第29話

 怪我をしていた。魔力だって、かなり使っただろう。

 それなのに手当もせずに消えてしまった。

 動揺して名前を呼ぶと、ティラとルシェーが部屋の中に駆け込んできた。

「優衣、無事?」

「……ヒース」

 ルシェーは優衣に飛びつき、ティラは、倒れている男の名を呼んで、悲痛そうに顔を歪める。

「ティラさん、ジェイドがいなくなってしまったの。ひどい怪我をしていたのに」

「おひとりに、なりたいのでしょう。今は、どうか……」

 そっとしておいてやってほしい、ということのようだ。

 まずティラの怪我も手当をしなくてはならない。ルシェーに頼んで彼女を寝室に運んでもらい、丁寧に手当をした。

 見た目はひどかったが、傷はそれほど深くなかったようだ。

 安心すると、怪我をしたまま消えてしまったジェイドのことが心配になってきた。

「ティラさん。ジェイドが言っていたの。どうせ殺されるのなら、あの人がよかったって。どういう意味か知っている?」

「……」

 彼女は答えず、ただ俯くばかりだ。

「変なことを聞いて、ごめんなさい。でもわたし、ジェイドが心配で」

「……魔族が力を受け継ぐには、ふたつの方法があります」

 しばらく視線を落としていたティラは、やがて決意したように話し出した。

「ひとつは、以前お話したように親から子に引き継ぐもの。もうひとつは、殺して奪う方法です。この方法では、力だけを受け継ぎます」

「それじゃあ、あの人は」

 ティラは裏切ったと言っていた。つまりヒースという魔族は、ジェイドが引き継いだ魔王の力を奪おうとして、彼を襲ったのだろう。

「どうせ殺される、というのは……」

「いかに稀有な魔力の持ち主だったとはいえ、ルクレティア様は人間でした。魔族の中でも最強だったグィード様のお力は強く、人間の身体では耐えられないものです」

 ジェイドも半分は魔族だが、このまま何事もなく過ごせる可能性は低い。現に、今だって魔力弊害に悩まされている。

 いずれ強すぎる魔力に身体が苛まれていくだろう。そうなったら、魔王の力を欲する者が放っておくはずがない。

 そう語ったティナの話に、優衣は血の気が引いていく。

「そんな……」

 ジェイドは自分がいずれ魔族に殺されるとわかっていて、それでも魔族の魂を解放するために奔走しているのか。

「……っ」

 泣いても仕方がないのに、涙が溢れてくる。

 肩を震わせて泣く優衣の手を、ルシェーが握ってくれた。彼もまた、今にも泣きそうな顔をしていた。

「ジェイドのお父様は、こうなることがわかっていて、力を受け継がせたの?」

「いいえ。そんなことはけっしてありません。グィード様は、ルクレティア様が傍にいれば大丈夫だと信じていらっしゃいました。あの方は魔族に近いほどの魔力を持っていましたが、特に守護魔法を得意としておられましたから」

 ジェイドの母は、魔族の攻撃も防げるほどの守護魔法を使えたようだ。その力で、大切な人の忘れ形見を守るつもりだったのだろう。

 だが結果的にジェイドの母も命を落とし、彼ひとりが残された。


 どうしようもない痛みを抱えたまま、優衣はティラの代わりに食事の支度をしたり、部屋の片づけをしたりした。

 ティラは申し訳ないと仕事をしようとしたが、気が紛れるからと言って、無理に休ませた。

 食事をしたあとの食器を片付けながら、考えるのはジェイドのことだ。

 彼は今、どこにいるのだろう。

 ひとりで何を考えているのだろう。

 そう思うと堪らなくなって、気が付けば中庭の前に立っていた。

 ここから魔族の領域、魔王城に行けるはずだ。

 ジェイドはきっと、そこにいる。

 魔族の住む場所に向かう恐れを振り払うように首を振って、優衣は救急箱を手に中庭に足を踏み入れた。

 魔方陣で移動したあとは、左右を見渡しながら慎重に歩いていく。魔王城の門は開いていて、この間のように誰もいない。

 誰もいない古城。

 薄暗くて、自分の足音ばかりが響く。

 ジェイドと来たときは綺麗な場所だと思ったのに、今は少し怖い。

 彼の両親の肖像画があったホールに行ってみたが、誰もいない。優衣はしばらく考えてから、この城に来たときに案内された部屋を探す。

(……いた)

