第8話 僕は恋をしている

「嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。怖いよ。怖い」

 適当に歩いた先は誰も通らない最上階から屋上への階段。そこに座り込んで、雷に怯える子供みたいに丸まって、僕は惨めに震えていた。試験会場入場時間まであと十分。他の受験生はもう席についてリラックスしたり最後の追い込みをしていることだろう。僕は自分の席に着くことも無く、試験とは全く関係ないこの誰もいない階段で恐怖に怯えてしまっている。


「どうしよう、どうしよう、どうしよう」

 ここまで勉強してきたのに。頑張って来たのに。この学校で頑張ろうと思ったのに。

「大丈夫、もう二年も前の話だ。あいつは僕の事なんて、もうなんとも思ってない。ここにいるのもただの偶然。大丈夫、大丈夫なんだってば」

 自分に言い聞かせても、震えは止まらない。

 自意識過剰だ。と何度も何度も何度も、おまじないみたいに呟くけれど僕の脚は動いてくれなかった。

「なんでこんなに、こんなにビビってるんだよ。惨めすぎる。これから頑張らないといけないのに。今日の為に頑張って来たのに」

 こんな些細なことで、世の中にはもっと辛いトラウマを抱えた人なんて一杯いる筈なのに、僕はただ抱き着かれただけなのに。

「もう・・・僕には無理なんだ。平穏な生活なんて、この先もずっとずっと、負け続けて、逃げ続けて、惨めに生きていくんだ」

 それは、過去を大したことがない事だと自分で自分を説得し疲れた僕の口から最後に出てきた言葉だった。


「頑張るのは、もう諦めよう」

 手に持った受験票をぐしゃりと握りつぶして、それを大粒の涙が濡らす。このままボロボロになって僕がここにいた事実何て溶けてしまえと思った。


「き、きみ。中学生だよね。こんなところで何している・・・の?」

 僕の頭上から声をかけてきたのは、歴戦の乙女を思わせる凛々しい声色をした高校生のお姉さんだった。

「今、諦めようって言ってたよね」

 僕より背が高くて、暗い赤色の長い髪が燃え上がるように美しく、整った顔立ちのその人は映画に出てくるプリンセスのようでもあり、少年漫画に登場するヒーローにも見えた。堂々とした立ち姿や自信に満ちた表情は、全部僕が欲しいものだった。

 僕の憧れが詰まったような容姿をしたその女性はぐしゃぐしゃになった受験票を取り上げて、僕の頭を少し強めにチョップしてきた。

「痛っ!」

「泣くほど辛いのに諦めるの?」

「あ、あなたには関係ありません・・・」

「諦めたいなら勝手にすればいいけど、諦める理由くらいは他人任せにしない方がいいよ」

 勝手なことを、と僕は思った。でも、その通りだな、とも。

「―――きみがもう少し頑張るなら、あたしももう少しだけ頑張る」

「えっ?」

 そう言うと彼女は両手で力強く受験票をプレスして、皺が伸びた紙ぺらを見せつけてくれた。

「ほら、行きなよ」

 先輩は少し綺麗になった受験票を無造作に僕の手のひらに押し込み、背中をぽんと叩いた。


「待ってるよ、未来の後輩君」

 背中を向けてひらひらと手を振りながら、真っ赤な髪を靡かせてその人は何処かに立ち去ってしまった。僕の手には力強く引き伸ばされた受験票と、腕時計が示す入場時間まであと五分という事実。


 トラウマと偏屈でしわくしゃに捻くれてしまった僕の心が、少しだけピンと綺麗な形に戻ったような不思議な気持ちになる。気が付けば震えは止まっていた。




 ***


「―――あの時、先輩に助けていただいたのに。僕はいつまでも変わらないままだ」


 二口サイズのおにぎりを丸のみし、水筒の麦茶で流し込む。ごくり、と異物が喉を通ると弱音も一緒に胃袋に押し込んだ。

「わ、わすれたく・・・ないです!」

 精一杯、気を張って出てきたのは下手糞な管楽器みたいな掠れた言葉だった。だけど確かにそれは先輩に届いたようで、大和先輩は眉を顰めて「あ?」と威圧感丸出しの低音ボイスで僕を脅してきた。

「にっ、入試試験の日。僕はあなたに助けてもらいました!」

「またその話か、あたしは知らないって言っただろ」

「えぇ! 言いました。でもマヤさん・・・もう一人のあなたはどうでしょう」

 マヤさんは僕の事を何か覚えているような口ぶりだった。そして僕が先輩に憧れを抱いていたことにも。だから初対面である筈の僕に正体を明かし、素っ頓狂な頼みを提案してきたのだろう。

 それに、大和先輩が泣いている中学生を励ますような人とは思えないし。

「入試の日に僕を助けてくれたのは、マヤさんなんじゃないですか?」

「・・・」

 そして僕は、目の前で怒りを収めようとする大和先輩の姿を見て改めて確信する。

 あの日先輩に助けられてから、僕は先輩に『憧れている』と思っていた。勿論それは嘘じゃないし、憧れの気持ちもあった。でも、憧れという大きな大義名分で僕の心の中にあるもっと貴重な感情を無視していたんだ。

 どうせ僕には向いていない、僕には出来ないことだと諦める為にあえて憧れというもっともらしい言葉で自分を誤魔化していた。


「僕が忘れたら、マヤさんの名前を呼ぶ人がいなくなる」


 あの日僕を励ましてくれた『金雀枝大和先輩』。


 ―――マヤさんに僕は恋をしている。


 憧れじゃなくて、この感情は一目惚れだ。だからこんなにもこの関係を失う事が嫌なんだ、こんなに気になるんだ。やっと出会えた先輩ともっと近付きたい。ここで僕が逃げてしまえばもうマヤさんには会えないかもしれない。

「僕は忘れたくない。このまま終わらせたくないんです」

 たとえそれが二重人格の副人格という存在しない人でも、僕はまだ彼女にあの日のお礼をしていないし。彼女が望むなら恩返しをしたい。

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