012 翼をたたむ

 降りろっていうから降りたのに、待ちやがれもないだろう。

(ひ──!)

 相手はバイク、きっとまた追ってくるだろう。さすがにもうダメかも知れない。でも、このままコウモリ女で一生過ごすのだけは絶対イヤだ。足を運ぶことだけを考え、佳穂は石段をかけ上った。



   *          *

 公園の麓。バイクのライダーがヘルメットを取る。長い黒髪がこぼれ落ちた。

「よ! コワい姉ちゃん!」

 便利屋が手を上げた。

「コウモリのバカ女はあっちだ」

 そういうと便利屋は、佳穂が逃げた階段とは反対の町中の方向を指差した。

「……フン」

 女は佳穂が上って行った階段を眺めて鼻で笑うと、ヘルメットをかぶりなおした。そのままエンジンを起動させると、便利屋の指差した町中に向かって走り去って行った。

「──信じた? んなわけないか」

 便利屋がバイクの女を見送る。

「あっ!? くそっ! コラ! 車の修理代払いやがれ!」


   *          *


 佳穂は山の頂上に向かう木道を走っていた。

 息が切れ、足は上がらなくなってくる。車が突っ込んだ場所は、佳穂もよく知った場所だった。本牧山上公園。横浜市内でも特に大きな公園だ。

 足を止めて自分が来た道を振り返る。視界に緋色の光は差してこない。どうやらバイクは追ってきていないようだ。

 あきらめたのか?

 そうとはとても思えない。

 何かの理由ですぐには追ってこない。そう考えておいた方がいい。

 とはいえ、少し休んだ方がよさそうだ。

「はあ、はあ、はあー」

 膝をつく。フラフラだ。走るにはハンデが大きすぎる。佳穂は、あらためてそのハンデの元を確かめてみた。

 透けるような薄くて黒い翼。文字通りコウモリ傘のようだ。何度見ても信じられない。

「………………」

 さっきは触れなかった──。

 だが、やはり自分自身で確かめるべきだろう。佳穂は、恐る恐る手を伸ばした。

「……温かい」

 滑らかで柔らかく、そして血の通った温かさがある。なにより、自分自身で触られた感触もあった。


 生えたのは翼だけではない。佳穂は、ポケットから鏡を取りだした。

 暖簾のような前髪の見慣れた自分が写っている。

 瞳は、見えてない。少しだけ安心する。

 だが──おでこの少し上のあたりに、黒い大きなリボンのようなものが二つ並んでいる。

 絵で見たことがある、まさしくコウモリの耳だ。

「…………………………恥ずかしい」

 とても目立つ。ネコ耳に似ていると思えなくもない。だが、それがかえって耐えがたい。

「は──」

 溜息をついて、鏡を仕舞う。

 息も落ち着いてきた。

 このまま、街灯の下にいてはまずいだろう。灯りに照らされた木道を降り、木立ちに入る。

 この辺りは公園でも一番木々が茂っている場所だ。隠れるのにはちょうどいい。慣れた足取りで木々の間を歩く。

 ありがたいことに、あの頭がクラクラする感じが、ほとんどなくなっている。

 木道からは死角になっている茂みに腰を下ろす。

(動かせるのかな、これ?)

 佳穂は、だらんと広がってしまっているコウモリの翼をやっかいそうに眺めた。

 それは「鬼ごっこ」にとってハンデ以外の何物でもない。

(……どうにかしなきゃ)

 意識して翼を動かす事は、まだやっていない。

 そもそも思い通りに動くのだろうか。

 さっきのガス爆発で石段を踏み外した時は、翼が無意識のうちに広がって、地面に着地することができた。

 試してみる価値はありそうだ。


 佳穂は目を瞑りながら、思い出す。

 あのとき感じたのは──大きな手。大きな手のひらで空気をつかんだ。

手を開く。

 思いっきり。

──動かせそうな、気がする。

 突然、佳穂の感覚がコウモリの翼に繋がった。

 翼の先──指の先、一つ一つの感覚が佳穂の知覚となって帰ってくる。

 だらりとしていた翼に力が入っていく。指と指の間の膜がひっぱられるのがわかる。


 目を開く。

 そこには、完全に開いたコウモリの翼があった。

 いくつもの円弧が集まって形作られる漆黒の花びら──。

 開いた翼はきれいだとさえ思えた。

(──動かせた!)

 うまくいった事が自信につながる。

(今度は閉じる!)

 やはり手のイメージだ。

 小指から順番に、数を数えるように、折ってゆく。

「…………きもち悪っ……」

 開いた時と違って、大きな翼が折りたたまれる様は、想像以上のインパクトがあった。自分の意思で動いているのが、余計にきもち悪い。


 気持ちにダメージはあったが、なんとか翼をたたむことができた。

 腕に沿わせておけば、無駄に開かずに済みそうだ。

 それにしても──

 見える音。自由に動く翼。

──だんだんとコウモリに馴染んでしまっている気がする。

 自己嫌悪するのだが、一方で不思議な高揚感も感じる。

 そもそも、コウモリであることに何の意味があるのか? そして、なぜ佳穂がコウモリに変身しなくちゃいけないのか。

 契約書には最初から『コウモリ』の文字が入っていた。

 バイクの女が言っていた言葉を思い出す。

『コウモリっ! ケイキンが一族の瀬々理、一族の名誉のため、あんたを捕まえる!』


 バイクの女は、佳穂がコウモリに変身していることを知っていた。

 いや、むしろコウモリそのものを探していた。

 つまり──

 コウモリであるということが、『祭礼』にとって意味があるという事だ。

 契約書にあった祭礼は、もう始まっている。

 そして、今も続行中だ。


「は────」

 佳穂はまた、大きな溜息をついた。

────どうして自分がこんな目に合わなきゃいけないのか。

 契約書にサインをした時の事を思い出す。

(いったいなぜ、あそこで私は戻ってしまったのだろう。どうしてサインなんかしてしまったのだろう。逃げてしまえばよかったのに……)

 気の迷いか、衝動か。

(ううん────違う!)

 後悔はしていない。佳穂は選んだのだ。変わらず、変わることを。

 皮肉な事に、ここまで逃げてこられたのは、この『変身』のおかげだ。


 追撃者が来るのもわからず、すぐに捕まってしまったかもしれない。

 爆風に吹き飛ばされて、大怪我をしてしまったかもしれない。


 逃げないために、逃げなきゃいけない。

 コウモリでいたくなければ、コウモリにならなきゃいけない。


「へへ」

 バカバカしくて笑ってしまう。暗闇の中、笑うコウモリ女。

 他人が見たら怖いだろう。

 佳穂もそう思った。


――逃げよう。

 佳穂は決心した。


 自分の身に起こったことが何なのか。家がどうなったのか。知るのは明日でも構わない。

 このままでは、明日が来なくなってしまう。明日のために逃げる。今はそれだけを考える。


「よし──」

 佳穂は立ち上がった。

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