方が」
「違うよ鈴音さん、これはチャンスだ」
にい、と
「運がよければ、泊まりに持ち込めるかもしれないよ?」
悪魔の娘の言葉に、鈴音は思わず
「泊まり」
繰り返した。
◇ ◇ ◇
本当はわかっているのだ。
きっと向こうは意識なんかしてくれていない。
期待したってしょうがない。
それなのに、いきなり一緒に泊まりだなんて、そんな大胆な──などと思いつつも、
(準備してきちゃった……!)
ついつい悪魔の囁きに乗り、バッグの中に普段は持たない替えの下着を入れたポーチを忍ばせてきてしまったし、出勤途中のコンビニエンスストアで、外泊用のスキンケアセットと替えのストッキングを買ってしまった。しかしこのくらいなら、見られたとしても問題はない。非常用だとか化粧直し用だとか、言い訳はできるはずだ。
そして鈴音(と謠子)の
「天気いいなー。せっかくはるばる遠出したからどっか寄ってこか。お嬢も泊まりっつってたから時間気にしなくてだいじょぶだし。行きたいとこある?」
運転席からナチュラルかつのんきにそんな気遣いをしてくるので、助手席の鈴音は少し緊張してしまう。まるでデートのようではないか。
「……いきなり言われてもなぁ」
「だよねぇ~。普段友達とどういうとこ行くの」
「どこ、って……いろいろ、お店、ぶらぶらしたり、映画観たり、お茶したり、しますけど」
ちらり、と横目で見て。
「あの、……その格好で、ですか?」
「ぉん?」
いつもの漆黒のスリーピーススーツ。確かに見慣れてはいるが。
「仕事中はともかく、どこ行っても浮きますよそれ。特に今日はお嬢様いないんだし」
「おぉ? ……あぁ失敗したな、ついいつもの調子で。謠子送った後一旦帰ったんだしフツーの服着てくりゃよかった」
「普通の服…………持ってるんですか?」
「ちょっとくらい持ってるよ昔こんな格好してなかったの知ってるじゃん」
「あぁ、ですよねそういえば。……でも、ここ何年かずっとそれだし、それ以外は
「あー、だよなァ、浄円寺の代表とキャプターは休みはあるけど〝謠子お嬢様〟は休みがほぼねえからなー。前は一人で出掛けるときはいちいち着替えてたけど、なァんかもうそれもめんどくさくなっちまってさ。組み合わせとか色とか考えなくていいからラクだし」
それはつまり、彼にも休みがほぼないということだ──それならば。
「服。買いに、行きませんか」
「俺の? そんなのつまんねえじゃん」
「服買って、それに着替えてから、どこか行きましょう」
「えぇー」
あまり乗り気ではなさそうな篤久。しかし、そんな彼を簡単にその気にさせる魔法の言葉を、鈴音は知っている。
「謠子ちゃんにいつもとちょっと違うかっこいい伯父様の姿を見せる絶好のチャンスでは?」
「買う~!」
「……ほんとに謠子ちゃんのことになるとちょろいですね」
「全ては俺の姪が可愛すぎるのがいけねえのよ」
彼は
「じゃあ鈴音ちゃん責任持って全部選んで。インナーアウターパンツ靴、靴下と……あと何かあったっけ」
「えっ⁉ 全部⁉」
「言い出しっぺなんだからそこはね~?」
鈴音は困惑した。気軽に言ってくれるが、男物の衣服を選ぶなど父親のものしか――というより、父の誕生日も父の日もほとんど母や姉たちが選んで、鈴音自身は複数の選択肢の中からこれがいいんじゃないかと意見を出す程度しかしたことがない。
「あ、あの、私、そういうのはちょっと、やったことないし、」
「鈴音ちゃんが俺に着せたいの選べばいーのよ。そんな難しいこっちゃねえって」
「私が、着せたいの……?」
それはつまり。
「私の好きな篤久さんを私の好きにしていいってことですか⁉」
「鈴音ちゃんそういうこと恥ずかしげもなく結構さらっと言うよね?」
僅かに表情が歪んでいる。照れているのか。
嫌がられているわけではないとわかり、ぎゅぎゅっと胸の奥が締まる。しかしそれは苦痛からなるものではない――心地よい締め付け。
「あー、そっか、そういうことになるんか……まぁいいけどさ別に」
「いいんだ……」
と、
「日頃めっちゃお世話になってるから、今日ぐらいは、サービス。ってことで」
