第21話 深夜の儀礼室
儀礼室は血の臭いの代わりに聖水の匂いが残っていた。
強い香草の匂いは一日やそこらでは消えないのかもしれない。
ただ、鉄臭いより断然いい。
ルーヴを入り口に待たせ、ランプを手に調査を始めることにした。
まばらにある燭台に明かりを灯したけれど、明るいとは到底いい難い。
きっと夜に使うことなど想定していなかったのだろう。
だとしても、夜明けまで待っていられない。
一番奥にある燭台に火を近づけると、すぐ真横に天幕が垂れていた。
ランプと違ってむき出しの炎は火災に繋がるのではないか。
さすがに危険かと思って火を遠ざけると、動いた明かりで違う影が浮かび上がった。
「なんだろう、これ」
壁に付いていたのは、金属製の留め金だった。
黄色い天幕には輪になった紐があり、引っ掛けるのにちょうどいいのではないか。
試しに掛けてみると、垂れ下がっていた天幕はきれいな弧を描き、燭台から離れていった。
外れてしまっていたのだろうか。
いや、ゾロは言っていたじゃないか。
事件当日の昼間に掃除をさせていたと。
だったら、こんな初歩的な見逃しをするはずがない。
わざと外したのだとしたら、それは一体何を意味するのか。
外すことで隠される場所をじっと観察すると、天井にうっすらシミのようなものが見えてきた。
「雨漏り?」
この建物は設立当初からある古いものだと言っていたから、仕方がないことなのだろう。
ということは、これはあえて隠していたのだろうか。
いや、それにしたってたるんだ天幕は見栄えが悪いし、何より危ない。
事件に関係あるかもしれない。
しっかり記憶に残してから、次は鐘つき部屋に足を向ける。
細い隙間から滑り込むと、長いロープが床を這っている。
継ぎ目がないから最初からこの長さだったのだろう。
「これなら外からでも鳴らせる、とか?」
試しにロープを伸ばしてみると、残念なことに鐘つき部屋から少しはみ出る程度だ。
そもそも、この建物の窓ははめ殺しだから外には出せない。
やっぱり室内で鳴らすしかないのだと再確認する結果になってしまった。
開け放った扉から風が吹き込み、燭台の炎がゆらりと揺れる。
影が踊る室内を見回すと、一つだけ開いた武具掛けに目が行った。
レオーネを磔にするための木槌がかかっていた場所。
私だと背伸びをしないと届かないだろう。
もう少し下にも武具はあるというのに、犯人はなぜあの位置を選んだのか。
磔に使った武具はあえて選んだものなのか。
それに、犯人はなぜ部屋を荒らしたのだろうか。
といっても、大した量ではない。
壁にかかった武具と、凹んだ水瓶と、それを置く台だけ。
考えれば考えるほど分からない。
結局、私では何も解けないのだろうか。
兄様は私と同じ情報でいくつもの謎を解いたというのに。
不甲斐なさ過ぎて天を仰ぐしかない。
といっても、目に入るものは暗い天井と、眩しい黄色の天幕だけだ。
「ああ、もう……っ」
いっそのこと、レオーネの気分でも味わえばいいのだろうか。
もはや打つ手なしの状態に、遺体のあった場所に寝転んだ。
いくら拭き清められていても、昨日までの私だったら恐ろしくて触れもしなかっただろう。
でも、今は藁にも縋りたい気持ちなのだ。
何か、何か考えなければ。
焦りの中、耳の奥に水音が蘇った。
赤色と黒色の中に、テーブルから滴る水が混じる。
どうにかしないと、あと一日で兄様の命が。
嫌だ、嫌だ、嫌だっ!
背筋を走る寒気は石床の冷たさだけではないだろう。
清々しいと感じた聖水の匂いが、今はどうしようもなく癇に障った。
レオーネも尽きようとする命の中、同じことを思っただろうか。
いや、遺体発見時にこんな匂いはしていなかったか。
「……あれ?」
そうだ……していなかったのだ。
あの時していたのは、血の臭いと、何かの湿った臭い。
聖水を入れる水瓶が倒れていたから、てっきりそれなのだと思っていたけれど。
もしも聖水だったとしたら、今と同じくらいの匂いが満ちていておかしくないのだ。
だとしたら、あの時の湿った匂いは聖水ではない。
なら、なんの臭いだ?
