028 迷う

――――迷ってしまった

 佳穂は困惑していた。教室までの地図がわかりにくいのだ。

 新たな患者の登場に、校医はその場で教室の地図を書いて佳穂に渡した。

『悪いけど、教室まで一人で行ってくれる?』

 保健室を出るまで渡されたものを見もしなかった佳穂が悪いのだが、程なく佳穂は自分がその地図のどこにいるのかわからなくなった。

 渡された地図は今まで見たことがないようなヘンなものだった。

 賽の目に切られたお豆腐が並んでいる中にバッテンが二つ書かれている。そんな図なのだ。

 横にしても上下を逆さまにしても意味がわからない。地図であるはずなのに、この図には何かが欠けているせいで、地図としての機能を失っている気がする。

 古い公営競技施設の跡地にあった公園を買い取って建てられたという鳳雛学園。広大なキャンパスには多くの建物があり、入試以来2回目の訪問である佳穂にとってこの「地図」は難易度が高すぎるものだった。

 そうこうしているうちに、廊下にはオリエンテーションが終わったであろう、生徒たちが流れてきた。校門へと向かう人の流れに逆らいながら、佳穂はやっと気が付いた。

――――そうか、この図にないものは「道順」だ。

 並んでいるお豆腐が校舎であることはなんとなくわかる。賽子さいころ一つが教室だろう。が、どのお豆腐がどの校舎で、どこに廊下があって、階段がどこに付いているのかが、全く描かれていない。

 まるで、窓から入れと言わんばかりの鳥瞰図。それがこの地図だ。

――――もう終わったよね。オリエンテーション。

 佳穂はため息をつきながらも再び歩き始めた。

 時間的にはもうお昼の時間だ。だんだんお腹も減ってきている。

 なぜだかわからないがお腹の減りが早くなっているような気がする。

 もう一度保健室に戻るか、誰かその辺の人に聞ければもっと早くにどうにかなったのかもしれない。だけどその選択肢は佳穂にとっては少し難易度が高いものだ。

 1―B。

 やっと目的の教室の前まで辿り着いた。

 教室の場所は、校舎の外に出て校舎と教室の配置を確認して初めて見当がついた。

 教室に向かう階段ですれ違った生徒は、すでにまばらになっていた。廊下にはもう誰もいない。みんな帰ってしまったのだろう。

 しかし白状すると、この結果は佳穂が狙っていたようなものだ。

 みんなが揃っている教室にあとから入る事を考えたら、この「地図」には感謝なくてはいけない。

 もう誰もいないのではないか? それならそれだ。

 佳穂は教室のドアを恐る恐るノックした。 

「はい」

 中で声がした。男性だ。

 佳穂は人がいたことを少しだけ残念に思いながら、身構えた。

 ドアが開く。

「はい」

 顔を出した人物の顔を見て佳穂はますます身構えた。

――――外国の人だ。

 スーツにネクタイ。年恰好からして、教師だろう。

 さすが、外国籍の生徒が八割を超える学校だ。

 教師も外国籍。当然といえば当然なのかもしれない。

 ブロンドの髪、鼻筋の通った顔貌。年齢は20代後半……か。

 その人物は、茶色の瞳の目を少しだけ丸くしたかと思うと、にっこりと笑みを浮かべた。

「月澄……さん?」

「はい」

 佳穂は小さく返事をした。

「よかった! 探しに行こうかと思ってたところです。体調は――――大丈夫ですね?」

 教師と思しき人物は、ドアを大きく開くと、佳穂を中へと促した。


 教室はガランとしていた。正午近くの日差しが空席の机を照らしている。

「どうぞ。とりあえず、そこです。あなたの席は」

 窓際。前から2番目の席に、教科書が積まれているのが見えた。

 窓際なのはいいのだが、思った以上に前の方だ。

――――少し苦手な席かもしれない。佳穂はちょっぴり残念に思った。

「あ、あの……。座ればいいですか?」

「はい」

 教師の男性が微笑みながら頷いたので、佳穂は着席した。

「目、大丈夫ですか?」

「え、あの……こ、これは」

 佳穂はドキリとした。

 いきなりの質問だ。前髪のことか。これは答えに困ってしまう。

「平気ですよ」

 突然、背後で声がした。

「そいつ、中学校でも似たような席に座っていたし」

 驚いて佳穂が振り向くと、教室の対角線くらいの位置に座っている男子がいた。――犬上だ。

 見れば仏頂面で机を前に腕組みをしている。

(え? まさか同じクラス!?)

