2節 アレニエ・リエスという女
広間の奥。窓際に置かれた少人数用の丸テーブル。そこに、自身の腕を枕にして眠っている、一人の女性の姿があった。
年齢は、おそらく私より少し上くらい。十八、十九というところだろうか。
ショートカットの黒髪は癖っ毛なのか、あちこちが跳ねている。目を
体を包む鎧と、腰の後ろに提げた剣からすると、おそらくは剣士なのだろう。二の腕や足が露出した動きやすそうな軽装の鎧は、全体が白く塗られている。ただ、なぜか左篭手の色だけは、黒だった。
綺麗な人だと思った。
しかしそれだけならおそらく、ただの酒場の風景の一つでしかなかったように思う。目を引いたのは、むしろその周りだった。
ほぼ満席のこの店内で、彼女の周囲だけが、ぽっかりと空いている。
同じテーブルだけではなく周辺の席も、彼女の手が届く範囲には誰も座っていなかった。穏やかに眠る彼女を、遠巻きに警戒しているように。
「――……」
視界に広がる奇妙な光景に、私はなぜか、無性に目を奪われた。
その原因と思われる彼女について、マスターに尋ねようとしたところで……
乱暴に入口の扉を開ける音――同時に、けたたましい来客ベルの音――が、店内に響き渡る。
振り向いた私の目に映ったのは……一言で言えば、筋肉の塊だった。
こちらの倍はあろうかという長身を、こちらは倍では済みそうにないほど鍛え抜かれた肉体が支えている。丸太のような腕は、私など簡単に
身の丈同様に巨大な剣を背負ったその塊、いや、そびえ立つような大男が、少し窮屈そうに、品定めするように、中の様子をじろじろと覗き込む。その視線が、私のところでピタリと止まる。脳裏を過ぎるあの噂。出会って五秒で――
「この辺じゃ珍しい格好のがいるじゃねえか。迷子か、嬢ちゃん?」
「い、いえ、その……」
「ハっハ! そんなに怯えんなよ。取って食おうってわけじゃ――」
「宿か? それとも依頼か?」
不意に、マスターが声を差し挟む。おかげで男の意識はそっちに移ったようだ。た、助かった……
「いや、どっちでもねえ。ちょいと聞きてえことがあるんだが……この店に、〈剣帝〉はいるか?」
「(!?)」
この人も、〈剣帝〉を――?
大男はマスターと二、三言葉を交わしてすぐ、落胆のため息をつく。私と同様、望んだ答えは得られなかったようだ。
「……なんだよ、ここにもいねえのか」
肩を落とし嘆息するその姿は、よく見れば私の倍というほど大きくはなかった。初遭遇の衝撃から、実際とは異なって見えていただけかもしれない。
「〈剣帝〉を探してどうするつもりだ?」
そう質問したのはマスターだ。日に二人も同じ質問をする人間が現れて、興味を引かれたのかもしれない。
「決まってんだろ。――こいつで勝負すんだよ」
問いに対し、男は背の大剣に軽く触れ、
「別に〈剣帝〉じゃなくてもいいんだぜ。お前らの中の誰かが相手してくれてもよ。この店にゃ、さぞかし腕利きが揃ってんだろ?」
「「「あ?」」」
大男は周りの客に向けても声を上げてみせる。その表情は不敵で、わざと挑発しているのが見て取れた。客側も数人が反応し、男を睨みつけるように視線を返す。
店内で乱闘になるのだろうか、と一瞬ひやりとしたが……
「……! ……いや、なしだ。ここじゃそういうのは厳禁だからな」
挑発に乗りかけていた客は、カウンターをちらりと見た途端急におとなしくなる。
……なんだろう。実はマスターが、ものすごく怖い、とか?
大男も僅かに
「なんだよ、びびってんのか? 誰でもいいんだぜ。店の評判下げたくねえなら、俺を倒して――」
「興味ねえ」「よそでやれ」「マスターにしばかれんぞ」
彼らは一様に大男の相手をしようとはせず、各々目の前の料理や、連れ合いとの談笑に戻ってしまう。それ以外の客は、そもそも興味も示していない。毒気を抜かれたように当惑する大男だけが、その場に残される。
……正直に言えば、意外だった。冒険者というのは、もっと血の気が多いものと思っていたから。
男はその後も喧嘩を売る相手を探すが、成果は芳しくない。それでもなお諦めずに店内を見回していたその動きが、不意に止まる。
「……なんだ?」
男の視線は、今も静かに寝息を立てて眠っている、例の女性に向けられていた。
そういえば、彼女について尋ねようとしたところで、目の前の
「なんで周りに誰も座ってねえんだ……? しかし結構な上玉じゃねえか」
好色そうな表情を浮かべながら、大男は女性の目の前まで近づいていく。
例の噂がピタリと当てはまってしまいそうなその姿。万が一を考えれば、すぐに助けに入るべきだ。
そう、思いはするものの……私の体は、緊張と恐怖で咄嗟に動いてくれない。言葉で制止しようにも、上手く声が出てくれない……
「ぁ……」
「おい」
声を上げたのは、それまで静観していたマスターだった。自身の不甲斐なさに打ちのめされつつも、事態の好転に安堵する。
「そいつには手を出さんほうがいい」
しかし彼の口から出た言葉に、私は違和感を覚えた。どちらかというと、襲われようとしている女性より、襲おうとしている男の身を案じているような……?