殺風景な儀礼室で、今と違う臭いを発するのは。
「……雨」
言葉が出たと同時に、思わず身体を起こしていた。
室内で雨が降っただなんて言うつもりはさらさらない。
いや、ある意味それに近いのだけれど。
顔は天井に向けたまま、頼りない蝋燭の光に目を凝らす。
もしかして……あの雨漏りは、最近のものなのではないか。
乾燥地帯と言われていても、一切降らないはずがない。
イグナスが酒盛りを解散したのは、ポルクの妄言だと言っていた。
それはつまり、天気予測士という名乗りに関係することなのではないか。
それに、タレイアは気温差が激しかったために検死に不安を感じていた。
私たちがここに着いた時、外はひどく冷え切っていた。
つまり、事件当時は暖かかったのではないだろうか。
「暖かい時は……雨」
ポルクはそんな言い伝えを口にしていた。
ということは、事件当時、ここには雨漏りがあってもおかしくない。
もしもそうだったとしたなら。
目に映るものを頭に並べ、鐘の音を思い浮かべる。
「ルーヴさんっ!」
儀礼室の中心から叫ぶように呼びかけると、ルーヴはすぐさま来てくれた。
たった一言聞くだけでいいのだ。
だというのに、私の身体は震えていた。
「事件当日の夜……このあたりは、どんな天気でしたか?」
「日付が変わるころから、強い雨が降っておりました」
淡々とした声に、自分の考えが間違っていないことを確信した。
これなら鐘を鳴らせる。
机上の空論でないことを証明するため、大急ぎで必要なものを集めてもらった。
といってもそう大層なものではない。
聖水を入れるための水瓶と、それが満たせるだけの水だ。
それらが揃ってから、私はルーヴと二人だけの実験を始めた。
「水瓶を置く台、今と同じ場所でしたか?」
私の質問に、ルーヴは首を振って位置を変えてくれる。
儀礼室の奥に置かれた台は、ほんの少しだけ鐘つき部屋に近づいた。
その場で天井を見ると、歪んだシミがちょうど真上に見えた。
鐘つき部屋に入って床に這い回るロープを持ち、そのまま出る。
部屋から少しはみ出る程度のロープは十分届く長さだ。
「水瓶を貸してください」
無言で差し出された水瓶を台に置き、くびれにロープを緩く結ぶ。
そして水瓶を台の端に置けば準備は完了だ。
力のない私でも持ち上げられるようにか、水は小ぶりな木桶に入れてきてくれたようだ。
小さな気遣いに感謝し、一つずつ水瓶の中へと注ぎ込む。
水瓶は台から半分以上はみ出していて、そんな状態で重さが加わるとどうなるか。
一つ注ぐごとに重心はずれ、そろそろ満杯かというころに。
バランスを崩した水瓶は石床に転げ落ち、緩く結んだロープが強く引かれた。
ガラン、ガラン、ガラン、ガラン。
高らかに鐘が鳴り、解けたロープが鐘つき部屋に引き込まれていく。
銀製の水瓶は側面に大きな凹みを作りながら、床に転げて止まっていた。
「できた……」
身体に響く轟音に、ただただ揺れる鐘を見る。
水瓶と雨漏り、それに無駄に長いロープを使った時限装置だったのだ。
これなら鍵をかけた儀礼室でも鐘を鳴らすことができるだろう。
謎が解けた達成感に浸っていると、横から身振りで呼ばれているのに気づいた。
「クリシュナ様の元にお戻りください」
微かに聞こえた声にハッと肩が震えた。
事件を解決するために、早く兄様に知らせなければ。
けれどこのままにしておくこともできないだろう。
床は水浸しだし、深夜に鐘を鳴らしたとなれば誰もが飛んでくるに違いない。
現に衛兵はすでに駆けつけていて、警戒した様子でこちらを覗き込んでいた。
「すべてこちらで対処いたします。フィオナ様は、一刻も早く事件を解決なさってください」
今日までの無表情は変わらないのに、視線に何かの力を感じる。
すべてを語ってしまった今、ルーヴも事件の解決を願ってくれているのか。
ならばこうしてはいられない。
出来得る限りの感謝を伝え、一目散に儀礼室から飛び出した。
振り返りざまに見えたルーヴの表情が、僅かに緩んでいたのは気のせいだろうか。
事件が解決したら改めてお礼を言わなければ。
そう心に留め、薄暗い廊下を走り続けた。
貴賓室に駆け戻ると、暖炉はまだまだ燃えていた。
足音を潜めることすら忘れていたからか、騒々しい音に兄様の身体が動いた。
「兄様、大丈夫ですかっ?」
声をかけると、兄様は身体を起こしてこちらを見てくれた。
青黒い顔色は変わらないけれど、僅かな笑みを浮かべてくれる。