 席についているということは、おそらくそうなのだろう。いや、それはありうることだとは思うのだけど、それより何より、まだ教室に残っていたことの方が気になった。

「私が訊いたのは、月澄さんに、ですよ。犬上くん」

 教師は言葉をくぎりながら、丁寧に言った。

 微笑んではいるが、なぜか笑っていない。佳穂にはそう感じられた。

「答えに困っていそうだし、先に答えただけです」

「そうですか。ありがとう。さて、もうお昼の時間です。お帰りになられたらどうですか? 犬上くん」

 教師はニコニコしながら扉を指差した。

「もう少しここに座っていたいいから残っているだけです。何か問題でもありますか?」

 それを無視するかのように目を瞑りながら、犬上。

「いいえ」

 教師は相変わらず笑っている。

 なんだろう……ものすごく妙な雰囲気だ。佳穂の方が、帰りたくなる。

「だ、大丈夫です。黒板の文字なら見えます」

 これ以上、この会話を続けられたら溜まったものではない。無理矢理でも話に幕を引こう。

「そ、そうですか……」

 佳穂の応えに教師は頷かざるを得なかった。

「コホン。では、改めまして。1年B組、担任のウーヴェ・シュナイダーです」

 担任を名乗ったシュナイダー先生は、佳穂に向かってオリエンテーションを始めた。

 オリエンテーションの間も、犬上は腕組みしたままだ。気になってしょうがない。

「さて、月澄さん」

 一通りの説明が終わり、シュナイダー先生は声の調子を改めた。

「聞けば昨晩、大変な目に遭われたとか? 」

「!?」

 先生の問いかけに佳穂はドキリとした。

――――自宅を追い出された事だ。

 佳穂は思った。

 どこからそれを知ったのだろう? 

 警察から学校へ連絡があったのか。それとも他の方法でか。

 自宅を追い出されたことが、何か問題にでもなるのだろうか?

 入学金を含め一年分の授業料はもう振り込み済みのはずだ。

 お金に関しては当面は問題はないはず。

 それとも自宅ナシだと素行不良にでも問われるのであろうか?

 佳穂の頭には、ぐるぐると疑問が渦巻いた。

「一時的にせよ、自宅が使用できなくなったとか。大変な事と思いますし、同情いたします。

 提出いただいた書類を確認させていただきましたが、月澄さん、今お一人住まいですよね?」

「はい」

 佳穂は、入学申込時に提出した家族構成の書類を思い出した。家族は祖母のみ。連絡先は赴任先のドイツになっていたはずだ。

「当校の特待生には寄宿舎の寮費が免除される制度があります。入試の結果を確認いたしましたが、月澄さんは充分、特待生の条件を満たしている、と私は考えます。また今回は、事情も事情です。おそらく、申請すればすぐにでも通るでしょう」

 シュナイダー先生は続ける。

「どうでしょう? 月澄さん。寄宿舎の申請をしてみませんか?」

 外国人によくあるイントネーションの揺らぎを微塵も感じさせない流暢な日本語。190センチ近くはあるだろうか、長身から煌々と響く声は、星の瞬きを消し去る月の光を感じさせる。

 折目の美しい清潔感のある三つ揃えのスーツ。ピカピカに磨き上げられた革靴。

 それら全てがこの人物がどのような人であるかを物語っている。

「ちょっと待った、先生」

 月光に照らされた草原がざわめいた。

「そいつ、これからウチに連れて帰るから」

 佳穂は思わず振り向いた。

 席では犬上が眉間に皺を寄せていた。低い声には焦燥が見え隠れしている。

「は? 犬上くん、言ってる意味がわかりません」

「だから、そいつはウチから学校に通うって、言っているんです!」

「なぜですか?」

「なぜって、それは…………。姉に首を絞められるから」

 犬上はそっぽを向きながら聞こえないような声で言った。

Hähなんだって? ますます意味がわかりません。とてもまともな理由だとは思えないです。月澄さん、本当ですか?」

 雲間に月が隠れるように、教師のイントネーションが揺らいだ。

「え、あの……その」

 佳穂は言い淀んだ。そういえば、まだ決断したわけではなかった。

 あの写真の件も、犬上本人に本当のところを聞けてはいない。

「いや、違う! 姉が、知り合いなんです。そいつのお父さんと」

 犬上が、慌てて訂正した。

「…………ほう」

 シュナイダー先生は、関心したような声を上げた。しかし――――。

 先生は、真顔でこう続けた。

「月澄さん。事情はわかりました。

 しかし、寄宿舎は、正当な学校の制度です。利用できる資格を持つ生徒なら、利用するべきですし、その価値もあります。ちゃんとした生活の場が用意出来ていてこそ、ちゃんとした勉学を行うことができます。当然のことです。

 こんなことをいうのもなんですが、寄宿舎では生活に必要なものは全て揃えられています。不自由はないどころか、最高の生活水準が保障されています」

「それは聞き捨てならないです、先生! ウチだってちゃんとしているし、食事に関しては、どんなレストランにも引けを取らない、一流です。な、月澄?」

 犬上が割って入った。

 確かにそれは同意せざるを得ない。思わず頷いてしまった。

「ほら!」

 勝ち誇ったような声を犬上が上げる。

「いや、待ってください。寄宿舎でも揃えているのは一流シェフです。三ツ星級の方がいくらもいます。何より、世界中から集められていますから、メニューの多さではどうやったって勝てないでしょう。私が保証します」

 教師も負けてはいない、胸を張ってアピールする。

――――なんなのだ? このどっちの料理ショーは。

 先生と生徒。二人とも自分のことを心配してくれている。

 それは、わかる。わかるのだが、出来たらこんな聞き方をしないでほしい。

 これでは釣り糸の先の餌に食いつく魚みたいではないか。

「ぐぅーー」

――――魚ではなく虫が鳴いた。

 聞こえたか? 聞こえたよな。

 佳穂は赤面した。

 確かに、もう決断をしないといけない時間だ。

 今後のことを考えると、生活の場の確保は死活問題。

 では、いったいどうすればいいのか…………。

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