 彼の母が住んでいたという部屋のソファーに、探していた姿を見つける。

 目を閉じて佇んでいる様子は、まるで命のない彫刻のようだ。

「ジェイド」

 声を掛けると、彼はゆっくりと目を開いた。海の底のように深い藍色の美しい瞳が、優衣に向けられる。

「どうした?」

 いつもとは違う、消えてしまいそうなほど小さな声。

「傷の手当をさせて。結構ひどいように見えたから」

 答えは返ってこなかった。

 優衣は気にせず、隣に座って傷の具合を確かめる。以前なら目をそむけたくなるほど深い傷もあったが、何度もこうしているうちに慣れてきてしまったようだ。

「魔法って、攻撃魔法ばかりなのね。治癒魔法みたいなのがあればいいのに」

「俺の母は使えたようだ。欠損さえ治せたというから、恐ろしい話だ」

「……恐ろしいの?」

「ああ。そんな相手と戦うことになったら、消耗戦になるだろう」

 味方としてではなく敵として想定しているところに、今までの彼の生き方が表れていた。

 ミルーティが、十歳の頃から魔導師として戦ってきたと言っていた。おそらく、魔王の力を狙う魔族との戦闘もあったのかもしれない。

 優衣は両手をぎゅっと握りしめた。

(どうしてわたしには、何の力もないの? 異世界転移なら、何か特別な力を授かるとか……)

 そんな都合の良い話はないとわかっている。そもそも優衣は、ジェイドによって召喚されたのだ。

 何もできない無力感を抱えたまま、それでも手当だけは丁寧にやらなくてはと、手を動かした。

 見逃した傷はないのか。丁寧に調べたあと、ゆっくりと手を離す。

「……終わったわ」

 優衣にされるがまま大人しくしていたジェイドは、その言葉に頷くと、ふと表情を緩める。

「お前はもう第一世界に帰る。こうしてもらうのも、これで最後だな」

「あ……」

 優衣はもうすぐルシェーと守護契約を結ぶことになっている。

 明日にはジェイドが国王に報告し、近日中に儀式が行われるだろう。

 それが終わったら、優衣はもとの世界に戻る。こうやって傷を負った彼の手当をするのも、彼が言うように最後になるかもしれない。

 ここを去ったあと、誰が彼の傷の手当をするのか。

(きっと誰もいない。最初そうだったように、放っておくのでしょうね)

 孤独なその姿が目に浮かんで、胸が痛い。

(ジェイドと離れたくない。ずっと、傍にいたい……)

 もし戦いで傷付いたらこうして手当をして、夜は抱きしめてあげたい。

 でも優衣には戦うことも、ジェイドを守る力もない。

 ただ守られるだけでは、彼の負担になるだけ。

 これ以上、ジェイドに何かを背負わせてはならないのだ。

「優衣? なぜ泣いているんだ?」

 困惑したようなジェイドの声に、涙は止まらなかったけれど精一杯微笑んで見せた。

「泣いていないわ。わたしは大丈夫よ」

 ジェイドは何か言いたげな顔をしていたけれど、結局何も言わず、ただ静かに優衣を見つめていた。

「優衣」

 ふいに名前を呼ばれ、ジェイドの手が優衣の頬に添えられた。

「え?」

 驚いて彼を見上げようとした途端。

 唇が重なった。

「……っ」

 突然のことだった。

 驚いてジェイドの胸に手を当てるが、突き放そうとは思わなかった。

 軽く触れてすぐに離れた唇。ジェイドの深い藍色の瞳が、伺うように優衣を見つめる。

 慈しむような優しい瞳。でも、その奥に悲しみも感じる。

 そんな瞳で見つめられたらたまらなくなって、優衣はジェイドの胸に当てていた手を彼の背中に回した。そのまま目を閉じると、今度は深く、長く口づけられる。

「……ぁ」

 吐息までも奪われて、苦しくなって小さく声を上げる。すると宥めるように髪を撫でられた。

 キスの意味なんか聞かなかった。

 あんなに優しく抱きしめられて、溶けるような熱い瞳で見つめられて、気付かないわけがない。

 寄り添い合ったまま、言葉もなく静かに過ごしていた。

 ジェイドは優衣の背に手を回したまま、ぼんやりと窓の外を眺めている。

 優衣はその整った横顔をずっと見つめていた。

 絶対に届かないと思っていた相手に振り向かれて、少し困惑しているのかもしれない。理由を探していた優衣は、ふとあることに気が付いてひとり頷く。

(ああ、きっとわたしが異世界の人間だから)

 この世界の人間を嫌悪し、それでも完全な魔族でもないジェイドは、ずっと孤独だった。同じハーフであるルシェーなら共感できたかもしれないが、彼はまだ子どもである。ジェイドにとってルシェーは同等ではなく、むしろ守らなくてはならない存在だ。

 そんな彼の心の隙間に、異世界出身の優衣は上手く入り込んでしまったのだろう。

 もちろん、それを意識していたわけではない。

 傷の手当も放っておけなかったからであり、魔力がないのもこの世界の人間ではないのだから当然のことで。

 それが結果的に、意図せずジェイドの心を優衣に向けさせてしまった。

(でもわたしは、もとの世界に帰る……)

 想いが通じなければよかったのに、と思ってしまう。

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