「鐘をついた方法が分かりました!」
危機が過ぎ去ったことに安堵しながらも、興奮のままに今やってきたことを報告した。
犯人は雨漏りを利用して水瓶を倒し、結んだロープで鐘を鳴らした。
細かく説明すると、驚いた様子だった兄様は吟味するかのように思考を始めた。
興奮が過ぎ去ると、薪が爆ぜる音の中に不安が湧き上がる。
兄様は同じ情報で数手先まで読み取る人だ。
ということは、私が気づいたこの方法はとっくに分かっていたのではないだろうか。
その上で不可能と断じたのだとしたら、私の行動はてんで的外れということになる。
呆れられてしまうだろうか。
そんな恐怖が頭を覆いそうになった時、兄様はふと私に視線を向けた。
「フィオナはどうしてこれを思いついたんだい?」
「聖水の匂い、です。初めて入った時にまるでしなかったので……」
まるで試すかのような質問に、つい声が小さくなってしまった。
けれど兄様は小さく頷き、私の頭にそっと手を置いた。
「僕じゃ気づけなかったことだ。よくやったね」
そう言って、労るように撫でてくれる。
大きくて、肉がなくて、がさがさした手の平。
事件のたびに毒をあおった兄様は、そこかしこに影響を受けている。
それは目に見える部分だけでなく、身体の奥深くにも被害を与えているのだろう。
食事をしてもあまり味が分からないと言っていた。
聖水作りの場でも匂いに気づいていなかった。
ということは、私が感じていた様々な匂いも、兄様は感じることはなかったのだろう。
だから兄様よりも前に、私が気づけた。
兄様は人間が一般的に持っているだろう五感すら、蝕まれてしまっているのだ。
調査官という立場の、なんて非人道的なことか。
けれどそれすらも、私たちには批を唱えることすら許されない。
「私……兄様のお役に、立てましたか?」
血で染まっているであろうローブを握り、前髪に隠れた目元を見つめる。
唯一見える口元で感情を読み取れないかと思っていたら、私の視界は黒に埋め尽くされた。
「ああ……お前がいてくれて、よかった」
強く抱きしめられ、低い声が身体中に響き渡る。
冷え切っていながら芯に熱を持ったような身体は、とても硬い。
けれど優しさに溢れていて、心地の良さに私も腕を回した。
薬のような匂いと鉄のような臭いに包まれていると、兄様はそっと私の顔を上に向けた。
「事件は解決した」
たったそれだけの短い言葉が、私にどれだけの感情を生み出したか。
前髪に隠された真っ直ぐな瞳が、強く強く私を見つめていた。
これで兄様は死なずに済む。
そのことにようやく安堵を感じながら、成功の独り占めはどうかとも思ってしまった。
「あの……ルーヴさんが手伝ってくれたんです。鍵も借りておいてくれて。
だから、事件を解決したらお礼を言いに行こうと思います」
「……そうか」
小さく頷いた兄様は、再び腕に力を込めた。
少し痛いけれど心地いい。
懐かしい感触に包まれていると、忘れていた睡魔が首をもたげた。
もうとっくに深夜だ。
けれど、こんな時に眠るわけにはいかない。
兄様の中では解決していても、私はまるで分かっていないのだ。
霞がかかっていく頭で、必死に事件に思考を傾ける。
「犯人は……なんのために鐘を鳴らしたのですか?」
ゾロの言う自己顕示欲ではないだろう。
だとしたら、犯行時間を誤認させるため?
それとも、単純に自分がその場にいない時間に鳴ればいいと思った?
だって、この方法はあまりにも不確定だ。
雨漏りの量だけでなく、水瓶が満ちる量も把握しなければならない。
そんなことができる人間などいるはずがない。
ということは……あの時間に鳴ったのは、犯人の意図したことではなかったのではないだろうか。
「あとは任せなさい」
身体に沁みる声に、目蓋がすぐに重くなる。
片目を覆っていた眼帯が外され、両目が黒に覆われた。
意識が落ちることに一瞬だけ抗うと、小さな言葉が耳に届いた。
「お前は本当に……前の調査官によく似ている」
それは、兄様が監視官として共に行動した相手のことか。
まるで情報に残っていないその人物は、一体どんな人だったのだろう。
知るすべはないけれど、いつか教えてもらえるだろうか。
僅かに湧いた興味は睡魔に塗りつぶされ、安心感と共に意識は埋もれていった。
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