18節 紫電①
デーゲンシュタットの街を出て東に向かったところにある、小さな森。私とアレニエさんは今、その森に二人だけで足を踏み入れていた。
陽は中天を過ぎ、夕刻に差し掛かろうとしていた。その光は
この森が〈流視〉に見えた、アルムさんの身柄の取引場所だ。実際にはもう少し奥に進んだ場所に拓けた広場があり、そこに建てられた猟師小屋で引き渡されることになっている。
やがて、この『目』で見た光景そのままに森が拓けていき、件の猟師小屋も見えてきた。そこで、アレニエさんが静かにこちらを制止する。
「誰かいる」
彼女は小声で短く呟くと、警戒しながら広場に足を踏み入れる。途端に跳ね出す心音をなんとか
広場の中央に、人の姿をした何者かが一人だけポツンと立ち、森を眺めている。
黒いローブを身に纏い、顔は目深に被ったフードでよく見えない。けれどチラリと覗く手足や、服の上からでも分かる体の線などから、女性であることは察せられた。
他に人影は見当たらない。ということは極めて高い確率で、彼女が例の取引相手――推定、魔族だろう。
「おや?」
不意に、その女性が振り向く。相手もこちらに気づいたらしい。
「もし、お嬢様方。ここは危険ですよ。じきに怖い方たちがやって来ますから、早々に離れることをお勧めします」
しかし相手の台詞に、しばし面食らってしまう。
推定魔族が、私たち人間(アレニエさんは半魔だが)の身を案じるかのような言動をとるなんて……まさか、人違い、とか?
「そういうあなたは、どうしてここに?」
私が虚を突かれている間に、アレニエさんは臆さず目の前の人物に声を掛けていた。女性は冷静に、あまり抑揚のない口調で、言葉を返す。
「
「こんな場所で?」
「はい。こういった場所でなければ、少々目立ってしまうものでして」
謎の女性はほんの少し困ったようにフードに手を添える。
「ふぅん。けど残念だったね。いくら待っても待ち人は来ないよ」
「……どういうことでしょうか?」
「言葉通りの意味だよ。アル――勇者は今頃、牢から助け出されてるし、皇帝もとてもじゃないけどここに来られる状況じゃないからね」
「……おや?」
フードの奥の瞳が、きらりと光った気がした。
「それを知っているということは……私と皇帝様との取引についても、ご存じで?」
「うん、知ってる。ここで勇者の身柄をあなたに引き渡すんでしょ?」
アレニエさんが率直に指摘すると、女性は少し身を震わせた。笑った、のだろうか。
「なるほどなるほど。まさかこうも早く調べ上げ、対応されるとは、さすがに予想していませんでした。貴女様方は何者でしょうか?」
「ただの通りすがりの冒険者だよ。たまたまあなたたちの企みに気づいた、ね」
「通りすがりのたまたま、ですか。面白いですね」
女性はそれに、意味ありげに笑みを浮かべる。
「しかし残念です。そんな話を聞いたからには、貴女様方を逃がすわけにはいかなくなってしまいました」
「ただの迷子だったら、見逃してもらえたのかな」
「ええ。皇帝様とは、帝国の民を傷つけないよう契約を結んでいましたから」
最初の台詞はそのためだったらしい。いや、低姿勢な言動は元からなのかもしれないけど。
「ですが、致し方ありません。取引が成立しないのであれば、契約を守る義務もございません。後は、目撃者である貴女様方を始末して帰還するといたしましょう」
言葉と共に、女性は右手を前方に掲げる。その手の先に魔力が集まり、次の瞬間には
バチィ!
「っ! 雷!?」
狙われたアレニエさんは、驚きに声を上げながらもその魔術を避けてみせる。目標を外した雷は後方の木を撃ち、瞬く間に燃え上がらせる。
「できれば『
そう言うと女性は、目深に被っていたフードを脱ぎ、ローブを脱ぎ捨て、顔を、全身を晒す。
薄紫色の短い髪に、金色の瞳。髪の間から覗く二本の角と尖った耳が、彼女が人間ではないことを主張する。けれど、その顔立ちや表情からは、意外にも穏やかな印象を与えてくる。ローブの下には、黒と紫を基調としたドレスを纏っていた。
そしてローブを脱いだのと同時に、それまで隠していたであろう魔力が身体から開放される。全身に吹き付けるような圧力を感じ、ゾワリと背筋が冷え、足がすくむ。この魔力は……!