そんなことを言って笑うものだから、鈴音は顔が熱くなり、下を向いた。
「……これじゃ、ほんとに、デートみたいじゃ」
小さな小さな呟きだったが、車内という小さな密室、篤久は聞き逃さなかった。
「デートじゃないよおぉ⁉」
「もう、デートでもいいじゃないですかぁ!」
「よくない! 付き合ってない! 二人で買い物ぐらいヨリちゃんとも行くし!」
その名前が出たことで、鈴音は少し、冷静さを取り戻した。
昔、彼が好きだったという女性。
とはいえ、妬いたりする気持ちは特には
「……篤久さん。まだ、世利子さんのこと、好きですか?」
二人きりの今だからこそ
「もうとっくに
表情ひとつ変えない返答。しかし特に己のことに関しては
「……ほんとに?」
「何度もこっぴどくフラれてたの鈴音ちゃん知ってるでしょーよ。しかももう他の男と結婚して子どもまでいるんだぞ? 出る幕ねえじゃん完全に」
「あ……はい」
鈴音は、一昨日
◆ ◆ ◆
「あっちゃんなかなか
シャキシャキと心地よい音と共に、世利子の持つハサミが鈴音の延びた前髪を整えていく。涼しげでありながらどこか
「元カノの話聞いたんだっけ? あれ結構なトラウマになってるぽいからねー。いくら金持ってるつったって、三百万は痛かっただろうし。偉いよね、あいつ親に出してもらわないでちゃんと自腹で払ったらしいよ」
「……そういうひと、ですよね」
「そうそう、意外とクソ
「えっ、何で」
「ちょちょちょ急に動かないで危ない」
「うぉっ、ごめんなさいっ」
ぴしっと姿勢を正すと、力抜いて、と世利子は笑い、作業を再開した。
「だって、十八年も一筋でしょ。十八年てすごいよ、赤ちゃんが高校卒業しちゃうじゃん。それだけ長い間ずっと好きってさ、一生そのまま好きな可能性濃くなってくるでしょ。鈴音ちゃんみたいな可愛い子が自分一人に縛られてるなんて
「もう手遅れですよぉ」
鈴音は苦笑いで返した。
「これでもね、何回も友達に男の子紹介されたし、告白もされたし、合コンも行ったりしたんだけど。でも、どうしても比べちゃって」
あのひとならこうする。
あのひとならこう言う。
ただ、それを見ているだけでも、何故か嬉しい、楽しいと思う。
しかしそれが他の誰かともなると、全く心が動かない。
あのひとならもっとわかりやすく話してくれる。
あのひとならもっとこっちが話しやすいように会話を運んでくれる。
もっと姿勢がいい。
もっときれいに飲む。食べる。
言い寄ってくる相手は、その言葉に、態度に、場合によっては表情に、「欲」が透けて見えるのだ。
「……私、あのひとしかいらないんだなぁ」
しみじみ呟くと、世利子は一瞬ぎょっとして、次の瞬間吹き出した。
「鈴音ちゃん愛が重いな!」
「それ篤久さんにも言われました。でもしょうがなくないですか⁉ 好きなんだからしょうがなくないですか⁉」
「ふふ、熱烈だなーいいじゃん私そういうの好きよー。……どう? 前髪このくらいの長さでいいかな?」
「あ、はい、丁度いいです。あと、後ろもうちょっと」
「あぁ、
今度は後ろに回り、髪を整えていく。その姿を鏡越しに見る。世利子は、きれいだ。
「……世利子さん」
「ん?」
「何で、篤久さんと、付き合わなかったんですか?」
世利子の手から、ぱさりと髪が落ちる。表情も、手も、固まった。
しかし鈴音は、
「好きだったんでしょ」
更に斬り込む。
世利子は再起動したが、笑顔がぎこちなくなった。
「あっははー。なん、ていうか、ねぇ? そこは……その、滅っ茶苦茶複雑なものが……ありまして?」
口を引き結ぶ鈴音の真剣な表情を見た世利子は、
「……本人にも言ったんだけどね。好きではあった、けど、…………それだけじゃダメだったんだな。あいつと私じゃ」
静かに、話し始めた。
鈴音と世利子、たった二人の店内。
手を止めた世利子の声は、そんなに音量があるわけでもないのに、店内を流れる有線放送の洋楽よりも妙にはっきりと聞こえた。
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