当の本人は、その違和感には気づかなかったらしい。制止するマスターに対して、
「ハっ、手を出すとどうなるってんだ?」
「ろくな目に合わん」
「……あ?」
その言葉は予想外だったのか、男は怪訝な声をあげる。
見れば、周りの冒険者もマスターの言葉に同調するように頷いている。中にはあからさまに哀れみの目を向ける者さえいた。
周囲の反応に困惑し、しかし次にはそれを振り切るように嘲笑を返しながら、男はなおも女性に手を伸ばす。
「つくづく情けねえ連中だぜ。眠ってる女一人にビビりやがっ」
ゴキンっ
「ゴキン?」
……なんの音?
音の発生源は、襲われそうになっている女性……に向かって伸ばされた、大男の右手だった。その人差し指が、あらぬ方向を向いている。
「……あああああぁぁぁあ!?」
驚きのためか、痛みのためか、大男が叫ぶ。
気づけば男の手には
いつの間に起きていたのかと驚き、慌てて女性のほうに視線を向け、さらに驚く。信じられないことに彼女は、その状態でもまだ眠っていた。
「ぐあああ!? てめえぇえ! 放せっ!?」
男は指の痛みに耐えられず、絡みついたその腕を強引に引きはがした。そこまでされてからようやく、女性が目を覚ましたようだ。
「――ん…んん……?」
小さく声をあげ、彼女はゆっくりとまぶたを開けた。
眠たげに開かれた瞳は髪と同じ黒色。目尻の下がった優しそうなその目は、まだ焦点が合っておらず、ぼーっとした様子で辺りを見ている。のんびりとした印象の表情からは、正直、剣を扱う戦士のようにはあまり見えない。
「ふあ……ん……んん~~」
彼女は一度大きくあくびをしてから、両腕を上げて体を伸ばす。先刻まで眠っていた体は、あちこちからパキパキと音が鳴っていた。
「てめえぇ……」
「ん?」
思い切り伸びをしていた女性の前に、右手を押さえた大男が立ちはだかる。自力で嵌め直したのか、指はひとまず通常の角度に戻っていた。
「ふざけた真似しやがって……ただじゃおかねえぞ」
「…………あー……」
彼女からすれば、『寝起きに見知らぬ男が片手を押さえながら怒りを露わにしている』、という訳の分からない状況のはずだが、なにがあったのか、なんとなく察したような顔をしている。
「……もしかして、また?」
心当たりがあるのか、周囲に問いかける女性に、一斉に肯定の返事が返ってくる。
また、ということは、今回のような事態は珍しくないのだろうか。マスターが「ろくな目にあわない」と言っていたのはひょっとして……
「えーと、ごめんね。わたし、寝相悪いみたいで」
「ふざけんな!? どんな寝相だてめえっ!?」
若干私もそう思います。
「この……どいつもこいつも虚仮にしやがって……」
それまで誰にも相手にされなかった
まだ痛むはずの右手で柄を掴んでいるが、怒りが痛みを忘れさせているのか(あるいは堪えているのか)、男はそのまま力を込めていく。
――って、こんな人が大勢いる場所で、あんな武器を振り回されたら……!
「あのー、指折っちゃったのは悪かったと思うけど、店の中で武器振り回すのはやめてくれないかな?」
制止の声は、場違いに穏やかだった。怪我をさせた負い目からか、単に彼女の性格か。
しかし怒りで我を忘れた男が、その程度で止まるはずもない。
「あぁ!? こんなちんけな店、どうなろうと知ったことか!」
「――――」
――瞬間。女性の瞳に、
が、また一瞬後には、先刻までの柔らかい印象に戻っている。……気のせいだったのだろうか。
「……まぁ、その……この際やるのは構わないんだけど、とりあえず外に出ない? 中で暴れると怒られるし。ね?」
女性はなおも諭そうとするが、男は聞く耳を持たない。武器にかけた手を下ろそうともしない。
「知らねぇっつってんだろうが! なんならこんな店ぶち壊してやらぁ!」
「…………」
女性の表情が笑顔のまま、けれどかすかに強張った状態で固まった(ように見えた)。周囲の誰かが、「やべぇ」と呟くのが聞こえた。
小さくため息をついた女性は、テーブルを支えにゆっくり立ち上がるのと同時にいつの間にか伸ばされた右手の掌底が、気づけば男の
「(……!?)」
「……あ?」
滑らかな緩から急の動きに反応できず顎を撃ち抜かれた男は、脳を揺らされたせいだろう、足元をふらつかせる。
女性はさらに男の膝裏を蹴り踏み、無理やり両膝を地面に触れさせる。
一時的に身長が縮んだ相手に、今度は高く振り上げた女性の右ひざがめり込んだ――と思った時には、大男の巨躯は既に隣の席まで吹き飛ばされていた。
同時に、轟音。巻き込まれたイスやテーブルの破砕音。
筋骨隆々の巨体の重量と、それを吹き飛ばした蹴りの勢いとで、衝突箇所は大変な惨状になっていた。
残骸に埋もれ、完全に意識を失った男を、その原因である彼女はどこか満足そうに眺めている。
これが、私――リュイス・フェルムと、彼女――アレニエ・リエスとの、出会いだった。
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