「改めて、名乗らせていただきます。雷の魔将、『
謎の女性――雷の魔将は、そう言って深々とお辞儀をする。
「魔将……!?」
「はい」
さすがに予想してなかったのか、アレニエさんが驚愕に声を上げるのが聞こえた。正直私も同じ気持ちだ。一生のうちでこんなに立て続けに魔将と出会う人間など、本来は勇者とその守護者ぐらいのはずなのだから。いや、そもそも……
「……なんでこんなところまで来てるの?」
そう。まさしく私もそれを疑問に思った。
魔将の第一義は魔王の守護。だから彼らは基本的に魔王の居城、もしくはそこから程近い『戦場』でしかお目にかかれない、というのが定説だ。イフやカーミエも城を出て勇者の命を狙っていたが、彼らは例外の部類だろう。なのに……
「最近同僚の皆様が立て続けに失敗しておりまして、普段は城に
「……そんな理由で気軽に来ないでほしいなー」
同感です。
「そう言われると心苦しいのですが、これも仕事でして」
「たまには仕事休んでもいいと思うよ?」
「いえいえ。休んでなどいられません。イフ様やカーミエ様の分まで働かなければなりませんから。それに勇者様方をここで始末できれば、今後の仕事が楽になりますので」
「だからそんな理由で……ん?」
不意に、アレニエさんが何かに気づいたように声を上げる。
「ルニア、って名前……あなたもしかして、イフが言ってた、『あの女』?」
「確かに、そう呼称されることはありますね」
「石の魔将は『陰気女』って呼んでたけど」
「それは悲しいですね」
ちっとも悲しくなさそうな声色で、雷の魔将――ルニアが応じる。
「お二人をご存じなのですか?」
「……前に、ちょっとね」
「ひょっとして、あのお二人を倒されたのは……」
「一応、わたしたち」
アレニエさんの告白に、ルニアはかすかな笑みを浮かべた。
「これはこれは、なんとも奇遇なことですね。イフ様、カーミエ様を退けた方々と、このような場所で出会えるとは。巡り合わせというものでしょうか」
「……わたしは出会いたくなかったんだけどなー」
「そんなつれないことを仰らずに。勇者様ご一行以外で、私たちと出会って生き延びる方は非常に
そう言うと魔将は、再び手を前方に掲げ、雷の魔術を放つ。
「ほらー! こうなると思ったから嫌だったんだよ!」
文句を言いながらも、アレニエさんは的確に雷撃を避けていく。
「申し訳ありません。私がこの場でできる歓迎はこのくらいのものでして」
言葉を交わしながらも、魔将は雷を放ち続ける。
「そんな歓迎ならいらない、よ!」
それらを避けながらアレニエさんは、懐から取り出したスローイングダガーを前方に投擲した。
両者の中間地点で雷がダガーに引き寄せられるように直撃、そして爆発する。ダガーの柄に引火したのかもしれない。少しの間、視界が煙で遮られる。
アレニエさんはその隙に駆け出す。煙を迂回するようにしながら一足飛びで魔将に迫り、腰の剣を抜き放ち、斬り付ける。
シャンっ!
『気』を込められた彼女の愛剣〈弧閃〉は光を纏い、長さと鋭さを増して相手の首を狙う。
「く――?」
魔将はそれを身を逸らし、寸前でかわす。細く線を引くように、首の皮膚の表面が薄く切り裂かれる。その顔にはわずかに驚きの色が見て取れた。
着地したアレニエさんはその場でくるりと回り、続けざまに二撃目を繰り出そうとするが……
ここで魔将が、足元の地面を軽く蹴った。タンっ、と軽やかな音が響き、次にはそこから多量の魔力が発せられ――
「アレニエさん、下がって!」
「――!」
危険を察知し、思わず私は叫んでいた。
彼女も警戒はしていたのだろう。私の警告とほぼ同時に、即座にその場を飛び退く。その直後――
ドォォン!
と、雷鳴を響かせながら、人一人を呑み込むほどの大きさの雷が地面から立ち昇り、すぐに空に散っていった。
「――……」
威力にも戦慄するが、詠唱無しでこの規模の魔術を使えることにも驚愕する。魔将の恐ろしさを再認識させられた。
大きく後ろに飛び退いたため、アレニエさんとルニアとの距離は再び開いていた。地面から白煙が上がる向こうから、魔将が声を届かせる。
「なるほど、素早いですね。これは、あのお二人でも手を焼くのが頷けます。でしたら――……こういうのは、どうでしょう」
言葉の後、魔将は小さく、すんと鼻を鳴らした。その次の瞬間――
パリっ――
と、小さな放電だけを残して、ルニアがその場から姿を消す。
次の瞬間には彼女は……アレニエさんの目の前に、立っていた。
「え――……」
帯電した魔将の右手が、アレニエさんの鎧の胸部に触れる。虚を突かれた彼女には、それを避ける暇さえなかった。そして――
バヂィっ!
その手に、どれほどの破壊的エネルギーが込められていたのか。
軽く触られただけのはずのアレニエさんは後方に大きく吹き飛び、背後の木に背中から衝突し……ずるりと、力なく座り、もたれかかる。
「……え……?」
思わず驚きに声を漏らし、次に、恐る恐る後方に視線を向ける。
「……アレニエ、さん……?」
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