045 氷川丸が煌めく
「─ ─ ──……!?」
山下埠頭の突堤を飛んでいた、佳穂の視界が燦めいた。
背後から地面を切り裂くナイフのように、焔の緋色が近づいてくるのが感じられる。
女のバイクだ。
たった一台だけで近づいてくる。
他の二人の部下の輝きは感じられない。
考えられるのは犬上だ。残りの追手を抑えてくれているのだろうか。
背後が気になるが、振り向く余裕は全くない。
羽撃きを強め、鉛のように重い空気を後ろに送る。だが、夕凪から切り替わった強い海風が佳穂を押し返す。
スピードは上がらない。
「はあ、はあ、はあ……」
たちまち、息が上がって来る。
これが、限界だ。
そして、追手のバイクの速度は圧倒的だ。
あっという間に、緋色の燦めきが間近に感じられるところに迫ってきた。
パパパパパパ!
「────────ッ!」
射程に入ったと感じた瞬間、コルク弾は飛んできた。
翼を閃かし、張り巡らされた軌跡を躱す。
「クソッタレ! 逃すか! コウモリっ!!」
女が叫んだ。
バシュ!バシュ!バシュ!バシュ!
同時に女のバイクから何かが撃ち出された。コルク弾でも、網でもない。
見える音から感じられるのは今までとは全く違う感触。
弾数は6発。コルク弾に比べれば多くはない。翼を閃かし、それを躱す。
だが────
(え、え、え、え、え?)
やり過ごしたはずの弾は、今までのもののように真っ直ぐに外れてはいかな。
感じられたのは『蛇行するヘビ』。
──ついて来る!?
追跡装置が付いているのだろうか、軌跡はメデューサの髪のごとく互いに絡まりながら、佳穂へと向かって追いすがる。
パパパパパパパパパ!
「ひいいいいっ!?」
予想外の事態に戸惑う佳穂へ、追い打ちのようにコルク弾の弾幕が重ねられる。
────躱す。
頬が切られる。
──── 躱す。
髪が削られる。
────逃げられない。
今度こそ絶体絶命だ。クオリアの指し示す幾通りもの道筋が、視界を覆い尽くしている。
だが、どれを選んだらいいのかがわからない。
見えてはいるが、理解が出来ない。溢れかえる情報を頭が処理しきれない。
完全にパニック状態だ。
「っ…………────!」
このままじゃ、当たる。
湧き上がった恐怖が、翼の先まで覆い尽くす。
羽撃く腕の力が抜けかける。追尾弾の焔が肌を焼く。
「だ……め…」
思わず目を瞑ったその瞬間――――
佳穂の見える音の中に、あるヴィジョンがフラッシュした。
狂おしく舞い踊る風花の中。
地に伏す、見知らぬ少年。
その少年が何かを叫んでいる。
佳穂の耳には確かに聞こえた。
逃げろ!
励起された翼が閃く。
逃げろ!!
もうひと羽撃き。
逃げろ!!!
羽撃きが恐怖をかき消していく。
「逃げろ! コウモリ! 絶対、逃げ切れ!」
目を閉じてなお見えている、輝く視界。
その中にたった一つ、真鍮色に輝いているルートが見えた。
「─ ── ── …‥!」
佳穂はその光の道に飛び込んだ。
まばゆい光が指し示す方向は──急旋回!
翼を翻らせ、宙を返る。空気の圧力に腕が軋む。
(くうっ……!)
目を閉じたままだった闇の中に、焔の緋色が飛び込んできた。
佳穂は目を見開いた。
鼻先を擦りそうな程、地面すれすれの滑空。
その正面に追手のバイクが迫っていた。
ライダーの女は真っ直ぐこちらを見据えている。チリチリと焦げるような強い意志の眼だ。
怖い。
だが、もう目は閉じない。猛スピードのバイクの脇を、翼一重ですり抜ける。
「… … … …━━━━━!!」
佳穂は、声にならない声で叫んでいた。
自分に、こんなに大きな声が出せるだなんて、思ってもみなかった。
体が震える。
音のすべてが視覚となって返ってくる。
真鍮色の光のルートは、埠頭に置かれたコンテナの群れへと続いている。佳穂は迷うことなく、その中へ飛び込んだ。
ドド!
背後で衝撃がした。空気が干渉縞に震えている。
感じられる追尾弾の数が減っている。
4発だ。
コンテナの入り口で壁にぶつかり2発減ったらしい。
――――2発しか減っていない。
いや、違う。
残りはあと4発だけだ。
女のバイクはついて来れてない。
コンテナの通路は曲がる。
曲がる。
曲がる。
まるで迷路だ。
ジグザグ道を、右へ、左へ。
何度も壁に激突しそうになりながらも、前に進む。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ!」
お世辞にもうまい飛び方だとは思えない。
一瞬でも気を抜いてしまえば、壁に激突するか、追尾弾の餌食。恐怖が頭をもたげて来そうになるが、それを無理やり気持ちで抑える。
「… ─ … ━━━━━!!」
考えない。
今は、目の前に聞こえている光の道に集中する。
曲がる。
「─ ─ ─ ─ ─ っ!?」
(行き……!?)
止まりだ。
三方をコンテナが取り囲んでいる。コンテナの壁に阻まれて、逃げ場はない。
だが────道は続いている。
「… ─ … …━━━━━!!」
真鍮色の光の道は突き当りの壁へ伸びている。コンテナとコンテナの間にできた隙間の中へと。
――――通れる!!
輝きは、そう聞こえている。肩幅ほどの僅かな隙間だ、普通なら飛び抜けられるなんて思えない。
しかし────
逃げろ!
あの声が、体を突き動かす。輝く道が聞こえた通り体を動かす。
強く羽撃き、体をひねる! 大きな掌を目一杯広げ、翼を伸ばす! 体を薄く、垂直に!!
隙間に――――入った!
思わず目を瞑る。やっぱり怖い。目を開いていられるほどの勇気はない。
(ひぃ─────────────っ!)
背後で爆発音がした。
3発だ。
のころあと1発。
コンテナの間の狭い空間。
真っ暗な視界のはるか先に一筋の光──。
出口だ!
コンマ1秒、コンマ2秒。
永遠とも思われる時間が過ぎていく。
ドン!
最後の衝撃が走る。
「─ ─ ッ!」
背後からの爆風を受けるか受けないか、輝く視界が突然開けた。
「─ ……!!!!!」
目を開いた佳穂の視界に光の船が飛び込んで来た。
――――氷川丸だ!
「ぬ、抜けた!?」
しかし、気が緩む間もない。
背後に緋色の炎が燃え上がる。
朱く染まった埠頭にコンテナの影が落ちている。
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